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ティーチングレター

最も背の高いヘブライ文字「ラメッド」 -前編-

2005年10月

現代のイスラエルでは、古代の方法さながら
に、トーラー(聖書)の写本が行われている

聖書に用いられているヘブライ語で、最も背の高い文字は“ラメッド”です。この文字はヘブライ語のアルファベットの中で中央に位置しており、他のすべての文字を見下ろすように、他の背丈を超えてそびえ立っています。イスラエルの賢者たちは、何千年にもわたり、この文字を研究してきました。神は何事も偶然にはなさらないお方だから、ラメッドの背が高いという事実に、何か重要な意味があるに違いない―そう、彼らは推論したのです。

聖書と文学書の中で、ラメッドの意味とその重要性を分析することにより、何世紀にもわたり薄れていた、ヘブル的遺産の重要性を理解することができます。聖書とキリスト教信仰の中に含まれるユダヤ的ルーツを探ることによって、歴史上無数のユダヤ人の生涯を豊かにしてきた見識と理解力を、再び手に入れる機会が与えられるのです。

絵文字

ヘブライ語のアルファベットには、22の文字があります。その一つ一つが、古代においては、絵文字(つまり、象形文字や楔形文字と同じような文字)で書かれていました。たとえば、「アレフ()」は語源的には「牛の頭」を表現していました。「ヴェート()」は「家」を、「ギメル()」は「ラクダ」を表していました。「ラメッド()」は語源的には牛を追う「突き棒」を示しています。古代の農耕社会では、その突き棒を用いて、牛を訓練していました。「ラメッド」をよく眺めてみると(多分その文字を横にして見ると分かりやすいでしょう)、突き棒のイメージであることが良く分かると思われます。

ヘブライ語アルファベットの
「ベット」()は「家」の
象形文字から発展した

「ラメッド」の上に突き出ている部分はヘブライ文字の「ヨッド()」、のように見えますが、これは「手」を表す絵文字です。「ラメッド」のその部分を、人が手に取ってみた姿を想像すると、先のとがった部分が、牛を追い、訓練し、仕事をするために、とてもよい道具であることがイメージできるでしょう。

教えることと学ぶこと

「ラメッド()」という文字は「ラーマド(教える)」という単語の土台です。面白いことに、この単語は「教えること」と「学ぶこと」の両方の意味を持っています。この動詞を表す単純態は「学ぶ」、強調態は「教える」ことを意味します。これは、教えることと学ぶことは密接に関係しており、人間は生涯学ぶ者であると同時に、教える者であり続けなければならないという、偉大な教訓が含まれています。それゆえに、私たちの中でも最も学識の優れた人を「学者」、すなわち「学ぶ者」と呼びます。彼らは基本的には「学徒」なのです。

自分はすでに必要な知識を持っていると思って、学びを停滞させてしまうことは簡単です。しかし、賢い人は常に好奇心を持ち、新しい刺激や新しい洞察に敏感です。生涯、学習者であり続けることによって、自分を豊かな者とすることができるのです。また、自分が学んだことを他の人に分かち合うことに情熱を注ぎます。

牛の突き棒を表す「ラメッド」は、本質的に、学ぶことと教えることの、両方に関連しています。確かに、学ぶことは、自己を律するための忍耐を必要とします。しかしそれは、訓練を受ける過程であり、自分が知識と理解に慣れ親しむための必要な過程なのです。私たちは、苦労することを通して、より豊かな、より満ち足りた生涯を送ることができ、受け身にならず、積極的に行動することができるようになります。祝福を与えようとするなら、まず自分が汗水を流さなければなりません。苦労を重ねることによって、与えることの感動を味わうことができるようになるのです。

人類に与えられた最も高尚な素質

学ぶことは人生に不可欠な要素です。学ぶことで、人間は、理性による能力を発揮します。それこそ、人類が他の被造物と区別されるラインです。学習能力は、神が人類に与えられた尊い賜物であり、人類が神のかたちとして、神に似せて造られたゆえの、天賦の才能なのです。神は形を持っておられませんから、“人間が神のかたちに似せて造られた”とは、その物質的な特徴とは全く関係のないことです。

ユダヤ人は子どもがまだ幼い頃
から聖書を熱心に教育する。
子どもの腕に巻かれているのは
「テフィリン」と呼ばれる
みことばが入った小箱。
これを腕に巻きながら、神の
みことばを身に付け実践する
ことを体験的に会得していく

神のかたちに、神に似せて造られているとは、理性を働かせることができること、また、その理性的判断に基づいて行動する自由意志が与えられていることを指しています。知能と良心、すなわち頭脳と心のつながりによって、人類は、神を認識し、神のみことばと御旨を学び、信仰を通して与えられる恵みによって霊的体験を持ち、神に祈りを捧げることができるようになったのです。

ユダヤ民族によって、学ぶことは、常に聖なることと見なされてきました。知識から理解へ、理解から知識へと前進することは、預言者や賢者たちが、使徒や教師たちが、男女を問わず、大昔から追求し続けてきたことです。行動へとつながる知識を得ることは、個人、集団を問わず、ユダヤ人にとっての熱情でした。ですから、識字力と教育は、選民である彼らの特徴であり、彼らの成功の源となっています。

弟子訓練の核心

「ラメッド」のもう一つ別の形は、「リムード」という名詞――つまり「生徒」あるいは「弟子」です。弟子とは、教えられる者、学びの訓練を受けている者のことです。訓練を受けない弟子などいません。学びの訓練こそ、弟子、学ぶ者、学者を造り上げるのです。怠慢や無関心から訓練を避けようとする者は、決して弟子とはなれないのです。

楽器を習う子どもたち

「リムード」という言葉は、聖書の中では最初に、第一歴代誌25章8節で、「弟子」を表す言葉として用いられています。この言葉は、「タルミッド」つまり「学者」という言葉の語根であり、やがてユダヤ人の社会で、学生、学ぶ者、弟子たちを指す、ごく普通の言葉として用いられるようになりました。イエスも、ご自分の弟子たち(タルミディーム=複数形)について語られた時にお用いになった言葉です。

最初「タルミッド」という言葉は、音楽を学ぶ学生に対して用いられました。音楽は、演奏されて初めて楽しむことができます。このことから、弟子が単に知識を蓄えるだけでなく、訓練を通して、理論を“楽しめる音”へと昇華していく必要があるということを教えています。学び、実行することが重要です。

数学に取り組むユダヤ人の少年

このように、弟子とは学ぶ者であり、行う者でもあります。つまり、「行う」ために「学ぶ」者なのです。ヤコブは語っています。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

“弟子とは学ぶ者である”ということは、使徒たちが記した新約聖書に表されているギリシャ語の用語でも確認されます。「マーセーテス」とは「学ぶ者」「生徒」「弟子」を意味します。この言葉は「マセマティクス(数学)」の語根で、数学には学びと応用が必要です。数学という学問も、弟子となり、熱心な訓練を経ることなくして達成することはできません。

イェシバと呼ばれるユダヤ教の神学校では、
聖書の学びにおいて学生たちが
熱心に議論を戦わせる

「クリスチャン」という表現は、聖書の中で2回しか用いられていないのに、「弟子」という言葉は270回も使われています。クリスチャンが果たすべき究極的な役割は「クリスチャン」を造ることでも、「信者」を増やすことでもありません。弟子を造ること、つまり、その核心的な意味において、学ぶ者、生徒たちを造ることにあります。マタイ伝28章18節から20節で、私たちは次のように教えられています。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」

弟子となることは、ただただ神に守られて気持ちよく過ごすことではありません。神とその御心を行うことについて学び、訓練を受け続けることを意味します。弟子となることは、単に感情的なフィーリングではなく、行う=実行を伴うことなのです。

イエスは、クリスチャンの弟子訓練には高い水準が求められ、熱心さを伴わなければならないことを強調されました。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。……あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:27、14:33)

神の訓練の中で、弟子たちは、痛みの伴う自己否定の過程を経ることを要求されることもあるでしょう。しかし、神が振るわれる突き棒に従い、応える者には、神の同労者としての恩恵が与えられ、大いなる祝福が与えられます。

これこそ、クリスチャンに対して与えられている『大宣教命令』の核心です。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。……わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)

クリスチャンの弟子訓練の基礎は、学ぶことと教えることであり、学ぶことと教えることの基礎はイエスのご命令です。イエスに信頼し、神の教えに従う訓練を受け、弟子となることができるようになるためです。

クリスチャンの弟子訓練とは、救い主(キリスト)の教えの中に訓練を見いだし、その指示に応じて、励んで学ぶことです。自分自身を、訓練のための突き棒に委ね、自分の心をラメッド(突き棒)のとがった部分によって刺されることを甘んじて受け、自分の行動を正しく適切な方向へと整理し、神がお定めになった目的へと進んでいくようにすることなのです。

「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)。イエスとくびきでつながっているとは、イエスの教えを学ぶことを意味しています。それは結論的には「負いやすい」くびきです。イエスの用いられるラメッド(突き棒)は、不必要な過度の痛みを負わせるものではありません。私たちが、神とのさらに緊密な交わりを持ち、他の人々とも交わりを保つために、正しい方向へと向かわせるのに必要な刺激を与えてくれるものです。

(次号へ続く)

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