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ティーチングレター

パリサイ人 -モーセの座を占めていた人々- Part-1

BFP編集部 2003年1月

新約聖書に描かれている、パリサイ派の人々による、イエスヘの対立感情は、キリスト教界でパリサイ派が悪く言われる原因となってきました。事実、「律法学者やパリサイ人についてどう思いますか?」と尋ねれば、きっとほとんどのクリスチャンが、彼らのどこが間違っているかについて、否定的な内容の話を長々と聞かせてくれることでしょう。聖書には数多くの対決場面が書かれていますが、マタイ23章には、イエスが彼らについて語った7つの嘆きの言葉が書かれています。『ウェブスター新大学辞書』にも、「パリサイ主義」を、「偽善的、あるいは独善的であること」と定義されています。しかし、パリサイ人側にも言いたいことがずいぶんあったことでしょう。

イエスは「律法学者、パリサイ人は、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:2-3)と自分と彼らの働きとは関係がないと表明し始めています。この聖句に続いて、イエスは7つの嘆きの言葉を語っておられますが、その一つひとつで、パリサイ人の教えている律法そのものではなく、それらの律法を実践する上での、彼らの過ちを指摘しています。

パリサイ人の考え方を掘り下げていく前に、まずこの集団について、彼らがどういう人々で、何を信じていたのかを学んでいきましょう。いずれにせよ、新約聖書にこれほど頻繁に登場する人々について、私たちはもっと知る必要があります。

パリサイ派はどういうグループか?

そのルーツ

パリサイという語は、ヘブル語の語根「パラシュ」(分けられる)から出た、「分離された人々」を意味する「ペルシーム」からきています。彼らは自分たちを、異邦人世界から(ガラテヤ2:12参照)、そしてこの世に妥協して律法を守らないユダヤ人からも分離された者と見なしていました。宗教的純粋性を保つために、サドカイ派も含め、自分たちと考え方が違う人々との接触を極力避けようと努めました。特にサドカイ派は、当時、最高裁判所でもあったユダヤ最高議会『サンヘドリン』における対抗勢力で、聖書解釈の違いから論争が絶えませんでした。

一方この動詞には「分ける」あるいは「解釈する」という意味もあります。ある学者たちは、後代の解釈にかかわらず、パリサイという言葉は、もともと「通訳」という意味があり、彼らの聖書理解と解釈における優秀な能力を言い表していたと信じています。1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、幾度か「パリサイ派はその優れた律法解釈で知られるようになった」と言及しています。(『ヨセフス自伝』38章、『ユダヤ戦記』第二巻から)

パリサイ運動は、紀元前2世紀の「ハシディーム」と呼ばれるグループにそのルーツをたどることができます。ハシディームとは、「敬虔な人々」あるいは「聖徒たち」を意味し、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人の子孫に、律法を崇め敬う心を保たせようとした人々です。当時ユダヤを支配していたギリシヤ系のセレウコス朝は、ユダヤ人に聖書的信仰を捨てさせ、ヘレニズム化するために、あらゆる手段を用いました。こうした圧力の中、ハシデイームの人々は、神がイスラエルと結ばれた契約を信じて忠誠心に燃え、人々を教え導こうとしました。

最終的には、時の王であったアンティオカス・エピファネスが、厳格な反ユダヤ法を強制的に施行したことにより、マカベア一族(ハスモン家)が立ち上がってセレウコス政権を倒し、ユダヤの地に、再びユダヤ人による統治を樹立したのです(くわしくは先月号のティーチング・レター『ハヌカー』を参照)。ハシディームは、マカベア一族によるクーデターに賛同していました。しかし、彼らの関心は政治よりも国民の宗教生活の方面に注がれていたため、マカベア家の政治を基盤とするやり方から離れていきました。

パリサイ派の誕生

ハシディーム運動から、次々とさまざまな「派」が生み出されていきました。その一つがパリサイ派でした。このグループは、新約時代のハシディーム運動の正統な後継者と言ってもよいでしょう。その他にもサドカイ派、エッセネ派などがあり、それぞれにはっきりと異なる教理をもっていました。そのため、律法解釈の違いから、しばしば対立し合っていました。

パリサイ派は主として中産階級
の人々から成り立っていた。

パリサイ派の構成員は主に中産階級出身で、国民の大多数を占める、自作農、ビジネスマン、商人、交易に携わる人々などでした。このことから、商業にかかわる複雑な問題について、さまざまな律法的解釈がなされ、そうした取り決めはタルムード(ユダヤ教の聖典、新約時代より後に成立)にも多く取り入れられました。一般のパリサイ人は律法解釈の正式な教育を受けていなかったので、律法学者(その大多数はパリサイ派だった)の指導を仰がねばなりませんでした。祭司やレビ人の中にも、多くのパリサイ派の人が含まれていました。

共同体―力バラー

「カバラー」と呼ばれる共同体がありますが、ここは会員になって訓練を受けることが求められる閉鎖的な社会です。この共同体により、厳格なパリサイ主義が栄えました。カバラーの会員は、「編み合わされた」あるいは「仲間」を意味する「カバー」と呼ばれました。このような宗教的共同体が、エルサレムの周辺にいくつか存在していました。カバラーへの入会規定は非常に厳しく、志願者はまず、十分の一の捧げ物や儀礼、食事などに関する規定等を含む、パリサイ派の律法解釈に完全に従うことに同意しなければなりません。いったん受け入れられると、穏健派のラビ・ヒレル門下では1カ月間、厳格なラビ・シャマイ門下では最長1年間という、仮採用期間(仮免状態)を過ごさねばなりませんでした。この期間、志願者は、この誓いを本当に守るかどうか、厳しくかつ集中的に観察されるのです。この仮採用期間をうまくパスできれば、パリサイ派の正式会員としての資格が与えられます。

それぞれのカバラーに、律法解釈の専門家である律法学者が立てられ、その統率下で共同体が組織されました。会員同士がお互いを吟味し、励まし合うだけでなく、安息目の夕ベなどに、定期的に組まれた集会に参加する機会も与えられました。これらの集会には、トーラー(モーセ五書=律法の書)の学びや食事をともにすることも含まれていました。

パリサイ派の影響は、これらの閉ざされた共同体の内部にとどまらず、シナゴーグでの活動、特にトーラーを教えること、公の慈善活動の監督など、広く外部にまで及んでいました。つまり、パリサイ主義はイスラエル国民に広く影響を与え、民衆の多くは正式会員でなくても、パリサイ派の考え方に傾倒していたのです。

サドカイ派が民衆とは疎遠な貴族階級で占められていたのに対し、主に中産階級で構成されていたパリサイ派は、イスラエルの大衆に人気がありました。また神殿で行われる祭儀での務めを果たすことや、政治指導者の好意を集めることに終始していたサドカイ派と比べ、パリサイ派は日常生活の中でいかに律法を尊守すべきか、人々を教え導くことに焦点を当てていました。

その他のグループ

イエスの時代、イスラエル社会に強い影響力をもっていた主なグループは、パリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党、熱心党、エッセネ派、そして征服者であるローマから遣わされた人々でした。最初に挙げた二派については、後で詳しく学ぶことにして、まずはその他のグループについてざっと見ていきましょう。

ヘロデ党は、ヘロデ王とローマ寄りの立場を支持する、ローマに同化したユダヤ人のグループで、宗教よりも政治に熱心な人々でした。

熱心党は、ローマの圧政からイスラエルを解放することを目指す武装組織で、神以外のいかなる政府や権力にも、屈しない人々でした。後に、ローマに対して反乱を起こした時には、熱心党は、ローマの側に付いた他のユダヤ人と戦いました。彼らはそれほどまでにローマを嫌悪していたのです。

エッセネ派は非常に排他的なグループで、外界から隔絶されたコミュニティーを作って生活していました。彼らは、20世紀に死海沿岸北部のクムラン洞窟で発見された死海写本の作者として良く知られています。一部の聖書学者は、バプテスマのヨハネはこのグループの出身か、少なくとも大きな影響を受けていたと考えています。

最後に挙げたグループ、ローマ人は、よそ者の征服者たちで、全くの異教徒でした。彼らはユダヤ人の宗教心、愛国心を抑圧し、帝国への忠誠を捧げるよう干渉し続けました。

口伝律法の誤り

パリサイ派のもつ特徴を挙げよ、といわれるなら、まず彼らの律法に対する熱心さに目が行きがちです。しかし、新約時代には、そのくらいの熱心さはどの宗派にとっても普通でした。むしろ彼らの特徴として第一に挙げられるべきは、聖書と同様に『口伝律法』を重んじた点です。

口伝律法とは、その名のとおり、世代から世代へ、口で伝承されてきた掟です。この律法はバビロン捕囚の間に起こり、何世紀もかけて作り上げられてきました。これは人々が神の御前で、いかに律法を守って正しく生活すべきかを教える、暗誦する形の注解でした。にもかかわらず、パリサイ派は口伝律法が神からモーセに伝えられ、先祖代々受け継がれてきたもので、聖書の律法そのものに匹敵し、同等の権威と重要性をもつものだと誤って教えていたのです。(参照/マタイ15:2-3、マルコ7:8-13、ガラテヤ1:14)

パリサイ人は、記述・口伝律法両方について、文字どおり従うようにと、厳しく人々を戒めました。彼らは品行方正で熱心で、自己否定的でしたが、一方で偽善的でもありました(ルカ18:9)。そして非常に独善的過ぎるため、自分自身の不完全さや罪の意識に欠けていました。(ルカ7:39)

■パリサイ人の信仰

イエスはパリサイ人を避けて
いたわけではなく、実際には
お互いに影響を与え合っていた。
イエスの33年の公生涯の記録
である福音書にはあらゆる
タイプのパリサイ人が登場する。

神観

パリサイ人は神を、「あらゆる知恵と知識に満ち、完全に義なる方であり、あわれみに富む、無限のカをもった霊的存在」と見ていました。また、「神は、ご自分の示される道を歩み、正義を行い、親切を施し、愛することを人間に求めておられる。神は人に、善悪の選択をする力を授け、良い衝動と悪い衝動を併せ持つ存在として創造し、善を行うように勧告している。さらに、トーラー(律法)は、人間が、己に対する神のご計画を知る助けとして、ご自身が与えた道しるべである」と教えていました。(『エンサイクロペディア・ジュダイカ』13巻366項)

礼拝者が通常サイズの聖句箱を
着けて神殿で祈りを捧げることは、
とりわけこれ見よがしな行為では
なかった。

死者の復活と超自然

パリサイ人は死者の復活と永遠の命を信じ、またどちらかと言えば、詳細な天使や悪霊の階級組織の存在を信じていました。さらに、彼らはイスラエルを回復するメシアの来臨を期待していました。ローマによる邪悪な政治制度が消え去り、栄光に満ちた正義の王国が、新しく据えられる日を待ち望んでいました。そして自分たちが熱心に律法を守ることが、メシアの到来の助けとなることを信じていました。

自由意志と神の審判

人間の意志については、自由意志も神の主権も、どちらかがどちらかを上回ることは不可能であるという中庸の立場をとっていました。歴史家ヨセフスは「彼らは、あらゆることは神の摂理によってもたらされると仮定しつつ、それでも何事かを遂行しようとする人間の意思は、神によって奪われず、人間に決定権が委ねられていると考えている」と言っています(『ユダヤ古代史』第8巻i3)。世のすべての物事は、神によって定められているが、人には善か愚かのどちらかを選択する自由(責任)が与えられていると信じていました。人間の行動に対する責任については、復活した後、それまでの行いに従って報いが与えられるという、神の審判に関する教理を生み出しました。

人道的見地

パリサイ人は、人間は平等であるという考え方を支持し、民主主義を擁護しました。貴族階級による政治支配に批判的であったことが、パリサイ派が民衆の人気を集めた主な理由で、彼らをサドカイ派の対抗勢力としてのし上げる結果となりました。彼らは虐げられた人々の立場に立ってみことばを解釈し、祭司階級に限らず、一般市民でも正しい生活を送ることができるという、大きな希望を民衆に与えました。また、寛容さを尊重し、平和を愛する人々でした。使徒行伝5章17節から41節を読んでみてください。使徒たちが最高議会(サンヘドリン)で殺されそうになった時、ガマリエル(パリサイ派)が寛容な態度を示し、彼の説得より使徒たちが釈放されたのです。パリサイ人の教えは、神学よりもむしろ道徳倫理に重点が置かれていました。例えば彼らは、単にみことばを学び論じるだけでなく、それを「行う」ことにより関心を示していたのです。

着衣の四隅の房(ツィツィヨット)
をわざと大きくして目立たせ、
四つ角に立って人々に聞こ
えるように祈るパリサイ人。

シナゴーグ礼拝

パリサイ人は、神があらゆる場所に偏在されるので、神殿だけでなく、どこでも礼拝することができ、そしてその礼拝とは神殿で犠牲を捧げることだけではないと信じていました。神殿以外の場所で礼拝し、学び、祈る場所として、シナゴーグが発達していきました。また、シナゴーグは、人々の生活の中心の場ともなっていきました。このことも、エルサレムの神殿で権勢を誇っていたサドカイ派の反目を買うことになりました。紀元70年に神殿がローマによって破壊された後は、シナゴーグを中心に生活することが、ユダヤ人にとって非常に重要なこととなりました。

対照的に、サドカイ派は貴族階級によって構成され、民衆とかかわりをもっていませんでした。彼らの活動範囲はほとんど神殿の周囲に限定されていました。彼らは天使や他の霊的存在、あらゆる奇跡、そして特に死者の復活を否定していました。彼らは当時の宗教的合理主義者であり(マルコ12:18-23、使徒23:8)、サンヘドリンと祭司職の中という小さな世界に閉じこもっていました。また、神は人間のささいな日常になど全く気にも留めず、興味ももっていないと信じていました。彼らの教理は何に対しても否定的で、超自然的な存在、奇跡を信じない人々でした。そして、口伝律法ではなく、記述律法のみを擁護しました。

パリサイ派は保守的であると同時に進歩的でもありました。伝統を擁護しつつ、現代的な社会のあり方を取り入れようともしました。彼らは古いしきたりを新しい状況に適応させることに優れていました。パリサイ主義は、常に国民の多数派の必要に柔軟に対応しつつ、しかしその信仰の基本的な原則には真実であり続けながら、変化する時代や状況についていくことができたのです。

サドカイ派は神殿との結びつきが最も強く、適応力や進歩性に全く欠けていました。そのため紀元70年に神殿が破壊され、第二次ユダヤ反乱(紀元132-135年)の後に、神殿再建の希望が絶たれると、パリサイ派がユダヤ教で最も大きな影響力をもつようになりました。口伝律法は、神殿のない所でも、神の御前でいかに日々の生活を送るべきか、の教えであったため、ユダヤ人がイスラエルだけでなく、世界中に散らばっていった、1世紀以降の状況に対応することができました。パリサイ主義がその後のユダヤ教の基礎となったのです。

こうして、現代に至るユダヤ教の形体の、生みの親となったパリサイ人たちは、紀元200年ごろ、口伝律法を「ミシュナー」として書き表し、法典として編集しました。このミシュナーには、律法で命じられていることをいかに行うかが説明されています。これは神殿崩壊後、今日まで生き残っている、ラビ中心のユダヤ教を作り出したパリサイ主義の勝利の証しです。

今月は、パリサイ人に関する学習の前半として、このグループの成り立ちと教理について学びました。来月はいよいよ、彼らをとおして、主イエスがなんと教えられているのかについて学んでまいります。ご期待ください。

エルサレムからシャローム

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