文:レベッカ・ブリマー(BFP国際会長)
イスラエルは国土の6割を砂漠が占めながら緑にあふれています。
それは国民が緑化に努めてきたおかげです。
樹木は神からの贈り物として愛され続けています。

Photo by zealous 2019/bridgesforpeace.com
イスラエル人は国全体で木を愛し、事あるごとに木を植えます。実際イスラエルは、100年前より21世紀のほうが緑の量が増えた、世界でまれな国です。今回はイスラエルと樹木の関係について見ていきます。
樹木の新年 トゥ・ビ・シュバット
「樹木の新年祭」としても知られるトゥ・ビ・シュバットは樹木を喜ぶ日で、聖書時代以降に定められたユダヤ教の祭日です。ユダヤ暦シュバットの月(太陽暦の1月もしくは2月)のトゥ(15)の日という意味です。この時期、イスラエルの木々は芽吹き始め、ピンクや白の優美なアーモンドの花が咲き始めます。
イスラエルではトゥ・ビ・シュバットに植樹をし、木の実を食べ、樹木に関する聖句を読んで祝います。この日をすべての木々の「誕生日」と見なし、樹齢を1年加算することで植樹後の年数を記録します。一部のコミュニティーでは「トゥ・ビ・シュバットのセデル」を行います。樹木とその聖書的意義を意識した礼拝を捧げ、食事を共にする慣習です。また、植樹後の実をいつ食べるかについても聖書から論じます。レビ記19章23〜25節は、最初の3年間は収穫物を食べることを禁じ、4年目の収穫は神のものとし、5年目になって初めて木の実を楽しめると定めました。

トゥ・ビ・シュバットは、神が樹木を与えてくださったことに感謝する日です。この日、食事に15種類の果物と木の実を取り入れ、その一つ一つを神に感謝して祝う人もいます。ディアスポラ(イスラエル国外)のユダヤ人は、食事メニューにイスラエル産の果物を加えます。
しかし、トゥ・ビ・シュバットの意義は樹木だけにとどまりません。木々の再生は、イスラエル民族の祖国帰還に対する預言にも関わっているからです。エゼキエルは「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ」(エゼ36:8)と告げました。
聖書の中の樹木
樹木に関する聖書の最初の記述は、創世記1章に登場します。「……種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。……」(11節)。その後に、人間が創造された後のことが記されています。「神は仰せられた。『見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。』」(29節)
そして創世記2章8〜9節では次のようにまとめられています。「神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた」
ここから分かることは、木々は人間の祝福となり、食物と快適な住まいを与えるようにと神が計画されたということです。また、「いのちの木」や「善悪の知識の木」など、木に特別な使命を持たせていることも分かります。
樹木の意義
神は、地球が自給自足できるように創造されました。樹木はそのために重要でした。食料を供給し、二酸化炭素など大気中の汚染物質を吸収して酸素を供給します。樹木や植物は、人間の生存に必要な酸素の約50%を生産しています。もし樹木が消滅すれば、地球で生きるのは極めて難しくなるでしょう。大気への影響は絶大で、雨量は減少し、土壌がやせて作物は育たなくなります。神は生命を育むために樹木をつくられたのです。

Photo by jdblack/pixabay.com
樹木が失われるとどうなるのか、歴史的な実例があります。オスマントルコがイスラエルを支配していた400年間、樹木も課税対象となり、税金を払えない人は樹木を切り倒していました。イスラエルに残った樹木は1千本にも満たなかった、と多くの旅行者が証言しています。19世紀後半〜20世紀前半に帰還したユダヤ人は、事実上何もない土地に帰ってきたわけです。土地は衰え、南部には荒野、北にはマラリア原虫だらけの沼地が広がっていました。快適とは程遠く、大幅な改良なくして大勢の人々が住むことは不可能でした。
神のご計画が400年間無視された後、神の民が約束の地に帰還し始めます。彼らはすぐに樹木を植え、沼地を排水し、地を耕し、管理を開始しました。今日イスラエルには2億本以上の木が生えています。木々は豊かに実を実らせ、多種多様な品種が世界に輸出されています。イスラエル人は、限られた降雨量を最大限に活用する節水技術を開発し、海水淡水化工場を建設して、将来にわたり人間や樹木、農業に十分な水を確保できるようにしました。
いのちの木
いのちの木は、クリスチャンにとってもユダヤ教徒にとっても大切な主題です。誰もが、神が「永遠のいのちを与える」と言われたいのちの木の実を食べたいと思うことでしょう。いのちの木は創世記2章で初めて登場します。クリスチャンにとって非常に興味深いのは、聖書の最終章である黙示録22章にも、いのちの木が登場することです。箴言にも登場し、もう一箇所、エゼキエル書47章にも黙示録の箇所と酷似した表現があります。黙示録とエゼキエル書の説明によると、いのちの木は川の両岸に生え、国々(または民族)を癒やす実を結びます。
創世記の記述では、アダムとエバは「いのちの木から取って食べてはならない」とは命じられていません。これは大事な点です。しかし、二人が善悪の知識の木の実を食べた後、神はいのちの木の実を食べることがないように二人を園から追放しました。多くの神学者は、なぜ二人がその前にいのちの木の実を食べなかったのかと問います。おそらく食べる必要がなかったからでしょう。アートスクロール創世記注解書は、こう説明しています。「最初、アダムにはいのちの木が不要だった。だから、木の警護をする必要もなかった。罪を犯す以前の人間は不死であったため、いのちの木の実を食べるのは健康な人に薬を飲ませるようなものだった」
ゾンダーバン聖書百科辞典は、こう付け加えています。「アダムとエバが罪の裁きを受けた後、いのちの木は永遠のいのちと見なされるようになり、罪人はこの木に近付くことができず、滅びゆくものとなったことが記されている」
つまり、死と罪がこの世に入り、永遠のいのちという、神の人類に対する完全なご計画は保留となったのです。
ユダヤ思想では、いのちの木はトーラー(モーセ五書)と関係があります。箴言3章1節と18節がその根拠です。「わが子よ、私の教えを忘れるな。心に私の命令(トーラー)を保つようにせよ。……知恵は、これを握りしめる者にはいのちの木。これをつかんでいる者は幸いである」(括弧内筆者)
ユダヤ教では「トーラーは、それを堅く守るすべての人にとっていのちの木(エツ・ハイム)であり、私たちの中に植えられた永遠のいのちの象徴である」と教えています。編集者で作家でもあるエレン・フランケルさんは、トーラーの巻物にその象徴が見られると説明しました。「トーラーの羊皮紙を巻き付ける木の棒は、エッツェイ・ハイム(いのちの木)と呼ばれ、上端にざくろが付いている。いのちの木は、トーラーの象徴である。と同時に、来たるべき世での不死の象徴として、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を飾る装飾モチーフとして長らく愛されてきた」
エデンの園へのアクセスは断ち切られましたが、私たちは生き方によっていのちをもたらすことができると聖書は教えています。「正しい人の結ぶ実はいのちの木。知恵のある者は人の心をとらえる」(箴11:30)。ユダヤの賢人メツドスは「義人の行動は、この世にいのちをもたらす木のようだ」と説明しました。
黙示録は、癒やしと永遠のいのちという未来への希望を与えてくれます。義人が再びいのちの木に近付けるようになるからです。「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。……『見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる」(黙22:1〜2、12〜14)
樹木は神の祝福
誌面の都合上、神が創造されたすべての木の種類や特質、果実、医学的効能についてお話しすることはできませんが、聖書はそうした記述に満ちています。共通するのは、神が樹木を、癒やしと食物をもたらす心地良いものとしてデザインされたということです。神の愛といつくしみというメッセージは、創造の御業全体に見ることができます。今度、果物やナッツを楽しむ時は、神にぜひ感謝しましょう。神は善良であり、その愛は永遠に続くからです。