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神の国における結実 -前編-

レベッカ・J・ブリマー BFP国際会長(CEO)

聖書全体を通して、神は霊的な真理を伝えるために、日常生活の単純な例えを用いておられます。その大部分が、聖書時代の日常であった農耕生活からの例えでした。これらの教えは大変分かりやすく、読者に明確な理解を与えるものでした。

残念ながら、私たちは聖書時代から2千年後に生きていますし、ほとんどの人が自分で食物を育てていません。もし農業に従事していても、その方法はここ何世紀の間に大きく変化しました。私たちはどうしても自分たちの生活背景というめがねを通して聖書を読むので、しばしば真理を受け取り損ねてしまいます。そのため、例えを誤って理解してしまうことがあります。

聖書時代の生活を理解すること

そこで今回は、何千年の時間をご一緒にさかのぼってみましょう。最初に理解しなければならないことは、聖書時代の生活が現代よりもかなり不安定だったということです。人々は、自分たちが育てた収穫物に、完全に依存していました。そのため、もし干ばつが起これば、飢饉に直面しなければなりませんでした。

食料を購入するためのスーパーはありません。雨が降らなければ収穫は無く、収穫が無ければ人々は餓えました。生活が天候によって支配されていたのです。現代とは違い、収穫の良ししが、すべての人に影響を与えました。ですからイスラエルが神に従わず、「雨が降らない」と神が仰せになれば、それは直接命に関わる重大問題となりました。

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。』気をつけなさい。

あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。」(申命11:13-17)

ユダヤ人にとって、これらの聖句は非常に大切なものです。彼らは朝に晩にこのみことばを暗唱し、家の入り口、そして都市の入り口にも書き記すようにと命じられました。今日に至るまで、彼らは日々の祈りでその教えを暗唱し、聖句を書いた紙を入れるメズゾット(「メズーザ」の複数形)と呼ばれる小さな箱が、家々の入り口の柱に打ち付けられました。それにより、神の祝福を受ける条件として、主を愛し、主に従うことを思い出せるようにしています。

上記の聖句には、三種類の食べ物、すなわち穀物、ブドウからとれる新しいブドウ酒、オリーブの実から取れるオリーブ油が挙げられていることに注目してください。これらは、すべてイスラエルの生活に欠かせない主な食料です。それは神が彼らに、次のように仰せになっているかのようです。「もしあなたがたがわたしを愛し、わたしに仕えるなら、わたしがあなた方の必要な物をすべて準備してあげよう。」その鍵となるのは、神との正しい関係です。

イエスも同じテーマで語っておられます。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

ここで主が言われた「これらのもの」とは、何を指すのでしょうか。その答えは、マタイの福音書6章25節から32節にあります。食べ物、飲み物、そして着る物です。もし私たちが神の国と神の義とを第一にし、主を愛し従うなら、神は私たちの必需品を備えてくださるのです。

ではここで、ブドウの実とブドウの木の関係について見てみましょう。この二つは、神が最も頻繁に用いられる例えです。聖書時代にブドウの木がどう育てられていたかを知ることによって、その当時の人々が、たやすくその真理を理解できたことが分かります。

聖書時代のブドウの木栽培

ブドウの栽培は、決して簡単に短期間にできるものではありません。また、栽培は平和な時代にこそ適していました。なぜなら、常に手入れをする必要があり、実を結ぶようになるまで、数年間は注意深く育成しなければならないからです。平和な時代には、多くの収穫が得ることができました。しかし、戦時にはブドウ畑は略奪され、壁は壊され、ブドウの木はいばらで覆われ、その枝は野獣に踏みにじられました。(イザヤ5:5-6、詩80:12-13

野獣、火事、盗人などを
監視する見張りやぐら

まず土が掘り返され、石が取り除かれました。それから捕食動物たちを遠ざけるために、壁、あるいは垣根が作られました(詩80:12-13)。見張りやぐらやブドウ酒を貯蔵する大きな桶を立て、収穫期には寝泊りできる小屋まで用意されました。家族の誰かが、植え付けのときから収穫時まで、一貫してその見張りやぐらで監視し、将来の家族の食料を保護しました。野獣、火事、盗人などが、常に彼らの脅威でした。

ブドウの木は、毎年かなり大胆な刈り込みや、くわによる掘り起こし、除草、間引き、ブドウの房を支えるための支柱の設置、場合によっては注水などが必要です。当時は収穫が非常に重要だったので、ブドウの木を植えても、その実を収穫できなかった者は、兵役さえ免除されました。(申命20:6参照)

収穫後は、石造りの絞り器にかけられます。そして、搾り出されたブドウ汁は、石のみぞを通って石造りのタンクの中に蓄えられます。ブドウは足で踏みつけるので、踏みつける人の足と、その衣のすそはブドウ汁で赤く染まります。

今日のイスラエルには、ブドウ園が数多く存在します。ちょうど兵隊たちのパレードのように、ブドウの木々がきれいに並んでいる姿を国中で見ることができます。ブドウの木の「腕(枝)」は、地上からかなり高い所で延ばされ、針金に沿って横に長く広がっています。しかし古代のイスラエルでは、ブドウのつるは、地上をはっていました。なぜなら、当時の人々は葉陰で成長させれば、もっと成熟したブドウを収穫できると信じていたからです。

ブドウの実は、その多くが収穫期に消費されますが、残りは乾燥させて、後で食べるため干しブドウの房にしました(Ⅰサム25:18)。ブドウ汁は沸騰させて、「ブドウ蜜」と呼ばれる濃いシロップにしました。しかし、主要な用途はブドウ酒とブドウの「新酒」でした。

聖書に登場する豊富な象徴的表現

1:ブドウの血

ブドウ汁は「ブドウの血」と呼ばれていました。ヤコブがその息子ユダを祝福して言いました。「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。」(創世49:11)。また、申命記32章14節では、「牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」と言っています。

これらの箇所は、最後の晩餐で、イエスが言われたことばを思い起こさせます。

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)

2:さばき

主のさばきは、ブドウ酒の絞り方を用いて、象徴的に語られています。

「『なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。』『わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。』」(イザヤ63:2-6)

3:繁栄と祝福

古代ヘブル人の間では、ブドウの木とブドウ畑は繁栄と祝福の象徴でした。メシアの時代に与えられる平和と安全が、次のように表現されています。「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。」ミカ4:4、Ⅰ列王4:25、ゼカリヤ3:10も参照)

4:イスラエルの象徴

イスラエルは、主によって植えられ、育てられた特選のブドウの枝であると例えられていますが、その枝が野生のブドウの木になってしまいました。(詩80:8-16、イザヤ5:1-7、エレミヤ2:21

実を結ばない枝

「(1)わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

(2)わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

(3)あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

(4)わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

(5)わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

(6)だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

(7)あなたがたがわたしに留まり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

(8)あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:1-8)

イエスは二種類の枝、すなわち、実を結ばない枝と実を結ぶ枝とについて語っておられます。両方とも主の「中に」とどまっています。実を結ばない枝も「主の中に」とどまっているのですが、イエスは“一時的”に実を結ばない枝について言及しておられます。その枝は、「取り除かれる」と書かれています。

2節で「取り除き」と訳されている言葉は、ギリシャ語の「アイロー」です。それは「取り扱うため、あるいは取り除くために持ち上げる」「出帆する(錨を上げる)」「(ヘブル人にとっては)罪をあがなう」「処分する」「持ち運ぶ」「持ち上げる」「解放する」「疑わせる」「取りのけておく」「移動させる」などと訳されています。

私は、この箇所を読むたびに、ブドウの枝が針金か柵の上からぶら下がっている今日のブドウ園を思い浮かべていました。ですから、「取り除かれる」とは、切り取られ、無くなってしまい、もはや無意味となるのだと思っていました。ではここで、聖書当時の栽培方法に戻って考えてみましょう。

ブドウの枝が、地上で土にまみれた状態で育っています。ブドウ園の持ち主が、やさしくブドウの枝を、例えば、その枝の下に岩を置くなどして「持ち上げ」、さらに環境の良い場所にその枝を移して成長を促し、その葉に付いている土をはらっている情景を思い浮かべてみてください。これこそが、私たちの結実を妨げている罪を取り扱われる神の御姿なのです。神は実を結ばない枝を、無慈悲にも切り捨てるお方ではありません。

実を結ばない者が実を結ぶ者となれるように、愛のこもった鍛錬を、でき得る限りのケアと共に成してくださるのです。

次号では、さらに聖書の例えを掘り下げて学んで参りましょう。
エルサレムから祝福を祈りつつ

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