BFP編集部 2005年9月

条件を満たしておられることを知りつつも、
受け入れなかった
福音書では、イエスがご自分を「メシアである」とはっきり宣言された箇所を見つけることはできません。しかし、なぜか、イエスを信じた人々は、この方がメシアであることを知ることができました。なぜでしょうか?ヘブル的視点に立ち返って福音書をひもとくとき、その理由が分かります。先月に引き続き、それらの箇所を例に挙げつつ、「イエスのメシア宣言」について学んでいきましょう。
ナザレでの宣告
ルカ伝4章14節から22節に、イエスが故郷の町・ナザレに帰ったことが記されています。彼はそこで有名人となっていました。ある安息日、会堂で律法の巻物を開き、イザヤ書61章1、2節を読まれました。それは当時、最もよく知られたメシア預言(メシアの到来について預言した聖句)でした。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)。
イエスはこう言われました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いた通りに実現しました。」と。
会堂にいた人々は、彼が、恐れ多くも自分をメシアだと公言した、と受け取りました。ルカは、「人々が彼の口から出てくることばにショックを受けた」と記しています。彼らは互いに「これはヨセフの子ではないか。」と言い合いました。
「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかし、イエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」(ルカ4:28-30)。
この人々がイエスのメシア性を受け入れたかどうかは分かりませんが、少なくとも、イエスのメシア宣言を理解したというのは、紛れもない事実です。ともあれ、イエスは、そのお働きにおいて、イザヤ書61章1、2節に約束されたメシアの権威を行使されました。
超自然の意識
ルカ伝4章31節から37節で、イエスはメシアとしての権威をもってカペナウムで教えておられます。悪霊につかれた男性が群衆の中にいて、イエスに、「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」と言いました(34節)。その悪霊も、超自然レベルで、イエスがメシアであると認識していました。ルカ伝4章1節から13節では、サタンがイエスを誘惑する前に「あなたが神の子なら、」と言ったことで、またイエスが誰であるかを知っていたことを示しています。
カペナウムで、イエスが「黙れ。その人から出て行け。」(35節)と命じられると、悪霊は男性から出て行きました。イエスはご自分の権威によって悪霊を追い出されたのであって、御父に助けを呼ぶことはされませんでした。もし彼が単に、自分をメシアと思い込んでいる夢想家であったなら、超自然の世界は少しも応答しなかったでしょう。
私たちが癒やしを求めて祈るという超自然的行為をするときは、主の御名を呼び求めます。私たちは、自分自身の権威によって何かが起こるなどとは期待しません。しかし、イエスは神の現れであり、またメシアとしての権威を持っていました。この行為は、彼がメシアであられるという事実を明らかにしました。「権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」(36節)と言って、人々が驚いた理由を読み取ることができます。
中風(不随)の癒やし
ルカ伝5章17節から26節で、イエスは中風の人を癒やされました。主が家の中で教えておられたので、中風の人を運んできた友人たちは、屋根に穴を開けて、イエスがおられる所に彼を降ろしました。
イエスはこの時、ガリラヤや遠くユダヤ、エレサレムからやって来た律法学者たちに応対しておられました。主はこの場を用いて、ご自身がメシアである証拠を彼らに示されました。
イエスはまずその中風の男に「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。パリサイ人たちは即座に反応して「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」(20-21節)と言いました。
ここでイエスは「赦す」というヘブライ語の「サラー」を用いました。この言葉は、“神が人を赦す”場合にだけ用いられるもので、人が赦すときには決して用いることができません。(レビ記4-5章参照)。それでパリサイ人たちは、「神をけがすことばを言っている」と言ったのです。このことばを用いることで、主はご自身を神と等しいとされました。
また、これらの章句から、パリサイ人たちが何を思っているのかを、イエスが知っておられたことが分かります。そこでご自分が何者であるか、また何を実行する権威があるかを証明するために、直ちにその人を癒やされました。イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに悟らせるために。」(24節)、この御業を成されたのです。
イエスはここでも、メシアであると宣言される際に、“人の子”ということばを用いておられます。その結果、人々はひどく驚き、畏れに満たされ、神をあがめました。
安息日の主
ルカ伝6章1節から5節で、安息日にひもじい思いをした弟子たちは、麦畑で穂を摘んで食べていました。それを見たパリサイ人が、主と弟子たちが安息日と律法を破っている、とつぶやきました。イエスは決して律法を破ろうとされない方でした(マタイ5:16-17)。しかし、当時、一部のラビたちによれば、穀物を摘む行為は安息日では労働とみなされ、律法違反とされました。イエスは明らかにその解釈に同意せず、また安息日に癒やしの御業を行うことも律法違反とは受け取られませんでした(ルカ6:6-10)。安息日を聖別するために、多くの規定が積み重ねられていきましたが、それらは重荷にこそなれ、祝福ではなくなっていました。マルコ伝の記事には、イエスが、「安息日は人間のために設けられたのであって、人間が安息日のために造られたのではない」ことを人々に思い起こさせたことが記されています。(マルコ2:27)
しかし、イエスは批判するパリサイ人たちに、単にご自身が同意しない意思を表すだけでなく、さらにこう言われました。「人の子は安息日の主です。」
ここでは「人の子」というメシアを示すことばの使用と、神だけが持つことのできる権利、「安息日におけるご自身の権威の宣言」という、もう一つのメシアの旗が翻っています。神はモーセの律法以前に安息日を制定されました(創世2:2)。イエスは父・御霊と一つなるお方ですから、それを主張する権威があったのです。
イエスのメシア宣言
イエスはイスラエルの人々に、ご自身のメシア的権威を押し付け、信じ込ませようとはされませんでした。真に見て理解したいと願う人々に、メシアとしてのご自身を啓示する方法で語り、行動されました。今回は、ルカ伝のみことばをほんのわずか学んだだけですが、これらの章句は明らかに、イエスがメシアとしての自己理解を確立されていたことを語っています。イエスは直接的に「わたしはメシアである」とか「わたしは神の子である」とは言われませんでしたが、紀元1世紀のラビとして、ご自身が誰であるかを明らかにされました。「イエスはメシアであることを主張されなかった」とか、「ご自分がメシアであるのを知らなかった」と言う人は皆、単にイエスのおことばを理解していないだけなのです。
神学者ロバート・リンゼイは「人が福音書を読むとき、福音書はもともとラビ的な思想を背景とする、ヘブライ語で語られた言葉や慨念を保持していることを心に留めておかねばならない。今日、これはほとんどのクリスチャンにとって全く異質なものとなっている」と指摘しています。聖書の本文は、ヘブル的な言葉や概念に裏打ちされています。それらが1世紀にヘブライ語で語られた時には、今の私たちにはおぼろげにしか見えないことが隠されることなく、はっきりと表現されていました。イエスが誰だったかについて、より多くのことを知りたければ、彼が語られた言語や、生きた環境をもっと学ぶ必要があります。

いう律法の教えの完全な実践だった
ルカ伝22章66節から70節、23章2節を通して、当時の大祭司や律法学者たちは、イエスのメシア宣言をはっきり理解していたことが分かります。彼らはそれを信じませんでしたが、イエスがメシア、人の子、また神の子であることを主張した事実は疑いませんでした。
このため、彼らはイエスをピラトの元に連れて行き、罰したのです。彼らは、イエスのもろもろの主張を神への冒涜とみなしました。イエスを信じた他の人々は、それを神聖なものとみなしました。
使徒行伝5章33節から39節では、多くの宗教指導者が、イエスがメシアであられることを説教した罪で、ペテロを殺そうとしました。その中で、パリサイ人の重鎮ガマリエルが立ち上がり、サンヘドリンの指導者たちに、「ほかにもいわゆるメシアと主張する、チュウダやガリラヤのユダといった者たちがいたが、彼らは結局死に、彼らに従った者たちも散らされ、その教えも無に帰してしまった」ことを思い出させ、ペテロを擁護しました。
ガマリエルは「そこで今、(ペテロや他の弟子たちについて)、あなたがたに申し上げたいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(使徒5:38-39)と結論付けました。
ほぼ2千年経った今もなお、イエスのメッセージと働きは保たれ、生き続けているのです。
エルサレムよりシャローム