文:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)
「高慢は破滅に先立つ」とある通り、
高ぶったために権力の座を追われた人物が聖書には多数登場します。
ただ神にのみ栄光を帰す時、
私たちは高慢という罪から守られるでしょう。
朝起きると、私はいつも祈りで一日を始めます。通常は、神のために生きることのできる新しい日を感謝する短い賛美を捧げることが多いです。内省的な気分に浸りながら、よくこう自問自答します。私は神に栄光を帰す生き方をしているだろうか、それとも神の栄光を奪っていないだろうか。私は感謝しているだろうか、それとも不満だらけだろうか。私の行動は神の御名を冒涜(ぼうとく)している(ヒルル ハシェム)だろうか、それとも聖なるものとしている(キドゥーシュ ハシェム)だろうか。
数十年前、夫のトムと私は、リーダーが失脚し困難な状況に置かれたミニストリーで働いていました。その時主が私に示されたのは、次のイザヤ書のみことばです。「その日には、人間の高ぶりの目は低くされ、人々の思い上がりはかがめられ、主おひとりだけが高く上げられる。まことに、万軍の主の日は、すべてのおごり高ぶる者、すべての誇る者の上にあり、これを低くする。……その日には、人間の高ぶりはかがめられ、人々の思い上がりは低くされ、主おひとりだけが高く上げられる。偽りの神々はことごとく消え失せる」(イザ2:11〜12、17〜18)
私は即座に、栄光を受けるのは神であることを理解しました。長年リーダーとして仕える中で私が肝に銘じていたのは、常に神に栄光を帰す大切さです。神はねたまれる神です。ご自分の栄光を他のものと分かち合うことを望まれません。出エジプト記20章の十戒も次のことばで始まっています。「わたしは、……あなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:2〜3)
神の栄光とは何か
神はあまりにも栄光に満ちておられるため、人は神のご臨在の前に立つことすらできません。「栄光」と訳される幾つかのヘブライ語のうち、最も頻用されているのは「カボド」です。現代ヘブライ語では、良い仕事をした人をほめる時によく使われます。コル・ハカボドというヘブライ語を耳にしたことがあるでしょうか。直訳すると「すべての栄誉」となり、「重さ」「重大さ」という意味合いを含む他、「輝かしい」「称賛に値する」という意味があります。
イスラエル・バイブル・センターのニコラス・シェーサー博士は、この言葉の意味を次のように説明しました。「古代イスラエル人は、基本的に神の『栄光』(カボド)を重量もしくは質量として理解していた。この言葉の語源は、神がエジプトに雹を降らせることを決断され、次のように言われた箇所に出てくる。『見よ。明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい(ヘブライ語では「カベド」、意味は最も重い臓器である「肝臓」。英訳聖書ではheavy)雹を降らせる』(出9:18)。神が天から重い雹を降らせたように、主の『栄光』とは地上における神の臨在の重い顕現なのである。聖書は、ソロモンがエルサレム神殿を落成した時の神の威光がどれほど素晴らしかったかを説明している。神殿が完成した時、神が神殿に降りてこられたので『祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光(カボド)が主の宮に満ちた(マレ)からである』(Ⅰ列王8:11、参照:Ⅱ歴代5:14、7:2)。重い神の栄光が神殿の内に満ちていたため、祭司たちは神殿に入ることができなかったのだ!」(強調筆者)
シェーサー博士はさらにこう述べます。「ヨハネの福音書には『ことば(ロゴス)は人となって、私たちの間に住まわれた(エスケーノゥセン)。私たちはこの方の栄光(ドクサン)を見た』(ヨハ1:14)と記されており、物質的現れという同じ概念が含まれている。古代ユダヤ人にとって神の『栄光』とは抽象的で空気のようなものではなく、実際に触れることのできる主の地上での現れだった」(強調著者)
モーセもこのような主との出会いを経験しました。出エジプト記34章29〜35節には、モーセが神の御前で過ごした後、顔の肌が輝きを放ったと記されています。実際モーセの顔があまりにもまぶしかったので、民のところに行く時には覆いを掛けなくてはならないほどでした。
エゼキエルも神との出会いを経験し、ひれ伏しました。エゼキエルは自分の見たものを次のように説明しました。「私は火のようなものを見た。その方の周りには輝きがあった。その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに主の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した」(エゼ1:27b〜28a)
黙示録でも同じような状況が描かれています。「御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。』」(黙7:11〜12)
60年以上になるクリスチャン生活の中で、私は何度も神の臨在や祝福された賛美と礼拝を体験してきました。しかし、明確な神の栄光と顕現を経験した記憶は数えるほどしかありません。それは濃厚で重い臨在で、予定していた礼拝スケジュールは無に帰しました。神の臨在の中にとどまる以上に素晴らしいことはなかったからです。それは聖なる場所、聖なる時でした。
神に栄光を帰す
なぜ神に栄光を帰す必要があるのでしょうか。聖書は何度も主に栄光を帰すようにと語っています。これは、すなわち神に敬意を表することだと思います。カボドには栄光、敬意、重さという意味があることを思い出してください。
詩篇29篇はそのような一例です。「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ」(1〜2節)。詩篇96篇にも同じ用語が使われています。「もろもろの民の諸族よ 主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて 主の大庭に入れ」(7〜9節)
この詩篇で「帰せよ」と訳されている言葉には、「捧げる」「準備する」という意味もあります。その意味について祈っていた時、主が私に強く示されたことは、神が神であるゆえに私たちが礼拝し、神の重み、強さ、能力、力、創造力、本性のすべてを賛美し、誉れを捧げてほしいということでした。
現代の礼拝ではそのような賛美は少ないかもしれません。歌われる賛美の多くは、嘆願や、神がしてくださったことへの感謝と証しです。どれも間違いではありません。ただし、神に栄光を帰しているでしょうか。今日の教会は、神中心というより人間中心になってはいないでしょうか。神をほめたたえることに徹する賛美を捧げる時、私のたましいは礼拝の中でいと高き神の元へと飛翔します。
私が心に決めていることは、神が私を祝福してくださるかどうかにかかわらず、神が神であるゆえに礼拝することです。ヨブの純粋な心が常に念頭にあります。大切なものをすべて失った時でも、ヨブは「神が私を殺しても、私は神を待ち望(む)」(ヨブ13:15)と告白しました。これは驚くべき礼拝です。自分たちの歌っている賛美が「私」「私たち」という言葉でいっぱいなら、神をあがめるよりも自分や自分の必要を歌っているのかもしれません。その曲から自分中心の言葉を取り除いたら、何が残りますか。
世界は神の栄光を見る必要がある
ソロモンの神殿奉献は一大イベントでした。素晴らしい式典が準備され、重要人物も大勢招待されて、古代世界はイスラエルの神の新しい神殿を認識したことでしょう。
イスラエルにはその地方の三大通商路が通い、神殿の資材は外国産でした。驚くほど美しく、多額の費用を掛けた神殿のニュースはその地方一帯に広まったことでしょう。壮大な式典に向けた準備で町全体が華やいだことは間違いありません。
しかし、偉大な瞬間が訪れると、そのようなことはすべて神の臨在の前に色あせました。神の栄光がその場を満たしたのです。
今日栄光を取っているのは誰か
今日多くの教会が、偉大なメッセンジャーや有名歌手を招き、夢のようなプログラムを推進しています。欧米人は名前に価値を置き、有名人を追い掛けがちです。大衆を惹きつけようと、手の込んだ大規模集会を開くことも多いです。私自身、そのような集会で主から祝福を受けたことがあります。
へりくだって恵みに生き、仕える心を持ったリーダーを見てきた一方で、有名かつ傲慢(ごうまん)なリーダーを見て悲しみを覚えたこともあります。多くの人々が恵みから落ちる姿も目にしてきました。こうして、人々は神に引き寄せられる代わりに神を拒絶するようになりました。
指導者たちが日々神の前にひざまずき、神をあがめることができるように、また私たち全員が、人にではなく神に栄光を帰すことにもっと興味を持つように祈りましょう。
世界中の人々に必要なのは、全能の神と出会い、神の栄光を見、神の臨在を感じて神の愛に浸ることです。
神は栄光を分かち合うことを望まれない
イザヤ書42章8節には「わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない」とあり、次のように語られています。「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない」(イザ48:11)
上記の聖句を受け、私は日々次のように祈っています。「主よ、私の言動のすべてが、私自身ではなくあなたに栄光を帰すものとなりますように。人々が私の中にあなたを見ることができますように。神に栄光がありますように」