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私がイスラエルで学んだこと

レベッカ・J・ブリマー/BFP国際会長(CEO)

私はこれまで18年間イスラエルに住み続けてきました。その間、多くのことを学ぶ祝福にあずかり、聖書についての新しい洞察が与えられました。

人々は私たち夫婦やBFPのスタッフに、「イスラエルへの召命に応答して、その生涯をお捧げしたんですね!」と言われます。それも確かに事実ですが、同時にイスラエルが私たちに新しい人生を与えてくれたことも事実です。

イスラエルを訪問したクリスチャンが一様に言うことは、訪問以来、聖書の読み方に命が宿るようになったということです。

今回は、この地で私が学んできたことをいくつかご紹介したいと思います。

一点一画

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)

ヘブライ語のアルファベット、
レーシュ(左)とダレットは似ているが
右角に違いがある

この「一点一画」という表現は、ヘブライ語のある特定の部分を指している言葉です。『一点』と訳されているこの言葉は、ヘブライ語アルファベットの中で、最も小さな文字である「ヨッド(y)」を指しています。また「一画」はヘブル文字の中のごく小さな部分を指しています。その小さな部分によって、ヘブル文字の間で他の文字と区別しているわけです。

イエスはここで、このような表現をすることで、ご自分にとって律法や預言者(モーセ五書と預言書、すなわち聖書全体)がいかに重要な意味をもっているのかを聴衆に強調しておられるのです。

ユダヤ人は、非常に深い畏敬の念をもって聖書を読んできました。実際のところ、トーラー(創世記から申命記まで)は、現在に至っても特別な筆記者によって、少しの誤りもなく羊皮紙の巻物に正確に写本されているのです。

トーラーの巻物を完成するのに約一年の歳月が必要とされます。すべての文字を正確に記すため、また、全体に少しの誤りをも残さないために細心の注意が払われます。私たちが手にしている聖書が幾世紀にもわたって少しも変わっていないのは、ユダヤ人の筆記者たちが、何世代にもわたり、注意に注意を重ねてきた結果なのです。

エルサレムの聖書博物館には、「死海写本」が展示されています。そこには2千年前に写本された、イザヤ書の巻物が展示されています。学者たちは、現在私たちが手にしている聖書と、これらの写本の内容が寸分変わっていないことを証明しています。

トーラーは何世代にもわたり
正確に写本されてきた

カレンダー

聖書の暦(カレンダー)は、今日の暦とは異なっています。現在のイスラエルでは、この二つの暦、すなわち「グレゴリオ暦」と、聖書の暦である「ヘブル暦」の両方が用いられています。イスラエルの新聞には、その両方の年月日が記されているのです。ヘブル暦は陰暦で、月の動きに連動しています。一カ月は30日です。そして数年に一度、30日の「うるう月」が加えられ(*訳者注:つまり13カ月になる)、毎年ほとんど同じ季節に祝祭日のお祝いができるように工夫されています。

聖書の中で、「第一の月に起こった」という表現が出てきたら、それは必ずしも1月に起こったということではありません。それはヘブル暦の最初の月、つまりニサンの月を指し、3月か4月頃に当たります(出エジ12:2、レビ23:5参照)。過越の祭りは、ニサンの月の15日目に始まります。すべての聖書の祝祭日は、ヘブル暦に基づいて書かれています。

聖書の暦「ヘブル暦」(左)と
現在世界各国で使われている
グレゴリオ暦の対照

イスラエルでは、日常生活はグレゴリオ暦を用いますが、聖書的祝祭日、国民の祝祭日、および世俗的な祝祭日は皆、ヘブル暦に従って祝われます。結婚式、誕生日、その他、毎年祝われる記念日など、多くの重要な出来事もヘブル暦によって祝われます。イスラエルの人々は、現在、第5768年を生きています。もちろん彼らは私たちと同じように紀元2007年も用います。しかしBC(紀元前)やAD(紀元後)という区別は用いません。また、ヘブル的な考えに従って、一日は日没から始まり、日没で終わります。それは創世記に、「夕があり、朝があった。第一日。」(1:5)とあるからです。

食物を祝してくださいとの祈りではなく、神がほめたたえられるように祈る

パンを前に祝福を祈る祈りは、毎日神をほめたたえることの良い例です。その祝福の祈りは次のように捧げられます。

「ぶどうの実を創造し給う世界の王なる我らの神、主よ、あなたは賛むべきかな。」、「地よりパンをもたらし給う世界の王なる我らの神、主よ、あなたは賛むべきかな。」(ミルトス出版『ハガダー』訳)

私の育った家では食前にいつもお祈りをしましたが、それはいつも、私たちの健康のために食物を祝福してくださいという祈りでした。ユダヤ人の友人は、この祈りに少し驚いたようです。彼らは、食物は神によって造られ、私たちに贈り物として与えられのだから、当然良いものであると考えています。

ですから彼らにとって食前の祈りは、素晴らしい食物を贈り物としてくださった神をほめたたえる祈りになるのです。

イエスが5千人以上の人々を養われたとき、次のように祈られました。

「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」(マタイ14:19)

(*訳者注:この祈りは原語では「天を見上げて祝福し」と書かれており、「それらを」祝福されたとは書かれていません)

イスラエルに来る前、私はイエスが食物を祝福されたのだと思っていました。しかしそうではなく、ヘブル人の習慣のように、その食物をお与えになった神をほめたたえておられたのでしょう。

聖書の名前には意味がある

へブライ語を少し学ぶと、聖書の登場人物の名前には、意味があるということを知るようになります。ただの名前ではないことが、私も突然分かるようになりました。

「メルキゼデク」(創世14:18)はその面白い例です。この名前は実際のところ、二つのヘブライ語の単語「メルキ」と「ツェデク」から成っています。「メルキ」は「私の王」という意味であり、「ツェデク」は「義ただしい」という意味です。

ですから、もし「メルキゼデク」と名前を呼ぶなら、それは「私の義しい王様」と呼び掛けることになるのです。「イェシュア」という名前は、「救い」という意味です。また、イザヤの二人の息子たちが続けて呼ばれると、その名前だけで一つのメッセージが生まれます。イザヤの長男の名前は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(イザヤ8:3-4)と言い、「素早い分捕り物、急な戦利品」という意味です。

二番目の息子の名前は「シェアル・ヤシュブ」と言い、「残りの者は帰還する」という意味です。イザヤ夫人が二人の息子を夕食のために家に呼び戻そうと息子たちの名前を呼ぶなら、それを聞いた近所の人たちには、「戦争が起こりそうであり、捕虜となる人たちも出るでしょうが、残りの者たちは帰還するでしょう」と宣言しているのと同じことになるのです。

聖書の名前には意味がある

紀元21世紀に住む私たちクリスチャンにとって、新約聖書を十分に理解することは時に困難なものです。なぜなら、自分自身の文化的背景の眼鏡を通して読んでしまうからです。

私たちは新約聖書が書かれてから2千年もの歳月が経過した時代に生きていますし、旧約聖書の出来事からは実に2千5百年から4千年も経過した時代に生活しているのです。また、私たちのほとんどは、イスラエルの地から遠く離れた地域に住んでおり、言語は聖書のことばと異なっています。

新約聖書は一種の速記録として書かれています。当時の読者たちに理解されている事柄は、ほとんど説明されていません。

例えば、過越の祭りに関しては少しも説明されず、ただ言及してあるだけです。パウロは言いました。

「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリ5:6-8)

私たちが過越の祭りがどのようなものであるかを知らないなら、この箇所に言及されているすべての事柄を十分理解することはできません。しかし、パウロがこの手紙を書いたときには、過越の祭りに関して説明することは愚かなことだったでしょう。

なぜなら、すべての人は過越に関する事柄をすべて知っていたからです。それはちょうど、私たちがクリスマスはどのようなお祭りなのかを細かく手紙に書き記すのと同じです。

「クリスマスとは、イエスさまのご降誕をお祝いするお祭りです。私たちはクリスマス・キャロルを歌い、家中を飾り付け、ジンジャーの味がするケーキで家をつくり、贈り物を交換し、ろうそくの灯りを灯すのです」と、もし友人に手紙を出すなら、あなたの友人はあなたの頭が変になってしまったのではないかと心配することでしょう。

なぜなら、「クリスマス」と聞いただけで、それらすべてを自動的に思い浮かべることができるからです。

同様に、新約聖書には十分説明されていない事柄がいくつかあります。例えば礼拝のときに賛美することに関しては、ただ一箇所だけしか言及されていません。「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:18-20)

新約聖書の時代には、信者が賛美を捧げることに、神はもはや関心をもっておられなかったのでしょうか。そんなことは信じられません。ただ単に、それを書き記す必要がないほど、賛美は定着していたからだと思われます。

このように、聖書のもつ文化、及びヘブライ語やギリシャ語の探究を深めれば深めるほど、多くの宝がそこに隠されていることを知るようになるでしょう。

そして、もしできるならイスラエルを訪問し、皆様の聖書が新鮮な意味をもって皆様に迫ってくることをぜひ体験していただきたいと願っています!

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