ティーチングレター

注ぎの油 -後編-

ロン・ロス/イスラエルBFP『モザイクラジオ放送』責任者

前編では油注ぎの具体的な方法、そして霊的な適用について学びました。今回は、神が詳細に定められた「注ぎの油の成分」を一つずつ検討し、そこから私たち自身の信仰生活を検証していきましょう。

没薬(もつやく)

「没薬」のヘブル名は「苦い」という言葉に由来しています。「没薬」は、味は苦くても芳香を放つものという意味をもっています。また、没薬には癒やしの成分が含まれています。没薬は、現代では医療用の軟膏として、古代においては香料や香油として用いられました。当時没薬は同じ重さの金よりも高価なものでした。さらに、信仰者への注ぎの油として用いられる場合、それは聖めや聖別を表します。

「私は確かに悔い改めによる〈すなわち、心底から過去の罪を憎んで行ないを改め、あなたがたの心が善いほうに変わるということで〉水の〈水の中で、水をもって〉バプテスマを授けているが、私のあとに来られるかたは、私よりも偉大なかたであって、私はそのかたのくつ[サンダル]をお脱がせする〈持ち運ぶ〉資格もない〈それにふさわしくない〉。そのかたは聖霊と火をもってバプテスマを授けられるのである。」(マタイ3:11、詳訳聖書)

神の油注ぎを受けることは、ただ単に人生最高の経験をするだけに留まりません。それには、火と聖別の過程が伴います。神の火は私たちを滅ぼすものではなく、その豊かな御恵みによって聖別をもたらすものです。

「そのように、だれでも、もし自分自身を〈尊くない汚れたことから〉きよめるなら〈汚染と腐敗を与える影響力のあるものとの接触から離れるなら〉、〈尊い〉容器となって主にささげられて役にたつものとなり、どんな善いわざにも適した〈備えのある〉ものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21、詳訳聖書)

私たちは聖別を恐れるのではなく、神との正しい関係を求めなければなりません。聖霊は慰め主ですから、どのような聖めの過程を経る必要があったとしても、最終的には大きな慰めと励ましを与えてくださいます。聖別される過程は、自分自身の心にある偏見や考えを吟味する、神から与えられた絶好の機会になります。

一つの興味深い事柄があります。没薬は、燃やすと溶けたり液体に変わったりせず、むしろ膨張し、輝きを放つようになります。燃えている没薬は、バニラのような香りがします。古代において没薬は、葬式で燃やされ、死臭を消すために用いられました。そのような特性をもつ成分が、注ぎの油に含まれているのは大変興味深いことです。

シナモン(肉桂)

シナモン(肉桂)は非常に古い時代から知られており、古代の諸国では大変珍重されていました。シナモンは、専制君主や他の偉大な主権者にのみふさわしい贈り物と見なされていたほどです。

シナモンは高価な香料で、シナモンを手に入れるためには、大きな支払いが犠牲として伴いました。神は、私たちが神にお仕えするために召し出されます。その召しには犠牲が伴います。自分と主との関係を、どんな関係よりも最優先する決意をしなければなりません。ただ良い関係を神と保てばよいというような、中途半端なものではありません。主との最善の歩みを求めて努力する必要があるのです。油注ぎを受けるために、自分も自分の家族も、友人関係も職業も、すべてが影響を受けるかもしれません。これこそがシナモンの芳香を獲得するための犠牲なのです。

「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。」(ルカ14:28)

私は最近、南アフリカのプレトリアで開かれた、クリスチャン放送協会の世界会議に出席しました。その最終日に、人々に動機付けを与える、傑出した演説者であるカール・ロス氏は聴衆に尋ねました。「あなたの生涯の導き手は誰ですか?」と。多くの人は、イエス、あるいは聖霊と答えました。ロス氏は言いました。「あなたこそ、あなた自身の導き手なのです。あなたがたの成功・不成功を決定するのは、あなたがた自身の選択です」。

あなたはその選択を済ませましたか。心のすべてを払い出す費用の計算はしましたか。シナモンの芳香は非常に高価ですが、その価値はあなたがたが犠牲を払うにふさわしいものなのです。

カラムス(匂い菖蒲)

匂い菖蒲は3メートルもの高さがあり、芳香をもつ植物で、剣の形をした葉と、小さな黄色や緑色をした花をつけます。その精油を取り出すには、匂い菖蒲を切り砕かなければなりません。そうすると甘い香りが漂ってきます。これは何を意味しているのでしょうか。匂い菖蒲を砕けば砕くほど、その芳香は強くなるのです。

「わたしが目を留める者はへりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2b)

ヘブル人にとって心砕かれるとは、打たれることを意味します。主の前に砕かれるとはどのようなことでしょうか。主はどのような状態を期待しておられるのでしょうか。マルコの福音書14章3節のみことばを黙想してみてください。

「イエスがベタニヤで、らい病(重い皮膚病)を患っているシモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」

この女性はつぼの中に、結婚式で花婿の頭に注ぐのにふさわしい高価な香油をいっぱい入れていました。その日、自分の花婿の代わりに、イエスに香油を注いだのです。そうするためには、彼女はつぼを割らなければなりませんでした。砕かれることを通して、私たちは自分自身を主に明け渡すのです。この女性は、自分が持っている最上のものを主にお捧げしました。彼女はその犠牲的行為によって、主との関係に香り高い麗しい匂いをもたらしたのです。ですから、主があなたの心に示しておられることに取り組んでください。しかも、それを「救いの喜び」に満たされて行ってください。砕かれた状態のまま、重苦しく一生を過ごさないでください。以下の聖句を十分留意してください。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリ4:8-10)

匂い菖蒲は芳香を放ちますが、それは決してた易いものではありません。イエスはカルバリの丘でその生涯をお捨てになりました。私たちも生涯をかけなければなりませんが、その代わりに、主の素晴らしい香りを知ることができるのです。

カシア(桂枝)

今日、アメリカやカナダにおいて「シナモン」として売られているほとんどのものは、実際は桂枝です。この二つは非常に似ています。カシア(桂枝)のヘブル名は「曲げる、お辞儀をする、あるいはしゃがむ」という意味をもつ「カーダドゥ」に由来しています。主の油注ぎを楽しむことができる人々は、主の御前にへりくだって頭を下げた人々です。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)

私たちには、油注がれた人々を滅ぼそうとする敵がいます。主に油を注がれることは、神のご臨在の前で洗っていただくことであると理解するなら、敵が私たちの経験を台無しにしようと必死になるのも理解することができます。敵は教会を破壊し、教役者やその任務を台無しにしようとしています。また、聖霊の火を消そうとしています。敵は私たちが誇り高いときや、高ぶっているときにやって来ます。誇り高さや高ぶりは、主と主の油注ぎに抵抗するものです。カシア(桂枝)は、私たちが常に王である主の御前に来て、主の前に頭を垂れる必要があることを思い出させるのです。

「大きな力と、差し伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない。」(Ⅱ列王17:36)

「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。」(詩95:6)

これは弱い者を指しているのではありません。この宇宙の創造者であるお方への服従を示しているのです。神は、私たちが自分の敵を足元に踏みにじるために、油を注いでくださいます。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20前半)

オリーブ油

イスラエル中で、オリーブ油の搾り機を見ることができます。オリーブの実に圧力をかけて、中のオリーブ油を完全に搾り出してしまうために、重い石が用いられます。押しつぶされたオリーブから出た油は、溝を通って大きなタンクの中に入っていきます。オリーブ油の搾り出し機から私たちが学び取るべき教訓は明らかです。

イエスは荒野で試みを受けました。そこで主は40日40夜、断食をされました。そのときサタンが主を誘惑したのです(マタイ4:1-11)。イエスが荒野から出てきてその使命を果たされたのは、この試みをお受けになった後でした。あなたはこれまで、試みや試練の時期を通過したことがありますか。そのとき、サタンを足元で踏みにじらせてくださるように祈りましたか。

最初の試練の時が終わった後で、次の段階としての油注ぎの時がきます。そしてもう一つ、支払わなければならない別の代価があるのです。次の段階に達するために、主がもう一度私たちの生活の真ん中、そして最優先とならなければなりません。私たちが踏み出すことを選択すれば、次に、主が混ぜ合わせてくださる過程へと移行できるのです。

「あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。」(出エジ30:25)

主の油注ぎを経験することによって、私たちは自分自身の徳を求めようとしなくなり、策略や人目を引くための行為に訴えることがなくなります。出エジプト記30章32節には、主の油注ぎは肉的な者に与えられないと語られています。ですから、もし私たちが自分自身の徳のためにその油注ぎを求めているのなら失敗します。

「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」(詩24:3-5)

私たちの心からの願いは、「主が願っておられることの成就」であるべきです。私自身の心底からの祈りは、詩篇92篇10節で、「しかし、あなたは……私に新しい油をそそがれました。」と語られているそのような高みに、私たちすべてが到達させていただくことです。

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