ティーチングレター

神のみ心を知る

BFP編集部 2001年8月

“私の人生に対する神さまのご計画とは、いったい何だろう……。”この熱い疑問に、どれほど思いをめぐらせてきたことでしょう。答えがあまりにもはっきりしないので、まるで主がそれを明かさないことを喜んでおられるのではないかと思えるほどです。

人生の転換期に、私たちが神のみ心を求めることを、主は熱心に望んでおられます。み心を知れば、人生に与えられている神のご計画を成就することができるからです。しかし、それがわかっていても、み心を求めるのが困難に思えることがあります。それでも、主に答えを求め続けるなら、神は喜んで応えてくださいます。

主は次のように教えておられます。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)

この約束があるにもかかわらず、「未経験のこの仕事を引き受けるべきか」「太郎さんと結婚するべきかしら」「大学で何を専攻しよう」「新しい土地へ引っ越すべきだろうか」……など、将来にかかわる岐路に立たされたとき、落ち込んだり、混乱させられたり、または恐れたりします。しかし、神のみ心を見つけることは、次に主と共にどんな冒険へ入っていくのかを決断する、喜びに満ちた体験であるべきです。

神のみ心を探し求めることは、人生の選択を決断する以上に大切なことです。それは、日常の一刻一刻で体験するべき歩みです。人生の大間題に答えをいただくためには、普段から絶えず主との交わりの中にいる必要があります。

今月のイスラエル・ティーチング・レターでは、人生の岐路に立たされた時、「どのように神のみ心を知るか」について、実際的な方法論に触れていこうと思います。しかしその前に、まずは日々どのように歩むべきか、いくつかの原則を見ていきましょう。

神は『全世界へ救いをもたらすご計画』の成就を熱望されています。私たちはこの福音を世に伝えるための、神の道具です。ですから神にとって、日常の歩みから大きな選択まで、一私たちの人生のすべてが重要なのです。

『救い主』そして『主権者』としての神

人生の選択という大問題を神に問う前に、まず基本原則にしっかり立っているかを確認する必要があります。それは、日々の生活を神と一致させているかということです。神との個人的な交わりなしでは、より大きな疑問への答えを期待することはできません。ですから、神の道から外れないために、神を「救い主」としてだけでなく、「主権者」としても受け入れなければなりません。これは、イエスをこの両方のレベルでお迎えすることによって成し遂げられます。

「救い主」としての神のご性質はヨハネ3章16節に明記されています。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

「主権者」として、イエスはこう言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28:18)。主こそ、私たちが道を外れないように従い、導きを求めるべき唯一のお方です。

イエスによって成し遂げられた罪の贖いを信じ、救いをいただいた私たちクリスチャンは、神の王国の民です。神なくして存在すること、また神なしで永遠に生きなければならない状態から私たちは救われたのです。しかし、イエスを人生の真の主として迎え入れる、第二のステップに踏み出している人は、果たしてどれほど存在するでしょう。

イエスを「救い主」、そして「主権者」として受け入れない限り、皆さまの人生に与えられている、真のみ心を知ることは決してありません。なぜでしょうか。

それはイエスが心の中心にいらっしゃらないために、そこに私たちの生活をコントロールする偶像、またその他の影響が入り込むからです。最大の偶像は、私たちの心の王座を独占し、神の支配を拒む、自分自身のエゴかもしれません。自分の素晴らしい行いを列挙し、「だから祝福されて当然だ」と神に主張するような自我が邪魔をするのです。こんな時、態度を改め、神との関係を変えていく必要があります。へりくだって主を求め、主がくださった新しい人生を用いて、主のために何ができるのかを教えていただき、そしてその具体化に取り掛かりましょう。

どのように偶像が入り込んでくるのでしょう。偶像とは単なる刻まれた像だけではありません。神と私たちの間に割り込んで交わりを妨げる、あらゆる事柄を指します。それらは私たちの注意を逸らし、主との交わりを邪魔するのです。悲しいことに、私たちは神より先にそのようなものに関心を向けてしまう愚かな存在です。

どのようなものが、偶像と成りえるのでしょうか。

その一つが「悪い習慣」です。これこそ、私たちに自己敗北をさせ、清い生活を奪い取って、悪循環のなかに留め置く原因となっています。ガラテヤ5章17節から21節には、人間が習慣的に行ってしまう、肉の行いのリストが載っています。パウロは、神の助けでそれらと縁を切るようにと勧めています。彼は、第1コリント6章19節から20節でも次のように言っています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」

聖書が示すもう一つの偶像は、「この世に属するもの」です。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(第1ヨハネ2:15-17)とヨハネは言っています。

ヘブル11章25節には、「はかない罪の楽しみ」とありますが、それについても考えてみましょう。確かにある種の罪は、肉の欲望に喜びや満足をもたらします。しかし、罪は父なる神から私たちを引き離し、それ自身が偶像ともなりえます。

仕事や家族、また主にある伝道活動のような、罪が入り込まないように見える事柄さえも偶像となりえます。神の召しの中にあっても、あまりにも忙し過ぎる場合、その仕事本来の中心であるべき神を見失う可能性があります。どうかお聞きください。私は仕事や家族、ミニストリーに対する健康な熱意が悪いと言っているのではありません。しかしあまりにもこれらに集中し過ぎて、み心を仰がずに自分の肉だけで動かそうとするなら、それらが神と私たちの間に足場を見つけ、偶像となるのです。

パウロはテサロニケの人々について、次のように言っています。「あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったか」(第1テサロニケ1:9)。欧米では、異教の寺院を目にすることがないために、自分たちにも偶像の問題があることをイメージすることができません。しかし、誰も偶像礼拝の可能性を免れることはできません。ヨハネは彼の最初の使徒書簡を次のように結んでいます。「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(第1ヨハネ5:20-21)

神を救いとし、人生の主とし、心を尽くして求めることは、主と私たちの関係を正しく保ってくれます。

神を知り、神をあらわす

救いをとおして新たにされた人生で守るべき第二の基本原則は、積極的にキリストに見習い、日々の歩みの中でそのご性質と働きをあらわし、他の人々を神の王国に導くことです。神のみ心は「神を知り、神をあらわす」と要約することができます。

イスラエルにおける、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫たちの生活の中では、これこそが最も基本的な召しでした。『選ばれし民』一彼らがこう呼ばれた理由の一つは、イスラエルの地で聖書に基づいた生活を営むことでした。そして世界の国々がそれを見て、彼らの中に真の神を見いだし、その家族に加わりたいと望むようになることでした。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2:3)

クリスチャンもまた、己の生き方をとおして神のメッセージを世に示すために召されていると、パウロは言っています。「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれてし、るのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神のみ霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(第2コリント3:2-3)

神の購いを知らせる「生きた伝達者」というこの大いなる役割を、私たちはいかに成し遂げればよいのでしようか。

私たちの歩みが、神のみ心により叶うようになること」によってそれは達成されると、パウロはローマ書で述べています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)

ピリピ書でも、神の目的の中に留まり、日々救いを達成する歩みを続けるように語られています。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ2:12-16)

単純に言うなら、私たちが勝手にあちらこちらへ手を伸ばし始める前に、私たちの内側にしっかりと住まわれることを、神は望んでおられるということです。生活の中に起こるすべての出来事は、私たちをキリストの似姿に近づけ、一致させるために起こされます。また世の暗闇の中で、光輝く標識として活かされるために、私たちに命が与えられています。これこそ、どこで何をしていようと、変わることがない基本的な召しです。

しかし、現実にはなかなかキリストのように行動しておらず、世を照らす光としての役割を果たし切れていない私たちにとって、これは本当に大変なご命令です。時には世的なことにとらわれて、後退することさえあります。神のご計画全体に混乱をもたらすのは罪です。そして方向を狂わせ、救いに導こうとする主の目的から、私たちを遠ざけてしまいます。

ですからパウロは、新しい人生を勝ち取っていくために、古い生き方を捨てて、生きた供え物となりなさいと勧めています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:1-2)

バランスを保つ

私たちはバランスを保ちつつ生きなければなりません。

これは、あまりにも天国のことに心を奪われて、肉の世を否定するようになってはいけないということです。世をご自分のものに変えるために、神は私たちを地上に置かれました。ですから、世俗から退き霊的な隠者になるとか、または独善的になり過ぎて、愛をもって人々を主のもとに導かず、かえって切り捨てるようになってはなりません。

クムランのエッセネ派や、初期のクリスチャン隠者などは、このバランスを欠いた良い例です。エッセネ派の人々はクムランヘ退き、またクリスチャンの隠者たちもユダヤ荒野の洞穴に引きこもって生涯を送りました。どちらも他の人々から自分たちを分離したのです。これではいったいどうやって、神が与えてくださる豊かな人生の証人となり、人々を神のみ国に導くことができるでしょう。

パリサイ派の人々は独善的な人々を表す一列です。彼らについてイエスは、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません」(マタイ23:2-3)と教えています。彼らは神のみことばを知っていましたが、行ないがあまりにも独善的であったために、自分以外のすべてを裁くようになり、さらにその自己正義が神との関係を妨げるプライドになってしまいました。イエスのたとえ話にも、パリサイ人が、高慢な態度で捧げた十分の一の捧げ物よりも、貧しい寡婦の精一杯の捧げ物が神を喜ばせたとあります。また公の場で、人々の賞賛を得るために施しや断食をすることを、イエスは厳しく叱られ、むしろ神に見てもらうために隠れたところで捧げなさいと言われました。

霊的スーパーマンのようであることは、実は全く「スーパー」でも「霊的」でもなく、むしろ自己正義に基づいた度を越した振る舞いであって、罪と言わざるをえません。

私自身、全くこのとおりの人物でした。クリスチャンとして新生した十代の頃、私は非常に熱心で、自分と同じように家族にも救われてほしいと一生懸命でした。しかし私の個人的聖戦の結果は、成功とは程遠いものでした。寄宿制高校から遠くの大学へ進学した私は、帰郷するたびに彼らを「聖なる家族」にしようとしたのです。父の酒瓶の中身を流しに空け、母の雑誌から占星術のペ一ジを破り捨て、妹の煙草をゴミ箱に投げ入れました。そしてイエスについて語り、どうすれば救われるのかを説明しました。皆さまには、私の証しがいかにみじめな結果に終わったかおわかりになると思います。また、休暇が終わって私が学校へ戻ることを、家族がどれほど喜んだか容易に想像がつくと思います。

しかしある年のクリスマス休暇の直前、家族に再び「証し」をしようと、万事整えて帰り支度をしていた時、大学の教授だったボブ・スタンプス牧師の、「主の聖さ」についての説教を聞きました。これが私のすべてを変えたのです。ボブ牧師は、東方の博士たちが主を礼拝するために、ベツレヘムのような、最もみすぼらしい場所へ来たことを例に取りました。そして、王宮には程遠い、粗末な馬小屋をご自身の臨在でお城に変えた、幼い王イエスの聖さについて語られました。その中でボブ牧師はこう勧めました。「家に帰って家族を愛しなさい。彼らを愛する理由を手紙に綴って送りなさい。そして私たちの内におられる神のみ霊に、彼らを愛によって引寄せてくださるようにゆだねなさい。周りを変えようとするのではなく、あなたの心に起こった変化を現しなさい。あなたに神が宿っておられるのを見て、人々が目分にも同じ変化が欲しいと感じさせるためです。」

私はこのとおり実行しました。家へ帰り、家族に愛と尊敬を示し、全員に自分が彼らをいかに愛し感謝しているかを、その理由と共に長い手紙にしたためて渡しました。彼らは、私の中に見られる魅力一すなわち神について話し合うために、それぞれやって来ました。そして一人ひとり主のみ旨の時に救いを受け、神の家族に加わっていったのです。私たちは本当に主を知るべきです。そうすれば、自らをとおして神をあらわすことができるようになります。また、神の王国の中で、私たちの人生に良い変化がもたらされます。

仕える相手を選びなさい

イスラエルの民がエリコの町を陥落させた後、ヨシュアは「自分自身を聖別せよ」と民に命じました。神のご臨在があったにもかかわらず、彼らは備えなければなりませんでした。自分たちの思いと心を調べ、悔い改め、そして神との正しい関係を回復する必要があったのです。私たちも例外なく全員が同じことを繰り返していく必要があります。さらに、ヨシュアはシェケムで再び彼らに命じました。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:14-15)

クリスチャンの中には、その歩みにおいてどうにか火傷を負わず、罪のすれすれを歩もうとがんばっている人々が存在します。こうした振る舞いは、まるで車で崖っぷちを走っているのと同じです。こういう人は、遅かれ早かれ失敗してしまうか、あるいは何者かによって強制的に突き落とされてしまうことでしょう。たとえ落ちないように必死になっても、今度は周りの状況や人々、そして進もうとしている道さえ見えなくなってしまいます。このようなクリスチャンは、聖書、と神に従うことが一番良いとわかっているのですが、軽い調子で世と関わりを持ちたいのです。あるいは救いを知ったばかりのクリスチャンで、まだイエスを目分の主としては理解していないのかもしれません。イエスは、私たちが地獄へ行かないように守ってくださる、火災保険のようなお方ではありません。もし主をただそれだけの存在だと思うなら、あなたは神が与えられた「豊かな人生」の約束を見落としています。さらに、主と共に歩む素晴らしい働きも見られないのです。

「世にあれ。しかし世のものとはなるな」と私たちは教えられています。ヨハネ17章のイエスの祈りには、教会に対するこの概念がはっきりとあらわされています。私たちは世の真っ只中に存在するべきです。そうすれば、私たちの内に輝く主の光を、世が見るでしょう。しかし逆に、私たちの人生や証しの中に、世に属するものが入り込むようなことがあってはなりません。さもなければ、神が選び与えてくださっている豊かな人生が、私たちから奪い去られてしまうでしょう。

人生の岐路における選択

やっとこのテーマヘたどり着きました。ここまでは、人生の土台となるべき基本原則について確認してきました。今度こそ「どうすれば私に対する神のみ心を知ることができるのか」という疑問に体当たりしていきましょう。

人生の十字路で答えを見つけるために、3つの原則があります。私はそれを「神の導きの3灯台」と呼んでいます。

  1. みことばとの一致があるか。
  2. 霊において「確かにそれが自分への導きだ」というしるしと平安、そして確信があるか。
  3. この時で良いのか。すべてが混乱なく進んでいるか。

イタリアに、水路が狭く危険な岩がゴロゴロしていて、夜は座礁させずに船を進めるのが不可能な港があります。そこで、船を安全に導くために、港の管理者が3つの灯台を立てました。この3つの灯りが重なってひとつに見える場所へは安全に船を入れることができますが、灯りを個々に見ると、船はコースを外れてしまいます。

これが神の導きにおける、3原則に当てはまるのです。この3つが揃い、初めて安心して船を進めることができます。

ではこの3つの原則を、詳しく学んでいきましょう。

1:みことばとの一致があるか
クリスチャンの中には、みことばにわざと違反したり、銀行強盗を計画したり、お金のために売春をしようと思う人はもちろんいません。しかし、私たちはすべての面においとしている方向がみ心にかなっているか、いつも自分に問うべきです。

安定を欠いた状況で、進むべき方向を探している場合はどうでしょう。例えば、ビザの期限が切れて、労働許可を持っていないボランティアが、イスラエルに滞在して働き続けたいと祈っていたとします。聖書は「カイザルのものはカイザルに返しなさし、」-つまり、「住んでいる地の法律に従いなさい」と教えています。ですから、そこにみことばへの違反があるのに、「イスラエルに留まり、祝福を受けたい」という祈りの答えなど、どうして神に期待することができるでしょう。もし、留まるように主から示されたのなら、許可が発行されることを神に信頼し、堂々とビザ発給事務局へ行けばよいのです。彼らが留まるのが神のみ心であれば、ビザ発給所は彼らを止められはしません。事実、そのように扉が開かれるのを、私はしばしば見てきました。

また、欲望を正当化するために、神のみことばを不適切に使用したりしないように注意しなければなりません。恵という名前の女性と結婚することを願っていた男性がいました。彼は聖書を軽い調子でぱっと開き、「恵みが、あなたと共にあるように」の個所を指差し、強引に彼女と結婚してしまったそうです。このような人であってはなりません。また、聖書に「慌てふためてはいけない」と書いているからといって、絶対に急いで動こうとしない人のようであっても困ります。これらは、自分の願いを正当化する聖書箇所を探し出し、それを理由に事を進める、勝手な解釈に基づいたみことばによる根拠付けです。まず、他の人々に相談してみましょう。もしも、あなたが素直に耳を傾けようとするなら、皆が間違いを教えてくれるでしよう。

2:霊において確かにそれが自分への導きだというしるしと平安、そして確信があるか
私たちは皆一人ひとりが特別で、それぞれ違った召しを与えられているユニークな存在です。個人に対する神のみ心は、他の人へのみ心とは違います。あなたの身近な人物に、「持ち物すべて売り払い、バングラデシュへ行きなさい」という召しが与えられたとします。あなたがそれをできないからといって悩まないでください。バングラデシュへ召されているのは、あなたではありませんから安心しましょう。しかし、あなた自身が呼ばれている時には、はっきりと「確かに主のみ心である」と知ることでしょう。

時には、従うのが難しいと思えることを求められます。そんな時、それが本当に自分に言われていることだと信じるのが嫌で、何とかそれから抜け出そうとします。

5月号の「主が導かれるところへ私は従っていきます-パート1」で、神がイスラエルに召しておられると知っていながら、私がそれからどのように逃げようとしたかをお話しました。もう一度開いてご覧になれば、あなた自身にも同じよう心経験があったのを思い出されるかもしれません。

私たちは主を待ち望み、主が心に働いてくださる時間を待つ必要があります。私たちへの召しを呼びかけておられる主の聖なるみ霊に、知らんふりはいけません。

また、私たちは霊的な世界に生きている存在であり、霊的にどのようなものか、吟味するよう教えられています。ですから、自分に語りかける声が、確かに主からのものかどうか確認すべきです。この世には、さまざまな行き過ぎが存在しますが、それらはある一点の真理を示しています。たとえば、アメリカで起こつた大量猟奇殺人のほとんどのケースで、犯人たちは「神に命じられてやった」と言っています。もちろんそれは真の神ではありません。しかし人間はこのように、サタンの欺きに乗せられてしまうのです。

士師記6章に、「ギデオンが羊の毛に露が降りているかどうかで神のみ心を調べた」という記事が載っています。この「ギデオンの羊の毛」に関しても、一言注意させてください。これはギデオンにだけ許されたことで、すべての人に適用すべきものではありません。自分のやりたいことを正当化しようとして、自分なりの「羊の毛」を選び、「もしもこの朝、晴れて太陽が昇っているのに、羊の毛が濡れているなら、主が答えてくださったことに違いない」などと言って、これを不正利用することができるからです。もちろん、羊の毛を地面に置いておくようにと、本当に主が言われるなら試しても良いのです。しかし、他の二つの原則にも照らし合わせながら、それが確かに神からのものであるのかを確認しましょう。

3:この時で良いのか。すべての状況が混乱なく進んでいるか
これが一番反則しやすい原則です。その召しが聖書に基づき、神のみ心であると確認すると、しばしば正しい時を知らせる信号の確認を忘れ、ボートも用意せずに深みへ漕ぎ出してしまうことがあります。インドヘの召しを受けた、ある牧師の話があります。彼は「これこそ聖書的な、自分への召しだ」という霊的な証明を得ました。彼と夫人は家をたたんで荷造りをして待ちました。ところが、彼をインドヘ招くような話はどこからもありませんでした。主のみ声を聞き間違えたのかとがっかりして、彼は自分の教会にもう一度戻っていきました。何年も経て間もなく引退という頃、彼が何年も成功を収めてきたセミナーを、今度はインドの牧師、宣教師のために開いてほしいという一依頼が教団から来ました。彼はちゃんと神のみ声を聞いていたのです。しかし、それが思いもよらぬタイミングだったのです。

タイミングはとてもきわどい問題です。あせって神より先走ってはいけません。主は未来をご存知で、私たちに決断するための充分な時間をくださいます。好機が訪れるのを注意深く見張っていましょう。もしそこに何か一つでも「ダメ」のサインがあるなら、主がすべてのドアを(もちろん、み心だった場合ですが)開いてくださるまで祈って待ちましょう。

さらに、聖書に基づいたすでにわかりきった日常的な事にまで神の指示を期待するような、肉的な律法主義に陥らないように気をつけましょう。これらの原則は、人生を左右する決断の助けにはなりますが、人生の普遍的原則を決めるためのものではありません。もしも、何を食べるか、何を着るか、何を飲むべきかということにまで祈る必要を感じるなら、実は律法主義にしばられている可能性があります。特別な状況以外では、主はこれらの決断を私たちにゆだねておられます。私たちは家族を愛するべきかとか、仕事に勤勉にいそしむべきか、などといちいち主にたずねる必要はありません。

では、神が私たちに選択を任されているみ心についてはどうでしょうか。神は誰と結婚するべきか、どんな仕事に就くべきかを、必ずしも教えてくださらないかもしれません。時によってこれらの決断は私たちに委ねられています。

これら3原則は、み心を選択する助けとなるだけでなく、このうちの一つにでも何か動きがあるのなら、それは主が私たちを次のステップヘ動かそうとされている準備段階を示しているかもしれません。よく気をつけていましょう。みことばを読んでいて、心に何か召しを与えられたと感じるかもしれません。かすかなみ声が、主に聞きなさいと勧めているかもしれません。あるいは状況が変わって、新しい仕事や献身への召しをいただくかもしれません。これらの変化があったら、次のステップは何であるのか、またいつなのかを知るために、他の二つの原則もしっかりチェックしましょう。

しかし、単に飽きだとか不満だからというのは、他の方向を捜し求める理由とはなりません。もちろん、その不満の原因は新しい方向へ進むようにと、主が私たちに示されているのかもしれませんが、主との交わりから外れているために、与えられている召しが手の間からすり抜けているためである、という可能性もあります。どんな決断をする前にも、まず主との関係を正しく立て直しましょう。

最後に、あなたの召しが魅力的ではないとか、他の人と比べて劣るように見える場合でも、不満に思ってはいけません。また試練の渦中で、異常な心理状況になり、“今こそ違う方向へ動くべき時だ"と思える時も気をつけてください。置かれている場所で成長し、主がどのように働いてくださるのかを、期待して待ち望みましょう。

第2コリント11章の24節から27節には、パウロが直面しなければならなかった試練の数々が記載されています。「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」

すべては主の栄光のためです。だからこそ、これらの苦境をパウロは耐えることができたのです。

あなたの召しは何でしょう

もっともっと、主イエスのようになる。
イエスをあなたの救い主、そして主権者とする。
あなたの歩みから偶像を取り除く。
あなたとその証しを壊そうとする地獄の力に立ち向かう。
神と人との前にバランスのとれた、聖書的な人生を生きる。
日々あなたへの主のみ心を知ろうと努める。

  1. そこにみことぱとの一致があるか
  2. 霊において確かにそれが自分への導きだというしるしと平安、そして確信があるか
  3. この時で良いのか。すべての状況が混乱なく進んでいるか

あなたが置かれた場所で成長を重ねていく。これらすべてを短く言い表すなら、私たちは全員が主を知り、主をあらわすために召されているのです!

エルサレムからシャローム

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