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ティーチングレター

「主の弟子たち」とはどんな人々だったのでしょうか? Part-1

BFP編集部 2001年9月

イエスの弟子たちとは、どんな人々だったのでしょうか?

何世紀もの間に、弟子たちは高尚な存在となり、聖者の領域にまで達してしまいました。私たちは聖書を読むことで、イエスの情報を得るのが普通になっていますが、その頃の聖徒たちは、イエスのなさることを、すべて直接目で見ることができました。だからと言って、聖徒たちが、私たちと同じような人間だったことを忘れてはいけません。

ですから、彼らもまた失敗し、内面の葛藤を抱え、口論もしました。そして、時には頑固になり、疑うこともありました。こうした短所を備えた彼らですから、イエスを誤解することもありました。それは、私たちと同じように、十分な知識や経験無しで、弟子としての役割を果たそうとしたからです。彼らの世界観は、教育やしつけによってでき上がったものでした。

神の子どもとして強くなるように、イエスはいつも彼らに教えておられました。つまり、イエスご自身の実例をもって教えられたのです。これをとおし、神は私たちにも同じように教えてくださることを知り、励まされます。

それではここで弟子たちはどのような経歴を持ち、どのような人物だったのか調べてみましょう。

「第五の福音」=(現地の情報に基づいた、新約聖書の背景についての学び)

イエスの弟子たちについて詳しく知るためには、「第五の福音」について理解する必要があります。

イスラエル・ティーチングレター・シリーズでは、さまざまな学びのために、新約聖書の背景を理解することに努めてきました。この背景についての学びを、「第五の福音」と呼びます。私はこれを、新しい福音書を付け加えるという意味ではなく、新約聖書の教えや出来事をはっきり理解する助けになる方法として取り入れています。

当時の情報は、新約聖書の記者たちによって伝えられ、まるで私たちがその時代に住んでいたかのように感じさせてくれます。しかし聖書の記者たちは、その時代の人々の希望や恐怖、彼らの内に起こった変化、地理、ヘブル語、文化、聖書にある祝日と祭り、その土地の習慣、彼らが敬遠する異教徒の習慣などについては、読者はすでに理解していると考え、細かいことは省いています。ところが2000年も前に、何千キロも離れた場所で起こった出来事ですから、私たちには理解しづらい点もあります。そこで、イスラエル・ティーチングレターでは、その頃に起こった現実の状況を調べて書き伝える努力をしています。聖書の「言外の意味」を読み取る手助けになるように、との思いからです。

では、どのようにして「第五の福音」について情報を得るのでしょうか。まず、1世紀の歴史を記録した書簡があります。例えば、ユダヤ人の歴史家プリィニイやヨセフスが書き記したもの、ローマの歴史文書などです。ユダヤ教の律法学者たちが書き表した書物・ミシュナー(口伝律法を文面化したもの)には、イエスの時代に、ユダヤ人がモーセの律法(旧約聖書の最初の5巻)を信じ、どのようにそれらを守っていたのか、宗教の習慣が明白に記されています。それと同時に、考古学的な発見と調査をとおして、新約聖書の時代がさらに明らかになってくるのです。

弟子たちの七つの特徴(1〜3)

その頃の弟子たちについてより良く知るために、このティーチングレターは、ブリッジズ・フォー・ピースの理事の一人であり、私の同僚でもあるジェームズ・フレミング師(エルサレムにある『聖地研究所』の創立者)から情報を集めて書かれています。

それでは、イエスの最初の弟子となったアンデレ、ペテロ、ピリポ、そしてゼベダイの息子たちであるヨハネとヤコブの故郷であった、ベツサイダについて学んでみましょう。そこには弟子たちの生活を知る手掛かりがあります。

ベツサイダはガリラヤ湖の北岸にあり、カペナウムの東部に位置し、ヨルダン川の北の入口とも言えます。ベツサイダは直訳すると「漁師の家」ですが、実際に魚釣りには最適な場所でした。川の有機物が流入することで、そこは川魚の餌場となっていたからです。イエスの時代、ベツサイダは城壁のない小さな村で、信心深いユダヤ人漁師の約200家族が住んでいました。

イエスのガリラヤ伝道の中心地であったこの村の特質や生活状態を念頭に置いて、弟子たちの7つの特徴について学んでいきましょう。これらの情報は、イエスが弟子たちを有能な者へと育て上げるために苦労されたことを理解する手助けとなります。彼らの特徴は必ずしも喜ばしいものではありませんが、真実の人間性を表しているといえます。

1.弟子たちは視野が狭く、過激な信心家で、人種差別の中で育った

弟子たちは、近代ギリシャの影響を受けたローマの社会に溶け込めず、国際人でもなく、教養人でもなく、ギリシャ化したユダヤ人でもありませんでした。“ギリシャ化した”とは、ギリシャ文化を認め、どちらかといえば偏見の少ない、視野の広い世渡り上手な人たちのことを言います。有名なユダヤ人歴史家のヨセフスやフィロは、その頃の代表的なギリシャ化したユダヤ人の実例であると言えるでしょう。

弟子たちは、ガリラヤの片田舎の、信心深いユダヤ人の村の出身でした。人々は弟子たちを、現在の極端な超正統派ユダヤ人のようだったと考えています。彼らは人種差別的な環境で育ち、自分たち以外の民族とは付き合いませんでした。つまり、ユダヤ人以外の人々とは交わらなかったのです。それによって、世の汚れから守られると思っていました。今でも、そのような宗教上の考えを持っているクリスチャンやユダヤ人社会があります。

ベツサイダの近くに、ジュリアスという、城壁を巡らした、ギリシャ化されたユダヤ人の大きな国際都市がありました。この場所については新約聖書には記されていないので、ご存知ないかもしれません。ここが書かれなかった理由は、弟子たちが絶対に立ち寄らない場所だったからです。

ジュリアスには、ギリシャ化されたユダヤ人と異邦人が住んでいました。そこの住民は、おそらくギリシヤの美術品や像を神殿に持ち込み、ローマの神々を祀り、ユダヤの食物規定に反した、汚れた食物を食べ、供え物として偶像に肉を捧げることもあったでしょう。その上、ローマの神々を崇拝する劇や社会教育を行っていたと思われます。

ですから、イエスの弟子たちにとって、ジュリアスの人々は「他の群れの羊」だったのです。弟子たちは、「神が異邦人やギリシャ化したユダヤ人を愛されるはずがない」と考えていましたから、そのような人々と交流を持つことは考えられなかったのです。現在でも、若干のユダヤ教のラビやキリスト教の牧師が、世の中にあって汚されることを避けるために、信徒に「他の群れの人たちに近寄らないように」と教えています。イエスの時代、異邦人が通り過ぎる影を見ただけで、全身を水に浸す清めの儀式で体を洗わなければならないと教えた律法学者さえいました。イエスの弟子たちはそのような社会の出身だったのです。

弟子たちが異邦人と兄弟のように親しく交わっていたとすれば、使徒10章のつじつまが合いません。この箇所に出てくるコルネリオという人物は、貧乏人を助ける信仰の篤い異邦人でした。ある日、彼は次のような幻を見ました。神のみ使いが現われ、彼にこう命じました。「ヨッパに使いを出し、シモン・ペテロという人を捜しなさい。彼はあなたに『主』のことを話してくれます。」そこで彼は使いを遣わし、ペテロを家に招きました。ペテロは弟子を連れてコルネリオの家へやって来ました。コルネリオは仲の良い友人や親類の者と共に待ち受けていました。そこでペテロは「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、「神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」と言っています。(使徒10:28)

つまり、ペテロは一度も異邦人と交わったことがなく、ジュリアスヘ行ったこともありませんでした。そして汚れた食物を食べたこともなかったのです。コルネリオからの使いが来る直前、昼食の準備を待つ間、ペテロは神からの幻を見ていました。その幻とは、天が開き、大きな敷布のような布が四隅をつるされて地上に降りて来るもので、その中には清い動物と汚れた動物がいました。ペテロはその幻を受け入れることができませんでした。しかし、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえました。ペテロは言いました。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」再び声があって、彼にこう言いました。神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(使徒10:13-14)

コルネリオの使いが来た時、「ペテロ、いっしょに行きなさい。私が彼らを迎えに来させたのだから」と神は語られました。ペテロは人も動物も同じように“清いもの”と“汚れたもの”に分類していましたが、その時何をするべきなのか悟ることができました。それは、「異邦人にも神の福音を伝える時が来ている」ということです。コルネリオの所に着いた時、皆の前でペテロは次のように言いました。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(使徒10:34-35)

初期のクリスチャンが、いかに人種差別的な生活をしていたかを知っていただくためにも、もう少し深く学んでみましょう。

弟子たちや信徒たちは、ペテロが異邦人に福音を伝えたことを聞き、皆恐れ、ペテロに厳しく迫りました。「あなたは、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたということだが。」(使徒11:3)。ペテロがそれについて説明すると、彼らは初めて、福音はすべての人々のものであることを知りました。そして彼らは「神は、異邦人にも命にいたる悔い改めをお与えになったのだ。」と言って神をほめたたえました(使徒11:18)。それまでは、福音はユダヤ人だけのものだと考えていましたが、以後、この福音をすべての人と分け合うようになったのです。

ここで一番関心を引くのは、時間の経過です。使徒12章にヘロデの死が記されていますが、それは紀元43年のことでした。ということは、ペテロが主を信じてから13年が経っていたにもかかわらず、それまで一度も福音を異邦人と分け合ったことがなかったということになります。このことから、ペテロも初期の信徒も、他民族とは交流を持っていなかったと言えます。

イエスは、初めから、ユダヤ人以外の人々にも手をさし伸べられました。取税人や売春婦と食事をしたり、神の愛と救いを伝えるためにサマリヤ人とも話をしたりしました。もちろん、福音はすべての人のものですが、当時の弟子や初期の教会がそれを理解するのには、ずいぶん長い時間がかかったのです。

2.弟子たちはローマ人をひどく嫌っていた

「人種差別による分離」を良いことだと信じる人たちが最も敬遠していたのは、ローマ人でした。福音書をお読みになれば、これは一目瞭然です。「愛」に関して多く書かれている福音書の中でも、ローマとその制度に対する憎しみを感じ取ることができます。それでは、ユダヤ人が彼らを嫌う理由とは何なのでしょうか。

使徒ペテロが生きていた時よりももっとさかのぼって、彼の曾祖父の時代、ガリラヤはかなりギリシャ化した異教の地になっていました。当時のユダヤ政府は、ガリラヤを元のユダヤの土地に戻すため、熱心なユダヤ教徒たちをこの地方へ送り込んでいました。その新顔たちは、ユダヤ教を熱狂的に信奉する根本主義者であったことは間違いありません。

ローマがガリラヤを征服した時、彼らは直ちに、ガリラヤをユダヤの土地として復興しようとする活動をすべて消し去ろうとしました。当然ペテロの時代になっても、初期移住者の子孫である人々は、ローマ帝国の一方的な侵入を好むはずがありません。ですから、イエスの弟子たちは、聖書の教えとイスラエルの教育に反した古代ローマの政策を嫌い、それを撲滅したいと考えていました。古代ローマは、聖書の教えの重要性をあざ笑い、悪の行為を支持したのです。

イエスの時代のガリラヤ湖周辺は、二つのグループに分かれていました。一つはユダヤ側、つまりイエスに従うグループで、湖の北側の一部、北西部とベツサイダ、カペナウム、そしてゲネサレ、マグダラの地域に集まっていました。もう一方のグループは、ギリシャの影響を受けた人々で、前者のグループ以外の地域から成り立っており、聖書によると「反対側」のグループと言っています。

もちろん、イエスの弟子たちは、イエスに従う地域側に住んでいました。この信心深いユダヤ人のグループは、ローマに対抗し、二か所の安全な場所を確保しました。それはアルベルの断崖とゴラン高原の傾斜にあるガムラです。

アルベルは、垂直に切り立った断崖から海が一望できる高い所にあり、洞窟がいくつもあります。山の上からロープで降りる以外、その洞窟へ行く方法はありませんでした。一度洞窟に入ってしまえば安全でした。

当時の歴史家ヨセフスの記録には次のようにあります。「自称『ユダヤの大王』ヘロデは、紀元前39年にガリラヤの知事となった。へロデは軍隊を率いて、地方の住民を征服するためにガリラヤヘ行った。多くのゼロテ派(熱心党)は地方のあちらこちらから逃げてアルベルの洞窟へ集まって来た。

彼らを捕らえるため、ヘロデは敵船などを引き寄せる引っ掛けかぎを用い、部下を絶壁の端から洞窟と同じ高さまで降ろして、ユダヤ人を追い出した。洞窟から出て来なかったユダヤ人は、ヘロデやローマ帝国に服従するより、軍隊の投げた火の矢によって洞窟の中で焼死することを選んだ。また、父親は子どもを、祖父は孫を高い洞窟から下の谷へ落とし、自分たちも飛び降りて死を選んだ。」ここからも、ローマ帝国に対するユダヤ人の強い拒絶感が伺えます。

二つ目の陣営はゴラン高原の傾斜地にあるガムラでした。ラクダの形をした丘なので、ガムラと呼ばれるようになりました。(ヘブル語で「ガムラ」はラクダを指す)

このゼロテ党(熱心党)の要塞都市は、ユダという人物によって築かれてから約100年間も存続しました。

イエスの死と復活の33年後、ヨセフスの記述によると、ユダヤ人がローマ帝国に対して初めての反乱を起こしましたが(紀元66年から70年までの『第1次ユダヤ戦争」)、このガムラがその始まりでした。ゼロテ党のメンバー960人がローマ帝国に服従することを嫌い、自殺を選んだ「マサダの集団自決」は有名な話ですが、「ガムラの自決」はもっと凄惨でした。最終的に5000人もの人々が飛び降り自殺の道を選んだのです。

ガムラはベツサイダから見える距離でしたから、ヤコブ、ヨハネ、ペテロ、アンデレ、ピリポは、毎夜、床に就く前に、遥か彼方にガムラの明かりを見ていました。時には、カチヤン、カチャンという、反乱のための軍事演習をしている音が、イエスの説教の合間に聞こえてきたことでしよう。

当時の人々は、マタイ5章3節から6節に書かれている「山上の垂訓」の教えとは、全く違う考え方で生きていました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」とイエスは言われました。それは、「誰かに重い荷物を1キロ運んでくれと頼まれれば、2キロ運んであげなさい」、または「ローマ軍人が、良きユダヤ人クリスチャンであるあなたのところへ来て、『私が1キロ運ばなくてはならないこの重荷を、今あなたがしていることをただちに止めて、私の代わりに運びなさい』と言ったなら、軍人が満足する距離まで運んであげなさい」という教えでした。イエスは「律法を守りなさい」とおっしゃっているだけではなく「天の父の愛によって、頼まれたことの倍はしてあげなさい」、つまり「心から喜んで相手が満足するまでしてあげなさい」と言われているのです。

そのようなイエスの教えに、弟子たちは動揺しました。ゼロテ党のシモンが、弟子の一人であることを考えてみると“依然、ゼロテ党のシモン”かも知れませんが、“以前のゼロテ党のシモン”ではなくなっていったのです。

イエスの教えの中に「税金を払う」という問題があります。当時、社会人は7種類の税金を払わなければなりませんでした(4種類はローマ帝国、残りの3種類は神殿)。それ以外にも地方税があり、これは自分の住んでいる土地以外の場所へ出るたびに払わなければなりませんでした。その上、地方税には定まった額が設定されておらず、取税人はローマ帝国の要求額以上を取り、余分の金額は自分たちの懐にしまい込んでいました。つまり、それが取税人の給料だったのです。信心深いユダヤ人は「取税人」と「罪人」は同意語だと思っていました(マタイ9:11、11:19、18:17)。ですから、ベツサイダからエルサレムに行くまでの間に、額の定まらない税金を7回も払わなければなりませんでした。そして、その大部分が彼らの忌み嫌うローマ帝国に入金されました。

弟子たちは熱心な信者でしたから、ローマ人を嫌うことは当然だと思っていました。しかし、イエスは、税金についてどのような教育をされたでしょうか。マタイ17章24節から27節に次のようにあります。「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。『あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。』彼は『納めます。』と言って、家にはいると、先にイエスの方からこう言い出された。『シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貫を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。』ペテロが『ほかの人たちからです。』と言うと、イエスは言われた。では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その魚の口をあけるとスタテルー枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。』」

イエスはローマに税金を納めることについて質問されたとき、このような説明をされました。「『納め金にするお金をわたしに見せなさい。』そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。『これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、『カイザルのです。』と言った。そこで、イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」(マタイ22:19-21)

ゼロテ党の人々にとって、それは受け入れ難いものでしたが、イエスはここで別の考え方があることを教えられたのです。

3.弟子たちはバプテスマのヨハネの伝道によって生まれた

当時、バプテスマのヨハネの教えは、多くの宗教熱心なユダヤ人に受け入れられていました。ヨハネの教えは「終末論的ユダヤ教」でした。

ユダヤ人たちは「この日」、「あの日」という概念で終末について理解し合っていましたら「この日」とは苦悩の多い現在の日々のことで、「あの日」とは未来の「メシヤ王国の到来の日」のことを指しています。そして一度「あの日」が来るなら、主がすべてのことを良き方向に向けてくださると考えていました。1世紀の人たちは、「あの日」になれば、主が大いなる力で歴史にご介入されると信じていたのです。しかし、彼らの人生にとって、メシヤ王国は未到来のまま終わってしまったのです。

バプテスマのヨハネはヨルダン川畔で宣教活動を始めました。その宣教の内容は、メシヤ王国の到来が間近いこと、そのために悔い改めによって備えをする必要があることでした。ガリラヤ湖の南側からヨルダン川を通って死海に向かう場所を「ベレヤ」と呼んでいました。福音書では、時々ベレヤを「はるかヨルダンのかなたにユダヤを見る」とも記しています。ベツサイダ出身の弟子たち5人は、漁業の合問に、バプテスマのヨハネの野営地で礼拝を持っていたことでしょう。ですからヨハネは彼らの顔をよく知っていたはずです。そしてイエスとヨハネは親戚同士ですから、弟子たちのことについて、こんな風に話し合っていたとしても不思議ではありません。「あなたの弟子の中で、一番霊的に敏感で、リーダーになる可能性のある人は誰かね?」それに対し、イエスはこう答えたかもしれません。「あのベツサイダ出身の5人の弟子たちは、外見はパッとしないかも知れないが、目を離さない方がいいよ」と。

ベツサイダ出身の弟子たちは、バプテスマのヨハネが行う伝道に熱心でした。そしてヨハネの洗礼を見にヨルダン川までよく出向いていたことでしょう。また、ヨハネの言う政治的メシヤ王国の到来に向けて備えていたことでしょう。死海文書(1947年に死海北西部のクムランの洞穴から発見されたヘブル語旧約聖書や宗教書)などからもわかるように、1世紀の人々はユダヤ的終末論を信じていました。

一方、新約時代に書かれた数多くの小冊子が発見されています。このような安価な書物は、当時のユダヤ人に人気がありました。その一冊として『光の子と闇の子の戦い』があります。熱心なユダヤ人信者は、ダビデ王国の復活の知らせが近いことを信じ、このような書物を読み続けてきました。メシヤ王国の到来を信じていたからです。

さて、今月号はこの辺で終わりにし、来月号に継続させていただきます。次号で、弟子たちの残り4つの特徴について学んでみたいと思います。例えば「飲み込みの遅い弟子たち」「弟子たちは私たちが想像するほど貧しい漁師ではなかった」「弟子たちは『奮闘努力の学習体験』をした」「イエスが弟子たちにご自身を現されたのは、一度だけではなかった」などです。

弟子たちの特徴を知ることは、新約聖書に書かれている弟子たちの言葉や行動をより良く理解することにつながります。

それでは、また来月!

エルサレムからシャロ一ム

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