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イエスのメシア宣言 -前編-

BFP編集部 2005年8月

イエスはご自分がメシアであることを主張されましたか?

もしあなたが「しました」と回答するなら、それは正解です。では、この主張が記されている章や節を指摘することができますか?恐らくできないでしょう。

わたしはメシアである」と、文字どおりには一度もおっしゃいませんでしたから、その箇所を探しても見つけることができないのです。しかし福音書は、イエスの言動そのものを通して、彼がメシアであるというメッセージを伝えています。

イエスが直接的な言い方をされなかったために、彼のメシア性についてさまざまな意見があり、議論さえ引き起こしています。

【1】まず、「イエスは義人であり教師であったが、ご自分をメシア(キリスト)とは決して考えなかった」とする学派があります。この論理は、イエスを神であると仕立てた「人為的なキリスト論」により、メシアというラベルが張られたが、主ご自身は自分をメシアであるとは表明されなかった、と言います。たとえ福音書に明瞭な記述があったとしても、このグループはイエスをメシアと見なさず、「その箇所は後から福音書に追加されたのだ」と主張することでしょう。

【2】他の学説は、「イエスはご自分がメシアであることを理解し、受け入れておられるが、メシアとしての自意識は、だいぶ後になってから存在するようになった」と主張しています。ともあれ、このグループも、イエスはご自分を神の現れとは決して見なさなかった、と結論付けています。

【3】最後に、「イエスは初めからご自分のメシア性を十分認識しておられた」と信じるグループがいます。私自身もその一人です。彼は単なる人間的、政治的なメシアではなく、人間という形をとって神を顕示された、御父から出た方です。彼は“三神の中の第二神”ではなく、“父なる神、聖霊なる神と一つ”であり“同一、唯一の神の、人間としての現れ”です。これはキリスト教神学の基本概念ではありますが、一部のクリスチャンや、ユダヤ教のラビにとっては、のみ込み難い概念であることを、私は知っています。

盲人の癒やしはメシアに
よって行われる御業であった

この際、誰が正しいかを論じるのが真に大切なことではありません。大切なのは、何が正しいかを知ることです。この問題を解決するには、実例に満ちている福音書の記事を調べるだけで十分です。

そのために、ルカ伝2章41節から6章5節を取り上げ、イエスがどれほど、ご自身のメシア性を現しておられるかを見ることにしましょう。

人の子

イエスが「私はメシアである」と主張しながら歩き回らなかったのは、彼の時代にそうした主張をする者が多くいたためです。話すのは安易であり、主張するのは簡単ですが、行動をもって主張を裏付けることによってのみ、その人のメシア性が真に確証されます。

イエスは言動を通して、メシアに関する旧約聖書の預言を成就されました。彼はヘブル的手法で、こうした預言を聖書から引用しつつ、メシアを待ち望んでいた人々に、“自分こそ約束された方である”と分かるように語られました。

聖書の預言において、聖霊は記者たちに、来たるべきメシアについて慎重に述べるように、と霊感をお与えになりました。これらの箇所は、ほとんど「メシア」であられる来たるべき方について、具体的に語っていません。むしろ、「枝」「わたしのしもべ」「わたしの選んだ者」というような、抽象的な表現が使われています。ですから、イエスの場合も、御霊がそうされたのと同じように語ることが求められていましたし、実際にそうされました。

ルカ伝5章24節6章5節、そして福音書全体に、イエスがご自身を「人の子」と呼んでおられる箇所が随所にあります。この称号は、イエスご自身の人生を示すというよりは、ダニエル書7章13節に直接由来することばです。それは広く受け入れられていたメシアの称号(バル・イナシュ)であり(ダニエル書はヘブル語ではなくアラム語で書かれた)、天に起源をもつメシアの姿を記述しています。この章句は何を語っているのでしょうか。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子(バル・イナシュ)のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方(父)のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)

イエスはご自分の人間性についてではなく、霊的な使命を帯びて天から来られた方として、この称号を用いられました。石打ちの刑に遭ったステパノが、使徒行伝7章56節で、天の幻を見てこう言いました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

ですから、イエスがこの称号を用いておられる箇所はどこでも、ご自分がメシアであることを明かにされていると言うことができます。

イエスがメシアたる身分を称号的な用語でしか知らせなかったもう一つの理由に、大衆を刺激したくなかったということがあります。当時、ユダヤはローマの圧政の下にあり、人々は国家的な自由を得させてくれる、政治的な意味での救世者(メシア)と、それに伴う多くの恩恵を期待していました。主イエスの目的は霊的なものであり、政治的なものではありませんでした。主はあくまで霊的な神の国の樹立のために来られました。ですから霊的な用語を用いて語り、彼がメシアであると認め、それを告白した人々に、しばしばその知識を内に秘めておくようにと告げられました。(ルカ5:14

神の子

ルカ伝2章41節から51節には、イエスが12歳の少年だった時、エルサレムにとどまって神殿の庭で学び、学識あるラビたちとトーラーについて論じ合っている記事があります。彼はナザレヘの帰路についていた旅行団から離れ、大急ぎで探しに戻ってきた両親に見つけ出された時、こうおっしゃいました。

「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と。ここでイエスが神について用いたことばは、普通に使われる“アベイヌ”(私たちの父)ではなく、“アビ”(わたしの父)でした。

ユダヤ教の会堂で捧げられるの祈りには「天にいます、私たちの父(アベイヌ)よ」という表現が含まれています。イエスは弟子たちに、「主の祈り」を教えましたが、それもまた「天にいます私たちの父よ」で始まっています。“アビ”という表現は、当時のユダヤ人には不適切と思えたに違いありません。ただ一度だけ、神が「わたしの父」として言及されている箇所が、詩篇89篇の中にあります。この箇所では来たるべきメシアについての預言が語られています。「彼は、わたしを呼ぼう。『あなたはわが父(アビ・アター)……。』」(26節)。そしてイエスは、これを成就されました。

真のメシアだけが神を「わが父」と呼ぶ権利をもっています。晩年のロバート・リンゼイ博士は、イエスのみことばの研究で第一級の学者でした。彼は、イエスの時代のラビたちが、「天にいます私たちの父よ」と言うように人々に教えた理由は、「わが父よ」と言う権利が、メシアにだけ保留されていることを知っていたからだ、と言っています。

第二サムエル記7章14節にも、メシアに関する預言が含まれています。「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」この節は神の子であるメシアの来臨について、ユダヤ人が理解するようになった始まりについて記しています。

12歳の時には、イエスはすでにご自分がメシアであり、神の子であることを知っておられたことが明らかです。そして彼は、神をわが父と呼ぶ権利を主張しました。これこそ、ルカ伝2章51節で「母(マリヤ)はこれらのことをみな、心に留めておいた。」と書かれている理由です。彼女もまた、御子と父なる神との関係を理解していました。

この概念はメシア預言である詩篇2編でさらに拡大して表されています。1節から2節には「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油を注がれた者(メシア)とに逆らう。」とあります。7節には「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と書かれています。

通常、“生んだ”と訳されるヘブライ語は、実際は「もたらす」とか「産出する」を意味し、助産婦や医師が新生児を取り上げ、差し出している姿を示しています。イエスのバプテスマの時、神は彼が御子であることを世に告知されましたが、そのときに引用されたのがこの詩篇でした。「きょう、わたしはわが子をもたらした。」

ピーター・ミカスはその著書『TheRodofanAlmondTreeinGod'sMasterPlan』(神のマスター・プランにおけるアーモンドの杖、PeterMichas,RobertVernerMaten,ChristieD.Michas,WinePrPub,1997)で、ルカ伝3章21節から22節に記述されているイエスのバプテスマについて、興味深い解釈をしています。

ヘブライ語の文字「カフ」は鳩が翼を
広げた様子を表している

この章では「(イエスは)聖霊が鳩のような形をして自分の上に下られるのをご覧になった」と記されています。これはヘブライ語の文字「カフ」の形をした、鳩の翼に似た聖霊を言い表しています。

「トーラー選集」(TorahAnthology)や、『アートスクスロール・タナク・シリーズ』(ArtScrollTanachSeries,ArtScroll)では、この文字は聖霊を象徴する“油”が、大祭司や王の頭に注がれる方法を表していると言っています。

紀元前6世紀、ソロモンが建てた神殿(第一神殿)がバビロンに破壊されて以降、王や大祭司がこのように油注がれることはなくなりました。また「カフ」という文字は「期待」を意味します。バプテスマのヨハネを含むすべての人が、メシアを待望していました。ですから、このことこそ、バプテスマに際して、皆がイエスは誰なのかを正確に理解した理由と言えます。

聖霊を表す油注ぎの象徴「カフ」が、聖霊という現実の形として彼の上に下り、神の御声が、公にイエスを神の子として宣言されました。

幾つかの詩篇や第二サムエル記にある章句から、メシアが神の子であることが理解できます。しかし、これらの節は「神の子」なる表現を含んでいません。むしろヘブル的な形で、父と子の関係を述べています。これがメシア性を表現するヘブル的方法であり、聖霊が語り、イエスが語られた方法だったのです。

来月の後編では、他の事例を取り上げながら、イエスのメシア宣言について理解を深めていきましょう。

エルサレムよりシャローム

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