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ティーチングレター

シャブオットからの教え -ペンテコステの意味-

BFP編集部 2003年5月

これまでのティーチング・レターで、レビ記23章に記されている主の例祭について、何度か学んできました。今月は『シャブオット』と呼ばれる祭りに焦点を当てたいと思います。これはキリスト教会では『ペンテコステ(聖霊降臨祭)』として知られています。6月に、皆様の教会でもこのペンテコステの日を祝われると思いますので、ちょうどいい機会であると思います。

まず、シャブオットについて簡単に理解するため、聖書箇所を読んでみましょう。

「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。

あなたがたの住まいから、奉献物としてパン…主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの…二個を持って来なければならない。そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。

その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」(レビ23:15-21)

ユダヤの三大例祭(過越の祭り、
シャブオット、仮庵の祭り)には、
ユダヤ人がエルサレムへと上って
来て、嘆きの壁の前で祈りを捧げる。

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

彼らは驚き怪しんで言った。『どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。』

人々はみな、驚き惑って、互いに『いったいこれはどうしたことか。』と言った。」(使徒2:1-12)

シャブオットとは?

シャブオットには、他にもいろいろな名前があります。『七週の祭り』『ハグ・ハビクリーム(第二の初穂の祭り)』『収穫の祭り』そして『ペンテコステ』。これらにどんな違いがあるのでしょう。同じ祭日を表すものでありながら、この祭りがさまざまな側面をもつため、こんなにたくさんの名称が付けられているのです。

ヘブライ語では「シャブオット(七週の祭り)」と呼ばれるのが最も一般的です。それは、過越の祭りが終わった後の安息日から、きちんと七週を数えるためです。

この、七週間を数えることを「オメルを数える」と言います。オメルとは昔、穀類などを計るために使われた単位で、1オメルは約1・9リットルの量を指します。オメルを数えるごとに、ユダヤ人は、神が人間にくださる分け前に感謝し、祝福の祈りを唱えます。

クリスチャンにとっては、シャブオットよりも「ペンテコステ」という名前の方がもっと親しみがあります。これはギリシャ語の「50日目」を表す言葉で、過越の祭から数えて50日目(7週間=49日間を数えた次の日)に祝われたことから来ています。

ユダヤ暦では、収穫を三度祝います。「第一の初穂の祭り」である過越の祭りの期間中、エルサレムの神殿に大麦が供えられます。祭司はその供え物を手に取って、祭壇の前でゆっくりと揺り動かします。大麦は小麦よりも早く熟し、収穫されます。「第二の初穂の祭り」であるシャブオットは、ちょうど小麦が収穫される時期に当たります。この祭りには、イスラエルの最良の小麦から作られた2斤のパン(シュテイ・ハレヘム)を祭司が手に取って神の前で揺り動かし、捧げます。それゆえ、シャブオットには「ハグ・ハビクリーム(第二の初穂の祭り)」という名前が付けられているのです。この、第一と第二の初穂の行事には密接な関係があります。

大麦の収穫を祝う第一の初穂の祭り(過越の祭り)も、小麦の収穫を祝う第二の初穂の祭り(シャブオット)も、続いて秋に祝われる、さらに大きな最終収穫の時である「仮庵の祭り」の前祝いのようなものです。

面白いことに、イスラエルの民の周りにいた異教の民もまた、豊かな収穫がもたらされるようにと、彼らの偶像の神々になだめの供え物を捧げました。イスラエルの民が、収穫を与えてくださった神に感謝を捧げるために、供え物を捧げたことと比べると、両者の間には、動機の面で大きな違いがあります。

シャブオットを祝う

クリスチャンにとって、シャブオット(ペンテコステ)は、聖書に由来するその他のさまざまな物事と同様、教会がユダヤ的なルーツから離れていくに従って、その形や意味があいまいなものとなっていきました。新約聖書のみの認識で、ペンテコステは単なるキリスト教の休日の一つであると考えられていることもしばしばです。使徒の働き2章1節によると、この祭りが祝われていた日、教会に聖霊が注がれました。また、パウロがこの祭りのために何とかエルサレムに戻ろうとしていた、と書かれています。(使徒20:16

大麦は作物の中でも
最も早く実りを迎える。

実際のところ、この祭日にはとても深い意味が込められています。シャブオットにかかわる古代の伝統を見ると、「これからやってくる収穫とは何であるか」ということが分かります。

シャブオットはほかのさまざまな例祭と同じく、農業と、イスラエルの土地に直接かかわりがあります。聖書時代のイスラエルの農夫たちは、これらの作物をかごに入れて、笛を奏で、喜び祝いながら神殿に携えてきました。人々にとって、収穫は大いなる喜びの出来事だったのです。

2千年前にローマによって破壊されて以来、エルサレムには供え物を捧げる神殿がなくなったことから、ユダヤ人にとって、シャブオットを祝うことは大変難しいこととなりました。今日、イスラエルのいくつかの地域では、子どもたちがフルーツで飾られたバスケットを抱えながら行進をします。彼らは通常、白い衣服に身を包み、頭に小麦の花の冠をかぶります。子どもたちが持ってきた捧げ物は、神殿に捧げられる代わりに、ユダヤ国家基金へと献呈されます。

この祭りの期間中、シナゴーグでは、会堂が植物や花で飾られ、旧約聖書のルツ記と詩篇67篇が朗読されます。なぜルツ記なのか、この学びの後半で見てまいりましょう。

律法の授与

ユダヤ人は何世紀にもわたり、シャブオットにまつわるさまざまな伝統を伝えてきました。その中でも特に重要とされるのが、これから学んでいくことです。ユダヤ人は、シャブオットが祝われる時期が、シナイ山でモーセが律法を授かった時期と同じであると信じています。過越の祭りが出エジプトと関係しているように、シャブオットはモーセがシナイ山に上り、その7週間後に律法を授かったことと関係しています。もはやエルサレムに神殿はなく、供え物も捧げられなくなりましたが、この律法の授与という事柄が、この祭りを祝う際に強調されてきました。

古代のイスラエル人は、神のくださった律法を、重荷とも、法的なシステムだとも思わず、神から与えられた自由の証しとして見ていました。神はもはやミステリアスな存在ではなく、彼らにとって良き父であり、律法はこの父が与えてくださった教本となったのです。神から啓示された聖なる教えによって、彼らは神が何を喜ばれ、何を憎まれるかをはっきりと知るようになりました。神が望まれることを知り、その教えに従うことによって、自分たちの生活が祝福され、災いや不幸から守られるようになることを正確に悟ることができるようになりました。

詩篇19篇7〜11節には、次のように記されています。

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」

イスラエルの民にとって、律法は大いなる解放を与えるものでした。それゆえに彼らはその授与を祝うのです。

ユダヤ人は律法の授与という出来事を、シャブオットだけではなく、秋の仮庵の祭りの期間中にも祝います。これは「シムハット・トーラー」と呼ばれる祭りであり「律法の喜び」という意味があります。ユダヤ人は1年かけて聖書を通読しますが、この「シムハット・トーラー」の日にそれが完了します。人々は聖書の巻物を携えてシナゴーグから外に出て、そして巻物を高く持ち上げて近隣の通りを練り歩きます。人々は喜び歌い、聖書が彼らの人生の中心であることを宣言しながら、巻物の後をついて歩きます。皆様の教会でも、ペンテコステの日に、聖書と聖霊が与えられたことを同じような形で祝い、外に出て「私と私の家は、主に仕えます!」(ヨシュア24:15)と宣言することができたら、どんなにすばらしい祝福となることでしょう!

マーサ・ズィマーマンはそのすばらしい著作『例祭を祝う』で次のように述べています。

「ペンテコステは、律法に込められた神のメッセージを思い起こす時である。『すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」』(出エジプト19:8)。ユダヤ教のラビたちは『神の聖なる律法と自己鍛錬がなければ、そこに自由はない』と言う。電車が走るには線路が必要である。川が流れるにはそこに岸がなくてはならない。主イエスは『あなたの好きなところへ行って、好きなことをしなさい』とは言われなかった。彼はこう言われた。『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。』(マタイ28:19-20)。主イエスはマタイの福音書5章17節でこうも言われている。『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』

ズィマーマンは、続いて次のことを指摘しています。

「主イエスはメシアとして、人間を律法のくびきから解放するために来られた。これは、誰一人として、己の力では律法を完全に守り切ることはできないからである。神の子羊は、律法を破ったがために受ける罰から人間を救い出し、代わりにその罰をご自分でお受けになるために来られた。しかし、私たち人間は『自由になるために、自由にされた』。メシアは、私たちを古い性質と行動から解放し、『神に自由に従うことができるように』解放されたのである。私たちは自分を喜ばせるためにではなく、神を喜ばせるために自由になったのである。これこそ、私たちの人生に働かれる聖霊の御業である。」

神がモーセに律法を授けたと伝えら
れている場所は、シナイ砂漠にある
ホレブ(シナイ)山である。

聖霊の授与

私たちクリスチャンにとっては、シャブオットはペンテコステとして、聖霊がイエスの弟子たちの上に注がれ、教会が誕生したことを記念する日です。「教会の誕生日」と言ってもよいでしょう。

聖霊が使徒たちの上に臨んだとき、強い風が吹く音が聞こえました。ヘブライ語で聖霊のことを「ルア・ハコデシュ」と言いますが、「ルア」とは、「霊」のことであり、同時に「風」も表します。

ですから、シャブオットを祝うために世界中から巡礼者がエルサレムに上っていたこの時に、この出来事が起こったのは単なる偶然ではありません。彼らは、イエスの弟子たちが世界のさまざまな言葉で語るのを聞きました。彼らは言いました。「あの人たちが、私たちのいろいろな国のことばで、神の大きな御業を語るのを聞こうとは……。」ユダヤ教のラビたちは、次のことを信じています。神がモーセに律法のみことばを語られていたとき、その御声は70の言語に分かれて響いた。よって世界のすべての民がそれを理解することができた、と。

このことは、使徒の働き2章の出来事と重なるものがあります。聖霊が人々の上に働いて、さまざまな言葉を語ることができるようにされたことで、世界中からエルサレムに集まっていたすべての人々が語られていることを理解することができました。そして、神は炎の舌を天より下されて、ご自身の偉大さを人々の前に現されたのです。

シャブオット、初穂、そして聖霊

初穂の祭りの日に聖霊が与えられたことをとおして、すべてのクリスチャンの内に表されるべき「御霊の実」について考えさせられます。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22-23)

元BFPガリラヤ学習センター所長、ジム・ゲリッシュは次のように指摘しています。「聖霊の降臨によってイエスの弟子たちは力を増し加えられ、それまででは考えられないほど、すべての分野において実り豊かな者となった。」と。これについて、シャブオットの期間中にユダヤ人が朗読する「ルツ記」をとおして見ていきましょう。

おそらく、聖書の中で聖霊のことが最も明らかに描写されている箇所と言えばルツ記でしょう。

イスラエル人のナオミには2人の息子がいて、それぞれにモアブ人の妻がいましたが、異国に滞在中、息子たちはそれぞれ死んでしまいました。長男の嫁はナオミの元を去りますが、次男の嫁であるルツは次のように言います。「あなたの神は私の神、あなたの民は私の民です。」彼女は祖国モアブを捨て、しゅうとであるルツに忠実に従ってイスラエルにやって来ました。ナオミとルツがイスラエルに戻って来たのは、恐らく収穫期、それもシャブオットの期間であったと思われます。

ルツがナオミに捧げた愛は、最も尊い性質のものでした。自らの国を捨て、ルツとともにいるため、ルツを支えるために異国の地へまでもついていったからです。この若い女性の中に、たくさんの美しい性質を見ることができます。彼女の人生は従順さ(ルツ3:5)、親切(同3:10)、清さ(同3:10)、思慮(同3:14)、愛(同4:15)、そしてその他さまざまな尊い性質で満ちあふれています。彼女の人生は御霊によって導かれ、その実を豊かに結んでいたからです。最終的にルツは、彼女の気高さに感動したボアズに見初められ、結婚することとなり、自らの人生だけでなく、不幸の連続であったナオミの人生をも豊かなものへと変えていきました。

モーセの十戒のみことばが
デザインされた、シナゴーグの扉。

より豊かな収穫の時へと

シャブオットが収穫の祭りとして取り扱われる一方で、これが本当の収穫の時ではないことも覚えておくべきことです。この「収穫」というテーマは、秋に続く仮庵の祭りで、すべての作物が最終的な収穫の時を迎えるとき、本格的に祝われ完結します。同様に、霊界においても、エルサレムの神殿における聖霊の降臨は、神の御国にとってより大いなることが起こることの前兆です。仮庵の祭りは「ラッパの祭り」とも呼ばれますが、このラッパとは、やがてメシアが降臨される時を覚えて鳴らされます。このラッパが鳴らされるまで、収穫の時期を迎えるまでの長い夏、これは霊的な意味で、私たちが他の人々を神に立ち返らせるという働きを担うために、成長していく期間のことも意味します。

使徒パウロはローマ人への手紙8章23章で次のように述べています。人間がもともと内面で叫び求めていた「完全な救い」が、イエス・キリストによって与えられことで、「最初の初穂が実った」と。同じように、世界の歴史もまた、霊的な大変革によって終結するでしょう。これから起こることは、過越の祭りとシャブオットで描写されているような最初の収穫の時と、仮庵の祭りをとおして表されている最終的な収穫の中に示されています。それゆえ、クリスチャンにとって、シャブオットを理解することは、世界を救われる神のご計画を理解する上で重要な意味があります。

今年のシャブオットは、6月6日・7日に祝われます。皆様がこの祭りに関心をもってくださるよう、心から祈ります。この学びをとおして学ばれたことを、他の皆様と分かち合っていただければ幸いです。何よりも、皆様ご自身が聖霊のお導きによって、実り豊かな、喜びに満ちた人生を送られますように。神の霊が私たちの内にあふれ、神の喜びが皆様をとおして他の方々にもあふれ出ていき、その方々を神の御許に引き寄せることができますように。

エルサレムからシャローム

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