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ティーチングレター

パリサイ人 -モーセの座を占めていた人々- Part-2

BFP編集部 2003年2月

先月は、新約時代のイスラエルに大きな影響力を与えた、『パリサイ人』について、その性質と教理を中心に学びました。今月はいよいよ、主イエスと彼らの関係について、また、現代の私たちにも警告を与える真理について学んでまいります。

良いパリサイ人と悪いパリサイ人

新約時代のパリサイ人は、イスラエル人に実生活における律法の実践を勧めました。しかし、マタイ23章の七つの嘆きの言葉をとおして、イエスが彼らを非難されています。なぜイエスはパリサイ人をしかられたのでしょう。それは、彼らが口先では信心深げな言葉を述べながら、自らの行動ではそれを十分に実践していない「自己義認の偽善」を犯していたからです。

興味深いことに、イエス時代の後に編さんされた『エルサレム・タルムード(聖書と並ぶユダヤ教の教典)』でも、七種類のパリサイ人を描き出すことで、パリサイ人が批判されています。そのうちの五種類は偽善者で、残りの二種類は良いパリサイ人でした。

  1. 「記章パリサイ人」自分の善行を、まるで記章を着けているように人々に見せびらかすパリサイ人。
  2. 「顕示パリサイ人」ちょっとした善行でも、見せびらかすために人々の前で時間を掛けて行うパリサイ人。
  3. 「盲目パリサイ人」女性を見ないように、目を閉じているために、壁にぶつかってけがをするパリサイ人。
  4. 「うつむきパリサイ人」誘惑が視界に入らないように首を下げ、深くうつむいたまま外を歩くパリサイ人。
  5. 「検算パリサイ人」自分の過ちを埋め合わせられるかどうかと、いつも自分の善行を数え上げているパリサイ人。

一方、二種類の良いパリサイ人は、

  1. ヨブのような真の義人「神を恐れるパリサイ人」と、
  2. アブラハムのように神への真の愛をもった「神を愛するパリサイ人」となっています。(タルムード・Moseley110)

新約聖書や他のユダヤ文献にも、心から神を敬い、正直で御心にかなった歩みをしているパリサイ人が描かれています。ニコデモ(ヨハネ3:1)とアリマタヤのヨセフはイエスの教えを信じ、熱心に従おうとしました(ヨハネ7:50、19:39、マルコ15:43)。使徒行伝五章では、律法学者ガマリエルが、「クリスチャンたちに手を出してはならない」と、イエスの弟子たちの処遇について、議会で人々を説き伏せています。このガマリエルは尊敬されていたパリサイ人で、パウロの師でもありました。

そのほか、少なくとも一度、あるパリサイ人がイエスに、「命が狙われている」と警告していますし(ルカ13:31)、他の場面でも、丁重な態度を取ったパリサイ人がいたことがわかります(ルカ7::36、11:37、14:1、タルムードMoseley111)。そして、後に使徒パウロとして知られ、新約聖書で最も多くの書簡を書いたタルソ出身のサウルもまた、パリサイ人でした(使徒23:6)。

イエスとパリサイ人

共通点

イエスの教えは、当時存在したユダヤ教の中でも、パリサイ人の教え、特に有名なラビ(ユダヤ教の教師)、ヒレルの教えに最も近いものでした。パリサイ派の内部では、「ラビ・ヒレル門下」と「ラビ・シャマイ門下」との間で、意見の相違による争いが絶えませんでした。非常に保守的で厳格なラビ・シャマイに対して、ラビ・ヒレルは大変寛容で、あわれみに基づいて律法を解釈しました。ヒレルはイエスよりもおよそ30歳年上でした。彼は律法を要約し、「自分にしてもらいたくないことは、他人にもしない。これが律法であり、後の残りは注釈である」と述べました。これはイエスの黄金律として知られる、あの有名な「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)に非常に近い言葉です。

相違点

相違点その1―相対する言葉と行い

ある面で、パリサイ派の教義はイエスの教えに非常に近く、そのほとんどがキリスト教精神と矛盾していません。それでは、イエスがパリサイ派に投げ掛けている痛烈な言葉は、どう解釈すればよいのでしょう。主は彼らの偽善と、そのもったいぶった姿勢を責めておられます。そして、「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」(マタイ23:33)という激しい怒りの叫びで締めくくられる、七つの嘆きの言葉を浴びせています。

実は、このイエスの「嘆き」は、パリサイ派の教えそのものではなく、パリサイ人の行いを指していました。イエスは彼らの行いについて、「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣の房を長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」(マタイ23:5-7)と指摘しています。経札(聖句箱)とは、ユダヤ人の成人男性が額と腕に着用した小箱で、中にみことばが入っています。出エジプト記13章9、16節と、民数記15章37節から41節によれば、神ご自身が、これらの聖句箱の着用や、衣の四隅に房を付けることを、命じておられます。しかし、彼らの中には、これらの宗教的象徴を、自分の立派さを人に示すために着用する者がいたのです。ミシュナー(口伝律法を編さんしたユダヤ教の教典)には、「ある者たちは、仰々しく大きな房を着け、地面に引きずって歩くほどだった」と記されています。

相違点その2―口伝律法への傾倒

イエスがパリサイ人を批判する場合、それは『記述律法(聖書)』についてではなく、パリサイ派が聖書と同等に扱っている『口伝律法(伝承)』についてでした。イエスはパリサイ人に対して、聖書以上に口伝律法を重んじていることを指摘しました(マタイ23:16、22、23)。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコ7:9、マタイ15:3)。これら「ユダヤ教の言い伝え」は、神のみことばと置き換えられ、時には聖書本来の意味からかけ離れてしまうこともありました。

イエスは人々に「彼ら(律法学者とパリサイ人)があなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。」(マタイ23:3)と、モーセの座を占めるパリサイ人が、真理のみことばについて語る、正当な権威を認めています。しかしパリサイ人は、伝統的な口伝律法を軽減したり、聖書のみことばと妥協させたりはしませんでした。口伝律法として人間的に作り出されたおきては、さして重要でないにもかかわらず、多岐にわたり、綿密に作られていました。結果として、守るのがあまりにも難しいため、これらのおきては、人々にとって不必要な重荷となりました(マタイ23:4)。パリサイ人は、伝承や言い伝えを神のみことばと同列化、いやそれ以上としたことにより、自らを「目の見えない人を導く、目の見えない教師」にしてしまったのです(マタイ15:14、23:16、17、19、24、26)。

パリサイ派は全体として、外面的なことにこだわりました。したがって、律法に込められている、より重要な部分を無視ることになり(マタイ23:23)、みことばのもつ中心的な意味を変えてしまうことになったのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサム16:7)。イエスは彼らに対して「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」(マルコ7:6─7、イザヤ29:13)と、イザヤ書のみことばを引用しています。外面的な体裁を強調しても、心が伴っていなければ、「杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱい」であり、また「その外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいな白く塗った墓のようなものです。」(マタイ23:25、27)とイエスは言いました。結論はこうです。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ23:26)

この教えから学ぶこと

クリスチャンの受け継いだ遺産

パリサイ主義は、人間が神の前に正しく生活することを意図する上では、非常に良いものでした。事実、その教えの大部分は健全で、イエスの非難を受けるものではありませんでした。実際、私たちクリスチャンは、パリサイ人から感謝するべきいくつもの恩恵を受けています。第一に、私たちが親しんでいるヘブライ聖書(旧約)を大切に守り伝えてきたのは、ほかならぬパリサイ人でした。また、今日の教会に伝わる数々の主要な教理も、元来、パリサイ派が定式化したのを取り入れたものです。シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で形作られた組織のあり方が、パリサイ派をとおして教会にも受け継がれています。さらに、イスラエルの国家を守り保持しようと、パリサイ派は熱心に戦いました。彼らは、その教えを外部に伝えるために、「宣教」を始めた最初の人々であり、宣教師も派遣しました。また、大きな期待をもってメシアを待ち望みました。そして「イェシュア・ハマシア」(メシアなるイエス)の最初の信者たち、初代教会に集った人々の中には、パリサイ派出身の人々が多数含まれていたのです。(タルムード・Moseley117)

パリサイ人のニコデモは、夜イエスを
訪ね、彼のメッセージについて質問した。

イスラエルへの深い愛

興味深いことに、イエスの教えは他のどの派よりも、パリサイ派の教えに近いものでした。だからこそ、パリサイ人に対してあれほど激しい言葉を浴びせられたのでしょう。さらに、「彼らはモーセの座を占めています」と言うことで、その教えを肯定されました。ですから、イエスが非難されたのは、あくまで彼らの行動だったと言うことができるでしょう。

イエスがパリサイ人に対してあれほど怒りと苦悩を表されたのは、彼らが正しい教えをもっていながら、道を踏み誤っていたためだと一部の神学者は信じています。彼らは神の真理に近づいていたにもかかわらず、的外れであったため、イエスをひどく憤らせたのです。主は心の底から、ご自分の民イスラエルが彼の下に来る姿を見たいと切望しておられました。しかし、当のイスラエルの民は、メシアを待ち望んでいながら、律法を完成された方、「ことばが人となった」このお方を、主と認め損ねてしまったのです。

この、非常に辛らつな表現で書かれたマタイ伝23章の結びで、イエスはオリーブ山の上から次のように叫んでおられます。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23:37)。主は、こうしてご自分の民への愛とあわれみを示しておられたのです。

己を捨て、神の義を着る

イエスはパリサイ人や同胞のユダヤ人を、決して拒絶されませんでした。むしろ、神と正しい関係をもち、心の刷新を得なさいというメッセージを伝えようとしておられたのです。頭の知識と宗教的義務から律法を守るのではなく、心の刷新により、神への愛によってみことばを自然に実践していくだろう、と語っておられたのです。それは行いによるのではなく、信仰による実践です(エペソ2:8-9)。パリサイ人と同様、私たちも、神と個人的な関係を結ぶことがなければ、どんなに努力しようとも、律法主義に陥り、神の栄光を現すことはできません。これは、この聖書箇所から得られる、最も重要なポイントです。

これらのみことばを、自分と無関係な他人―この場合、律法学者とパリサイ人―を責める言葉として読むのをやめましょう。そして、私たちとの関係について、主が疑問を投げ掛けていらっしゃる言葉として考えてみましょう。

鏡の中の自分を見てみましょう。自分の中に、律法学者やパリサイ人と同じ欠点が全くないと言えるでしょうか。自分自身の中からすべてのプライドと、自己中心を除去できているでしょうか。神のみことばを、宗教的な義務感から守っていないでしょうか。主との親密な個人的関係をもっていることの証しとして、また、主と他の人々への愛を表すものとして、みことばを自然に守ることができているでしょうか。他人には口で説教をしながら、自分ではぼろを出しているようなことはないでしょうか。その歩みの中で、偽善的になっていることがないと言えるでしょうか。

私たちは、ただ外面的に神の義を身にまとうことはできません。それは神と個人的に交わることによって、私たちの心から生まれるものです。「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。……それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」(ローマ3:22-24、27)

パリサイ派の教えは、現代の
ユダヤ教に引き継がれている。

自分を正しいとみなすことは誰もできません。イザヤは「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)と言っています。私たちは皆、自分の罪を認め、それを放棄し、十字架の贖いの御業を信仰によって受け入れることをとおしてのみ、自らの義を得、正しい者とされるのです。正いことを成したゆえ、正しい者とされるのではありません。「神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第2コリ5:20-21)

信仰と行いを一致させる

一方ヤコブは次のように指摘しています。「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:17)「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)。これは相対することを言っているのではありません。もし心の中に本物の信仰をもち、神と親密な関係をもつなら、クリスチャンは人生に豊かな実を結ぶであろう、と宣言しているのです。パウロはガラテヤの教会にこう書き送っています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:22-25)

信仰の歩みが、主とともにあるものとして完全に現されるには、まだまだ遠く及ばないことを私は知っています。それは一生かかってたどる過程なのです。このメッセージを書いている間も、主イエスのパリサイ人に対する言葉が、私の心に鋭く突き刺さりました。自分がまだ発展途上の者であって、自らの心や動機の中にあるプライド、自己正当化、偽善性といった要素について、日々吟味しなければならないことを、この学びをとおしてもう一度悟らされました。他人を指さしてその罪を挙げ連ねるのはたやすいことですが、自分自身についてはなかなか見えにくいものです。主イエスだけ、自ら一度も罪を犯したことがないこのお方だけが、パリサイ人を、あるいは他の誰かを裁くことができるのです。自分だけが正しい者であるかのように他人を裁くのではなく、むしろ常に自分自身の生き方を正していく責任が、私たちに委ねられています。イエスのパリサイ人へのメッセージは、クリスチャン自身が自分の心と生き方を義の鏡に映して、真剣に襟を正すべき箇所なのです。私たちの言葉と行いをとおして神の義が輝きいでるよう、それぞれ個人的な「霊的ハウスクリーニング」に着手しようではありませんか。

エルサレムからシャローム

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