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主の導かれるところへ従っていきます Part-1

BFP編集部 2001年5月

もし牧師が会衆に向かって「皆さんは主に導かれたいですか」と尋ねれば、間違いなく全員が「はい」と手を上げるでしょう。

神に導かれたくないクリスチャンなどいるでしょうか。私たちは皆、導かれることを望んでいるはずです。神に仕える決心をし、教会に集う人なら、誰もが神に導かれることを願っていると、私は心から信じています。なぜならこれは、「自分の人生には神が必要である。神に従い、親しく交わり、大きな愛と祝福を経験したい」という気持ちに気づいたときから、自動的に起こる熱望だからです。

聖書全体をとおして、神のご命令に従い、その交わりを保とうとする、人間の懸命な戦いを見ることができます。神がエデンの園でアダムを創造された目的は、人間を被造物で楽しませ、管理させることだけだったわけではありません。神ご自身が人との親しい交わりを欲されたのです。神は人間を愛しておられます。同様に、人間に愛され、仕えて欲しいと望んでおられます。決してご自分の命令どおりに動くロボットを望まれたわけではありません。ですから、「従い愛すること」を自主的に選ぶことができるように、人間に自由意志をお与えになったのです。エデンの園で恵み豊かな生活を維持するために、アダムとエバがすべきだったのは、「善悪の知識の木から実を取って食べてはならない」という唯一の命令に従うことだけでした。不幸なことに、彼らの自由意志はこのルールを破る選択をし、その反抗の罪によって、園から永遠に追放されることになりました。

以来、「神に従うのか、それとも召しを拒絶するのか」という選択を迫られるドラマが、全人類の間で繰り返し演じられてきました。このドラマの中では、私たち自身も決して傍観者ではありません。神の道を選択し、実り豊かな人生に導かれるか、あるいは肉の誘惑に屈して、自らを意図的に祝福から切り離すのか、アダムとエバと同じように選択しなければならないのです。

キリスト教では、人は罪の性質(原罪)を持って生まれる、と教えています。一方、ユダヤ教では、「人の心の思い計ることは、初めから悪である」という創世記8章21節のみことばから、人は罪を犯す傾向を持つと教えています。どちらも結論は同じです。人は道徳的に弱いのです。だからこそ、聖なる道から外れようとする自分の弱さに屈せず、克服するために、いつも神に助けを求めて立ち返らなければなりません。人は元来罪深く、反逆的なのです。神のご臨在の中に留まるためには、この真理を悟り、悔い改めて許しを求め、救いを受け取る地点にまで至る必要があります。

しかし、それで終わりではありません。日々注意深く罪や反抗から自分を遠ざけ、困難はあっても実り豊かな神の道に向かわせることによって「救いの達成」(ピリピ2:12)を継続していく必要があります。そのためには、主の導きにゆだねるという選択をしなくてはなりません。そして、私たち一人ひとりのために備えてくださった主の道に従わなければなりません。

良き羊飼いに従うことを選ぶ

神は、従順によって示される、完全な献身を求めておられます。ここまで読んだ限りでは、「ああしろ、こうしろ」と要求ばかりする、薄情で不親切なお方のように思え、こんな神に仕えたくないと思われるかもしれません。しかし神は、「罪を犯すなら即座に厳しく罰してやろう」と待ち構える、厳格で容赦のない裁判官のようなお方ではありません。むしろ、あらかじめ定めておられる究極の姿へと私たちが成長することを願う、あわれみ深く忍耐強い父なるお方です。

神は私たちの良き羊飼いです。(詩篇23篇)私たちを愛し慈しんで、世話をしてくださるお方です。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(詩篇100:3)と書かれているとおりです。

神は実り豊かに生きて欲しいと心から願っておられます。そして、私たちが感じるよりもずっと深く、私たちの罪によって傷を受けておられるのです。神は人間が危険の中に走り込むのを見て、胸を痛めておられます。そして、まるで小さな子どもが何度やけどをしても、懲りずに熱いストーブへ飛びついていくように、愚かなまねをする私たちを救いたいと、父親のように切望しておられるのです。私たちはただその声に耳を傾け、その言葉に注意を向けさえすれば良いのです。

そうです。神は私たちの良き羊飼いです。ただし、単に羊飼いの後ろにくっついて、流れのほとりでのんびり草を食むためだけに召されているのではありません。自分自身の歩みに責任を負う必要があります。そして、どうすれば良い羊でいられるかを学ばなければなりません。良い羊はいつも羊飼いに注意を集中し、彼の言葉に耳を傾け、離れることなくせっせと足を運び、そして羊飼いの意志に従って自分自身を彼に捧げることさえ厭いません。

ローマ12章1〜2節こそ、神の私たちへの召しです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」箴言では同じことをこう言っています。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)

ここで使われている「道」は、英語でパス(paths)と訳されています。パスは大通りではない細い小道を指し、複数形であることにも注目してください。つまり、神が私たちのために選んでおられる道は、太い幹線道路ではなく、ある一つの召しや職業、場所などから、主のご計画に従ってほかのものへと移り変わっていく、一連の小道であるかもしれません。人生における冒険の中で、日々神(羊飼い)に、「今日はどんな計画があるのか」を尋ねていく必要があります。個人的導きは、神が私たちにくださった賜物です。しかしその賜物を味わい、経験するには、普通の贈り物と同様、包装を解いて中身を取り出し、使わなければなりません。そうでなければ、いつまでもただ美しい包みが置いてあるだけで、何の価値もないのです。

みことばは明快です。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30)これが、私たちに与えられた生き方です。主の意志を成し遂げるために、自分自身を生きた供え物として神に捧げ、すべての行いにおいて聖く、神の喜びとなるように歩むことです。主のみこころとご計画に沿って生きて行くために、自己の理解に頼ることなく、日々(必要なら毎時刻)主のみ前に出て、どのような選択をするべきか尋ねていかねばなりません。

イエスさえ、天の御父が示されたことだけに従って歩まれました。ヨハネ5章19節でイエスはおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

従うことを選びさえすれば、神が私たちを導いてくださいます。逆に言えば、私たちには神の導きが必要で、それを積極的に求めなければならないということです。そして従うことには、「何をするのか」だけでなく、「いかにするか」も含まれることをよく覚えてください。

私たちは神のもの

神に従うことを選択するとき、もはや気ままに好き勝手に振る舞うことはできません。羊が羊飼いの意志に逆らって、勝手にあちらこちらをぶらついているようであってはなりません。神の王国の一部となることを選択するとき、私たちは神の所有物として、彼の意思に従って物事を行い、仕えるようになります。パウロは私たちが置かれている位置について、次のように語っています。「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(第1コリント7:22-23)

救いの賜物を受けるとき、私たちはもはや、無理やり服従させられる者ではなく、自由の中にあってみこころを行なう者となるのです。私たちは高価な値をもって買い取られた、主の奴隷です。(同23節)

ローマ時代、ある程度の金額を払えれば奴隷の身分から解放され、自由を買い戻すことができました。時には家族や友人が買い戻しをしました。奴隷から解放された人は、自由への代価を払ってくれた人に対して、感謝と共に、決して消えない借りを感じるようになります。そして、行動や態度でその気持ちを表わしました。それは奴隷としての義務的行為ではなく、感謝に動機付けられた自主的な行為でした。霊的に見るなら、誰もが神に反逆しているこの世と、自分自身の奴隷なのだと、パウロははっきり言っています。しかし、イエスが十字架でその代価を払ってくださったので、罪は文字どおり拭い去られ、主が犠牲として捧げてくださった血潮の贖いによって、私たちは謙虚に神の御座の前に進み出ることができるのです。私たちは、罪と自己の束縛から自由にされ、そして自由に神に仕えることができるようになりました。しかし、この自由が高価な値で買い取られたものであることを忘れてはなりません。そして感謝のうちに、代価を払ってくださった方、すなわち主イエス・キリストご自身への忠誠を誓うのです。

人生を神に明け渡すのは、とてもやりがいのあることです。それは、神からどんな指示をいただいても、「はい」と答えることだからです。何があっても、神が生活の中で最優先され、その他は二の次とされなければなりません。

主の弟子として、神は完全な献身を求めておられます。神は一人ひとりに、この地球上で託したい仕事をお持ちです。その使命を全うするためには、従順こそが最も重要なカギです。神の御国が前進するために、私たちに与えられている究極的使命を示すみことばが、聖書には満ちています。「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカ10:3)、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)、「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。』」(ルカ18:29-30)、「『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。』」(マタイ10:38)、「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』」(ルカ9:23-24)

ある人は、困難に見える働きの場所で、忠誠を証明する召しが与えられています。自分の経験からお話するなら、主の召しに従うとき、その職務を果たすための必要が備えられ、神の恵みが与えられます。主のみこころのために完全に明け渡された人生には、心底から神の祝福が感じられ、まさにやるべきことを行っているという霊的な深い満たしがあります。もちろん数々の危険も存在します。しかし、神の召しの内を歩んでいるとき、そこには恐れがありません。

1956年、エクアドルの原住民に福音を伝えるため、接触を試みた5人の宣教師が殉教しました。その一人であるジム・エリオットの妻、エリザベス・エリオットはその日のことをこう書いています。
「ある晩、他の宣教師夫人たちと私は、自分たちがもし寡婦になったらどうするのか、ということについて話し合いました。そのことに対して、神は、魂の平安と、『何が起ころうとも神のみことばが私たちを支える』という動かぬ自信を与えてくださったのです。そして、主がご自分の羊を送り出すとき、必ずその先には主ご自身がおられる、ということも。この境地に至るには、間違いなく神の導きがありました。私たちの誰もが、自分の夫と結婚した時、人生で何が最優先となるかについて、疑問をはさむ余地がないほど、はっきりと理解していました。人生の最優先事項-それは、神と、神から与えられた仕事です。これを第一とすることこそ、神のまことの弟子となるべき条件なのです。そして今では、私の人生の中で、このことが他のすべてを圧倒するほどに大切なものとなっています。」

殉教した夫、ジム・エリオットは、亡くなる前、次のように書き残しています。「神のみこころと信じるすてべの状況において、決して後ろに未練を残すことなく、妥協することなく、完全に力を注ぎ、出し切りなさい。」

神の意志か、自分の意志か

主の導きに従って歩んで行くとき、周期的に「主の召しに従い続けるのか」、「従わないか」の選択を迫られる、分岐点へ差し掛かります。この分岐点には、神の道か、そうでない方向かを示す道標が立っています。このような決断の場に立つとき、いつもどちらの道へ進むべきか、思案している自分を見出します。聖霊によって、選択すべき道は分かっているのですが、肉が別の道に誘おうと引っ張るのです。

この時こそ、主が成してくださったことにどれほど感謝しているかを、言葉と行動によって示す好機となります。神のみこころと自分の意志を一致させることを、私たちの最も熱望する事柄としましょう。みこころと自分の意志を一致させて歩んでいる限り、常に主と共に歩んでいる平安で心が満たされます。

しかし、私たちの意志が神のみこころと対立するなら、生活に矛盾や不和が起こります。こうなると、私たちは霊において悪あがきをしがちです。それでも、敬意をもって召しを受け取るべきだと知っていますから、肉で歩んでいるその道から出ようとします。ある人は肉を克服して、神が用意してくださっている道へと戻っていきます。何をするべきかを心底理解するとき、そうすることができるのです。そして、聖霊にすっかり自己を明け渡して祈るなら、正しい選択へと動かされます。その後、たとえ最初は困難であったとしても、自己に打ち勝ち、主に従うことができます。私たちのほとんどが、主に従って歩んでいく中でこれを経験しています。

私にもこうした経験があります。1976年、エルサレムにある『スパフォード児童センター』という施設の理事の仕事を与えられた時のことを思い出します。当時、私は経営管理学修士号の過程を修了しようとしていました。この話は、わくわくするチャンスのように見えましたが、私が住んでいたオクラホマ州タルサから、あまりにも遠く離れていましたし、賃金は普通に就職した場合よりも低く、他の就職口への誘いも来ていました。エルサレムへ行くことがみこころであるとわかっていたゆえに、心に煩悶を覚えました。他の就職の誘いはとても魅力的でしたし、ガールフレンドも私の家族と同様、タルサに住んでいました。私は周囲のみんなをつかまえては、自分がエルサレムに行かないでタルサに留まるべきだと納得させてくれる、もっともらしい理由を引き出そうとしました。誰もが求めた答えを与えてくれました。非常に理にかなっていて、素晴らしい回答でしたが、それらはすべて、彼らの頭で考え出されたものでした。私はそのときすでに神の望みを知っていたのです。肉の思いと戦うことを止めて、「みこころに従ってエルサレムへ行きます」と主に祈ったとたん、圧倒的な平安に満たされました。だからといって、それを実行することが容易になったわけではありません。

イスラエル行きの片道切符を持って、新しい職に就くために出発した時のことを思い出します。私はセントルイスからニューヨークに向かう飛行機の洗面所に座り、涙を流していました。いいえ、大声で泣きわめいたのです。行く手に何が待ち受けているのか皆目見当がつかず、本当に恐ろしかったのです。しかし良い羊飼いが、その場所に私を欲しがっておられました。そして主は、「私に信頼し、人生の案内を任せてほしい」とおっしゃっておられたのです。それはスパフォードでの仕事と、BFP創設者―G.ダグラス・ヤング博士との出会いのためでした。

1980年、ビジョンはあっても、BFPには現実的なミニストリーの計画がないということを、ヤング博士に相談されました。会話の中で次々とアイデアが浮かび、私は改めて、ミニストリーの計画書を作成しました。何とその計画書を読みながら、ヤング博士は天に召されたのです。彼が亡くなったとき、計画書が机の上に広げられていました。そしてそれを目にしたBFP理事会から、総責任者として招聘されました。過去21年以上に亘り、主がいかにBFPを祝福し、この計画書に書かれたビジョンと計画を成就させてくださったかを見てきました。そして私は、まさに自分がいるべきところに主が置いてくださっていることを実感してきました。1976年、神のみこころに従うあの難しい一歩を踏み出していなければ、イスラエルにおける素晴らしい人生を送るチャンスを逃していたことになるのです。羊飼いは、羊にとって最善をご存知です。

神のみこころより自分の意志を優先させると、何が起こるでしょうか。全く不従順な思いがなくても、単純な不注意で脱線してしまうことがあります。私たちが間違いに気づくことさえできれば、正しい軌道に修正することができます。しかし、正しい選択を促す聖霊を無視し、自分の意志を優先するなら、より重大な問題が生じます。聖霊を無視し、神に対して心を頑なにすると、間違った行いを正当化しようとして、聖霊とけんかすることになります。この場合、正しい道へ引き返すことができなければ、みこころを選んでいた場合には起こりえなかった結果を招くことになります。思い出してください。神は人間を愛しておられ、私たちの行く末について初めからすべてをご存知なのです。人生において、熱いストーブに幾度も触って火傷を負う危険から私たちを守りたいと、神は切望しておられるのです。

誤った選択は、必ずしも罪深い選択であるとは限りません。誤った選択肢は、一見して「良いこと」のようで、正しく感じることさえあるのですが、それらは私たちの従順を試みるために、神によって人生の小道に置かれるのです。神と相談することなしに、「黄金のチャンス」に飛びついた場合、実はそれが単なる金メッキだったのを後で発見するでしょう。それぞれが分かれ道に遭遇し、時には難しい決断を下さなければなりません。そういう瞬間において、私たちは、イエスがゲツセマネの園でされたように祈る必要があるのです。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

誤った選択の実例を、約束の地を前にしたイスラエルの子らに見ることができます。

彼らは出エジプト後まもなく、約束の地に入ることができたはずでした。国境線から約束の地を探るために送った12人のスパイが報告を持ち帰りました。(民数記13:16、14:1-44)約束の地は間違いなく乳と蜜の流れる土地であった一方、そこには体格が良く、強そうな人々が住んでいました。ヨシュアとカレブは、持ち帰った巨大な葡萄の房やざくろ、いちじくなど、この地の豊かさを民に見せました。彼らは民に向かい、神の約束されたことだから、神の勝利に信頼しようと呼びかけました。さらに、この地は自分たちのものであり、そこにいる「巨人」を倒すことができるのだと呼びかけました。

ところが、他のスパイが民の心に恐怖を撒き散らしたので、民は荒野に留まることを選びました。イスラエルの民は、その地の巨人と自分たちの貧弱さを比較してしまったのです。彼らは神から知恵を求めようとも、神を信頼しようともしませんでした。そしてどうなったでしょう。否定的な報告をもたらした10人のスパイは、神によって送られた疫病で直ちに死にました。そうなってからやっと、民はヨシュアとカレブの意見がもっともだったと気づき、約束の地に入ろうとしました。しかし彼らの自由選択が神に受け入れられ、彼らは40年間荒野をさまよい続けました。そして、神を信じて祝福を受けたヨシュアとカレブと一緒に、第二世代のみが約束の地へ入って行くことができたのです。

荒野に留まることを選び、約束の地へ入る祝福から外されても、神は依然として昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らと共におられたことを思い出してください。主は彼らにマナ、うずら、水、雨風をしのぐ宿り場、そして決して擦り切れることのない靴を供給し続けました。神のご臨在は民の上に留まり、彼らを祝福し続けました。しかし彼らの選択によって、「一番良いもの」ではなく、「二番目」に終わってしまったのです。

あなたは二番目で落ち着いてしまっていませんか。神が共にいて必要を満たしてくださるだけでは、約束の地へ入った証拠とは限りません。あなたの約束の地はいったいどこでしょうか。40年間あてもなく荒野をさまよい続けるのではなく、主がくださった召しに従っていく決心をするとは、どういうことだと思いますか。

たとえ神の臨在の中にあるとしても、あまりにも多くの人が、ただあてもなくさまよっている状態に満ち足りています。そして、「巨人と城壁の町々を攻め上りなさい」というチャレンジを受け取ろうとしません。それは大変な決断でしょう。しかし、神があなたと共におられるなら、誰があなたに立ち向かうことができるでしょうか。神の導きに任せ、神が選んでくださっている約束の地へ入って行こうではありませんか。

どうやら、地球上で最も頭の良い動物は、羊ではないようです。しかし羊は、羊飼いの側に留まる大切さを良く知っています。なぜなら羊飼いは、何があろうと昼夜の区別なく羊を守り、安全な道に導き、必要を与え、面倒を見てくれるからです。私たち人間は、地球上で最も聡明な被造物のはずです。しかし、私たちを世話することがおできになり、そして実際に面倒を見てくださる良き羊飼いである神に、自分の意志を明け渡すことが最善であるという単純素朴な真理が理解できないのです。聖書の中で、人間は羊にたとえられています。もしかすると私たちは皆、羊に学ぶ必要があるのではないでしょうか。そして神と二人きりになって、自分が人生の小道のどのへんにいるのか、話し合う時間を持つ必要があると思います。

もしもみこころの道におらず、わき道に入っていることがわかったなら、その時こそ羊飼いに向かって、「私をあなたの正しい道に連れ戻してください」と助けを求めて叫ぶべきです。ある人には、誤りを修正するための時間が残っているかもしれません。しかし、「約束の地へ入れ」という神の召しを拒絶したイスラエルの民のように、置かれた場所で年老いていかなければならない人もいるでしょう。その人は、約束の地の全貌を知ることができないのかもしれません。しかしそれでも、神のご臨在と備えの内に宿り続けることができるのです。その場合でも、自分の心が神と正しい関係であるように気を配らねばなりませんし、主と周りの人々にとって、祝福の存在となれるように努力しなければなりません。

どちらにしても、生きる道を主の正しい道と合わせていくのは、きついことかもしれません。また、重い決断を迫られることになるかもしれません。しかし結局、あなたは良い羊飼いの行き届いた目の下にいることを知り、安全で、幸福で、ずっと満ち足りるようになるのです。私たちはすぐに、羊にとって一番良い場所は、できるだけ羊飼いの側にいることだと学習するでしょう。

忘れないでください。主が導かれる場所が、一番良い場所なのです。

来月のパート2では、主とともに歩む旅路の行程で体験する障害、試み、そして誘惑について学んでいきましょう。それらはどこから来るのか、また私たちはどのように対処すべきかを見ていくことにします。

その後、私たちはヨシュアがイスラエルの子らにしたのと同じ質問を、自分自身に問うでしょう。「今日、あなた方は誰に仕えるのかを決断しなさい。」

ではまた来月!
エルサレムからシャローム

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