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ティーチングレター

「主の弟子たち」とはどんな人々だったのでしょうか? Part-2

BFP編集部 2001年10月

イエスの弟子たちとは、どんな人々だったのでしょうか?
先月号より、弟子たちの7つの特徴について勉強しています。

イエスの弟子たちは、私たちと同じように失敗したり、性格の不一致で衝突したり、口げんかをしたり、時には頑固になり、人を疑うなど、多くの欠点を持っていました。その上、イエスのみことばさえ、間違って理解することがありました。彼らもまた、先入観に基づいて物事を判断するという人間の弱さを持ったまま、弟子となったからです。

私たちの価値観は、親や環境によって形成されます。ガリラヤ出身の弟子たちは、視野が狭く、見聞きしたことを自分たちの好みの色に染めてから、理解し行動しました。ですから、イエスは常に、もっと深い洞察ができるように彼らを教えなければなりませんでした。彼らの弱点を直し、主に仕える、成長した強い弟子に育てようとされたのです。

弟子たちと同じように、主が私たちを教えて変えてくださることは、大きな励ましです。それでは、先月に引き続き、12弟子たちの育った背景について学んでいきましょう。

弟子たちの七つの特徴(4〜5)

弟子たちのことをより良く理解するために、エルサレム聖地研究所の創立者であり、BFPの理事の一人でもあるジム・フレミング博士の資料を元に学んでまいりましょう。

さて、今、ベツサイダという小さな町へやって来たと想像してください。この町は、12弟子の中の、5人の弟子たちの出生地でした。シモン・ペテロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、そしてピリポです。ですから、この町は弟子たちのことを知る上で、最適な場所と言うことができるでしょう。

ベツサイダはガリラヤ湖の北岸にあります。言い換えればカペナウムの東にあり、ゴラン高原から流れてくるヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐ土地です。城壁のない小さな町で、約200家族が暮らしていましたが、この町出身の弟子たちと同じように、皆、信心深いユダヤ人漁師でした。

4.呑み込みの遅い弟子たち

弟子たちは呑み込みが遅かったので、イエスは同じ言葉を繰り返し、実例を使って何度も教えなければなりませんでした。このことは、新約聖書のいくつかの箇所にも記されています。

例えば、ヨハネ2章19節-「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』」弟子たちは、神殿について、その建物のことを言われたのだと思いましたが、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのです。続く22節でそのことが明らかにされています。弟子たちは、イエスが死人の中からよみがえられる時まで、本当の意味を理解することができませんでした。

英語の文法で説明しますと、弟子たちは「名詞と形容詞の区別がつかなかった」と言うことができます。物を区別するときに貼るラベルのように、人々を物として考えて、「ローマ人」、「サマリヤ人」、「女性」、「異教徒」というように、それぞれの環境に偏見を持ち、人を物質的にとらえて見ていたのです。

弟子たちは形容詞的に人々を見ていませんでした。わかりやすく解釈するために、ローマ人たち、サマリヤ人たち、異教徒たち……、というように、グループ分けした説明の仕方はしますが、「すべての人々は神によって造られ、愛され、また救われる」のだということがわからなかったのです。そして“神の祝福”は彼らだけのものであると思っていましたから、他民族とは交わりませんでした。ですから、他民族を無視するのではなく、神はすべての人を祝福され、そして神の国へ招かれていることを、弟子たちは学ばなければなりませんでした。

現在もこれに似た傾向が教派の中で見られます。「神は全世界を愛されている」と頭では理解していても、一つのグループの中にいると、そこの居心地が良くなり、気がつけば他のグループの人々に偏見を持つようになるのです。ですから、世の人々に福音を伝えたいと思うなら、「自分たちだけのグループ」という状態から出て、成長しなければなりません。

ローマ人の場合

先月号の「弟子たちの7つの特徴」第1項で、コルネリオに関して言及しましたが、ペテロと初期の教会が、ユダヤ人以外の異邦人に天のみ国を伝えることを明確に示されるまで、時間がかかったことを述べました。初代教会の人々は、ローマ人は外国人であると決めつけ、両者の間に線を引いたように、そこから一歩も向こう側へ行こうとしませんでした。神がペテロと教会の背中を押されるまで、その状態が13年間も続いたのです。

サマリヤ人の場合

ユダヤ人とサマリヤ人の間には、強い対抗意識があり、お互いの偏見に何百年間も悩まされ続けていました。新約聖書の時代になっても、ユダヤ人とサマリヤ人の関係は改善しませんでした。お互いの信念が強く、人種差別の真ん中に座り込んで孤立することにより、純潔が保てると思っていたのです。

サマリヤ人の肉体にはユダヤ人の血が流れていて、精神的にはモーセの教えに従っていましたが、ユダヤ人だとは思われていませんでした。異教化したサマリヤ人は軽蔑され、良くてユダヤの混血としてのみ受け入れられていたのです。

イエスの時代の宗教熱心なユダヤ人は、サマリヤ人を異邦人だと考え、関わりを持つことを望みませんでした。それは、共通の物を持たない、同じ建物に寝泊まりしない、同じ食器を使わないなど徹底したものでした。ヨハネ8章48節に、イエスを次のように馬鹿にしたユダヤ人の言葉が記されています。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」

サマリヤ人もまた、ユダヤ人に対して同じような感情を持っていました。ずっと後の時代になって、ある旅人が日記に書き残した内容によれば、「サマリヤを通った時食べ物を買ったが、水の入ったバケツにお金を入れなければならなかった。つまり、サマリヤ人でない人の手からお金を受け取らないのである。そして、その村を立ち去る時、後からついて来て足跡の上にわらを置き、火をつけて清めた」という信じられない実話が残っています。当然「サマリヤヘようこそ」のような、人々を歓迎する標識は絶対になかったことでしよう。

このように、ユダヤ人とサマリヤ人の仲は険悪でしたが、人々に愛情深い態度を取ることを教えるために、イエスは「良きサマリヤ人」のたとえ話をされました(ルカ10:30-37)。これは、あるユダヤ人がエリコに下る道で強盗に襲われ、傷つき倒れていた時、親切なサマリヤ人がその人を助けましたが、同じユダヤ人である祭司やレビ人は彼を無視して反対側を逃げるように通り過ぎて行った、というお話です。ここでイエスは、犬猿の仲のサマリヤ人が、ユダヤ人を助けた愛と友情を語っておられます。私たちもそのようなことができるでしょうか。

このように、イエスは時間をかけて弟子たちの視野を広げようとされました。

サマリヤ人の女性の場合

サマリヤのスカルという町を訪れた時、井戸の水を汲みに来たサマリヤの女性に、イエスは伝えたいことがありました。しかし弟子たちが一緒にいる時は、それが不可能であることを知っておられました。また英語文法的な表現をしますと、彼女は弟子たちが嫌う名詞が2つ並ぶ「サマリヤ人・女性」である上に、不品行な女だったからです。なぜ、イエスは12弟子を町へ買い物に行かせたのか、考えたことがありますか。(ヨハネ4:8)。イエスは、サマリヤ人に対する彼らの偏見と態度をご存じでした。ですから、ご自分一人の方が、その女性に福音を効果的に伝えられると考えられたからです。

イエスとその女性の会話が終わった頃、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思いました。しかし、誰も「何を求めておられるのですか」とも「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言いませんでした。(ヨハネ4:27)

イエスは、いつも実例を用いて弟子たちに教えられました。ここでイエスがサマリヤの女性と話していることに関して、弟子たちは何の抗議も議論もせず、ただイエスの説明を待っていたようです。やっと弟子たちもイエスの教えを理解し始めたのでしよう。

一方、イエスが話をされたサマリヤの女は次のように行動しました。「自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで彼らは町を出てイエスの方へやって来た。……さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私のしたこと全部を私に言った。』と証言したその女の言葉によってイエスを信じた。」(ヨハネ4:27-30、39)。「そして、さらに多くの人々がイエスの言葉によって信じた。」(ヨハネ4:41)

ここでもイエスは弟子たちに「福音を伝える」ということを教えられました。みことばの一つに「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)とあります。そして、「刈り取る」とは、天の神の意志であり、また神の国はイスラエルだけに留まらず、全世界の人々に拡大されているのです。

悪霊に憑かれた異邦人の場合

マルコ5章に、悪霊に取り懸かれた異邦人の男性が登場します。「悪霊に取り憑かれている」-そのことだけでも、恐れのあまり誰も彼に近寄らないことの要素として十分でしょう。弟子たちの目には、この男性は「悪霊に取り惹かれた」人であり、同時に「異邦人」という、二つの敬遠すべき条件を備えた人として映りました。イエスはこのような悪霊に取り惹かれた人や、らい病患者にも愛と慈悲の手を差し延べました。

マルコ5章1節から20節に登場する、悪霊から解放された男性の話は皆さまも良くご存知でしょう。ある日、イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に船で到着しました。そこはガリラヤ湖の東側で、ユダヤ人は住んでおらず、ゲラサの人々はユダヤ人が忌み嫌っていた職業の一つである養豚業をして、生活の糧を得ていました。(マルコ5:11)

イエスの一行がその土地に着いた時、墓として使う横穴に住む、多数の悪霊に取り愚かれたゲラサ人の男性がいました(マルコ5:3)。その男は、夜昼となく墓場や山で叫び続け、石で自分の身体を傷つけていました(マルコ5:5)。彼らが上陸すると、彼は駆け寄って来てイエスを礼拝しました。想像するに、弟子たちは急いで船に戻り、遠くからその不快な光景を見ていたことでしょう。

たいていの人々は、その男を無視するでしょうが、何とイエスは彼と話し始められました。そして神の力によって悪霊を追い出し、悪霊が豚2000頭に乗り移ることを許されました。その2000頭の豚は、湖になだれ落ちて溺れ死んでしまいました。人々は何事が起こったのかと見にやって来ました。そして驚くと同時に、豚が死んだことを怒り、イエスと弟子たちにその地方から離れてほしいと願いました。(マルコ5:17)

イエスが船に乗り込もうとする時、悪霊から解放された例の男性がお供をしたいと申し出ました。しかし、イエスはお許しになりませんでした。これは一見冷たく聞こえるかもしれませんが、元「悪霊懸き」であり異邦人である彼と、弟子たちが仲良くできるわけがないと知っていたからです。

イエスは彼を勇気づけ、立ち去るように言われました。イエスが彼に「NO」と言われたのは、12の理由(船で待っている弟子たちそれぞれが嫌がる理由)を考えておられたからです。彼らは寛容であるどころか、非常に独占的な人々でしたから、その男を受け入れることはあり得ませんでした。

主を愛する者のために、神は物事を良い方向へ導いてくださいます。その時も良い結果を生みました。悪霊に取り懸かれていた男性は、イエスが自分にどんな大きなみ業をしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め、人々はみな驚嘆しました。(マルコ5:20)

これを機会に、私たち自身の生き方を見直してみましょう。私たちの偏見が「大勢の人々を天国へ導く妨げ」になっていないでしょうか。自分たちのグループ以外の人たちにどのように接触しているでしょうか。特に貧困者、犯罪に関わった人、ホームレス、または売春婦に対してどう反応し、どのように福音を述べ伝えてきたでしょうか。

5.弟子たちは私たちが想像しているほど貧しい漁師ではなかった

たいていの人々は、弟子たちを非常に貧しい漁師だったと思っています。彼らがお先真っ暗な人生を歩んでいる時、ナザレから説教者であるイエスが来て、漁をしていた彼らに「私について来なさい」と言われたので、網や仕事を捨ててついて行ったのだと思いますか。そうではないと思います。新約聖書に「弟子たちは私たちが思っているほど貧しくなかった」と解説があるでしょうか。漁師の仕事を捨ててイエスについて行く決心は困難だったでしょうか。

シモンは彼自身の船を持っていましたし、おそらく他のベツサイダの男性たちも、それぞれの船を持っていたことでしょう。しかもそれは、小船ではなく大海原へ乗り出すことのできる大きな船でした。そこから考えると、決して貧しい漁師ではなかったように思えます。現在でも、雨が降らず水位が低くなると、湖の西側に何百もの船を修理する時に使ったドックを見ることができます。また、個人の船が錨を下ろせるU型の港があります。それと同時に、新約聖書時代のなごりで、湖畔には船をロープで引っかけて止めておく杭のようなものも残っています。

弟子たちが想像以上に裕福だったことが一番良くわかる箇所は、マルコ1章20節です。「ヤコブとヨハネは父ゼベダイを雇い人と一緒に船に残して、イエスについて行った。」もしかすると会社名があったかも知れません。例えば「ゼベダイ水産有限会社」のような……。いずれにしてもゼベダイと彼の4人の息子、それに雇い人の6人で、会社らしき物は持っていたようです。会社名に“国際”とか“万国”などを付け、大勢の社員がタイムカードを押して出入りするような、大きな会社を夢見ていたかもしれません。会社名や大きな会社を持つ夢はともかく、彼らは破れた網を使っているような小さな漁をしていたのではなく、当時としては相当手広く漁業をしていたようです。

6.弟子たちは奮闘努力の学習体験をした

新約聖書は電報のように簡潔な方法で書かれています。それだけ見ると、弟子たちがイエスの教えを聞き、質問するのは、大勢の人が集まった公の場所のみと思うかもしれませんが、時にはイエスと弟子たちだけになることもありました。

カペナウムで発掘された、4世紀に建てられた八角形の教会は、1世紀にあった家の跡に建てられたようです。そしてその1世紀の家はペテロの妻の母親の家であったと信じられています。その家からイエスと弟子たちの奉仕活動が始まりました。

ペテロの義母の家と隣接した他の家も発掘されていますが、たくさんの部屋があり、その中心に中庭がありました。建物の外側四辺は路地になっていました。このような建物をラテン語で「インスラ」(insula)といい、「島に似たもの」または「孤立した丘」という意味があります。このインスラにはたいてい20から40ほどの連続した部屋があり、その外側4辺に路地がありました。八角形の教会の下にあったペテロの義母の住居跡もまた大きなインスラで、部屋が42もありました。ですから、2部屋程度の小さな家に、ペテロ、彼の妻、義母が一つの部屋に、そしてもう一つの部屋にゲストとしてイエスがおられた、などと想像しないでください。

ペテロには妻方の金持ちの親戚がいました。そして義母の家は、イエスが教師を勤める学校でもありました。これはマルコによる福音書の中だけでも、9ヶ所に亘って書かれています。大きな家で、イエスを囲んで大勢の人々が共同生活をしている光景を頭に描いてみてください。カペナウムでは、皆、この壁や塀に囲まれてつながった建物の群れに住み、そこでイエスの教えを受けていたのです。

その一例をマルコ2章1節から12節に見ることができます。ある中風の人がいて、彼の友人たちはイエスに彼を癒していただこうと思いました。しかし、カペナウムでイエスが教えておられる時、あまりにも多くの人々が集まったため、彼をイエスのそばに連れて行くことができませんでした。そこで、友人たちは、このインスラの家の屋根をはがし、穴を開けて病人を吊り降ろさなければならなかったのです。

インスラの中庭は、台所として使われました。そして部屋数が多いため、4、5家族が住むことができました。祖父母、子供たち、孫たち、そして結婚してできた親類の人たち……。そこでは、家族が一つの部屋に一緒に休みました。今日のように子供たちがそれぞれの部屋を持つような状況ではなかったのです。

ペテロの場合、義父が亡くなっていたので、妻がベツサイダのペテロの家に嫁いで来たのではなく、ペテロがカペナウムの嫁の母の家に婿として住み、一家の主人になりました。

こういうわけで、イエスと12弟子はペテロの義母の家に住むことができたのです。そこでは皆が一緒に居・食・住を共にし、学びや集会も同じ家で行いました。イエスと未婚の弟子たちは、同じ部屋で寝起きしていたことでしょう。弟子たちは常にイエスと一緒に気楽な福音の旅をしていたのではなく、たいていカペナウムでイエスから教えを受けていました。ここから判断できることは、私たちが今まで想像していた以上に、弟子たちは奮闘努力の体験学習をしていたということです。

いつも大勢の人に囲まれたインスラでの生活では、一人になるということは貴重なことで、ご褒美をいただくようなものでした。マタイ6章6節でイエスが「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言っておられます。

また、インスラでは、どこに行っても常に周りに人がいました。ですから「押入れや物置に入って祈りなさい」とイエスは言っておられるのです。「祈りの小部屋(Prayercloset)」は、「祈りのショール」とも訳され、布や力ーテンのようなものを頭から垂らして祈ることでもありました。現在でも、これに似た祈りが行われています。ユダヤ人が嘆きの壁でショールを被って祈るのも、同じような意味から来ています。周りに大勢の人がいる時でも、一人になって主とお会いする必要があるのです。弟子たちは、イエスがベツサイダの人のいない場所へ行き、一人で祈っておられる姿を良く見かけました。

7.イエスが弟子たちにご自分を現されたのは、一度だけではなかった

弟子たちが、最初にこの人こそ救い主だと感じたのは、バプテスマのヨハネとの面会の時でした。「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊。』と言った。」(ヨハネ1:35-36)

「ヨハネから聞いて、イエスについて行った二人のうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。」(ヨハネ1:40)。「次の日、アンデレはシモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えばキリスト)に会った。』と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。』」(ヨハネ1:41-42)。しかし、その頃の弟子たちは、ほんの一時のつもりでイエスについて行ったようです。

では、イエスが2回目にご自分を現されたのは、いつだったのでしょうか。ルカの福音書に記されているように、イエスはしばらくの間、ガリラヤの町カペナウムで教えておられました。すでにシモンをご存知で、彼の義母の病気を治されました。「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家にはいられた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」(ルカ4:38-39)。この他にも数知れないイエスの奇跡を、弟子たちは目撃しました。しかし、ペテロとアンデレは弟子を副職的なものとしてとらえていました。つまり本職の漁業は続けていたのです。

シモンが他の弟子たちと岸辺で網を洗っていると、イエスが来られ、群集に船の上から教えるために、シモンの船を陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。その頃には大勢の人々が、イエスの教えを聞こうと岸辺で待っていました。イエスは船に座り、群集を教えられました。(ルカ5:1-11)

船からお話しされたのはなぜでしょうか。ガリラヤ湖近辺の聴覚研究により、ある一定の場所から話をすると、肉声でも1万5千人くらいの人に声が聞こえることがわかりました。ちょうど、古代ローマの円形劇場のようなもので、自然にできた盆地にガリラヤ湖があり、人々が座っている場所まで音が運ばれて行くようになっていました。そのことをご存知だったので、イエスはシモンの船から教えられたのです。

話が終わると、主はシモンに、「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚を獲りなさい」と言われました。シモンたちは夜通し働いて、何一つ獲れなかったことを思い、あまり乗り気ではありませんでした。また、漁師であれば誰でも、日が昇っている間は魚が釣れないことは、常識として知っていました。しかし、シモンはイエスを尊敬し崇拝していたので(あるいはバプテスマのヨハネがそのように教え込んだからかも知れない)、そのとおりにすると、たくさんの魚で網が破れそうになりました。そして岸にいた仲間にも、沖へ出て網を下ろすように叫びました。すると、その船も大漁で二艘とも沈みそうになるほどでした。あまりの大漁に、彼も一緒にいた者も、ひどく驚きました。

その頃には、シモンはイエスが救世主であることを理解していました。多分シモンは次のようなことを考えていたでしょう。「自分の専門分野である漁業には自信があったのに、イエスはそれ以上のことがおできになる。人生のすべてをこの人に託し、どこまでもついて行ってみよう。」そしてシモンも相棒たちも船を陸に着けると、何もかも捨ててイエスに従いました。(ルカ5:11)

イエスが裁判を受け、十字架に掛けられた後、弟子たちは「イエスと過ごした3年間は何だったのだろうか」と考え、途方に暮れて、結局ガリラヤヘと去って行きました。彼らは主から待つようにと言われていたにもかかわらず、待つことをせず、元の生活に戻ったのです。

その後、ヨハネ21章で、イエスは3度目の復活のみ姿を現されました。「シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』彼らは言った。『私たちもいっしょに行きましょう。』彼らは出かけて、小船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ。食べる物がありませんね。』彼らは答えた。『はい。ありません。』イエスは彼らに言われた。『船の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」(ヨハネ21:3-6)

ガリラヤ湖は、前述したように盆地になっていますから、高い陸地から見ると魚の群れが見えます。しかし、船からは太陽の光が水に反射して見えません。きっとヨハネはペテロに、「また大漁だけど、何か思い出さないかい」と言ったことでしょう。そして、その瞬間にこの男性が誰なのかわかったはずです。ペテロは「この方はイエスだ!」と叫び、そして裸だったので上着をまとって湖に飛び込み、岸に向かって泳ぎ始めました。

復活後、ご自分のお姿を何度も現されるたびに、イエスは、福音伝道をあきらめていた弟子たちに次のメッセージを語っておられたのです。「あなたたちの気持ちはよくわかります。私はあなたがたを赦しますから、これから先、また一緒に福音を宣べ伝えましょう。」

ヨハネ21章でも、イエスはペテロと弟子たちを赦されました。ペテロはイエスを3度否定しました。その時のことも含めて、主はペテロを赦されたのです。イエスが十字架に掛けられる前夜、皆が逃げた時、ペテロただ一人がイエスの後をついて行ったことは認めましょう。しかし、ペテロの気持ちは複雑でした。主が言われたとおり、3度もイエスを否定しましたが、イエスに会いたい気持ちが強かったことも事実でした。

ペテロが岸に着いた時、イエスは彼を赦されました。「ペテロ、私を本当に愛していますか。あなたのすべてを私にゆだねますか。もし、そうであるなら私について来なさい。」ペテロはエルサレムでの大失敗を考え、そのような言葉をイエスから聞こうとは夢にも思っていませんでした。ペテロだけではなく、他の弟子たちもイエスの赦しと新たな命令を待っていたのです。おそらく弟子たちは、「人間を獲る漁師になろうと努力したが、駄目だった」、とあきらめていたでしょう。しかし、イエスは言われました。「わたしについて来なさい。人問をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ11:7)

12弟子と私たちの関係

クリスチャンである私たちが、イエスを信じる者として自覚しなければならないことは、12弟子と同じように、自分たちもまた長所、短所を持った人間であるということです。天のみ国へ完全な弟子として入れる者は一人もいません。

天のみ国へ入る方法はただ一つです。それは主のみことば(聖書)を聞くこと、祈ること、主のお働きを人生の中で見分けることなどをとおし、弟子として成長することです。そうするためには、時間をかけ、意欲を正しい方向に向けなければなりません。

ローマ12章1節から2節にかけて、「良き主の弟子」になる指示が記されています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

私たちは進んで主に従う「器」にならなければなりません。エレミヤは、神に陶器師の家へ行くように言われました。そこでエレミヤは、陶器師が粘土で制作中の器を自分の手で壊し、再びそれを自分の気に入った形に作り変えるのを見ました。神はこう告げられました。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。……主の御告げ。……見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(エレミヤ18:6-7。)神はこう仰せられているのです。「イスラエルの民が悔い改めて、私の元に戻って来るなら、私は祝福する。イスラエルの民だけでなく、誰でもへりくだって私の元へ戻って来る者を祝福する」と。

何と素晴らしいことでしょうか。神は私たちが間違いを起こしたり、主の教えに対して呑み込みが遅かったり、神を拒んだとしても、私たちをはねつけたりなさらず、赦してくださるのです。弟子たちの行動を考えてみてください。どんなことをしでかしても、イエスは彼らを赦され、終始一貫、み傍に彼らを置かれました。

神は私たちが悔い改め、主に仕える努力をするなら、何度でも許してくださる方です。黙示録3章19節から20節に次のように記されています。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」主は私たちに、孤独の穴に入り込んでいないで、壊れた関係を元に戻すために出て来なさい、と言っておられます。神はそれほど私たちを心配し、愛してくださっているのです。

聖書にあるように、「テーブルを囲んで食事する」とは、和解のしるしです。ヨハネ21章で、イエスはペテロが最悪な状況でご自分を裏切ったことを知りながら、ガリラヤ湖の岸辺でペテロに食事の準備をされました。つまり、イエス自らが、和解の場所を作ってくださったのです。それを見て、ペテロはイエスが自分を赦してくださったことを知りました。イエスがペテロに「私を愛しますか」と聞かれた時、彼はへりくだって、「はい、イエスさま」と答えました。イエスはペテロを赦し、「私の羊の世話をしなさい」と言われました。すなわち「他の弟子たちの目を私の方に向けさせなさい」と言われたのです。主が、欠点の多い、迷える羊であるということをご存知の上で、私たちを受け入れてくださっていることを再確認し、その愛に甘えて、ゆだねて行こうではありませんか。

「私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)。イエスは私たちの牧者です。私たちは彼の血と憐れみにより、主に近い者となることができました。迷える羊である私たちを、元の群れに連れ戻してくださったのです。そこで気づかなければならない点は、次のみことばです。「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしよう。」(ヤコブ2:24)、「……行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(同26)

主は私たちを愛し、彼に従う私たちをとおして、主の真実が明らかになることを望んでおられます。そして弟子たちにされたように、一緒に泣いたり、笑ったり、慈悲深く教えたり、時には抑制したり、勇気づけたり……と骨を折ってくださるのです。

粘土が陶器師の手の中にあるように、私たちも従順に主のみ手の中に留まらなければなりません。もし、私たちが頑固になってそうしないなら、主の望まれる素晴らしい器になることはできません。ですから、あきらめずに勇気を出して、すべてを主にゆだね、弟子として主と共に手をつないで歩んでまいりましょう。そうすれば、私たちの人生に、偉大なるキリストの奇跡が起こり始めます。

エルサレムからシャロ一ム

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