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ティーチングレター

神の御顔 -「顔」に隠されたユダヤ的な意味-

BFP編集部 2002年11月

聖書の記者たちは神のご人格や性質を描写するとき、「神の御顔」「主の御腕」「神の御手」というように神の身体の部分をしばしば用いました。このような表現は、正確には何を意味するのでしょうか。

以前このティーチング・レターで、聖書の記者たちのユダヤ的な思考方法と、現代人のギリシャ的な思考方法との違いについてお話ししました。現代に生きる人間がギリシャ的思考方法をもつ理由は、私たちの教育システムが古代ギリシャのものをモデルとして作られているからです。ある「物体」について考えるとき、ギリシャ的思考は“それが何であるか”という、“形”に対してより強い関心を抱きます。しかし、ユダヤ的思考では、その物体の形よりも、“それが何をするのか”という、その物体がもつ“機能”により関心をもちます。

ですから、聖書を読むとき、その中で使われている言葉や概念が、その時代にどのような意味をもっていたか、当時のユダヤ人たちの思考がどのようなものであったかを十分に知る必要があります。

今回は、多くの箇所で用いられている「神の御顔」という言葉に注目していきたいと思います。ギリシャ的思考における文字どおりの“顔”が意味するものは、単に「目や鼻、口から成っているもの」です。しかし、“それが何を成すのか”ということを考慮しながら、古代の歴史の背景において“顔”がどのように用いられたかを考えていきましょう。

主が御顔をあなたに照らされますように

多くの教会やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の礼拝の最後で、しばしば繰り返されている『アロンの祝祷』では、“神の御顔”という言葉が、頻繁に繰り返されています(民数6:24-26)。この祝祷では、「祝福を受ける者の上に、神が“御顔”を照らしてくださるように」と祈ります。

「主が御顔をあなたに照らされますように」というフレーズは、ユダヤ的な表現です。これには「あなたの方に振り向き、再び注意を払う」という意味があります。しかし、なぜ他の部分ではなく“御顔”なのでしょうか。聖書では“顔”というイメージをどのように用いているのでしよう。

“顔”はその人がだれであるかを示します。顔を見て初めて、だれであるかがはっきりとわかります。ときには後ろ姿や髪型、服装や歩き方などで判断することができますが、本当にだれであるかを知るのは、その人があなたの方を振り向いたときです。一卵性双生児の場合、顔を見たとしても難しいでしょう。しかし、注意深く見比べるなら見分けられます。なぜなら、内側にあるものが顔に映し出されるからです。顔は人を映し出し、人を表すのです。

顔つきは、私たちがどのような者であるかということに関係し、私たちの感情、ムード、性質など、内面で起こっていることを反映します。箴言には「心に喜びがあれば顔色を良くする。」(15:13)とあり、創世記には「カインはひどく怒り、顔を伏せた。」(4:5)とあります。

顔(表情)によって、その人の心に何が起こっているかがよくわかります。幸せなときにはその人の顔は輝き、悪いことをしたときにはこわばった表情になります。カッとなったり、怒りを表した顔もあれば、悪巧みのない内面の無垢な心を表す優しい顔もあります。「あなたの顔を上げることができ」(ヨブ11:15)という聖書のみことばは、隠し事がなく恥や悪巧みのないことを示しています。

御顔を隠されない神

一方、聖書は“顔を隠す”ことについても語っています。それは恥によるものであったり(罪人の場合)、嫌悪感からであったり(罪の存在に耐えられない神の場合)しますが、だれかに背を向けることを意味します。自分の罪が神を遠ざけていることを知った詩篇の記者はこう言っています。「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。」(詩篇27:9)

また、圧制者から苦しめられている詩篇の記者は、神の助けを懇願しながらこう言いました。「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(詩篇13:1)

さらに詩篇10篇11節では、貧しく愚かな者を虐げる悪者たちは「神は自分たちのことを見てはいない」と思っていると書かれています。「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(詩篇10:11)。主イエスがエルサレムヘ行こうとして「御顔をまっすぐ向けられ」たとき、その決意は明らかでした(ルカ9:51)。また、神が人々から御顔を背けられるとき、災いが来るのは確かなことでした(エレミヤ44:11)。

また、“顔を上げる”という表現がありますが、これは見上げることです。神はしばしば「顔を上げなさい。下を向いてはいけません。まっすぐに私を見なさい」と言われます。ヨブに対して神は言われました。「今、起き上がって私を見なさい。あなたはわたしをののしってきました。あなたはわたしと話すことを避けてきました。さあ、今、わたしと話しなさい。わたしを見なさい」と。神はヨブの何を見たかったのでしょうか。私たちの内面で何が起こっているかを知るために、一人ひとりの顔を見るようにしてヨブの顔を見たかったのです。

神は、私たちが「神の御心を誤って理解しないこと」、また「神の心の中をまっすぐに見ること」を願われました。それゆえに、神は私たちに“御顔”を表す決心をされたのです。神はその御顔を、そして神の御心の深みとその思いを、私たちから“隠されない”のです。

◆主が御顔をあなたに向けられますように

アロンの祝祷で着目すべきもう一つの表現は、「主が御顔をあなたに向けられますように」というものです。“主が御顔を向けられる”という言葉には、主が御顔または体を私たちの方に向けられるというイメージがありますが、この場合は神の平安、神の「シャローム」を与えるという意味です。

聖書的な用語において、顔を求めるということは謁見を求めることを意味します(詩篇104)。王は家臣に「王の面前」に近づくことを許し、謁見を許すことで家臣に対する好意を示し、一方、顔を「隠す」ことで、彼らに対する王の好意がないことを表したのです(詩篇13:1)。古代エジプトでは、パロの面前に連れてこられた家臣は、王の口から直接許しの言葉が与えられないかぎり、王の顔を見ることさえできませんでした。また、王座に着いている王が、自分の顔を見上げている家臣を見下ろしたのであって、家臣が王を見下ろすことはあり得なかったのです。

ゆえに、この「主が御顔をあなたに向けられますように」というフレーズが確かに別の意味をもっていることがわかります。他の箇所をも参考にすると、実際には王がしかめっ面をして顔を伏せるのではなく、微笑みをもって“顔を上げた”ことを、このフレーズは意味しています。直訳では、「わたしの顔をあなたがたに落とさない」となります(エレミヤ3:12、創世4:5-6、ヨブ29:24参照)。これは主権者があなたに友情を表しているという表現です。実に、神が私たちに微笑んでおられるという力強いイメージなのです。

神との深く親密な関係

今までお話ししてきたことは、すべて「神の御顔を仰ぐ」という言葉についてでした。しかしこれは、「神はあまりに清いお方で、だれも神の御顔を直接見ることはできない」と言われたことと矛盾するように思われます。モーセが神の栄光を見たいと願ったとき、神は言われました。「『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』また主は仰せられた。『見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。』」(出エジプト33:20-23)

しかしヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見た」と言いました。これは、彼が神とともにいたときに感じた親密さを表しています。「いまだかつて(顔と顔とを合わせて)神を見た者はいない。」(ヨハネ1:18)

「神の栄光の知識」は、救い主キリストの御顔に表れています(第2コリ4:6)。罪深い私たちは、死んでこの肉体から離れないかぎり、神の御顔を直接仰ぐことはできません。「神の御顔を見てなお生きる者はだれもいない」と神は言われました。この言葉は、私たちが「御顔を見て死ぬ」ほどの極みまで神に近づいた場合、そのご臨在の中に私たちがとどまっていることができるよう、主が私たちの命を取りさられて天の御国へ連れて行ってくださる、ということを示しているのではないでしょうか。父なる神とそのような親密さをもちながら、この世に戻ってきたいと私は思いません。しかし、神の臨在の中にいながら、なおかつ神が望まれる深いレベルの親密さと交わりをもつことができた、モーセやヤコブのような例があるのですから、私たちもまた神とそのようなかかわりをもつことを願う必要があるのではないでしょうか。

私たちに御顔を照らされる神とはどのようなお方か?

私の友人、ドゥワイト・プロイヤー氏による“神の御顔”についてのすばらしいメッセージがあります。この聖書的な語句の意味を理解するために、私の解釈に彼のものをいくらか交えていきたいと思います。

今日、世界中であらゆる種類の神々が礼拝されている中、聖書の神とはイスラエルの神、主であり、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることを知る必要があります。この方は、ご自身の契約や約束を千代にわたって守られる忠実な神です。また、王の王、主の主であられる聖なる神です。すべてを焼き尽くす火である方であられる一方、一羽の雀が落ちて死ぬこともご存じの方なのです。この天地を造られ、混沌から秩序を生み出された創造主なる神です。また、「『わたしはある』という者である」と言われる、ご自身が存在される神であり、義を求められる、イスラエルの聖なる方です。

しかし、私たちが弱い被造物であることを神はご存じで、私たちの罪を許すために御子を救い主として遣わされました。神は、私たちが神を知ることができるように、聖書の中で、そして神の生きた言葉であるイエス(ヨハネ1章)の中でご自身を現すことを選ばれました。

「もしあなたが、神があなたから去ってしまわれたと思うなら、神が去られたのではなく、あなたが神から離れているのです」という言葉を聞いたことがあります。神は私たちとの交わりを求めて、常にともにおられます。神から私たちを引き離しているのは私たち自身であり、私たちが神から「顔を背ける」ことを選んだとき、この引き離された状態は起こります。罪を犯したり、神の言われることに無関心になるとき、このようになるのです。

なぜ神はご自身を私たちに現わされるのでしょうか。その創造された広大で測り知れない宇宙と比べて、非常に小さく取るに足らない私たちを心にかけられるのはなぜでしょうか。それは神の愛のゆえであり、神が愛だからです(ヨハネ4:4)。

もし、私たちに対する神の愛の大きさを本当に理解するなら、私たちは謙遜と畏敬のあまり神の御前にひれ伏すことでしょう。どれほど神が、愛と臨在をもって私たちに栄誉を与えてくださっているかを考えてみてください。私たちはいくたび、自分勝手な生き方によって神に不名誉をきせてきたことでしょう。神に対する無関心によって、どれほど神を無視してきたことでしよう。

ドゥワイト氏は、「クリスャンは、聖書のテーマの一つである罪と贖いの領域にしばしばとどまっている」と指摘しています。しかし罪が存在する以前、そこには契約と祝福がありました。罪はその祝福を妨げました。私たちは罪と贖いを経験したのちも、また一段高いレベルヘと進む必要があります。なぜなら神は私たちを、ただ罪から自由にするためだけに贖なわれたのではないからです。神は、私たちが神との親しい交わりを持ち、顔と顔とを合わせて神を知るように私たちを創造されたのです。主の臨在に浴するためには、聖書のもうひとつのテーマである「契約と祝福」を受けることができる段階へと進む必要があります。

罪と聖さは共存できない

聖書には、ご自身の民とともにいることを神はどれほど願っておられるかということが全体をとおして書かれています。神は、全世界にむけて「贖い」という水を注ぐための「水路」となるようにとイスラエルを選ばれました。また、神はご自身の民との交わりを求め、そのただなかに住むことを願われ、イスラエルを選ばれたのです。出エジプトの際、砂漠の中で昼は雲の柱によって、また夜は火の柱によって、神は常にイスラエルのすべての民とともにおられました。さらにまた、敵も神の臨在を見ることができたので、このことが民を守り、彼らに平安を与えることになったのです。

しかしこの神の現れには、それ以上の理由がありました。出エジプト記の中で、会見の幕屋について神はモーセに語っておられます。神は、なぜイスラエルの民をエジプトから連れ出されたかをモーセに語られました。「その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。……わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29:42b、43、45-46)

このみことばの最後の箇所で、神が彼らをエジプトから連れ出された理由として、「彼らの神、主であるためであり、彼らの間に住むためである」と言われたことは非常に重要なことです。神は私たちとの交わりを求めておられるのです。

私たちの内に住むことを神ご自身が願っておられるとは、なんと驚くべきことでしょう。神の霊は、私たちに命を与える神の息です。神の霊は、私たちを神に近づける神の臨在です。「ペンテコステ」の出来事では、ちょうどイスラエルの民の場合と同じように、聖霊が弟子たちの上に、“火の舌”のような目に見える形で、彼らの頭の上に現れました(使徒2:1-4)。

“シェキナー”という言葉がありますが、これはヘブル語の“住む”“とどまる”という言葉から来ています。聖書の中では使われていませんが、「神が私たちの間に住まわれる」という神の臨在を言い表すために、ラビたちによって作られた言葉です。それは神の臨在を人格化した表現で、通常、驚くべき神の栄光と威厳を言い表すために使われます。

聖なる神と親しい交わりをもつために、私たちは聖なる民でなければならない、とドゥワイト氏は言います。罪と不従順は、神との契約を破棄する要因とはなりませんが、私たちを神の臨在から遠ざけるのです。私たちクリスチャンも、聖書のイスラエルの民のように、神との関係において気まぐれであるかもしれませんが、彼らがそうであったように、それによって契約が破られることはありません。なぜなら神は忠実な方で、気まぐれな方ではないからです。

しかし、私たちは神の臨在を見失ってしまうことで、神との親しい交わりと究極の栄光と祝福にあずかる場にいる特権を逃してしまうのです。罪と清さは共存することができません。神は私たちと交わりをもつことができるように、私たちが一つもしみのない花嫁、聖なる民であるようにと望まれます。これは神にとって大切なことなのです。

天地創造の出来事について記録するのに、創世記のたった2章しか要しませんでした。しかし、神がご自身の民の中に住まおうとされた幕屋をどのように建てるかという指示を記録するために、13章も費やされていることを考えてみてください。ご自身の民とともに住まわれることは、神にとって優先的なことなのです。神はこのように言っておられます。「わたしはあなたを愛しているから、あなたもわたしを愛してください。わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となります。」

これが祝福、愛、親しさ、臨在、栄光の神であられるイスラエルの神のご性質です。神は、あわれみのない厳格な要求をされる厳しい方ではありません。神は天から下り、その栄光のうちにご自身を人間に差し出されるまでにご自分の民を愛される方です。神が起こされる現象を求めることにとらわれるのではなく、神ご自身を求めてください。そして、救いは賜物であることを覚えてください。

神の臨在の中にとどまる

私たちは神の臨在の中にいる訓練をする必要がある、とドゥワイト氏は締めくくっています。ジョン・ウェスレーは次のように書きました。「身体と魂によって人間は造られ、霊と訓練によってクリスチャンが造られる。」

霊は神から与えられるものですが、訓練には私たちの側の自制が求められます。訓練は犠牲を伴いますが、訓練しないことはより大きな犠牲をもたらします。神の臨在のために聖別されるより、神との交わりから離れるときに私たちは大きな犠牲を払うのです。

イエスは、ただ人々を罪から救うようにと言われたのではなく、行って弟子をつくるようにと言われました。私たちも、ただ地獄から救われただけでなく、弟子として召されています。これには努力が必要であり、主の臨在の中にとどまらなければなりません。みことばをとおして神を知る必要があり、それには聖書の学びとそれを実行することが必要です。

ドゥワイトは、「真理」とは「情報」ではなく「関係」であることを指摘しています。イエスはこう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

イエスは、ただともに集まることを言ったのではなく、彼の弟子たちがみことばを学ぶためにともに集まるなら、そのときメシアの霊が彼らの間にとどまるだろうと言ったのです。私たちは神の臨在の中にいる訓練をしなければなりません。ユダヤの賢人は、「シェキナーは偽り者、人殺し、高ぶる者、反抗する者、強情な者、罪深い者、怠惰な者に立ち向かう」と言っています。この神の臨在の中にいる訓練をしないなら、私たちはただ怠慢で、弟子になるための時間を取っていないことになります。

マリヤとマルタのことを覚えていますか。神のためにただ忙しくすることと、神の臨在の中にいることとは違うのです。神のために忙しく働くことは大事なことですが、それは親しさとは違います。そしてその親しさは、私たちが神の臨在の中で神の足元に座るときにのみもたらされるのです。

ヤコブは言いました。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

しかしその前に、「ですから、神に従いなさい。」とあります。またその後には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)とあります。神の臨在の中でこそ、私たちは神の御腕にとどまり、安全でいられるのです。

霊の戦いは必要であり、大切なものです。しかし、あまりにも多くのクリスチャンが悪魔を追い払うために多くの時間を費やしています。私たちは、主によって多くの栄光を捧げる必要があります。神にもっと近づく必要があり、至聖所に入っていく必要があるのです。そこには、サタンや悪霊たちが入っていくことのできない神の臨在があります。そして、そこには神の臨在の天蓋で守られた安全な場所があるのです。

絶えず御顔を慕い求めよ

詩篇42篇1、2節にはこうあります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」

先日、エン・ゲディの泉の近くから死海の岩場を見晴らすために、家族とともに岩登りをしていました。海抜300mほどの乾いた岩場にぶら下がると、アイベックス(山ヤギ)が私たちと同じ見晴らしを楽しんでいるが見えました。焼けつくような砂漠の真ん中で、アイベックスが、泉の心地よく冷たい水を慕い求めていることは容易に想像できます。目的地までの岩場は容易な道ではありません。しかし、その旅路を行くことは価値あることです。

私たちもそれほどに神の臨在に近づくことに熱心でありたいものです。ときにはその道は容易ではありませんが、それはいつも価値あることなのです。詩篇105篇4節にはこうあります。「絶えず御顔を慕い求めよ。」また、詩篇16篇11節には、「あなたの御前には喜びが満ち」とあります。本当の満たしがあるのは、ただ主の臨在の中だけです。なぜなら、神はご自身が創造されたものとの交わりと親しさを喜ばれる、私たちの創造者だからです。

最近作られた新しい賛美があります。それはこのように宣言しています。「私の神、主よ。あなたの臨在の中で私は強められる。あなたの臨在、それは私が属するところ。あなたの御顔を求め、あなたの恵みに触れる。神よ、岩の裂け目、あなたの臨在の中で。」

この宣言に対して「アーメン!」と私は言います。「絶えず御顔を慕い求めよ。」(詩篇105:4)

エルサレムよりシャロ-ム

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