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神の国における結実 -後編-

レベッカ・J・ブリマー BFP国際会長(CEO)

前号では、聖書の真理をよく理解するために、神が日常生活の例えを用いられたこと、また聖書時代にさかのぼって例えを読むことで、聖書理解に別の光が当たることを学習しました。今月も引き続きこの学びを深めてまいりましょう。

実を豊かに結ぶ枝

実を結んでいる枝とは、どういう枝でしょうか。ブドウ園の農夫は、多くを収穫するために枝を刈り込みます。ブドウの枝はあまりにも勢いよく伸び過ぎるので、たくさんの葉が重なり合い、十分な光が届かなくなってしまいます。すでに枯れているか、あるいは邪魔になっている枝を切り捨て、太陽の光がすべての枝に行き届き、新しい実が成長するようにしなければなりません。

収穫量を増やすには、枝を剪定することが必要不可欠です。そうしなければ葉ばかりが茂り、ほとんど実がないか、あるいは最悪、実がならなくなくなってしまいます。ですから、もしあなたが「さらに多くの実を結ばせてください」と祈るなら、それは「自分を剪定してください」と祈っているのと同じことです。

多くの実を結ぶとは、どんな意味でしょうか。神は私たちの生涯から、何を切り捨てなければならないのでしょうか。クリスチャンとして、私たちは忙しい日々を過ごしています。多くの計画や優先事項をもっています。時間がいくらあっても足りず、その大部分が良いことであり、重要なことです。

私はBFPの国際会長として、多くの時間を要求されています。その中で私は、常にブドウの木につながることを選択し、自分の時間の使い方について、いつも主の導きを求めなければなりません。私の計画は、悪いことではないでしょうが、神の最善のご計画から逸れているかもしれません。私たちは常に、自分の優先事項を吟味し、生涯を通して与えられている神の召命を果たすためのエネルギーが奪われないように、自分を守らなければなりません。

ブドウの枝が古くなればなるほど、剪定が厳しくなります。この剪定は非常な痛みを伴うものです。なぜなら、イエスに深くつながっていればいるほど、主の要求は高くなり、諦めなければならないことが増えていくのです。

その過程において、主に従うことは、次第に困難になってきます。私たちの肉は叫び声を上げますが、神は私たちを滅ぼそうとしておられるのではありません。主は私たちを引き上げ、成長するために整え、さらに多くの実を結ばせ、霊的な力を増し加え、メシア(キリスト)の完全な御姿に近づけようとされるのです。

私たちがブドウの木であるイエスにとどまることは、主の剪定のハサミに委ねる選択を意味します。私たちはバプテスマのヨハネが、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったようになる必要があります。自分の方法ではなく、神を選ぶなら、神は私たちを祝福してくださいます。時には、神からの召命に応じるために、自分の所有物や愛する者から離れることを要求されるかもしれません。

夫と私が、イスラエルへの召命を頂いたとき、まさにそれをしなければなりませんでした。私たちは所有物も家族も友人も後に残し、主に従いました。それは必ずしも簡単なことではありませんでしたが、主はその決断を祝福してくださいました。神が何をお望みになっても、私たちは自分の枝(生涯)を、農夫であられるお方の剪定に委ねなければなりません。そうすれば私たちは、常に収穫を期待することができます。

昔、クリスチャンの間で人気のあった、出エジプト記4章の賛美を思い出します。神はモーセに、「あなたの手には何があるのか、モーセよ。」と仰せになりました。

「杖があります。」と彼は答えます。

神は「それを地に投げなさい。」と仰せになります。モーセがその杖を地に投げると、それが蛇になり、神の奇跡を行われる御力が現わされました。

神に要求されるものを地に投げることによって、何という素晴らしい実が結ばれることでしょうか。豊かな収穫を期待しましょう。

どうすれば主にとどまれるのか

私たちはまず、神との関係をまず優先させなければなりません。それを実行するためには、神のために「何かをする」よりも、神と「共にいる」ことに強調点を置くことが大切です。言い換えると、神の国のために働くより、むしろ神と共にいることに時間を使う必要があります。イエスに密接につながっているなら、私たちの生涯のうちに、超自然的な方法で働かれる神の御手を見ることができるでしょう。

ヨハネの福音書15章の主な焦点は、主にとどまることです。「とどまりなさい」と言われているのはご命令であって、選択の問題ではありません。あなたは自分の生涯と奉仕に神の圧倒的な御業を期待されるでしょうか。それはあなたが主にとどまることによって起こるのです。

あなたがどれだけ信仰について、あるいは聖書について知識をもっているかに左右されるものではありません。神を個人的にどれだけ知っているかにかかっているのです。ダビデが神に対して抱いていた熱情を、あなたももっておられますか。

神の国のために働くよりむしろ、
神と共にいることに時間を使う

「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」(詩63:1)

ブドウの木に生命を与えている樹液は、目には見えません。それは内側で起こっていることなのです。悲しいことに、何年も何年も聖書を読み続けながら、主の内にとどまっていないということもあり得ます。毎週礼拝に出席し、日曜学校で教える……、このようなことは確かに良いことではありますが、主にとどまることとは違います。

「神のために働く」ことのほうが、「神と共にとどまる」ことを学び取ることよりもた易いのです。なぜなら、神と共にいるためには、簡単には捨てられない、貴重な時間という必需品を主にお委ねする必要があるからです。

時間を要する果実の成熟

すべて果実が結実するためには、時間が必要です。ある種の果物は、結実するまでに10年もかかります。ある木は2年、3年、あるいは4年で実を結ぶようになります。どんな種類の木も全く同じではありません。しかし、どの木もやがて結実することが期待されています。「さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。」(マタイ21:34)

信仰者である私たちは、時に自分たち、あるいは他の人々の生涯において、御霊の実が実っていることを早く知りたいと願うものです。しかし、成長の過程には時間が必要であることを知らなければなりません。木が成長し、実を実らせることができる状態にまで達しているとしても、ある朝起きてみると、そこに実がなっていたなどということはないのです。まず実は小さな芽から始まります。それは木の一部分として、ほとんど見分けられないほど小さなものです。それから芽が開き、もろくて美しい芳香を放つ花となるのです。その後、固い未成熟な実へと変わっていき、ついには十分に成熟した実へと成長していくのです。

若い頃、私は他の人々に批判的な態度を取るという問題をもっていました。しばしば、相手に実際以上の成長を期待していました。20年前、両親の家の裏側にあるベランダに座っているとき、主が、私に庭に下りていって、リンゴの木からリンゴをもいで食べるように促しておられるのを感じました。私は、「しかし主よ、あのリンゴはまだ食べられないほど未熟です。きっと苦いでしょう。おいしくないと思います」その時期のリンゴは、ちょうど栗の実ほどの大きさでした。

しかし主が、私の心に次のように語っておられるように感じました。「あなたにも分かるように、そのリンゴは私の計画に従って完全に成長し続けている。そのリンゴの実は、成長の過程において、完全である。なぜあなたはその実がおいしくないと言うのか!?」。

そのとき、私の他者に対する態度について、主が語っておられることに気付きました。私たちは誰も、他の人々の完全な成熟時期を知りません。一人の人が神の御心に沿って成熟しているのかどうかは、神にしか分からないことです。リンゴの木になっているそれらの固い実は、時が来れば成熟し、果汁のたくさん入ったおいしいリンゴになるのです。神の時になれば、私たちの生涯における実も成熟するのです。

ある朝の祈りの時間に、BFP国際企画部の責任者バリー・メヴォラック師が私たちに語ってくれました。「成熟の過程には時間が必要とされます。御霊の実は購入できる産物でも、安っぽい贈り物でもないのです。

私たちはある朝起きてみると、柔和や自制の実を実らせていた、ということにはならないのです。それらの実はゆっくりと、生涯をかけて実っていくものなのです。御霊のどのような実も、イエスが盛んになり、自分は衰える(ヨハネ3:30)につれて、私たちのうちに成長していくものなのです。

結果は必ず現れます。その結果は、優であるか、良であるか、可であるか、あるいは不可であるかも知れません。しかし結果は避けられないものです。至高の神は、ご自身がブドウ園に注ぎ込まれた御思いに応じて、結果を期待なさるのです。神はまた、その環境を考慮されます。社会的状況、その人自身の霊的な背景(土地)、一つひとつの木の年齢(信仰者の霊的成熟度)、過去において私たちに与えられた機会、などをです。

主がブドウ園から期待される収穫とは、物質的所有物、例えばお金や家や土地や財産などではありません。高い教育や名声も、それ自体大切なものであったとしても、神が期待する実ではありません。神がその民から期待する実は、御霊の実なのです。つまり、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22)。全能者のブドウ園にあるすべてのブドウの枝が、その量こそ違え、実を実らせる必要があります。御霊の実と比較するなら、この世でどれだけ高い評価を受ける事柄であっても、それは何の意味もありません。

皆様のために今日捧げる祈りは、ブドウの木にとどまることを選び、ブドウ園の農夫であられる方の愛に満ちた助けに従い、あなたの生涯に対する最善の決断をしてくださるようにということです。どうぞそのような選択を遅らせないでください。それはあなたができることの中で、最も素晴らしく、最も重要な決断となるでしょう。

エルサレムから祝福を祈りつつ

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