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ティーチングレター

弟子であることとヘブル的価値観 -後編-

シェリル・ハウアー BFPアメリカ支部副局長

前号では、世の考え方(ギリシャ的価値観)と、イスラエルを土台とするヘブル的価値観では、「弟子」という言葉の定義に、大きな隔たりがあることを学びました。へブル的価値観は、聖書という土台に基づいています。後編では、聖書的思考がいかに大切であるかを学ぶため、ギリシャ的思考とヘブル的価値観の衝突について、いくつかの例を上げて比較していきます。

神中心主義

イスラエル人にとって、神は、すべてのものの始まりであり、終わりです。生命、またその生命に伴うすべての良いものは、神から与えられます。人生とは、神への感謝を捧げるものであり、また神にあって楽しむためのものです。神は、すべてのものの中心に堅く存在しておられます。

一方のギリシャ人は、人間中心主義を奉じました。彼らは、人間をすべての中心に置きました。個人主義がもてはやされ、一人ひとりが「自分は宇宙の中心である」と主張しました。今日の信仰生活においても、この考え方を持つ人を見受けることがあります。これが行き過ぎると、神をまるで、自分の要求に答えてくれる、しもべのような存在としてとらえてしまうことがあります。

主、アブラハムに星を示し繁栄を約束

唯一神信仰

ユダヤ教の中心となるのが、申命記6章4節「シェマー(聞きなさい)。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」であり、これこそが彼らが土台とする信条です。

神は、アブラハムをウルの地から召し出され、彼から新しい民族を造り、この民族を用いて、ご自身をこの世界に示されました。また、神と契約を結んだ民として、生きた模範となるように定められました。彼らはあらゆる世代を通じて、神への信仰を表明するよう召されたのです。

神がアブラハムに接触された当時、中東には数え切れないほどの部族が存在していましたが、すべて多神教者、偶像の神々の礼拝者でした。都市ごとに、それぞれ独自の神殿といけにえの制度、祭司職が存在しました。こうした神々は、たいてい怒りに満ちており、宗教指導者たちは、神々をなだめるため、あるいは豊かな収穫をもたらすために、また、子どもの幸運、子孫繁栄……などの名目で、人々から巨額の献金を搾取していました。人々は神々の恩寵を得るため、生涯を懸けて、長きにわたる一連の苦難に耐えなければなりませんでした。

神は、友に語るようにアブラハムと語られました。そして、アブラハムは神を信じました。アブラハムとその子孫によって、「唯一の神」が、すべての世代に証しされたのです。

「官能性」対「霊性」

ギリシャ人は人間の肉体を崇めました。肉体美は他のすべてに勝って、人々の憧れの的となりました。「ヌード(裸体)」は芸術だけでなく、スポーツなど公の場でも当然のこととされました。しかし、イスラエル人は、内なる人以上に外なる人を尊ぶことをしませんでした。内なる霊性は、神と社会との生き生きとした交わりの中で表され、ユヤ人の礼拝の核を成すものでした。人間の身体は神からの賜物として評価され、大切にされ、神への礼拝を実行する器として、尊厳と謙遜をもって扱われました。

アポロ像

知識

古来より、イスラエル人にとって、知識の習得は、生涯における最も崇高な目標の一つとされてきました。次世代への信仰と伝統の継承(教育)は、ユダヤ人が生存し続けるために非常に重要でした。タルムード(ユダヤ人の伝統と注解)には、次のような格言が載っています。

「子どもの教育は、その子どもを創造しているようなものです。世界は学校の生徒たちの息吹によって成り立っているのです。」知識を得る目的は、生涯を通じて神を知り、その御教えに従順になることです。トーラー(聖書の最初の五書)は、神が与えた指示書であり、神のご計画に従って生きるためにはどうすればよいのかが示されています。そのトーラーをいかに学び、修得し、熟達し、それぞれの生活環境の中で生かしていくかは、人々に委ねられています。

ただ単に理解するだけでは充分ではありません。修得は“応答”を要求します。ヘブル的教育の究極のゴールは、弟子の育成であり、神の御教えを次世代に伝え、それを通して彼らが神を敬い、神に従うようになることです。

一方、ギリシャ人は、知識を尊びましたが、それを追求すること自体に価値を置きました。それは情報と知識の習得であり、神への服従につながる糧を得ようとするものではありませんでした。学習に関するヘブル的・ギリシャ的認識の違いを、ノーマン・スナイス氏は見事に言い当てています。「ヘブル的学習の目標と目的は『ダアトゥ・エロヒム(神の知識)』であり、ギリシャ的学習の目標と目的は『グノーシ・セアウトン(知識そのもの)』である」。

この二者には非常に大きな違いがあり、共通項を見いだすことは不可能です。立場においても方法においても、完全に相反しているからです。ヘブル的な学習は、神を出発点としており、唯一まことの知識は、神からもたらされる知識です。まさに「神を恐れることが、知識の初め」なのです。人間は、まず神について学び、神の至高の意思に従うことで、自分が誰なのか、この世とどう関わっているのかを知ります。

一方で、ギリシャ的学習は、まず人間の知識から始まり、人間の内にある崇高な性質を用いて、神のご性質や思考を追求して、上へたどり着こうとするのです。聖書では、人間は御霊によって生まれ変わる以外、高度な性質をもつことはできないと教えています。

自分の生き方や行動と、信仰を
結びつけて考えるイスラエル人の価値観

体と機能

ここまで、神とその民の関係が、力に満ちあふれた、生き生きとしたものであったことを見てきました。神はイスラエルをご自分の子として選ばれ、共に歩み、共に語り、従って歩むように導かれました。抽象的な方法ではなく、目に見え、手で触れられるよう、民族解放のプロセスと、奇跡的なご介入によって、ご自身を表されました。

ですからユダヤ教では、「機能」という点に大きな強調点を置いています。一方で、ギリシャ的価値観の強調点は「構造・姿」にあるのです。

イスラエル人は自問します。「私はどのように自分の信仰を表しているだろうか。どのように契約に基づいた関係を保っているだろうか。またどのように行動するべきだろうか」。

ギリシャ的価値観に影響された西洋のキリスト教では、宗教理論に深い関心がもたれがちです。しかし、神が強調されるのは「正しい行動」です。聖書についても、「この聖書の、この箇所についてどう思うか?」という問い掛け以上に、「この聖句を土台として、どのように生きるか?」を追求します。

私たちが、神との関係を「信仰」という言葉だけで考えるとき、知的な側面に終わってしまうことがあります。信仰は頭脳作業ではありません。ユダヤ教徒は、信仰もそうですが、相手(神・人)に対して真実であり続け、堅く立ち、信頼でき、誠実であり、ゆるぎのないことに注目するのです。ヘブル的価値観では、信仰と行動は切り離せないのです。

二元論

古代ギリシャの哲学者・プラトンは、人類に「二元論」という概念を提供しました。彼は、同時に存在する二つの世界があると教えました。物理的な世界は見える世界であり、不完全、悪の根源であり、より劣っている世界である。一方、霊的な世界は目に見えない、人間の魂の源であり、さらに優れた場所である。

だから、人間は肉体から解放されることを切望しなければならない。肉体を神に隷属させることによって、魂は神のおられるところに居場所を見いだすことができる。魂は、悪しき肉体の中に囚われていて、死によってのみ、霊の世界へと逃れることができる――と教えたのです。

しかしながら、イスラエル人は古くから、この世界でも神との交わりは可能であるとしました。この世界は、神がその子どもたちのために、ご自身の愛を示すためにお造りになったととらえました。ヘブル的な世界観には二元論はありません。神の御力によって、身体と魂は統合されます。

人は魂をもつ存在ではなく、魂そのものです。また、肉欲を克服するために肉体を拒否するという、禁欲主義の概念はありません。すべての良い賜物は神からのものであり、喜びと感謝をもってそれを受け取る。そうしないなら、神を侮辱することになると信じました。

結婚は神の祝福と聖書は語っている

二元論が、過去の教会に与えた影響の一つに、「婚姻関係は悪であり、肉的である」という考え方があります。「人は、自分のきよくない熱情が抑えきれなくなった場合にだけ結婚すべきだ」とし、「抑えきれる場合には、独身主義を選択するべきだ」と教えらえたのです。パウロが、コリント人への手紙第一の7章で教えたのは、そのような意味ではありません。

ヘブル的価値観は、神の正しい手段として、結婚を承認しました。また、妻を得ることは非常に大切なことであり、親としての務めは、神が与えられた最も崇高な召命であると教えました。人と、その妻との肉体的な交わりは、賜物であり祝福であるとして、喜びと感謝の心で受け入れるべきものとしました。人の基本的欲求は神ご自身、聖書が認めています。創世記、コリント人への手紙第一にも、神のルールの中で満たされるとき、祝福となると教えられています。

弟子となるために

イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われました。神の愛も、みことばも、真の弟子となることも、重荷ではなく、喜びとなるように与えられています。神の民は、神とさらに親しい交わりをもつことができるよう、常に神に関心をもつべきでしょう。

私たちは今、驚くべき時代を生きています。歴史、考古学、ユダヤ教から得られる知識の学び、聖書の研究……イスラエルとヘブル的ルーツの学びを通して、過去の世代の人々が知ることができなかった真理を発見しています。イスラエルの学者とクリスチャンの学者が協力して、イエスの生きた時代そのものについて、さらに詳しい知識を得るために、ヘレニズム的眼鏡を取り除き、ヘブル的視点による観察に尽力しています。

主イエスは、ご自分の最初の弟子たちが、主と共に歩むことで味わった、父なる神との生き生きとした交わり、興味あふれるみことばの学びの喜びを、現代の私たちにも経験させたいと願っておられます。それは、私たちがいっそう聖書に親しみ、学び、日常生活の中で喜んで主の教えを実践することです。そうすることにより、みことばの約束にあるように、主に似た者とされ、弟子として歩むことができるのではないでしょうか。

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1;22)

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