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契約の塩 -後編-

チャーリーダ・スプリンクル/BFP出版局、副編集長

前号では、聖書に記された「塩」のもつ本来の意味とその価値、そして、その用いられ方について学びました。聖書が語る塩の意味と、日本の文化の不思議な共通点についても学習しました。

こうした文化的共通点は日本のみならず世界中に及んでおり、福音がユダヤから全世界に及んだように、聖書の影響が全世界に及んでいることが分かります。

今回は「契約」という点から、塩の意味を掘り下げてまいりましょう。

旧約聖書に引用されている「塩」

レビ記2章13節に記されていた、ささげ物はすべて塩で味付けされていなければならない、という箇所に戻りましょう。旧約聖書は41箇所で塩について言及しています。このレビ記の箇所はその第3番目です。

最初(創世14:3)は死海に関してであり、2番目(創世19:26)はロトの妻が塩の柱とされた箇所です。レビ記2章13節を読むと、神の塩の用い方についての考え方がさらに詳しく理解できます。

「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」

ここでは、塩が神との契約を代表していることが分かります。

ある注解者は、「食事の席で、共に座っている人が同じ塩入れを使うことは、友情と同盟を意味する古代の象徴だった」と語っています。これはアラブ人の文化にも共通しており、彼らは契約を表現するのに、「私たちの間には塩がある」と言います。クリスチャンの注解者マシュー・ヘンリーは、「古代の人々にとって、塩は友情の象徴でした」と語っています。

何人かの注解者が解説しているように、レビ記2章13節において、塩で味付けられなければならないと教えられたのは、パン種や蜜を用いることが禁止された後でした(11節)。パン種も蜜も共に発酵作用、すなわち一種の「腐敗」を促すものですが、「決して腐敗しない」性質の塩は、神とその民との間にある契約を表す素晴らしい象徴なのです。

著述家であり、注解者でもあるゴードン・ウェナムは次のように述べています。「塩は火によっても時間によっても破壊することができないし、古代に存在したいかなる方法をもっても壊されることはない。これは神がその民を決して忘れることがないことを表し、同時に、神を礼拝する者たちも、律法を常に守り続ける責任をもっていることを意味していたのだ」。

この神との契約に関して、民数記18章19節には次のように記されています。

「イスラエル人が主に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」

「決して腐敗しない」性質をもつ塩は、
神とその民との間にある
契約の象徴

この箇所はさらに「永遠」という言葉が強調されており、塩の契約は今日においても有効であることを意味しています。私たちは、イエスが来られたときにすべてのものが変化してしまい、律法に記されているすべてのことが過ぎ去ってしまったと理解しがちです。しかし、そうではありません。「永遠」は永遠です。「永遠の契約」は、神ご自身がその「契約」を必ず守るという忠実さを表現した言葉です。

次に「塩の契約」という表現が用いられているのは、歴代誌第二13章5節です。ソロモンの時代の後、イスラエルは二つの王国に分裂しました。ユダの王アビヤが北王国の王ヤロブアムに対して反旗を翻しました。アビヤは戦いを始める前に、ヤロブアムに向かって大胆な発言をしました。

「イスラエルの神、主が、イスラエルの王国をとこしえにダビデに与えられたこと、すなわち、塩の契約をもって、彼とその子らとに与えられたことは、あなたがたが知らないはずはあるまい。」

聖書には、神がダビデと契約を結んだとき、塩を用いられたという明白な記述はありません。しかしアビヤは、自分たちが神殿での礼拝に関する神の命令をすべて守っているのに対し、ヤロブアムは偶像礼拝にふけっていることを指摘したのです。アビヤはどう礼拝するべきかを知っており(13:10-11)、それには「塩の契約」と呼ばれた、供え物に塩を加えることも含まれていました。神はそのような契約をダビデに永遠の王国を約束されたときに結ばれたのです(Ⅱサムエル7:16この箇所は、『ダビデ契約』と呼ばれ、イエスにより一部成就しているが、再臨によって完全成就される非常に重要な契約の一つ)。

アビヤにとって「塩の契約」は、永遠に存続する契約を象徴していました。

新約聖書に引用されている「塩」

私は多くの聖書学者が、「聖書の一つの箇所を理解する最善の方法は、聖書自身に注解させることである」と言うのを聞いてきました。旧約聖書は新約聖書の最高の注解書です。新約聖書には塩に関する引用が6箇所しかありません。

マタイの福音書5章13節でイエスは言われました。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

通常、この箇所の教訓は、クリスチャンはこの腐敗した世の中で影響を及ぼすことを心掛けるべきだということでしょう。ここではそれを少し拡大してみましょう。

まず、イエスはユダヤ人に向かって話をしておられるという点に注目しましょう。彼らは主が「塩」と言われたとき、おそらく「契約の塩」を思い出したことでしょう。契約の民として彼らに与えられていた使命は、唯一の真の神を全世界の人々に証しすることでした。そうするためには、彼らはトーラーに定められた生き方を守らなければなりませんでした。神の命令は、レビ記、民数記、申命記に記されています。そのような生き方こそが、全世界の人々と彼らを分かつものです。今日の正統派のユダヤ人は、まさにそのような生活様式をとっています。

イエスが、塩気を失った塩は外に捨てられる、と言われたのはどういう意味でしょうか。

塩が塩気を失うことはないのです。しかしこの時代においては塩の精製法はまだ発達しておらず、塩として用いられていたものは、実際には塩と砂の混合物でした。もし塩よりも砂のほうが多く混じっているなら、それには塩気が余りなく、役に立ちませんでした。

イエスの時代、塩の精製方はまだ発達していなかった

マタイの福音書5章から7章にかけて、主が塩に関して言及されたことと、それ以前に語られた、迫害を受けたなら祝福と見なすようにとの教えの間に関連があるのではないでしょうか。この世が彼らを迫害しても、この世の塩である彼らは、神の御前に非常に貴重な存在なのです。しかし、もし彼らがこの世と関わりをもつ余り、自分たちの特徴を失ってしまうなら、彼らはこの世に対する証しを失ってしまう、と言われたのです。

あるとき、イスラエル最南端のエイラットからエルサレムに帰る途中、死海近くを通り、運転手が死海と反対側の道路に車を停めました。彼は私たちを徒歩で「小高い」丘のほうへ導きました。驚いたことにその小高い丘は、土ではなく塩でできた丘でした。

狭い入り口を通り抜け、四方に高い壁が垂直にそびえ立つ空洞に入りました。「天井」は空に向かって開いていました。外側からは見えませんでしたが、空洞の中は、白く結晶化した塩のギザギザの壁に反射した光で、自然にできた大寺院のようでした。その光景は、この世の影響によって私たちが本来もつべき美しさや影響力が隠されてしまい得ることを鮮やかに象徴しているようでした。

ユダヤ人の使命は真の神を
全世界の人々に証しすること

パウロは、異邦人クリスチャンは、「オリーブの根の豊かな養分をともに」受けるために接木されたと言っています(ローマ11:17)。私たちは、神の契約の民の一部分に組み入れられているのです。ですから、紀元一世紀のユダヤ人に語られたメッセージは、今日のクリスチャン、そして教会に与えられたメッセージと同じです。私たちは「この世と調子を合わせてはいけ」ないのです(ローマ12:2)

そうでなければ、私たちはその影響力を失ってしまいます。この学びを、マルコの福音書9章49節から50節のみことばで閉じたいと思います。

「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

この箇所の直前に、イエスは地獄について、また「消えることのない火」について語っておられます。

地獄に定められていない者たちも、「火によって、塩けをつけられる」というのです。ユダヤ人は「塩けをつける」ことをどう理解していたのでしょうか。彼らにとって塩は供え物(いけにえ)を意味していました。もし供え物に塩けが付けられていなければ、神に受け入れられなかったからです。

私たちが神に受け入れられる「生きた」供え物(ローマ12:1)とされるためには、私たちを精錬されるお方の火を受けなければなりません。

死海近くにある、
塩でできた丘の内部

私は著述家J・H・クルツの考え方に同意します。彼は供え物に塩が加えられると、その供え物は、「イスラエルの契約の神から出てくる御力によって刻印される」と説明しています。

神が私たちに火をもってでも塩気を与えてくださり、私たちに証印を押してくださるのです。

神はイスラエルに対して与えられた「塩の契約」に、私たちも結び付けてくださるのです。

また、注解者のウイリアム・バークレイは次のように語っています。「古代の人々は、塩ほど清らかなものは他にないと宣言しました。なぜなら、塩は二つの最も清らかなもの、つまり太陽と海から来るものだったからです。塩の輝くような白さは清らかさの象徴です」。

このことは精錬の過程と合致します。私たちが火の中を通ると、清められて出てきます。パウロは清められることがイエスの教会に対する目標であると語っています(エペソ5:26-27)。

これが私たちの学びの結論です。安息日の食卓においてだけではなく、塩を使うときにはいつも、この真理を思い起こすことでしょう。

私たちが塩入れを取り上げるたびに、神の私たちに対する永遠の契約と、その契約を守り続けておられる真実さとを思い出すのは、何と素晴らしいことではないでしょうか。

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