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生命のパン

BFP編集部 2001年7月

ヨハネ6章「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」とあります(ヨハネ6:35、48)。ここで「私が命のパンです」と言っておられます。簡単な言葉ですが、実はとても深い意味が含まれています。なじみ深いこの言葉をとおし、イエスは何をおっしゃりたかったのか、理解を深めていきましょう。意味をよく知るために、まずそれらのお話しの「背景」や「聖書時代のパン」について考えてみます。

聖書時代とパン

神秘的な生命

古代の人にとってパンは「神秘的な命」を象徴していました。彼らは自然に生えている植物を、それぞれの収穫期にやみくもに採取していたわけではなく、その年の収穫から種子を残しておき、翌年それを蒔き、刈り取ることを覚えました。あのように小さく、しかもカラカラに乾燥した種子が生きていることは、大変不思議です。さらにその種子を粉にすると、食べ物に早変わりするのです。種子を切り開いて中を見ても、植物らしきものは見あたりませんが、種子を土の中に入れて水を与えると、奇跡が起こったように芽を出して、大きな植物になります。この奇跡は言うまでもなく、主のお働き以外の何ものでもありません。外観は死んだように見えても、主のお働きがあれば、息をし始めるのです。なぜなら、主が生命の源だからです。人間は決して種子や生きた細胞を創造したり、それらを成長させたりできません。それをおできになるのは主だけです。

最近、エジプトのギザにあるピラミッドの中で見つかった麦の種子を、イスラエル人の農学者が、ロンドンの大英博物館から買い取り、土に植えて水を与えました。すると芽が出てきたのです。数千年前の種子が生きていたのです。私たちは“種を蒔くと、芽が出る"ということは知っていますが、もっと深く考えるとき、「一体どうなっているのだろうノノ」と不思議で仕方がありません。神の創造のみ業は、本当に神秘的です。

古代の異教徒は、豊作を願って、バールやアシュタロテ神のような偶像を多く所有し、それに頼っていました。イスラエル人はパンを、神から送られた「不思議な命」だととらえていましたが、砂漠や乾燥地域に住んでいたので、収穫が少なく苦労しました。一方フェニキア人(現在のシリア、レバノン、イスラエルの地にまたがっていた古代王国)は、北部と西部の良い土地と気候に恵まれ、毎年多くの収穫がありました。現在、考古学者が古代イスラエル人の家の敷石の下から、多くの偶像を発掘しています。古代イスラエル人は彼らの神から離れたわけではなかったのでしょうが、フェニキア人たちのような、目に見える世の中の成功につられて、もしものための小さな保険のような感覚で、偶像を持っていたのでしよう。

考古学者は、この3千年前の「イスラエル人の罪」を偶然掘り出しました。もしもの場合への不安から、手放せないで握りしめている偶像は、いつか皆の面前にあばかれてしまいます。そのような罪なる思いは今すぐ捨て、神にすべてをゆだねていく必要があります。

パンは命の糧

パンは古代人の主食で、命の糧と思われていました。(レビ記26:26)

聖書には、パンとワインは神からいただいた物であると書かれています。ですから神の寛大さに感謝し、食事の前に祈るのです。ユダヤ人が祈る時、いつもこの「パンとワイン」を思い感謝を捧げます。毎週の安息日では、「主をたたえよ。王の王。全人類の王よ」と祈り、ワインに関しても同様の祈りを捧げます。また、ユダヤの習慣では、ナイフは破滅の武器と考えられ、命の源であるパンには使いません。神が準備されたものに敬意を払うしるしとして、手でパンをちぎったのです。ですから、新約聖書に「イエスはパンを裂き」と書かれているのです。主も敬虔な思いを持ってこれをなさったに違いありません。

古代イスラエルの神殿では、神がイスラエルと結ばれた永遠の契約を記念する捧げ物として、12個のパンが常時備えられていて、一週間ごとに補充していました。「神の存在」、「生命のパン」を、人々の前に現わすためです。

イエスの時代、貧しいイスラエル人の主食は、大麦のパンとオリーブでした(例外的にガリラヤ湖のそばに住んでいた人々は、魚も食べることができた)。ですから、パンは文字どおり命の糧でした。大昔から「パン」と言えば「食糧」と同意語でした(創世記3:19、士師記13:16、ルカ15:17)。そういうわけで、「私たちの日用の糧を、今日もお与えください」と神にお願いするのです。

古代人はパンを物々交換にも使いました。聖書では、パンがどれほど深い意味をもち、大切であったかを現す表現が、さまざまなことに関連して登場してきます。パンと苦難(イザヤ30:20)。パンと悲しみと涙(詩篇80:5)。だまし取ったパン(箴言20:17)。お高くとまり、食物に事欠くと小さな仕事で糧を得る人(箴言12:9、イザヤ3:7)。霊的に貧しい人。食物に欠く人(第1サムエル2:36)。神を敬う家族に与えられる食物(詩篇37:25)。自分だけ満腹になる人(エゼキエル16:49)。不義のパン(箴言4:17)。怠惰のパン(箴言31:27)

契約

古代の人々は、敵と和平を保つため、塩を用いて契約を交わしました。その方法は、一方が食事用ナイフに塩を振り、もう一方も同じことをし、その塩を少しずつ食べるのです。この習慣が後にパンに塩を振り、敵側と一緒に食べる形となりました。

パンを裂きながら食事をすることは、和解と親交のしるしです。古代イスラエルで食事を共にするということは、空腹を満たすだけでなく、親善とお互いの義務を誓い合う意味を持っていました。そして食卓とは、「聖卓」を意味し、パンは「神が平和と和解をもたらせてくださる」という意味だったのです。今日でもアラブ人は、村同士が敵対したとき、和解のために共に食事をします。

この食事による和解契約方法は、聖書の中に何度も記載されています。メルキゼデクとアブラムはお互いに契約を確認しました(創世記14:18)。イサクとアビメレク王も契約を結びました(創世記26:26-31)。ヤコブとラバンは境界線を尊重すると、固く約束しました(創世記31:53-54)。イスラエルの長老70人は、主の前で一緒に食事をしました(出エジプト24:9-11)。主は羊飼いですから、必要な物はみな与えてくださいます。私の敵の前で、主は私のために食事を整えてくださるのです。(詩篇23)

イスラエル人は神に捧げ物をし、恵みに感謝し、お祝いに主の前で楽しく食事をします。古代の考えの反映なのか、人々はこの方法で神と親しく語り合い、親交を深めるのです。(申命記12:6-7、同14:22-26)

新約聖書にも「食事を一緒にする」ことと「和合」の関係が書いてあります。放蕩息子の帰宅を祝い、父が肥えた子牛で祝宴をしました。これによって町全体が息子の赦しを、一緒に喜ぶためでした(ルカ15:23-24)。復活後、イエスとペテロはガリラヤ湖の岸辺でパンと魚を食べました。これはイエスを否定したペテロの罪を赦したことを現わしています(ヨハネ21:13)。イエスは私たち全員に手をさしのべて、神との交わりを勧めています(黙示3:20)。イエスは戸の外に立ってたたき「誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私は彼の所に入って彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする」と言ってくださいました。やはり何と言っても「契約の食事」で最も重要なのは、主イエスによって定められた聖餐式でしょう。これは私たちと神の関係を回復させるものです。

ヨハネ6章

これらの情報をもとに、ヨハネ6章で何が起こっているのか、もっと深く学んでいきましょう。

五つのパンと二匹の魚

ヨハネ6章の始めに、イエスと弟子たちがガリラヤ湖北西の、人里離れた寂しい所へ渡って行ったと書かれています(マタイ14:13-15)。大勢の人がイエスにつき従っていました。5千人の男性に加え、女性と子どもたちもいましたから、少なくとも1万5千人はいたでしょう。それらの人々は、イエスのメッセージを聞き、奇跡によって病を癒していただくために共に行動していました。

空腹そうな人々の様子を見た弟子たちは、イエスの所に来て「群衆を解散させ、村に行かせて、めいめいの食物を買うようにさせてください」と言いました。しかしその近辺は異教徒の町で、清められた食物は手に入りませんでした。近くのユダヤ人の町から来ていたのは、ベツサイダの町から来ていたピリポだけでした。イエスはピリポを試すために「どこからかパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と言われました(16節)。もちろんイエスはそれが不可能なことを知っておられました。

その理由は、一日のパンが売り切れる時間だったこと。この周辺のユダヤ人の町には、そのような多くの食物が残っているはずがないこと。食べ物があったとしても、当時の給料8ヵ月分にも相当する大金はなかったことなどです。(17節)

今まさにイエスは奇跡を起こそうとされていたのですが、その前に人々に「こんなに大勢の人の食物を買う不戸不能さ」を感じさせたかったのです。

アンデレは群衆に食物を持っている者がいるか聞いて回りました。そしてやっと大麦のパン5個と小さい魚を2匹持っている少年を見つけ出しました(18-19節)。イエスはそのパンと魚を取り、天を見上げて感謝を捧げてから、座っている人々に分け与えられました。たった5個のパンと2匹の魚が、大勢の人々を満腹させたのです。その上、残った物で12の籠が一杯になりました。人々はイエスのなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました(14節)。そこでイエスは、人々が自分を王とするために無理矢理連れて行こうとしているのを知り、一人そこから姿を消されました。

ヨハネ6章4節「ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが間近になっていた」とあります。このほんの小さな情報は、多くを物語っています。他の主な祭日の時と同じように、人々は祭りのことで頭が一杯だったことでしょう。そこから連想されるのは、血、捧げ物の子羊、イースト菌抜きのパン(種なしパン)、エジプトからの脱出、そして優れた指導者モーセのことでした。

ローマの支配下にあった彼らは、モーセが先祖たちをエジプトの圧政から解放したように、ローマから解放してくれる、新しいモーセを痛切に求めていました。シナイ山頂のモーセと、荒れた丘の上のイエス、天からマナを受けて民に与えたモーセと、奇跡によってパンを与えられたイエス。奇跡のしるし、そして過ぎ越が重なり、モーセの預言「あなたの神、主は、あなたの内から、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命記18:15)という言葉を思い起こしたに違いありません。彼らはイエスをモーセのような指導者にしたかったのです。目分たちの王を、霊的な救世主ではなく、ローマの支配下から救い出してくれる、政治的な救世主にしたかったのです。さらにイエスの奇跡を見て、モーセがマナを与えたように、働かなくても日毎のパンを与えてくれる救い主だと思ったのかもしれません。イエスは彼らの信仰の浅さをとがめられました。

イエスにとって、十字架を受ける以外に王になる道があったでしょうか。いいえ。彼の王国は天におられる父から授けられるものです(詩篇2:7-12、ダニエル7:13-14)。父の備えられた道は他の方向にあり、ユダの獅子となる前に、世の罪を負う、神の小羊となられる必要があったのです(ヨハネ1:29)。しかし、まだその時が来ていなかったので、イエスは一人去られました。(15節)

「生命のパン」

イエスの人気は、ご自身の言葉によってますます上昇していきました。

翌日、一晩中そこに留まっていた何千もの大群衆に加えて、さらに近くのティベリヤから小舟で来た人々が合流しました。彼らはイエスが来られたことを知り、カペナウムヘ探しに行きました。

彼らがイエスを捜し当てると、主は、「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(26節)と、彼らの霊的ではない、肉的な動機をとがめられました。

そして、前日の奇跡の持つ深い意味について教え始め、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(27節)と言われました。他の箇所でも、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」(マタイ4:4)と、肉のための食物はすぐ無くなるが、霊的な食物は永遠の命に至らせると教えています。

彼らは好奇心を募らせ、こうたずねずにはいられませんでした。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」それに対しイエスは、「あなた方が、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(28-29節)と答えられました。行いではなく、天から遣わされたイエスを信じることによってのみ救われる、と教えられたのです。「あなた方は、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分目身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)。「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

ヨハネ6章で「永遠の命に至る食物」とイエスがおっしゃるのを聞いた人々は、荒野で神が天から与えられたマナのことを思いました(出エジプト16:4)。それで彼らはイエスに「それでは、私たちが見て信じるために、しるしとして何をくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(30-31節)と迫ります。

そこでイエスは言われました。「私が命のパンです。」(32-33、35節)ユダヤ人たちは、イエスが「私は天からくだって来たパンである。」と言われたので、「まさか!イエスは私たちのよく知っている、大工のヨセフとマリヤの息子じゃないか。どうして『私は天から下ってきたパンである』(41節)などと言うのだろう」とつぶやきました。

イエスは彼らにつぶやくのをやめるように言い、神から理解する能力が与えられている者にのみにわかる、驚くべきことを言われました。マナを食べたイスラエル人たちはすでに死んだこと、そして「私は天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。また私が与えようとするパンは、世のいのちのための、私の肉です」と語られました。(51節)

人々にはイエスの言っていることがわかりませんでした。ユダヤ人の律法は、もちろん人肉を食べることを禁じています。人々は互いに議論を始めました。主は一体何を言われたのでしょう。

神は生命の源

神は命の源であり、与え主です。子であるイエスの命は、神の命の中にあります(ヨハネ1:4、同5:26)。主は朽ちることのない、真の命を与えるために来られました。罪は命である神から、私たちを切り離します。そして私たちは肉においても、霊においても死ぬのです。世の人々に命を与えるため、天から下ってくださったメシア・イエスは、命のパンです。イスラエル人が後に飽きてうんざりした、肉の空腹を癒やすために与えられたマナとは全く違います。主は霊の命を与え、死が永遠に無くなるようにしてくださるパンなのです。

イエスはさらに続けられました。「まことに、まことに、あなた方に告げます。人のこの肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなた方のうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、私のうちにとどまり、私も彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなた方の先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(53-58節)

もちろんイエスは比喩的に言っておられるのですが、人々には理解できませんでした。聖書のあちらこちらに、「血を食べてはいけない、血を食べる者はイスラエルから追放される。血は命であり、命を食べてはならない」と書いてあるからです(レビ記17:10-14、申命記12:16、23、使徒15:20、29)。動物でさえ、定められた方法に従い、一滴の血も残らない状態でなければ食べられませんでした。それにもかかわらず、イエスは何ということを言うのだろうと、到底理解することはできませんでした。これを神の啓示なしに理解することは不可能なのです。

イエスはその言葉通り、自分の肉を食べ、血を飲みなさいという意味で言ったのではありません。霊的なことをおっしゃったのです。「わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、またいのちです」(63節)と書かれているとおりです。これらを、最後の晩餐、そしてそれに続く十字架と復活の一年前に話されたので、人々には理解できませんでした。最後にそれらの出来事が、イエスの言われた意味を明かすのです。

この教えの形はヨハネ2章と似ています。人々に一体どんな権利でこんなことをするのかと、権利を示すしるしを要求されたとき、イエスは予言的な言葉でお答えになりましたが、人々は理解できませんでした。「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。『あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。』イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2:18-22)

つまずいた多くの弟子たち

イエスの教えに多くの弟子たちは「何と難しい教えなのだろう。何のことか全くわからない」とつぶやきながら、離れていきました。前日は王にまつり上げようとした方を、翌日には捨て去ろうというのです。イエスが自分たちの望むような、ローマの圧政の下から救い出してくれる、政治的な指導者ではないことがわかったのです。前日の熱狂的な人気は、あっけなく終わりました。

そこには十二弟子だけが残りました(66-67節)。イエスはただ理解する霊的な目を与えられた者だけが残るとおっしゃっています。「父によるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」(65節)

多くの者が去っていった一方、残った者は以前にも増して忠実に従いました。彼らもイエスの言われた意味を完全に理解したわけではありませんでしたが、イエスが「永遠の命の言葉」を持っていることと、「神の聖者」であることを知っていました(68-69節)。彼らは「信仰」によって残ったのです。

もし私たちがイエスと一緒にいたとしたら、主と共に残ったでしょうか。それとも離れたでしょうか。何でも知っているような思いになったとき、神は私たちの生活に問題を与え、挑戦されます。失望したり混乱したとき、主のみ前から逃げ出したくなることはありませんか。私たちは主の近くにいる必要があります。そして主こそが、解決されるべき問題を解く、すべての答えをお持ちであることに信頼しましょう。主の中にとどまり続けるなら、いつか必ず答えをいただけるのです。

私たちにとってこれらはどのような意味を持つのでしようか?

イエスは五つのパンと2匹の魚の奇跡、そして翌日の命のパンについての教えで、多くの観念を短い中に詰め込まれています。

神秘的な命

「私は命のパンです。」と言われたイエスは、あの「麦の種」のお話のような、命の不思議さを、自身の死と復活をとおし、教えておられます。

十字架上の死が近づいたとき、主は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)とおっしゃいました。もしイエスが死んでくださらなかったら、私たちは新しい命を得ることも、神の国の種となることもできませんでした。一粒の種のように、ただ神だけが、私たちの中に命をもたらすことができるのです。

命の糧

主は命のパンであり、霊的にも肉的にも与え主であり、守り主です。パンが肉体の栄養であるように、イエスは霊的必要を満たしてくださいます。もし彼を信じるなら、私たちの日々の糧をも約束してくださるのです。それは「永遠のいのちに至り、決して飢えることがなく、決して渇くことがない」のです。「日々の糧」を与えると約束してくださったことを、ここでさらに強調したいと思います。命をただ持っているだけでは足りません。神が備えてくださっている成長した姿まで、命を発展させ、継続し続けなければならないのです。

イエスは私たちの神であり、与え主です。主はおっしゃいました。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイ21:22)。「神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)。「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。――あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。――だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:25、32、33)

イエスはまた、永遠に私たちと共にあると約束されています。「わたしを遣わした方は、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39)。主イエスは私たちといつも共にいるように、聖霊を送ってくださいました(ヨハネ14:16)。人々のうちにおられる命のパン、神殿に飾ってある、神のご臨在を表すパンのように、主の霊も私たちの間に永遠におられます。聖書の中で、神は9回「私はあなたと共にいる」とおっしゃっていきます。主は私たちとの交わりを、強く望んでおられるのです。

イエスはベツレヘムでお生まれになりました。興味深いことに、ヘブル語で、ベツレヘムは「パンの家」という意味です。イエスは、パンの家でお生まれになったのです。

和解の食事の契約

もう皆さんにとって、命のパンであるイエスと、神と人との契約を取り持つ和解のパンを結びつけるのはたやすいことでしよう。

最後の晩餐の時、過越しの祭りのパン(マッツァ:種なしパン)が食べられました。過ぎ越しの祭りはユダヤ人の3大祭りの一つで、春の祭りに当たり、祖先がエジプトから助け出されたことを記念して守られています。過ぎ越しの祭りは厳格な順序に従って行われます。まず、パン種(酵母)を取り去ることから始めます。発酵は罪の象徴だと考えられていました。なぜなら、それは心の中のプライドや虚栄心のように膨らむからです。(第1コリント5:6)

食事で食べるマッツァから取り分けられた、「苦しみのパン」とよばれる3枚重ねのマッツァで、先祖の苦難を忍びます。それには次のような意味があります。

  1. 上の1枚:天の父。
  2. 中の一枚:仲介者である祭司。
  3. 下の一枚:地上の人間。

食事の始まりにマッツァが祝福され、真ん中の一枚が取りだされます。これをさらに祝福して砕き、白い布に包んで食後までどこかに隠しておきます。これはアフィコーメン(Afikomen)とよばれ、ギリシャ語で「贖われたもの」という意味です。子どもたちがそれを探し出し、年長者がプレゼントや小銭の代価をもってメ贖う"のです。

クリスチャンにとってこのアフィコーメンは、主イエスにピッタリ当てはまるではありませんか。マッツァはメシヤとその罪の無い無発酵の命を表します。全く彼の中には「膨れ上がる」ひとかけらのイースト菌もありませんでした。マッツァは真っ平らで、傷のような線を入れます。また、焼けているか試すために突き刺したあとがあります。イエスはむち打たれ、傷つけられ、また釘で穴をあけられました。聖書にこうあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの答のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

三枚重ねのマッツァの中央は、仲介者である祭司を表していますが、その象徴としてのアフィコーメンが砕かれ、白い布にくるまれ、食事が終わるまで隠されるということは、とりなしの祭司である主イエスが、死後布にくるまれ、三日間墓の中に隠されていたことを思い出させます。

アフィコーメンとは、最後の晩餐でイエスが、新しい契約である聖餐の義を定められたとき、弟子たちに与えられたパンを暗示しています。

「彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』」(マタイ26:26)。そして興味深いことに、過越の食事のこのあとで、三杯目のワイン、救済の杯が飲まれたのです。過越しの祭りでは、数回に亘ってワインが飲まれますが、三杯目の杯は「救いの杯」と呼ばれています。神が「それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う」(出エジプト6:6)と言われたのです。現在の私たちには、イエスが十字架にかかられた時、この約束がどのように成就したか理解できます。主の腕は十字架の上に伸ばされ、釘付けにされました。尊い血はすべての人のために流されました。この犠牲をとおしてすべての人が、罪の赦しと救いを得るのです。子羊イエスの血のゆえに、死の天使は私たちの命を過ぎ越すのです。バプテスマのヨハネは言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

マタイ26章27節から28節を読んでみましょう。「杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を放すために多くの人のために流されるものです。』」

使徒パウロはこのパンと杯についてこう言っています。「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(第1コリント11:26)

結論

イエスが、ご自分の肉を食べ、血を飲みなさいと言われたのは、聖餐を指しています。この儀式は十字架を示します。神の子羊イエスが自身の命を捧げ、葬られ、よみがえった時、死に打ち勝ったのです。それは私たちが神の国で永遠に生きるためなのです。

聖餐式において、パンとぶどう酒をいただくことで、神との交わりを回復するのです。食べ物と飲み物が肉体を維持するように、霊的な食べ物、パンとぶどう酒が、イエスを信じる者に与えられる永遠の命を思い出させてくれます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6:54)

イエスは私たちと共に食事をし、ご臨在の前に私たちを保つことを、強く願っておられます。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)。主は永遠に私たちと共におられます。私たちに必要な体力、精神力、力、そしてすべての答えをくださる主により頼みましょう。

本当の救い主はただ一人、それはイエス・キリストです。

エルサレムからシャローム

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