BFP編集部 2001年11月
イエスが、天へ昇られる前に何をされたかご存知ですか。ルカによる福音書24章50節から53節には「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」と記されています。
この時イエスは何と言われたのでしょうか。それが何であったにせよ、弟子たちは非常な喜びに満たされたのですから、素晴らしい祝福であったに違いありません。
主が何と語られたかについて、具体的には記録されていませんが、聖書にそれを暗示する事柄が記されています。「手を上げて祝福された。」この祝福は、当時の聖職者たちがよく行った祈祷の一つであり、「アロンの祝祷」としても知られています。これは、祭司たちに対して神が一番初めに教えられた祈祷であり、また、イエスが今まさに天へ昇られるその時に最もふさわしい祝祷でした。
この祈りは、みことばとして民数記6章22節から27節に明記されています。
「主はモーセに告げて仰せられた。
『アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」
彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。』」
皆さまの多くが、礼拝の終わりにこのみことばで祈っていただいた経験がおありでしょう。これは素晴らしい祈りであり、人々に励ましを与える神のご契約がこの内容に含まれています。しかし、この祝福の言葉を、果たして私たちは心から受け止めているでしょうか。牧師が聞き慣れた言葉で閉会の祈りをする時、聖書をカバンに入れて帰る準備をしたり、教会を出る前に誰かに会い、話すことがあったかどうか頭の中で確認したりしていませんか。物事に慣れるということは恐ろしいことです。聞き慣れた祈りの言葉であることが分かるや否や、無意識の内に、自分の中でまるでラジオでも消すように牧師の声を消してはいないでしようか。
神ご自身が聖書の中で語ってくださったこの祝祷の力強さを感謝を持って良く味わい、歴史的・ヘブライ的背景から、もう一度良く見直して学んでまいりましょう。今月のティーチング・レターでは、BFPアメリカ支部局長ラリー・アーリッチとBFP国際本部出版部責任者ロン・キャントレルの調査による資料を基に、このみことばを見つめ直してみたいと思います。
まず、この祈りのみことばを詳しく見てみましょう。
この祭司の祈りは、ユダヤ教の会堂やユダヤ人の家庭だけで捧げられていただけではなく、キリスト教のほとんどの教会で終祷として用いられていました。この祈りの素晴らしさは、宗派の壁を超越しています。神を愛する人々が主と交わる時、場所に関係なくみことばによって安らぎを得ることができるのです。
祝祷が捧げられる時、聖職者はいつも会衆の前で手を上げながら祈ります。現在では指をそろえた状態で、手のひらを広げ、手を上げて祈ります。
しかし、古代のイスラエルの祭司たちは、慣習としてもっと象徴的なジェスチャーでこの祈りを唱えました。まず、祭司と会衆は、この祈祷の朗読を聞くにあたって『タリート』(祈祷用ショール)で頭を覆いました。それは周囲の状況に気を取られないで、神にだけ思いを集中させるためです。
そして、祭司は手のひらを広げ、手を上げて祈ります。この時、指はそろえず、親指と人さし指の間を開けます。中指と薬指の間もVの字に開けます。この形はヘブライ語のアルファベット『シン』の文字に似ています。
この『シン』の文字はユダヤ人にとって、一番大切な名前である『エル・シャダイ』(全能の神)を意味しています。ユダヤ人の家や公共機関では、おのおののドア枠のところに『メズーザ』という小さな細長い箱が取り付けられています。その箱の中にみことばを入れ、出入りするたびに神を思い出すようにしています。
面白いことに、テレビ映画『スター・トレック』の登場人物の一人であるスポック博士は、ローマ神話に出てくる神バルカンを表すため、祭司が祈りを朗読する時の手の形と同じようにVの字を作ります。この作品の監督レオナルド・ニーモイはユダヤ人ですから、この伝統的な祈りのジェスチャーをお話の中に取り入れたのでしょう。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように
「主」
民数記6章22節から27節に出てくる言葉「主」は、神を表す伝統的な名前ですが、他に神ご自身が特別に選ばれた名前『ヤーウェ』があります。『ヤーウェ』という名前には、「在って在る者」-唯一の存在であり、他のどの神にも勝る最高神である、という神のご性質が表されています。この名は、聖書では『テトラグラミトン』(ヤーウェをヘブル語で記す時の4つの文字)として、ヘブル語で発音できない綴りで記されています。これは、あまりにも神聖なお方の名前なので、汚すことがないように口にすべきではないという観念に基づいています。初期のクリスチャンは主のみ名を『ジェホバ』と間違えて発音しました。ヤーウェを表す最初の一文字『ヨッド』を「ジェ」と発音してしまったのです。一番近い発音は『ヤーウェ』になります。『アドナイ』とは簡単に言えば「主」のことですが、ヘブル語の聖書ではこのヤーウェの4つ文字-テトラグラミトンに遭遇するたび、代わりに『アドナイ』と朗読されました。
旧約聖書の中で、神を表す16種類の名前が記されていますが、その内の10種類までは、『ヤーウェ』に他の言葉をつなぐ形で表されています。例えば、『ヤーウェ・ラファ』(癒し主)、『ヤーウェ・イルエ』(備え主)などです。この他にも『エロヒーム』『エル・エリヨン』『エル・シャダイ』などの呼び名があります。それぞれの名前は神のさまざまなご性質と関連しています。
神は、イスラエルの民に対し、「ヤーウェこそ唯一の神であり、彼らを祝福されるお方である」ということを完全に理解させるために、この特別な名前『ヤーウェ』を用いられました。「彼ら(=祭司たち)がわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(民数記6:27)と約束され、実際に祝福をお与えになっているのです。
祝福
「祝福」という概念は非常に大切です。「礼拝する」「賛美する」「敬意を表す」「権力」「成功」「繁栄」「生命を授ける」など、祝福にはさまざまな意味が含まれています。祝福は神からのものであって、主が祝福の主導権を握っておられます。
私たちも主を祝福することができますし、人々を祝福することもできます。しかし、多くの場合、主が私たちを祝福してくださるのです。聖書を読むとそれがはっきりわかります。人間の祝福の力には制限があります。しかし、主の祝福の力は偉大で、限界がありません。その上、主は喜んで私たちを祝福してくださるのです。そして、その偉大な祝福をいただいた時、私たちの生活の中に大きな喜びが生まれます。
祭司の「主があなたを祝福されますように」という祈りは、主ご自身が語っておられると信じて繰り返されています。主が「わたしがその言葉を語るように暗唱しなさい」と言われたからです。祭司がみことばを伝える役目をしますが、実際の祝福は天から来るのです。神は繁栄、健康、備え、導き、そして成功の祝福を与えようとしておられます。それは選びの中に入れられた者に対する祝福であるということ、そして主は心からそうしたいと願っておられることをお分かりいただきたいのです。主はそれほどまでに人を愛しておられます。それゆえに、主の優しさと永遠に変わらない愛に感謝しなければなりません。
守る
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」と記されていますが、この「守る」という言葉について考えてみましょう。ヘブル語は大変おもしろい言語で、たった一つの単語から、さまざまな意味を連想することができます。英語では、数多い単語の中から適切な単語を選んで表現しますが、ヘブル語は数少な単語の一つひとつに、いろいろな深い意味が詰め込まれています。
「守る」という動詞は、「非常に気をつけて、何かの役目を果たすこと」と訳すことができます。聖書では「責任を持って律法や契約を守る」「主の道を歩む」という意味があります。イスラエルの人々は、主の祝福を聞くたびに、主が絶対に契約を守ってくださる方であると信じました。ですから私たちも、律法や誓約を守ることが極めて重要なのです。「守る」という言葉のヘブル語のルーツを探ると、「見張り人が侵入者から守る」「困難な障壁から守る」「人の世話・看護・護衛をする」などの意味があります。
「主があなたを祝福し、あなたを守られる」を言い換えれば、「主が私たちを守り育ててくださる」ということになります。
この他にも「守る」には「重んじる」「注意を払う」「保持する」「備える」などの意味があります。これは「何かをそのままの状態で待ち続けるために蓄えておく」ということです。
「主が私たちを祝福し、守られる」を別の角度から見れば、親鳥の羽根のような、優しく暖かい保護の中で、じっと守られ養われるということになります。そして、主が唯一の保護者であることを、もっと多くの人たちが理解するようにと神は望んでおられるのです。
主がみ顔をあなたに照らし、あなたを恵まれるように
「主がみ顔をあなたに照らす」とは、大変興味深いヘブル的概念です。これには「顔を向ける」「あなたの方を見る」「振り返る」「注意を引く」などの意味がありますが、なぜ「主のみ顔」なのでしょうか。
顔
顔を見た途端に、その人が話なのかはっきり分かります。後頭部の格好、服装、歩き方などでも分かることがありますが、実際に確認できるのは、その人が振り返ってはっきり顔を見せた時です。顔が見えない時は、人違いをすることもあります。
双子の場合、顔を見ただけではちょっと難しいかもしれません。しかし双子でも、その人を良く観察すれば違いが分かってきます。それは人の内面的な部分が表に出て、それによって顔の表情が違ってくるからです。顔はその人の感情や気分、そして性質を正直に表します。あなたが恐い顔をしている時は、あなたのお子さんも気づきます。「あなたの顔にそう書いてある」「そんな風に私を見ないで」「じっと見つめないで」などと、子どもも顔の表情で親に訴えます。人の顔を見ただけで相手が何を考えているのかが分かるのです。幸せな時は顔が輝きますし、時にはおどおどした顔になることもあるでしょう。何か悪いことをしでかしてしまったら、恥じ入るような表情になります。また、険悪な顔つきになったり、真っ赤になったりします。怒った顔をしたり、優しい顔になったり、心の中の状態が隠されず素直に顔に表れるのです。
聖書にも「顔を隠す」、つまり無視するという意味の表現が記されています。「不幸な人は強い者によって悩まされ、神は守ってくださらないと思い込んでいる」と詩篇10篇11節に記されています。「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」他にも、詩篇13篇1節には、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」と記されています。また、詩篇27篇9節には「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」という表現が出てきます。神は私たちに何度も、「顔を上げるのは上を見るためです。上を見なさい。下を見るのは良くありません」と語っておられます。主はヨブにも言われました。「立ち上がって私を見なさい。あなたは私を激しく非難してきました。私と話をしたいが、チャンスがないとしきりに不平を言っていましたね。では今、話してごらんなさい。そして私を見なさい。」このように、主がいつも「私を見なさい」と言われるのは、主の内面(気持ち)を見せようとしておられるからです。
あなたもお子さんや友人に「私の目を見て、もう一度言ってみなさい」と言ったことがあるでしよう。すると相手は目を見て言うのはいやだとばかり、何か悪いことでもしたように、落ち着きがなくなります。どうして相手の目(視線)を避けるのでしょう。それは相手に自分の心の奥底まで見抜かれるような気がするからです。自分の隠しておきたい部分に侵入されたくないのです。仲の良い友だちに、抱えていた問題や心配事を見抜かれ、どうしてわかったの」と聞くと、「あなたの顔にそう書いてあるわ」と言われたことがありませんか。
顔の表情で、その人の心配事や考えていることまでが分かります。相手を良く知るようになると、表情をとおして、まるで虫眼鏡で見るかのようにはっきり見えてきます。その人は幸福な人、怒っている人、罪を犯した人、満足している人……など、顔に表れてしまうのです。
主はご自分の心の奥底を見せるために、み顔を隠さずに見せてくださっています。
輝き
主は「わたしはあなたたちの方に輝いた顔を向ける」と言われました。なぜ私たちは「み顔の輝き」を求めるのでしょう。
聖書に何度も書かれているように、輝きは光です。夜明けに朝日が昇り、辺りを明るくするように闇夜を照らします。そして「祝福の光」とは、各人の心の中にあるキリストの光を指しています。聖書に、「光は主の実在を現す」と書いてあります。神は光のある場所におられ、そしてそのきらきら光り輝く明かりに皆がひれ伏します。光である主の内には闇がありません。神がおられる時、また天の使者が現われる時、いつも光がありました。
この「光」と「闇」の意味は理解しにくいと思います。それは私たちの頭の中に、先入観に基づく光と闇があるからです。主は光であり、暗いところは全くありません。いつも輝いておられるということは、眠らないということでしょうか。そのとおりです。主はいつも起きておられ、眠ることもまどろむこともなさいません。意識的に関心を集中し、いつも私たちのそばにいてくださいます。人が神に立ち返った時、その人がすっかり変えられたことが外観からも分かります。モーセがその良い例です。主の臨在に満たされてシナイ山から下山した時、人々は「頭に袋か何かをかぶってください。あなたの顔が主の光の反射で見えません。そばに寄りつくことさえできません」と言ったことを考えてみてください。このように、主のそばにいるとは、何か素晴らしい光を感じることなのです。
主が顔の光を私たちに照らされます」という時の「輝き」や「照らす」の意味は、「神聖な認可を得る」ということに関連付けられます。主の存在の中に承認があり、私たちの存在や行動、態度を喜んでくださるのです。ですから、主のみ前には不純物は焼き尽くされる必要があります。
ダニエル書9章で、ダニエルは「御顔を上げて、御顔の光をあなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。そしてエルサレムを再建してください」と嘆願しています。これは実際に、「あなたのみ顔の光をエルサレムに輝かせ、この荒れ果てた状態の中に光を照らしてください」という意味でした。
ですから「主のみ顔の光を私たちに輝かせてください」とアロンのように祝祷を暗唱する時、それは「主よ。そばに来てください」と嘆願していることになります。主のおられる所には光が輝き、光は命と繁栄を象徴します。光を見るとは、誕生し、命の光を得て生きていると知ることです。
「主のみ顔の光を私たちに照らしてください」とは、「私たちを元気づけてください」「理解力をください」という意味にもなります。「光」という単語を辞書、聖書で調べてみてください。いろいろな意味に使われていることが分かります。例えば「主は世に光をくださる」「主は私の光と救いです」などです。光のある所には主がおられます。なぜなら神は光だからです。
恵み深い
「……そしてあなたを恵まれますように」と締めくくられている祈りの句がありますが、「恵み深い」という言葉の原形は「親切」です。「親切」とは、「助ける」「心から困っている人を助ける」「特に人の親切を受ける価値がないと思われている人が、優れた人から恩恵を受ける」などの意味があります。
恵み深い行為とは、受ける価値のない人に何かを無償で与えることです。上下関係の中で、立場の下の者(部下)が上司などにお礼や習慣で贈り物を贈るようなことではありません。受け取る正当な理由がないにも関わらずに相手に与えることです。例えて言うなら、道端に住んでいる衣服もどろどろに汚れたホームレスの人に、あえて自分から進んで親切にするようなことを言います。主のみ前では、私たちがそのホームレスの人々なのです。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)。私たちは恵みを受けるような者ではありませんが、主のあわれみと恵みの中で祝福されているのです。孤独や困難、そして罪を犯している、そのさなかでさえ主は来てくださいます。そして私たちは、主に面と向かって助けを求め、赦しを得ることができるのです。
あなたは主の恵みが必要ですか。私は必要としています。主の恵みがなければ、神の国を手に入れることはできません。毎日の行動に比例した扱いをされるなら、私たちは光の中に留まることができず、暗闇の中にいるはずです。幸い主の恩恵により、光の中に入ることができました。主は恵み深い方であり、罪を赦してくださる愛の神です。
主が御顔をあなたに向け、平安を与えられるように
「主はみ顔をあなたに向けられる」とは、「主がみ顔を上げてくださる」「主がそばにいてくださる」「主の平安(シャローム)をいただく」ということです。ヘブル語らしい表現の一つに、言葉を繰り返して強調する方法があります。例えば、「ガドル」(大きい)という言葉を「ガドル・ガドル」と繰返し並べると、最上級のサイズ、「一番大きいこと」を表します。ですからこの祈りの中に、「主のみ顔」が繰り返し記されていることは、「主が私たちと一緒にいてくださる」という素晴らしいことを強調しているのです。
顔を向ける
原語では「顔を向ける」という言葉を直訳すると「顔を上げる=見上げる」という表現になります。「主がみ顔を見せてくださる」ということです。反対の表現は「主は私たちから顔を隠される」となります。
古代エジプトでは、ファラオ(古代エジプト国王の称号)に呼び出された人々は、顔を上げて王の顔を見ることができませんでした。王が「顔を上げてもよい」と許した時でさえ、玉座から見下げた状態で人々を見るだけで、人々を励ましたり元気づけたりするようなことは絶対にありませんでした。
「顔を上げる」とは見上げることです。「彼は窓を見上げて、『だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか。』と言った。二、三人の宦官が彼を見おろしていた」(第1列王9:32)。つまり、親切にする人の方ではなく、される方から顔を上げるということです。
古代、神が人間に顔を上げられるということは、人々には信じられないことでした。他の聖書箇所でも分かるように「主が人々に顔を上げられる」ということは、「人々に微笑んでくださっている」、または「友人になろうと手を差し伸べてくださっている」ということです。このように主から歩み寄ってくださることは、私たちに平安を与えるだけでなく、心から「友よ、私は味方だよ」と語りかけてくださっていることなのです。
考えてみてください。主が共にあり、その上ニコニコしながら私たちに愛情を示してくださっているのです。主はご自分の方からみ手を差し伸べてくださいます。何と素晴らしく、心強いことでしょう。この偉大な神が、深い愛を持って私たちを見守っていてくださるのです。
平安を与える
「平安(シャローム)」は聖書の始めから終わりまで使われている言葉です。現在、イスラエルではお店に入った時や出る時に、店員が「シャローム」と言います。また道で人に出会った時も挨拶として「シャローム」が交わされています。
「シャローム」は素晴らしい言葉で、さまざまな意味が含まれています。例えば、「争いが全くない」「平安」「完了」「実現」「完全にそろう」「統一体」「復活」などです。また、「さまざまな困難に打ち勝って得た完成、完了」などの意味もあります。例えて言うなら、囚われの身だった私のために、誰かが代わって負債を返す、または牢獄から出られるように保釈金を支払ってくれる、刑務所から連れ出してくれるなどの「解放の平安」、これがシャロームです。それは約束を果たすことでもあり、契約の完了を意味します。つまり両方の人間関係がシャロームの状態であり、平和を取り戻したことになります。「何かが完了し心身が健全になった」とも言えます。また聖書的な言い回しでは「完全であることを示す神殿の祭壇の石」、「主と共にいる祭壇」が本当の意味での平安を表します。
また、シャロームは親睦の約束でもあり、「主のみ手の中で私たちは完成される」という意味でもあります。(士師4:17、民数25:12、イザヤ54:10)
平和とは繁栄のことを意味します。そして健全と安全にもつながっています。本当の平和は、主のみ働きと契約、義によってのみ得られるものです。これは、神のご臨在の中にあることによって成就されるものです。また、静寂と休息の意味も含まれます。
ヘブル語のルーツを調べると、「与える」という言葉には、実際の「与える」という意味より、「注ぐ」というのがより近い意味になります。祝福と結びつける意味で与える」をヘブル語に訳してみると、実際の「与える」よりもさらに強い意味、「大量に与える」ということを示します。主は、シャロームを惜しみなく豊かに注いでくださっています。神は、私たちが祝福されることを望んでおられるのです。
彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう
祝祷する時手を上げるのは、神の名を呼んで信徒が祝福されるためであって、石の板に神の名を書くのではなく、人々の心の板に刻み込み、そして彼らが祝福を受けるためです。
この考えはコリント人への第2の手紙3章3節と似通っています。「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」
この節は何を意味しているのでしょうか。ずっと以前にティーチング・レターに書きましたが、「主のみ名をいただく」ということは、主の親権と責任によって守られることです。聖書的な意味においても、名前はその人の人格が反映されます。
イスラエルの民の心に神のみ名を刻み込んで祝福を受けるということについて詳しく見てみると、次のような内容であることがわかります。
- 主は私たちに対する主権と責任を望んでおられる。
- 神は、そのご人格-ご臨在が私たちと共にあることを望んでおられる。つまり、主は私たちの間に住まわれ、私たちの人生に必要なすべてを満たしたいと望んでおられる。
- こうした祝福をとおして、私たちもまた主の主権とご人格の中に留まって歩むようになる。
この素晴らしい特別な祝祷によって祈られることは、神と人間の間に交わされる祝福の契約の書類に捺印するようなものです。この祝祷こそ、昇天されるにあたって、弟子たちと教会を祝福するために主イエスが用いられた、最高の手段でした。この祝祷は、神の祝福を受けるために遭遇する厳しい試練が来ることに対し、「準備せよ!」という警告ではありません。これは、偉大な愛の持ち主である神が、友情、愛、恵み、そしてすべてを私たちに与え、共に歩むことを切望されていること以外の何物でもありません。ですから、使徒たちは喜んでエルサレムに戻って行ったのです。
私たちとの関係
ヨハネ14章16節に次のようにあります。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」この方とは、ご存知のように聖霊のことです。この方が共に住み、私たちの内におられるのです。イエスの約束によって来られた聖霊が神の救いと祝福を確証してくださいます。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)。主はみ顔を私たちに向け、平安を与えてくださいます。それこそが主の願いなのです。愛、慰め、保証、友情、そして良き物を約束してくれるのは、主の愛以外にありません。
古代から現在に至るまで、人々は何らかの見返りを得るために異教の神を信じてきました。
しかし、私たちの主は違います。主は大きな代償を払われました。そして、私たちと交わるために歩み寄られ、手を差し伸べて一つになろうと願っておられます。
このことを私たちはどのように受け止めているでしょうか。私たちが主の切なる願いをはっきり理解することができるように願います。このような寛大な優しい神を見上げつつ礼拝し、崇めるべきであると強く覚えます。主のみことばや福音をしっかりと学びつつ、そして主を賛美しつつ、生きていこうではありませんか。
エルサレムからシャロ一ム