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ティーチングレター

最も背の高いヘブライ文字「ラメッド」 -後編-

2005年11月

ヘブライ語でも最も背が高い文字が“ラメッド”です。先月は、「学び」をテーマに、この文字がもつ隠されたさまざまな意味を理解しました。今月は、「弟子訓練」を、ユダヤ的背景からさらに深く掘り下げ、学んでまいりましょう。

従順を学ぶ

キリストの時代、弟子(生徒)は、知識や理解について、教師との実際的なやり取りの中で学びました。そして、その人間関係がもたらす知恵を得ることこそが、弟子訓練の核心でした。学習の過程は、人間関係、あるいは師弟関係の中で体得されるのです。

1世紀のイスラエルにおいて、最も名誉なことは、「ラビのもたらす砂ぼこりにまみれる」ことでした。どういう意味でしょうか。生徒は、教師について歩くことによって、長期間一緒に時間を過ごし、教師の行動をまねすることによって学習しました。それは、従う訓練であり、模範を見て学ぶ訓練でした。

1世紀のイスラエルにおいて名誉あること
は“ラビのほこりにまみれる”
(ラビと共に過ごし、その教えを受ける)
ことであった

この例を、モーセとヨシュア、エリヤとエリシャ、パウロとテモテの間に見ることができます。ヨシュアは、イスラエルの指導者に任命されるまで、モーセの個人的な従者として何十年も仕えました。預言者エリヤは、生涯の最後に、エリシャを自分の弟子として訓練し、奉仕のために「二人分の分け前」を神に願うことを伝授しました。パウロはテモテに神のことばを注意深く教え込み、テモテがパウロのビジョンや熱情、献身的な態度を自分の奉仕の中に反映させることができるようにしました。これらの弟子たちは、その教師に注意深く従うことによって、自分の生涯と奉仕に関する教訓を会得したのです。

同じようにイエスの弟子たちも、砂ぼこりの立つ乾燥したイスラエルの道を歩きながら、教師であるイエスについて行き、「イエスの教え」というほこりをかぶりました。人々は、弟子たちがイエスと一緒にいたことを理解しました。弟子たちの行動に、主のお姿が表されていたからです。(使徒4:13

従うとは、行動だけではありません。ギリシャ語で「従者」を指す「ミメーテース」という言葉には、「まねをする」という意味があります。これが、クリスチャンの生涯の神髄です。「キリストのようになる」とは、イエスの生涯をまねし、その戒めを守ることを指します。主は、弟子たちに、主の行動をまねし続ける生涯に入るように促されたのです。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(Iコリント11:1)。彼らの行動が、教師であるお方の生涯に非常に似ていたので、彼らは「クリスチャン(キリストの直属のしもべ)」と呼ばれるようになりました。これこそ、聖書的な生活様式の模範です。

神と共に歩む

学びは一生続く行為である

神もまた、エデンの園でアダムとエバと共に歩まれ、彼らの生涯に対し、ご自身が望んでおられることを教えられました。エノクは、神に喜ばれる歩みを続けた結果、死を経験しないまま、天に移されました。アブラハムは、彼の造り主の御前で、信仰と忠実さをもって全き歩みをしました。彼は神を信じ、神がお命じになったことには、直ちに、そして少しも条件を付けないで従いました。ですから、神は、“アブラハムの神”と呼ばれることを恥とされませんでした(ヘブル11:16)。

預言者ミカは、神と共に歩むことの大切さを語り、人類の義務を次のように要約しました。

「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

現在のイスラエルでも、物乞い
は道端のあちこちで見られる。
今日のユダヤ教においても、
施しをすることは「義なる行い」
の一つである

正義、公正を求め、虐げられている者を救い出し、孤児を援護し、寡婦のために弁護する、などの義なる行いは、神の教えを習得することで実行されます(イザヤ1:17)。聖書に記されている神の指図を学び、受け止めるなら、その歩みのすべてにおいて、公正とあわれみをもって行動することができるようになり、へりくだって神と共に歩む、真の弟子となることができます。

ヨハネはそのような人間関係を強調しました。「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(IIヨハネ6節)

原語で「罪を犯す」とは「的を外す」ことを意
味する。的を射る人生を送るには、神のみ
ことばを学び、従うことが大切である

パウロはこの考えに完全に賛成しています。「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」(Iテサロニケ4:1)

神の指図を受けること

弟子は何をなし、何を学ぶべきでしょうか。

「あなたは熟練した者、すなわち、真理のことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。……また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(IIテモテ2:15、3:15-17)

「わが神。私はみこころを行なう
ことを喜びとします。」(詩篇40:8)

弟子にとって、第一に重要なのは、神のみことばを学ぶことです。それは、実行することを視野に入れた学びでなければなりません。昔のエズラのように、弟子たちは神のみことばを学ぶことに心を定め、まずそれを実行し、そして次にそれを教えることが大切です(エズラ7:10)。聖徒と呼ばれる人たちが取り組んだのも、そのことでした。神は、そのような人々を通して、聖書に明らかにされている奥義を、人々に伝達されたのです(IIペテロ1:19-21)。

なすべきことがあることを知りながら、実行しないでただ学ぶだけなら、罪を犯しているのと同じです(ヤコブ4:17)。それは、信じていながら決断せず、実行もしない人と似ています。実行の伴わない理論は無意味であり、偽りでもあります。実際に役に立つ、実施可能なことでなければ、霊的ではありません。信仰は、理解と信頼を土台とした行動によって裏付けられます。それがなければ、弟子であることは難しくなります。

主の弟子は、神の指図を学び取る者たちです。神は最高の教師であられ、預言者や使徒たちを通して、神の民を教えられました。それが旧約聖書と新約聖書の著者たちです。神に関する知識の、最初の集大成が、トーラー(聖書の初めの五巻)です。

「トーラー」という、古くからある尊いヘブライ語が、英語では単に「法」を表す「Law」(日本語では「律法」)と翻訳されているのは、残念なことです。その真の意味は「指図(教え)」であり、賢明な御父からの、洞察力に満ちたみことばなのです。この「トーラー」の語根は、「ヤラー」という、アーチェリー(弓術)で用いられる言葉で、「目標に狙いを定め、それに命中する」という意味をもっています。

ダビデ王は次のように記しています。「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえ(トーラー)は私の心のうちにあります。……私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえ(トーラー)は私の喜びです。」(詩篇40:8、119:174)

賢人ソロモンは次のように述べました。「命令はともしびであり、おしえ(トーラー)は光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(箴言6:23)

また事実、受肉され人となって来られたトーラーであられるお方が言われました。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。……もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ14:15、15:10)

もし、イエスが御父のご指示に従順に従うことで、神への完全な服従を表されたのであれば、キリストの弟子たちはなおさらのこと、イエスのご命令に従って、イエスの主権に服するべきではないでしょうか。

真の礼拝

「わが子よ。……注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。」(伝道者12:12)

学ぶことは、実際、激しい労働であり、生徒あるいは弟子が受けるべき訓練です。しかしながら、そこから得られる利益は、それを獲得するための負債よりもはるかに大きいのです。

ユダヤ人は長い間、学ぶことが“礼拝の最も高尚な形”であると信じてきました。なぜでしょう。礼拝を表す言葉は、ヘブライ語の「セガード」、ギリシャ語の「プロスクネオー」です。両者とも「神のご臨在の前にひれ伏す」という意味です。神の前にひれ伏す究極的な姿、つまり神のご意思への服従は、神が語られたことを行う意志をもって聖書を学ぶことに表現されるのです。神のみことばを学ぶこと、特にトーラーを学ぶことは、礼拝の一つの形、あるいは神への服従の形なのです。

アブラハム・ヨシュア・ヘスケルは、ユダヤ人の聖書学習への姿勢について、「ギリシャ人は理解するために学ぶが、ユダヤ人は崇敬するために学ぶ」と表現しました。神のみことばと御旨は、口では言い表せないほど深遠で、それを実行する中で理解することができます。自分の生活様式を神のみことばに合わせるために、聖書を学ぶことは、英語の「ワーシップ」(礼拝する)という言葉がもつ、最も真の意味に合致します。「……に意義をもたせる」ということだからです。神のみことばに完全に服従し、神が語られたことに完全な献身と熱情を込めて学ぶとき、私たちは「神に意義をもたせる」、つまり、神を礼拝するのです。

学びの生活様式

ヘブライ語の最も背の高い文字には、人生に最も高尚な報酬をもたらし、ついには、「救いの富」(イザヤ33:6)となり、永遠の命へと至るテーマが表されています。「ラメッド(突き棒)」を通して、絶え間ない学びに身を委ねる人々は、常に前進し、向上します。それによって、私たちはより豊かになり、祝福するための教訓を受け続けようとします。知恵が深くなるにつれて、学ぶことも多くなります。

神のくびきを負うことは、イエスに身を委ねること

このような学びの生活様式の中では、訓練を通して理解が深まります。「もし彼らが聞き入れて仕えるなら、彼らはその日々をしあわせのうちに全うし、その年々を楽しく過ごす。」(ヨブ36:11)

弟子たちは「タルミディーム」であり、それはイエスとくびきでつながれている人々、「ラメッド(突き棒)」で優しく導いてくださるイエスに身を委ねる人々を指すのです。聖書的な訓練を受けることによって、彼らの人生は幸福で満ちあふれます。彼らは神の知恵と洞察力を受け取る訓練を経験し、豊かな人生が与えられるのです。

「知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。……結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者12:11、13)

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