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ティーチングレター

神はユダヤ人との契約を破棄されたのか?

BFP編集部 2003年4月

過去2千年近くにわたり、ユダヤ人は「キリスト殺し」と非難されてきました。このことは、神がユダヤ人を拒絶され、彼らとの契約を破棄されたという、非常に根強い教えを教会に発展させることになりました。その結果、その中で培われた反ユダヤ主義とユダヤ人への憎しみが、多くのクリスチャンに植え付けられました。中には、ユダヤ人を迫害することが、神の仕事を後押ししていると信じる人まで出るようになり、結果として、ユダヤ人は追放され、隔離され、殺害され、長い長い迫害が続きました。こうして、新約聖書の著者たちが決して望まなかった(エペソ2:11-18、ローマ11:13-32)、キリスト教とユダヤ教の不幸な分断が生み出されたのです。

ユダヤ人はキリスト殺し?

初代教会の教父の一人、クリソストムは「ユダヤ人は皆、キリスト殺しの罪で有罪である。」と発言しました。以来、初代教会のそのような態度が、一部のキリスト教界にすっかり定着してしまいました。「キリスト殺し」のレッテルは、反ユダヤ主義を掲げる人々によって、今日に至るまで正当化され続けてきました。

この問題の正否を、みことばに照らして見てみましょう。マタイ27章25節に登場するユダヤ人は、イエスを十字架に付けることについて、自分たちの集団責任を認めています。「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」

この言葉をユダヤ人全員がのろわれる原因と解釈するのは、無理があります。一民族全体の集団責任を、この場にいた一部の人々の言葉によって問うことはできません。現場にいたユダヤ人は、自身について発言したのであって、彼らが全イスラエル、全ユダヤ民族を代表していたわけではありません。

第二に、イエスの十字架刑に関する聖書の記録ははっきりしています。この事件では、ユダヤ教の指導者たちが大きな役割を果たした一方、実際の刑の執行は、当時唯一、死刑の決定権をもっていたローマ人の手によって行われました。もし彼らが、そこに参加していたゆえに責任を問われるのなら、実際に刑を執行したローマ兵も、連帯責任を問われるはずです。全異邦人とは言わないまでも、少なくとも全イタリア人がその罪を負うことになったはずです。

第三に、イエスは全人類の罪をあがなうために、ご自分から進んで死を選ばれました。ですから、究極的に言うなら、主を十字架に釘打ったのは、私たちの罪以外の何物でもありません。

第四に、イエスは息を引き取られる前、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)とおっしゃいました。イエスがユダヤ人とローマ兵をお許しになったのであれば、一体それ以上誰がユダヤ人を罪に定めることができるでしょう。

教父たちの教え

ユダヤ人への敵意は、初代教会の教父たちの書き残したものにも現れています。例えば、殉教者ジャスティンは、ユダヤ人について「聖書はあなたがたのものではなく、われわれのものだ。」と書いています(160年)。またリヨンの司教イレネーウスは「ユダヤ人たちは神の恵みから廃除された。」と書いています(177年)。ターチュリアン(160-230年)は、彼の論文『ユダヤ人への攻撃』で、神はクリスチャンを恵みのうちに選ばれた一方、ユダヤ人を拒絶されたと宣言しています。4世紀初頭、神学者エウセビウスは「旧約聖書の祝福の約束はクリスチャンのものでユダヤ人のものではなく、代わりにすべてののろいがユダヤ人に向けられた。」と書いています。彼は教会こそが旧約聖書を引き継ぐ者であり、ユダヤ教に取って代えられたものであると論じました。

初期の教父たちのこうした教えは、若い教会に深い影響を及ぼすこととなりました。そして「肉のイスラエル」を疑いの目で見、神が彼らを退けた代わりに、ご自分の愛をクリスチャンに移されたことを証明することが、自分たちのために欠かせないことであると考えるようになりました。

反ユダヤ主義の根拠となるみことばとは?

新約聖書がそのユダヤ的ルーツから切り離されてしまった時から、教会はユダヤ人への尊敬を失ってしまいました。また、イエスと使徒たちがこうあるべきと思い描いた、教会とユダヤ人との関係を失ってしまいました。このことが、結果的に歴史を通じて聖書個所の誤った解釈を生み出すことになったのです。

ここで、ユダヤ人を攻撃するために、みことばを曲解した分かりやすい一例「ブドウ園の悪い農夫のたとえ」について、元BFP国際本部長、バリー・デニスンの聖書解釈を見ていきましょう。

悪い農夫のたとえ

神がユダヤ人を拒絶されたことを正当化するために、イエスご自身が語られたたとえ話が用いられました。

このたとえは、マタイ21章33-46節マルコ12章1-12節ルカ20章9-19節に記されています。

「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。

ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言った。イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:9-18)

みことばの曲解とその波紋

この「悪い農夫」のたとえは、地主(神)の息子(キリスト)を殺した、悪い農夫(全ユダヤ民族)についての教えとして解釈されてきました。この解釈に従って、イスラエルを聖書の祝福から排除する考えが広まりました。

ところで、本当にこれが教会とイスラエルの関係、そしてイスラエルに与えられた契約について、新約聖書が語っていることなのでしょうか。私はそうは思いません。異邦人の教会について新約聖書には、私たちが「接ぎ木され」(ローマ11:17)「キリストの血によって近い者とされ」(エペソ2:13)「(信仰による)アブラハムの相続人」(ローマ4:16)とされ、イスラエルと「共に受ける」(ローマ11:17)「もらい物をした」(ローマ15:27)と書かれています。われわれ異邦人の教会は、神がイスラエルに与えられた恵みに加えられたものであり、神はイスラエルに対する契約を破棄してはおられません。(ローマ11:29

たとえの背景

このたとえを、反ユダヤ主義を生み出した偏見や先入観からではなく、イエスが活動されていた当時の歴史的、文化的、そして政治的文脈から検証する必要があります。そうしない限り、本当の意味が見てこないからです。

それは過越祭の間の出来事で、イエスは一般の教師がするように、神殿の敷地内で人々を教えておられました。そのとき、祭司長、律法学者、長老たちが彼に向かって「あなたはどのような権威によって教えるのか」と尋ねました。イエスは逆に、人々が預言者と信じ尊敬する、バプテスマのヨハネについて質問されました。祭司たちは、人々から石で打たれるのを恐れて、返答を拒絶しました。ヨハネが民衆から尊敬されていた預言者だったからです(ルカ20:1-8)。この祭司たちとの対決場面で、イエスはあのたとえを話し始められました。

祭司たちの脅威

イエスは祭司長、律法学者、長老たちに対して、このたとえを話されました。たとえを用いることは、ユダヤ的なスタイルです。たとえは生活に密着した生きたドラマであり、ユニークな形で人々の心に働きます。それは単なる寓話ではなく、教えの要点を具体的に表現するために用いられます。たとえの目的、機能、メッセージは、語り手とその話の背景によって決定されます。語り手や背景を変えてしまうなら、その意味も変わってしまいます。

マタイ、マルコ、そしてルカの福音書は、このたとえが過越祭の間に、神殿の丘で語られたという点で一致しています。そこから、神殿関係を司っていたヘロデ王朝の宮廷祭司たちと、イエスの間にあつれきが読み取れます。王家付き祭司だったサドカイ派にとって、民衆に人気のあったイエスは、彼らの権威を脅かす存在でした。祭司カヤパは、ローマ政府に金を支払って得た権力により、聖域を支配していました。

イエスは、神殿の聖域から両替商たちを追い出し、そのような行為を許していた祭司たちを、「神の家を強盗の巣にしている」と激しくしかり付けられました。さらに、神殿の広場で、目の見えない人たちと歩けない人たちを癒やされました。人々が彼を「ダビデの子にホサナ」と救世主の称号で呼ぶのを聞いて、祭司たちが「腹を立てた」とあります(マタイ21:15)。当時、自分がメシアであることを名乗る人々が多く出ており、祭司たちにとって、イエスはこうした詐欺師の一人でした。

たとえのユダヤ的背景

「悪い農夫」のたとえは、民衆にとって非常に身近な、よく知られている社会習慣でした。この中で、地主は自分の土地を賃貸に出しています。当時の習慣として、新しく土地を貸し出す場合、地主は最初の数年間、借り手である農夫が事業建て上げのために必要な経費を肩代わりしました。そして、借り手には、3年、あるいは4年目に、地主が負担した費用の部分的返済として、収穫された産物の約40%を引き渡すことが約束されていました。

こうした合意の下、地主は自分の分け前を受け取るために、一人のしもべを農夫たちのもとに遣わしました。このたとえ話に登場する農夫たちは悪い考えをもっており、負債を支払いたくなかったので、このしもべをめった打ちにして帰らせました。

ここでイエスは、このたとえにショッキングなひねりを入れています。地主は自分が当然受ける分を徴収するために、愛する息子を送り出したのです。「愛する息子」とは、ヘブライ語で「一人息子」に相当します。農夫たちは、この一人息子がいなくなれば、その土地に対する自分たちの権利を主張できると信じ、彼を殺しました。イエスは、地主が悪い農夫たちから土地を取り上げ、彼らを追い出して、新しい良い実を付ける人々に渡されるという結末を語られました。

たとえの真意

祭司たち(そのほとんどがサドカイ派)は、ヘロデ王が権限をもち始めると、彼に取り入って勢力を伸ばしていきました。神殿にはもともと大祭司が立てられていましたが、ヘロデは彼を暗殺し、ヘロデに追従したユダヤ人、シメオンを大祭司として立てました。以来、大祭司は王家に多くの賄賂を贈って、神域での役職と権限を獲得していきました。(マタイ22:16マルコ3:6、12:13

ヘロデはまた、サンヘドリン(議会)にいた45名の裁判官や長老を殺し、代わりにサドカイ派から選んだ者たちをその役職に就けました。こうして、サンヘドリンはヘロデとローマの下で支配され、紀元70年の神殿崩壊までの40年間、裁判や会議が開かれたことは一度もありませんでした(ヨセフスの記録より)。こうして、一般民衆は、腐敗しきった祭司を毛嫌いするようになりました。ヘロデ派最後の祭司がカヤパとアンナスで、新約聖書にも登場します。

ルカ20章19節に書かれていることは明らかです。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちを指してこのたとえを話されたと気付いたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。」ヘロデ派のサドカイ人たちは、イエスが彼らを指してたとえを語っていることを理解しました。そうです。このたとえは、ユダヤ人と全イスラエルを指していたのではなく、当時の腐敗した宗教指導者たちに向けられたものだったのです。歴史の中で、悪い農夫たちは、神に拒絶されたユダヤ人に当てはめられ、そしてブドウ園は「真のイスラエル(クリスチャン)」に移されたと解釈されました。しかしこのたとえで、本当に焦点となるべきだったのは「一人息子」でした。イエスは旧約聖書の箇所を引用するという、ユダヤ人たちがよく使っていた方法で、このたとえ話をイザヤ書5章1-7節をもとに語られました。救世主の到来が特に待ち望まれた1世紀、イザヤ書が頻繁に読まれていました。イザヤ書5章7節には「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とあります。

書かれているとおり読むなら、「ブドウ畑はイスラエルの家」です。しかしイエスはここで、ブドウ園についてではなく、そこを管理する農夫たちに焦点を当てておられました。イエスは、ブドウ園(イスラエルの国)の管理を任された農夫たち(宗教指導者)が、地主(神)の一人息子(メシア)を拒絶し、神のひとり子を殺すことによって受ける裁きについて警告されていたのです。

「捨てられた石」

ブドウ園のたとえに続いて、イエスは詩篇118篇23-22節のみことばを引用して、「家を建てる者たちが見捨てた石」について言及しておられます(ルカ20:17-18)。神が送られた一人息子は、人々から拒絶されました。この息子こそが、建てる者たちが捨てた石、すなわちご自分であるというのです。「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(詩篇118:22-23)。ここで主は、ご自分が何者で、これから何が起こるかを預言的に語っておられたのです。詩篇118篇は、過越祭で歌われる歌です。多分イエスと弟子たちも過越の食事の後、ゲッセマネの園へ出かけていく前にこの箇所を歌ったことでしょう。

イエスの時代、この捨てられた石とは何を指すと理解されていたでしょう。ユダヤ人は、この石をダビデ王に当てはめて理解していました。ダビデは彼のハンサムな兄たちの中で、最も小さな者でした。神が介入されるまで、彼の父親や預言者サムエルでさえ、ダビデを無視していました。最も小さな者で、捨てられた石であったダビデを、神はイスラエルで最も偉大な王とされたのです。

さらに、捨てられた石は、ダビデの家系からやがて起こされるメシアを指していました。ですからイエスは巧みなユダヤ的言い回しで、彼ご自身こそが、ダビデの子、メシアであるとおっしゃいました。ちょうどイスラエルの民衆も、彼をこの呼び名で呼んだ後でした(マタイ21:15)。メシアは拒絶され捨てられる定めでしたが、その後死に打ち勝ち勝利されたのです。「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:18)。どのみち、石が勝ちます。

それではイエスを拒絶していたのは誰でしたか。神のひとり子は、彼を拒絶した農夫たち、つまり腐敗したヘロデ派のサドカイ人祭司のところへ来られたのです。彼らは御子を死に至るまで罪に定めました。そして3日目に、捨てられた石は霊的幕屋の隅の頭石として、再びよみがえられました。言い換えるなら、イエスが勝利されたのです。それには痛みと苦しみが伴いましたが、最終的に石が勝ったのです。ルカ20章9-16節は、「悪い農夫のたとえ」ではなく、「拒絶され殺された息子―捨てられた石のたとえ」と呼ばれるべきです。

「捨てられた祭司たち」

このたとえは、腐敗したヘロデ派の祭司こそが、メシアを拒絶した悪い農夫であり、それゆえ彼らのブドウ園、すなわち神殿における権威が取り去られると教えていたのです。ここで登場する農夫は、悪のゆえに退けられたイスラエル民族を表しているのではありません。むしろ、ルカ20章16節と18節は、後のエルサレムとサドカイ人の滅亡を暗示していたのです。というのは、これらの祭司は、紀元70年にエルサレムとともに滅んだからです。神殿の破壊直後から、サドカイ派の生き残りは全くいなくなりました。イスラエルの民は、堕落し腐敗した祭司職と対立していました。また、イエスもその世代の堕落した祭司を拒絶することで、真実なユダヤ人と一致していました。

このような流れから、バリー・デニスンによる「ブドウ園のたとえ」に関するこの解釈は、歴史的・文化的文脈と矛盾せず、主イエスの言わんとしたことを正確に把握していると言えます。

では、私たちにとってこれは何を意味するのか?

歴史的に流布している「神がご自分の契約の民、ユダヤ人を拒絶された」という教えは、明らかに誤りです。ユダヤ人を攻撃するために用いられた根拠を注意深く調べるなら、これらが聖書的に真実ではないことは明らかです。神は次のように約束されました。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(創世12:3)

エレミヤ31章35-37節には次のように書かれています。「主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。『もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、……主の御告げ。……イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない。』主はこう仰せられる。『もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行なったすべての事のために退けよう。…主の御告げ。……』」

これは、神がイスラエルの民と土地について結ばれた契約は、永遠に無条件で続くことを表しています。もちろん、彼らの振る舞い次第で、祝福が左右されるという条件が付きますが、地の所有権については、彼らの行いとは関係なく、無条件なものであり、決して動かされることがありません。

メシア・イエスが地上に来られる以前、神は彼らを守られました。それは彼らが救い主、メシアを生み出すための器として選ばれた民族だったからです。その後も神は、国々の中に散らされた彼らを守り、民族として保ってこられました。それは聖書の預言の成就する時に、主が彼らをイスラエルの地に再び連れ戻すため(イザヤ11:11-12エゼキエル36章イザヤ49章、……その他複数箇所)であり、そのことによって彼らの勝利の王、メシアの到来を、彼らが世に証しするためです。クリスチャンにとっては、イエス再臨の時です。

使徒パウロは、異邦人信者の位置について次のように書いています。「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。…そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ2:11-13)。クリスチャンはユダヤ人をとおしてみことばを手にし、彼らの子孫として来られたメシアによって、偶像礼拝から救い出された者です。それにもかかわらず、クリスチャンは過去2千年間のほとんどを、ユダヤ人を拒絶して過ごしてきました。

パウロは次のように自問自答しています。「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ11:1)。そして彼はローマ15章27節で次のように結んでいます。「異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」

今こそ、新約の著者が書いているところに従い、キリスト教会がその召しを成就するために、神の視点に立ってユダヤ人とイスラエルのために祈る時です。過去2千年間、私たちの間に築かれてきた「隔ての壁」を打ち壊し、ユダヤ人と異邦人を「新しい一人の人」として共に立たせることが神の望みです(エペソ2:11-18)。私はその時が非常に近いことを信じます。ですから今、私たちがその変化を生み出すことができるように、ユダヤ人も異邦人もともに霊とまことをもってイスラエルの神を礼拝するようになる、この新しい関係を結ぶ日に備え、それぞれの準備をしていきましょう。

エルサレムからシャローム

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