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捧げること、そして受けること

BFP編集部 2003年3月

「捧げる」という行為は、通常それほど重要視されていません。しかし、神にとっては、非常に大切なことです。聖書では三千近くもの箇所に、「捧げること」についての記述があります。

神に捧げ物をすることは、主を礼拝することの一部です。また、永遠にわたる御国の経済システムであり、神との持続的な関係の一部であり、世界救済のご計画に属するものなのです。

しかし、捧げることは、それ自体で独立しているものではなく、「受け取る」ということと結びついています。「捧げる」「受け取る」―この二つは一つなのです。神が命じられたとおりに捧げ物をすると、神は物理的、あるいは霊的な形で報いてくださいます。これをとおして、私たちはもう一度、この祝福のサイクルを繰り返すことができます。「捧げる←→受け取る」、このサイクルは、神と私たちの間にある個人的関係、また、神の王国と私たちの間にある関係の一部でもあります。

“捧げると祝福を受ける”―この法則は、まいた種が実って収穫されるのと同じくらい、現実的なものです。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラ6:9)。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(第2コリ9:6-7)

捧げることは、霊的な礼拝の一部であり、生き生きとした霊的生活を送るようになるための鍵です。残念なことに、このサイクルを止めてしまったとき、神とのダイナミックな霊的関係を失い始め、信仰もまた、冷える原因となってしまいます。

1761年製の、ドイツのユダヤ社会で
使われていた銀製の献金箱。
「ひそかな贈り物は怒りを
なだめ……。」(箴言21章14節)

の一節が刻まれている。

マラキ書より……「捧げることは、霊的健康度のバロメーター」

捧げることは、自分の霊的健康度を知るための、バロメーターとなり得ます。

預言者マラキは、当時のイスラエルの民と、民を悪い方向へ導く祭司に対し、深い嘆きをもっていました。民や祭司は、心から主に仕えることをやめ、堕落の道を歩んでいました。彼らはこう叫んでいます。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。」(マラキ3:14)。このように、彼らは神との「捧げる←→受ける」のサイクルから外れてしまいました。

神との関係がぐらついている状況、そして信仰に歩むことに疲れた様子をご覧になり、神は民に対して次のように叫ばれました。「……もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。……わたしの名をさげすむ祭司たち。……あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて……『主の食卓はさげすまれてもよい。』とあなたがたは思っている。あなたがたは、盲の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないのか。足なえや病気のものをささげるのは、悪いことではないのか。」(マラキ1:6-8)

「……人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」(マラキ3:8-9)

神は、「地上の王たちでさえ、この民が捧げるような貢ぎ物は受け付けない」と言っておられます。その貢ぎ物は汚れているだけでなく、心から捧げられたものではないからです。神にとって、それは大きな屈辱でした。「群れのうちに雄の獣がいて、これをささげると誓いながら、損傷のあるのを主にささげるずるい者は、のろわれる。わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。」(マラキ1:14)

無感覚な信仰を癒やす

もし人間が神の立場にあったなら、恐らくそんな恩知らずな被造物は、雷でバーベキューの刑に処していたことでしょう。しかし、神はそのような弱いお方ではなく、人間に大いなるあわれみを示される方です。

マラキ書三章で、神は、民との間に結ばれた契約を守ることを確約し、次のように言われました。「あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。…万軍の主は仰せられる。…わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。」(マラキ3:9-11)

霊的変革をもたらす神の法則とは、「信仰的無感覚」という覆いを打ち破るために、捧げ物をとおして、主から報いを受けるというパターンに戻ることです。神は愛なるお方ですから、ご自分の定めた掟に無理やり人々を従わせるようなことはなさいません。神はご自分の民に、「わたしの掟に従うのなら、あなた方を祝福する」と約束してくださっています。それだけでなく、神の中にとどまることをとおして、繁栄と守り、そして豊かな祝福を私たちに与えると誓約してくださっています。これが、神と私たちの間に永遠に続く、「捧げる←→受ける」の経済関係です。私たちが、自分たちの守るべきことを果たすなら、神は「祝福する」という誓いを確かに実行され、このことをとおして世界は、イスラエルの神に仕えることが、いかに祝福されることになるのかを見ることになるのです。

捧げることは喜びとなり得る

私はこれまで、たくさんの教会を訪問し、献金が捧げられる現場を見てきました。ある教会では、献金のアナウンスが流れると、信徒から自然に喝さいが上がりました。彼らは、献金と捧げ物を捧げることで、主なる神を賛美することが待ちきれない様子でした。結果として、この教会は成長し、栄えています。すばらしい設備、元気なスタッフ、各種プログラムでぎっしり詰まったスケジュール……。それだけではなく、世界のさまざまな宣教活動や地域の貧しい人々を支援するなど、豊かな祝福にあずかっています。この教会の人々は、捧げることが神に対する礼拝であること、また、ビジョンと目的をもって捧げることの大切さを理解していました。

ヘブライ語では、「仕事」と「礼拝」が、同じ一つの単語「アボダー」で表されます。ここから、主を礼拝することが、ビジョンをもつこと、それに対して何らかの行動を起こすことであると理解することができます。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(箴言29:18)。ビジョンなくして主に仕えることは、義務的かつ重荷となり、熱意を失うことにつながります。

私たちは、主に十一献金を捧げるよう教えられています。生きた信仰を保つ上で、果たして、この十一献金、そして捧げ物には、いったいどんな意味があるのでしょうか。

1902年にトルコで製造された、
“献金用杯”(銀製)。
献金の管理を任された人々の
名前が刻まれている。

十分の一の捧げ物

捧げることについて、新旧約両方の聖書に、共通の事柄が載っています。

主から頂いたものの十分の一をお捧げするということは、天の御国の経済法則であり、律法が始まる以前からすでに存在していました。

「『あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼(メルキゼデク)に与えた。」(創世14:20)

神の律法は、十分の一を捧げる概念を繰り返し固く定めています。
「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。……牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。」(レビ27:30、32)

同時に、神は金銭面の捧げ物だけでなく、私たちに託されている才能、また霊的賜物からも、時に応じてお返ししていくことを求めておられます。

供え物

十分の一の捧げ物とともに、「供え物」の重要性を挙げることができます。聖書時代の人々は、今の時代では考えられないほど大きな犠牲を捧げていました。彼らが捧げた品目は以下のとおりです。

  1. 「収入の十分の一」(レビ27:30、32)→年間収入の10%。
  2. 「シュミターの年」→これは、毎年7年ごとに、債権、つまり他人に貸した土地や財産などを返してもらう権利を無効にすることです(申命15:1)。また、この年には畑地のすべてを休閑させなければなりませんでした(出エジ23:11、レビ25:4)。このシュミターの年をとおして、各家族が主に捧げるのは、年間総収入の14・2%に当たります。そればかりか、債権を無効にし、奴隷も解放しなければなりませんでした。
  3. 「落穂拾い」(レビ19:9、23:22)→収穫期には、畑地の隅からは刈り入れをせず、貧しい人々が落穂拾いをできるように残しておきました。これは、収入の5〜10%を捧げていることになります。
  4. 安息日(出エジ23:12)→これは、収入の14.2%を捧げていることになります。
  5. 50年ごとの「ヨベルの年」(レビ25:10-11)→この年には、畑地を休閑地とし、奴隷を解放し、担保として預かっている土地を元の持ち主に返し、債権を無効にします。これは毎年5%ずつを主に捧げていることになります。
  6. 各家畜の初子の雄を選び、主に捧げる。また、各家庭の最初の男子は、主のものとして捧げる(この場合は、長男のために献金を捧げる)(出エジ13:12-13)→難しい換算ですが、おそらく毎年5%ずつを捧げているのと同じことになります。

これを総計すると、何と、年間総収入の60%を主にお捧げしていることになります。

加えて、彼らは主の例祭を守るよう命じられています(レビ23:14)。このため、毎年3頭の動物を犠牲獣として捧げました。また、年間をとおして、数々のさまざまないけにえや供え物の慣習がありました。「和解のためのいけにえ」「罪過のためのいけにえ」「罪のためのいけにえ」「日々の供え物」「主への奉納物」「誓願のための供え物」「進んで捧げる供え物」などです。当時の人にとって、これは多大な重荷でした。

これらの供え物は、主に捧げるものですから、一点の汚れも傷もあってはなりません。祭司たちは、供え物が神に受け入れられるものであるかどうか、捧げられる前に一点一点検査を行いました。捧げ物には大きな犠牲が付き物でした。

当時の子牛や羊一頭は、現代でいうBMWやレクサスといった高級車一台に値しました。神には何でも、とにかく古びた物を捧げることが禁じられていました。マラキ書で神が民に怒られたのも、これを破ったからにほかなりません。神は私たちに最良のものをくださる方ですから、私たちがお返しするときにも、同じように最良のものをお求めになるのです。

金額の大小は関係ありません。何でも犠牲を払い、心から捧げられたものであるなら、それは主にとって価値あるものです。まず、主が何をしてくださったのかを覚え、それに対する応答として、私たちは主の御前に、できる限りの思いを捧げる必要があります。

銅製の献金箱
(イタリア・レジオ、1830年製)。
箱は二つに分離し、ちょうつがい
が付けられていて、鍵が掛けられ
るようになっている。

聖書的な捧げ物は、貧困を緩和する

供え物は、罪の許しを請い、罪の報いを軽くしてもらうために捧げられました。一方、十分の一の捧げ物については、貧困者を助けるために捧げられました。社会の底辺で虐げられている人々―貧しい人々、困窮している人々、やもめ、孤児、病人、虚弱者などを支えるためです。例えば、畑地の隅を収穫しないことで、貧しい人々が刈り取りをすることができました。

古代イスラエルでは、聖書に定められた掟を守る(捧げ物を含めて)ことによって、結果的に、祭司やレビ人を養い、神殿の営みを支え、また必要を抱える貧しい人々の生活を支えることになりました。

主はこう約束されました。「そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。」(申命15:4-6)

もし、掟を守ることをとおして、イスラエルが聖書の理想どおりの国となっていたら、そこの住人は幸せな家庭を営み、産業活動をとおして国中が潤っていたことでしょう。しかし現実には、戦争、税、飢饉、干ばつ、高利貸しの取り立てなど、貧困を生み出す数々の要因が存在しました。

貧しい人々に対する配慮は、旧約の預言者たちが常に掲げていたことの一つであり、新約聖書においてもしかりでした(イザヤ61:1-2、ルカ4:18、14:12-14)。使徒行伝九章三六節に登場する女性、ドルカスは、いつも良い行いをし、貧しい人々を助ける人物として記されています。また、貧困者に金を貸した場合、利息を取ることは禁じられていました(出エジ22:25、レビ25:35-36)。高利貸しや債権者が、借り手をいじめることを規制する律法も存在しました。これは、借り手が支払いできなくなった場合、窮地に陥ることを防ぐためでした。(申命24:10-11、24:6

やもめや孤児に対する配慮もまた、聖書全体を貫くテーマの一つとなっています(ヨブ24:3、9、詩篇94:6、イザヤ10:2)。孤児に対する虐待は、社会が堕落していることの明白なしるしでした。独身の女性や孤児たちにとって、たった独りで自らの生活を支えていく手段はわずかでした。

興味深いことに、ソドムが破壊された原因の一つに、人々が豊かな物質的恩恵を受けていながら、貧しい人々に助けの手を差し伸べなかったということがありました。「だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。」(エゼ16:49-50)

「ツェダカー」……ユダヤ人がもつ慈善の概念

ユダヤ人が慈善について抱く概念は、聖書に基づいています。彼ら自身が、全世界では少数派の存在であったことから、ユダヤ人は、他者、特に共同体の中にいる貧しい人々、やもめ、孤児、病人、虚弱者、高齢者、持参金も持てないほど貧しい花嫁などを助け、葬儀費用を負担するなど、高い水準の慈善システムを構築しました。また、イスラエルの地に住む同胞には、彼らの生活を支援するために援助金が寄せられました。

1876年、ロンドンのイースト・エンドで
ユダヤ人が運営していたスープ・
キッチン(食糧配給所)

この、ユダヤ人の慈善概念をヘブライ語で「ツェダカー」と呼びます。この言葉には「正義」「慈善」の二つの意味があります。ツェダカーは、人が人に与えることができる、最高の贈り物でした。

すべてのユダヤ人には、慈善活動に協力する義務が課せられています。たとえその人が保護される立場にあっても、自分よりさらに貧しい人のために捧げることが求められました(タルムード/ギット:7a)。ラビたちは、人間が生きている世界は、霊的、物質的両方の側面があること、それゆえバランスをもって生きていかなければならないと教えました。慈善は、人間の財産をバランス良く保つための手段であり、神が心配されている貧しい人々を無視して、自分自身のためにあまりにも多く貯蓄するものではないと説きました。

神は備えたもうお方

では、私たちはいかにして、こうした数々の捧げ物を主に捧げ、なおかつ他の人々に助けの手を差し伸べることができるのでしょうか。

ここで出てくるのは、神の経済がいかに美しいものであるかということです。神は私たちにすべてをお与えくださる方ですから(第2コリ9:10)、私たちは信仰と賛美をもって、その与えられた分から、量に応じて、献身的に、かつ喜びながら捧げ物をします(第2コリ9:7)。そして、それは無意味に地に落ちることは絶対にありません。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

神の備えについて、私自身も多くの体験をしてきました。神は、私たちのすべての必要を必ず満たしてくださいます。しかしそれには、神が私たちとの間に結ばれた約束を果たしてくださるお方であると、信じる必要があります。私たちはただ、主が捧げるように命じられたことに従うのみです。特に、そうするよう主が個人的に語られたときはなおさらです。あなたの教会が、その第一歩です。

新約聖書をとおして、私たちは次のように教えられています。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」(マタイ6:19)

人から受けるには、まず自分が最初に与える者とならなければなりません。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)

パウロはエルサレムへ旅立つとき、いつも現地の兄弟姉妹に捧げる献金を携えていきました。ローマ書15章27節で、彼は異邦人(クリスチャン)にこう語っています。「彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」

まず、少し時間をとり、主と自分の間に成り立つ「捧げる←→受ける」の関係について、主に伺いましょう。私たちは本当に、十一献金、捧げ物、時間と才能をとおして、主を礼拝しているでしょうか。主から受けている分け前分以上に自分のために蓄えることで、祝福の流れを断ち切ってはいないでしょうか。神とのギブ・アンド・テイクの関係からくる喜びを見失ってはいないでしょうか。豊かに捧げるようにと神に示され、それに従ったとき、他の人、また私たち自身に起こる神の奇跡の御業を経験したことはあるでしょうか。

イスラエルの地から示される一つの例を挙げて、このティーチングを終わらせていただきます。

イスラエルには、ガリラヤ湖と死海という二つの湖があります。この二つの湖は、与えることと受けることに関する神の法則を表しています。死海は世界で一番低い所にある湖ですから、ひたすら流れてくる水を受けるだけで、そこから水を流すことはしません。塩分が大変濃いので、そこでは生物が住むことができません。また、水位は年々減っています。少しずつ死に近づいている湖です。

一方、ガリラヤ湖には水が豊かに注ぎ込み、さらにここからたくさんの水が流れていきます。ここの水はいつも新鮮で、ここからイスラエル全体の畑へ水が供給されていき、果物や野菜が豊富に実ります。イスラエルの大地と人々の両方に命を与えているのです。ガリラヤ湖の水は常に淡水でいつも満たされています。ここは生きた湖です。受け取るばかりで、一見豊かそうでも、実は死海のようになってはいませんか。豊かに水を注ぎ、そして豊かに受け、周囲に命を与え、なおかつ自分自身もいつも新鮮で、主にあって満たされているような、ガリラヤ湖のような存在になろうではありませんか。

エルサレムからシャローム

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