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主の導かれるところへ従っていきます Part-2

BFP編集部 2001年6月

先月のパート1では、神が与えてくださった人生全体における召し-心と思い、力の限りを尽くして主に従うことについて学びました。ところが、主の道とは反対に自分勝手な方向へ進もうとする、人間の罪深い性質のゆえに、私たちは神が定めてくださっている道からすぐに迷い出てしまう傾向を持っています。

神への礼拝とし「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」ということを、私たちは教えられています。そして、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:1-2)と語られているのです。神がくださっている救いと豊かな人生は、ただ受け取りさえすればよいだけの恵みの賜物です。しかし、自分自身でも主に従うと決断し、信仰と献身を捧げることによって、行動に移さなければならないものでもあるのです。神の賜物を経験するには、プレゼントをもらう場合と同じく、その包装を解いて中身を使わなければなりません。そうでなければ、贈り物はいつまでも美しい包装のまま、ほこりをかぶって何の役にも立たず、実際的には無価値なままです。

神は、私たちをご自分の羊として導きたいと切望され、そして転んだりつまずいたりする時には深くあわれんでくださる、良き羊飼いです。私たちは羊として、羊飼いの呼び声に一心に耳を傾ける必要があり、自分の失敗や過ちから学び、正しい道の上を歩み続けるために、できるだけ主のみ傍近くにいつも留まっているように努めるべきです。私たちは神のものですから、人生に対する主のみ心と無関係に、自分勝手な決断をすることはできません。時には主のみ心が、私たちの意図するところと正反対な場合もあります。そのような時、主に栄光を帰し続けるためにも、また道を踏み外させようとする肉の欲望を満たさないためにも、自己と戦って苦しい決断をしなければならないこともあります。

イスラエルの民は約束の地へ入ることを拒絶して、40年間荒野に追放されるという過ちを犯しました。彼らは神の臨在、備えと恵みと共にあり、賛美と礼拝を捧げることもできました。しかし二番目の祝福で人生を終えてしまったのです。

基本的には、神のみ傍にしっかり留まるなら、たとえ数々の過ちを犯したとしても、主は私たちを赦し、導き、愛してくださいます。主とつながっている限り、ご臨在で満たし、祝福してくださいます。私たちがするべき仕事は、人生におけるすべての分かれ道で、常に自分の意志以上に神のみ心を選ぶことです。そして、いつも見守ってくださる良き羊飼いのみ手の中にいることが、他のどこにいるよりも最善であることを、結局は悟るようになるのです。

それでは、私たちが行き当たる障害、歩みを正しい小道からそらせようとする試みと誘惑についてはどうなのでしょうか。これがパート2のテーマです。それではご一緒に学んでいきましょう。

試みと誘惑はどうして来るのか?

神は、従順によって示される、完全な献身を求めておられます。ここまで読んだ限りでは、「ああしろ、こうしろ」と要求ばかりする、薄情で不親切なお方のように思え、こんな神に仕えたくないと思われるかもしれません。しかし神は、「罪を犯すなら即座に厳しく罰してやろう」と待ち構える、厳格で容赦のない裁判官のようなお方ではありません。むしろ、あらかじめ定めておられる究極の姿へと私たちが成長することを願う、あわれみ深く忍耐強い父なるお方です。

これまでは「人生に対する神のみ心は何か」という大疑問から、神の導きについて学んできました。

神の導きに従って歩んでいく(箴言3:5-6)中で、私たちは通り抜けなければならない試練に遭遇します。この種の試練は、これを通らなければ、脇道にそれてしまうことになるものです。ここで遭遇する「障害物」は、それが何であるのかをはっきりと示す、ピカピカ目立つ標識をつけています。そして、この障害を通って神のみ心にとどまり続けるのか、それとも最善の計画の道から離れ、脇道に入っていくのかを選択しなければなりません。このように決断を迫られる時、神の道を選び取るのか、それともずっと安易な、あるいは「魅力的」に見える脇道へ進むのか、思案している自分を発見します。私たちの選択は、私たちの魂がどれくらい神によって占められ、学んでいるのか、また、どれくらい世に属しているかの程度によって決まるでしよう。もし、ローマ書12章で教えられているように、自分自身を生きた聖なる捧げものとして主に捧げていくなら、私たちの意志と神のみ心がますます一致していくでしょう。しかし、羊飼いの導きに注意を払わず、学ぼうとしない反抗的な羊のままなら、いつまでも間違った選択をし続けるかもしれません。そして道を見失い、深刻な危険に自分をさらすことさえ起こるでしよう。

これらの障害物とは何でしょうか。私はこれを「誘惑と試練」と呼びます。

ヘブル語ではこれを『マザー』といい、誘惑とも試みとも訳すことができます。言い換えれば、この言葉は肯定的にも否定的にも使われます。誘惑は否定的意味合いですし、試練は肯定的意味合いになります。主と歩む旅路で遭遇する、これら一つひとつのチャレンジが、この両方の側面を持っていることは、聖書からもはっきりと学び取れます。

誘惑とは何か?

誘惑は、マタイ4章3節に「誘惑する者」と書かれている、サタンによってもたらされます(第1コリント7:5)。サタンはまた、宗教的真理のメッセンジャーのようなふりをして、真理やみことばが本来言ってもいないことを歪曲して説きます(マタイ4:1-11、第1コリント11:14)。誘惑は、神の聖なる愛や、道徳的に正しい生活とは全く正反対の、肉の欲望を満たそうとする働きかけです。

誘惑はサタンからだけでなく、この世を愛する心からも起こります。ヨハネはこれについて次のように書いています。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第1ヨハネ2:15-17)

ヤコブは、神が私たちを誘惑することは決してないと言っています。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:13-15)

ラビ・アブラハム・P.ブロックは次のように書いています。「人の心には、あらゆる欲情が存在します。一般に神学者たちは、欲情を人の内なる邪悪な衝動として扱います。ある人々はこれらの衝動をサタンによるものとし、サタンが神の意図される世界の秩序をばらばらにするために、人々の内にそれを植え付けたと見ています。」

M.G.カイルは誘惑を「神が設けた限界以上に行くことを欲する、神からの欲望」ととらえ、誘惑の自然誘因説を提案しています。誘惑によって引き起こされる結末は、神からの霊的断絶であり、悪徳の奴隷と化すことです。

誘惑自体は罪ではありません。罪は目分の肉欲を満たそうとする欲情のゆえに、誘惑に陥った時に発生するからです。私たちは肉の罪深い'性質のゆえに誘惑に陥るのであり、だからこそ、誘惑が来るとき神にすがる必要があります。かのモーセは「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」とあります(ヘブル11:25)。これらのことから、しばしば誘惑が非常に魅力的な、拒絶しがたい外観を備えていることがわかります。

これについて、パウロはガラテヤの人々に次のように語っています。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」(ガラテヤ5:16-26)またローマ書8章には、「聖霊にあって歩む人生」対「肉にある歩み」について、非常に優れた個所がありますので、お読みください。

誘惑はすべての信徒に来るものでしょうか。答えは「イエス」です。それを拒絶できるでしょうか。間違いなくできます。容易ではないかもしれませんが、私たちはこれに対して自分自身の力により頼む必要がないのです。主に助けを求めることができます。

第1コリント10章1節から13節で、パウロは、誘惑に陥ることがないように警告し、また、信者であるからといって誘惑から免除されたと勘違いしないように、荒野のイスラエルの子らを例に挙げています。パウロは、彼らがいかに神に選ばれ、祝福され、奇跡を与えられ、主の物質的備えを受け取り、ご臨在の中で過ごしたかを語っています。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練(誘惑)はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練(誘惑)とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:12、13)。イエスも誘惑を受けられました(マタイ4:1-11)。ヘブル書の記者は、イエスについて、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)と言っています。主は、私たち全員が持っている武器を用いてサタンを打ち負かされました。それは聖霊の剣、すなわち神のみことばです(エペソ6:17)

神の助けの約束は、なんと素晴らしいのでしょうか。事実、主はできることなら、私たちが誘惑を避けられるように助けたいと望んでおられるのです。「主の祈り」の中で、次のように祈るよう教えられています。「私たちを試みに会わせず、悪から救い出してください……。」それでも、誘惑はやってきます。誘惑を避けることはできませんが、もちろん主に、それをうまく回避して、義の道に留まることができるように、助けを叫び求めることができるのです。これはたいてい簡単なことではありませんが、私たちに耐えることができない試練は与えないと神は約束しておられます。

誘惑を打ち負かすためには、人間的理屈、人間至上主義(ヒューマニズム)、心理学、意志の力などに頼ってはなりません。なぜなら、これらでは誘惑を真に克服できないだけで甘く、かえって束縛されるからです。イエスと同じように、選択すべき武器は神のみことばです。試みに打ち勝つには、誘惑が来た時に、みことばをしっかりつかんで離さないことが重要です。そして正しい道を歩む決心をし、神の助けを祈り求めることです。誰もがやってしまうことですが、もし転んだとしても、もう一度立ち上がって良き羊飼いのもとへ走り寄り、きれいに清めていただいてから、またやり直すことができます。私たちが仕える主は、あわれみ豊かな神なのです。

試練についてはどうでしょうか?

試練は神から来るもので、ご自身に立ち返るよう私たちを促します。また私たちの誠実度を知るために、歩みの中に設けられます。神は「イサクを捧げなさい」と命令することで、アブラハムを試みました(創世記22章)。また、イスラエルの民がご自分の教えを守るかを見るために、荒野で必要なマナを毎日一回、一日分だけ与えられました(出エジプト16:4)。マナを翌日まで取っておくことは、虫がついてしまい不可能でした。神は彼らが日々の糧をご自身に頼ることを望まれました。彼ら自身の選択で約束の地に入れなくなり、荒野をさまよった経験は、イスラエルの民とその子孫を訓練するためのものでした。また、自分勝手な意志を選択するのではなく、神に従えば、必要はすべて整えられることを学ばせるためのものでもありました。神はモーセに言いました。「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命言己8:1-2、5)

新約聖書ではヤコブが次のように語っています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)主のくださる試練は、私たち自身の恩恵とされるのです。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第1ペテロ1:7)。試練は、それぞれの状況において、神に対する愛が現されるため、また私たちの益とされるために、神によって定められたものなのです。ヨブは次のように告白しました。「神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23:10)

「あなたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」(ヨシュア24:5)

生ける神の王国は、生涯をとおして忠誠を捧げることが求められる場所です。そこでは、信仰が本物であることを証明するために、私たちの側からの献身が必要とされます。私たちが熱心に求めるべきものは、神が選んでくださった召しの道を歩むことです。生き方、存在のすべてが、主を喜ばせるものとなる必要があります。主の導きに従って、主の後に従っていく必要があります。

神の王国において、私たちはもうこの世に属するものではありませんが、それでも世に生きています(ヨハネ17:15-18参照)。ですから、神が与えてくださる豊かな生活の祝福と共に、日々選択や挑戦、そして障壁と対峙するのです。この霊的緊張と取り組んでいくのは簡単なことではありません。だからこそパウロが、「この世を去り、天国と呼ぶ御国の次元へ移される準備ができた」と言ったのだろうと私は考えます。彼はこう書いています。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(第1テモテ4:6-7)

この地上で主に近づけば近づくほど、ますます世が投げかけてくる数多くのチャレンジの嵐から離れ、「主のご臨在の中にいたい」と欲するようになります。それでも、私たちが挑戦すべきことは「勇敢に戦うこと」であり、「走るべき道のりを走り終えること」なのです。永遠のみ国に旅立つ日が来た時、私や皆さんもパウロのように言うことができるでしょうか。本当に主に従ってきたでしょうか。それとも、自分で考えて自分が行ったことを、主に祝福してくださいと言っているのでしょうか。神は私たちがこの地上でみ国のためにした忠実な行いのゆえに、報いと栄冠を与えたいと強く望んでくださっています。ヤコブはこう書いています。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

最後まで忍耐することが鍵です。勇敢に戦わなければなりません。その戦いは、日々の選択が求められる戦いです。すべては目分の意志、私たちの選択にかかっているのです。豊かな人生は、それを選ぶすべての人にとって、得ることができるものです。神は私たちに、無理やりそれを選ばせようとはされません。生への信仰や忠実度を証明するために、選択は私たち自身にかかっているのです。たとえ失敗したとしても、実り豊かな人生を望んでくださっている神に、文句をいうことはできません。

神は今、私たちに与えられているのと同じチャレンジを、イスラエルの民にも与えられました。イスラエルの民がヨシュアとカレブと共に約束の地へ入っていく前、そしてモーセが死ぬ直前、神は彼らに次のように仰せられました。「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコプに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」(申命記30:15-20)

約束の地へ入っていくことは、恐ろしいことでもあります。その地には、克服すべき城壁に囲まれた町々と、優れた体格を持った先住民たちがいました。しかし、主の最善を邪魔する敵と戦う時、神が私たちと共にいてくださいます。私たちはただ、「YES」と神に言い、「NO」と肉に言い、障害を通り抜けるために助けを叫び求めるだけです。イスラエルの民が40年間荒野をさまようという試練を受けて、ついに約束の地へ入ることが許された時、ヨシュアは彼らにこうチャレンジしました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)彼らは、約束の土地へ入って行ってそれを勝ち取りました。そしてヨシュアは生涯の終わりに、再び自分たちを聖別するようにチャレンジしました。彼は民に向かって、もう一度、神が何をしてくださったのかを思い出させてこう言いました。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:14-15)

ここに書かれていることは、非常に単純明快なことです。しかし、なぜそれほど大変なことなのでしょうか。これこそ「自分の救いを達成するチャレンジ」なのです(ピリピ12:2)。また、次のみことば-「あなたの心と魂、思いと力の限りを尽くして主を愛しなさい」を日々繰り返し、再献身し続けていくことです。どうか信じてください。

これは、努力する価値が大いにあることです。私たち一人ひとりに大切な召しを与え、歩むべき道を定めて創造された主に、あなたの人生をゆだねても決して後悔することはありません。本当に実り豊かな人生です。どうか今日、それを選んでください。そしてどこであれ、主が導かれる場所ならば、それに従うことが最善であることを忘れないでください。

エルサレムからシャローム

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