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ティーチングレター

罪、悔い改め、そして赦し

BFP編集部 2001年4月

世の中に、誰かから傷つけられたり不当に扱われたりした経験のない人などいるでしょうか。また、神や他の人に対して罪を犯したことのない人などいるでしょうか。ローマ書3章23節に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。罪を犯したゆえに、神が人問に熱望している輝かしい栄光の姿になれないという状態は、誰にでも当たり前に見られることです。

キリスト教神学の「原罪」、あるいはユダヤ教神学における、「罪を犯す気質」、このどちらを信じるにしても根本は同じです。人は罪を犯す可能性を持ち、そして実際に犯すということをこれらは意味しています。人問は動物ではありません。また、理解力と倫理意識を持っているゆえに、私たちの行動には責任が伴います。行動によって、さまざまな結果が生まれるからです。私たちは「罪の報いは死」(ローマ6:23)であることを知っています「罪」はこの世において、また永遠において、私たちを神から引き離すため非常に効果的に働きます。申命記24章16節は、「人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」と明確に教えています。これは霊と肉の両方の次元における死であり、誰もこれを免れることはできません。

しかし、あわれみ深い神は、逃れの道を与えてくださっています。その「逃れの道」とは、罪の代価として要求される「永遠の死」に対する備え、「彼の恵みによる赦し」です。「赦し」は神からの一方的な押しつけではなく、私たちの自発的な悔い改めと、人類の救いという、神の恵みに満ちたご計画を受け取ることによってのみ与えられるものです。「罪」、「悔い改め」そして「赦し」……これらはともに結びついて働くものです。

今回のティーチング・レターでは、皆さまとご一緒に罪の根本的問題を考えていきたいと思います。しかしそれだけに留まらず、そのために神が用意してくださっている解決も見ていきましょう。「救い、あるいは罪からの贖い」は、主の恵みと、私たちの罪のために神ご白身が備えてくださったもの――イエス・キリストの犠牲によって、与えられたものです。これには、悔い改めと赦しという過程が伴います。複雑で難解に聞こえるでしょうか。大丈夫です。その過程全体について見ていくとき、神がどれほど大きな愛であなたや私を愛しておられるのかを知るでしょう。

罪は問題

罪とは正確には何でしょうか。聖書で最も頻繁に使われている「罪」を表すことばは『へタ』という語です。この語には「的外れ」という意味もあります。これは先ほど挙げたローマ書3章23節の、神の栄光に「達しない」という意味とも重なるのです。「達しない」とは、的を外していることにもなるからです。もう一つ「罪」を表すことばに、「歪められ、ねじ曲げられる」ことを意味する『アオン』があります。さらに三つ目に、「そむくこと」を表すヘブル語の動詞から引き出された『ペシャ』があります。

神は恵みをもって、私たちに守るべき命令を与えられました。それは厳しい束縛を課すためではなく、あらかじめ用意してくださっている、実り豊かな祝福にあふれる人生に導くためのものです。神は人間の創造者、私たちの造り主です。もし神に願い求めさえするなら、私たちの心の願いをすべてご存じである神は、最高の形でそれが実現するよう働かれます。私たちは人生の輝かしい可能性を達成するため、神の似姿に造られているのです。

しかし、神のご命令、つまり聖書の教えを破り、ねじ曲げ、歪めるとき、罪を犯したことになり、「的を外して」しまうのです。その結果、生活に争いや矛盾が入り込んできます。なぜなら、罪には現実的側面と霊的側面の複数の結果が伴うからです。その一つに、神のご臨在から隔絶されるということが挙げられます(イザヤ59:2)。神のご臨在から離れると、私たちはこの世で真に実り豊かな人生を送ることができず、また主とともに永遠のいのちを生きることもできません。また、その罪が他の人と関わるものであれば、それによって関係も破壊されます。

イエスは、「どの教えが一番重要か」と尋ねられたとき、律法の書から次のように語られました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6:5)、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ19:18)

さらにこう言われました。「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:40)

聖書に書かれた神のご命令すべては、次の二つのどちらかに当てはまります。まず、私たちがいかに神をたたえ、神を喜ばせることができるかということが一つ。そして、いかに周りの人々を愛し敬い祝福するか、ということです。ヴィンセント・テイラーは、「私たちが神と人を侮辱するとき、罪の本質が明らかにされる」と書いています。人は高慢になると、神や他の人々よりも自分を満足させることを求めます。英語ではSIN(=罪)の単語の真中にI(=私)の文字がありますが、これはまさしく私が中心、つまり自己中心=罪の本質を表していると思います。人の罪と過ちは、間違った価値観のもとに生きているということなのです。この価値観は、調和のとれた意味のある人生を獲得するために変えられなければなりません。また、私たちがそれを獲得するには、神そして人々と和解するための赦しを受ける必要があるのです。

人は、他者を傷つけ、過ちを犯し、神を怒らせる罪を繰り返してしまいます。私たちの失敗には、その人の生い立ちや置かれている環境、状況、訓練の有無、生来の気質、経験など、多くの理由や言い訳が成り立つでしょう。しかしどんな言い訳も、私たちをその罪の結果から逃れさせることはできません。これら間違った行動や悪い態度、よこしまな動機や頑迷な行いは、無理やりしいられるものではなく、自分から進んでそうするのですから、その責任は自分自身に問われます。自分の力ではどうにもできない犠牲者なのではなく、自発的に過ちを犯す罪深い者たちなのです。もし私たちが聖書を読み、そこに書かれている道徳基準を知るなら、あるいは神によって備えられた識別力、もしくは聖霊の声に意識を集中するなら、罪を犯す(的を外す)そのときに、それが「罪」とわかるのです。それゆえ、主が与えてくださる赦しを探し求め、それを受け取らない限り、私たちは義なる神の裁きを受けるのです。

神の解決

人問は誰もが皆、罪を犯してしまう存在であるがゆえに、私たちの人生ははじめから希望のない、破滅が決まったようなもののように思えます。ところがそうであることによって初めて、イスラエルの主、神による愛のメッセージが成り立つのです!神は、はじめから私たちについてよくご存じでした。だからこそ、救いの道を備えてくださったのです。神が備えてくださった救いは、ただご自分と私たちとの関係を回復するだけでなく、壊れてしまった私たちと他者との関係をも回復するものです。この素晴らしい恵みのゆえに、日々、ただ感謝をもって御前にひれ伏し、主をほめたたえ礼拝するのです。

この「神の備え」を、救いの過程に見ることができます。

  1. 自分が罪を犯したことを悟り、その責任が自分自身のものであることを悟る。
  2. その罪の赦しを心の底から欲する。
  3. 神にその罪を告白し、罪が覆われるための、恵みに満ちた神の備えを受け取る。
  4. 悔い改める。
  5. 神に赦しを求め、また罪を犯してしまったと思われる相手にも赦しを求める。
  6. そして再び罪を犯さないように熱心に努める。

真に悔い改めた心は、再び同じ罪を犯しそうになる状況がやって来たとき、罪を繰り返すことに恐れを抱くようになります。

どのように神は人類が死を免れる準備をされたのか

旧約時代、罪に対する死の代価を支払うため、身代わりの動物の犠牲(死)が用いられました。罪過のためのいけにえとして捧げられた動物をほふり、祭壇にその血が流されることで、「代価が支払われた」と見なされたのです(レビ4、5章、民数15:22-31)。もし犠牲が捧げられなければ、その人は罪の中に留まり、神との関係が絶たれたままの状態にいることになります。

聖書には、種類の異なる罪に応じてそれぞれ定められた、犠牲に関する記述が長々と連ねられています。ここで扱われている罪は、すべて意図的でなく、誤って犯してしまったケースのみです。すなわち、生活上の過ちという事情をくみ取るために、神はこれらの犠牲を定められたのです。しかし、動物の犠牲は罪を覆うだけであって、それを取り除きはしません。また、犠牲はすでに犯してしまった罪にのみ有効で、未来に犯す罪の赦しまでは含んでいないのです。

新約聖書には、イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と書かれています。主はすべての罪のために捧げられた、ただ一度の捧げ物であり、十字架の上で血潮を流され、死んでよみがえることによって、私たちの過去、現在、未来におけるすべての罪の代価を支払ってくださいました。それによって、罪の代価である「死」という問題も解決してくださったのです。ヨハネが次のように保証しているとおりです。「……御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第1ヨハネ1:7)

イエスの出現によって、悔い改めは彼の受難と死に結びつけられたことを新約聖書は明らかにしています。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:46、47)

神に仕えるための生きた供え物として、自分たちの心、そして自分自身を神に捧げることができるように、イエスが代価を支払ってくださったのです。このことは、私たちがこの世と同調することをやめて、人生に対する神の完全なご計画に従っていけるように、「心と魂を一新させることによって新しく生まれ変わること」、すなわち悔い改めることによって初めて成し遂げられるのです(ローマ12:1、2)

意図的罪の場合は?

悪いことと知りつつも、むやみに反抗することを選び、故意に罪を犯す人に、神は厳しく対応されます。「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」(民数15:30、31)

ヨハネは、同じ考えをヨハネの第一の手紙5章16、17節で取り上げており、そこでは「死に至らない罪」と「死に至る罪」の2種類が語られています。「死に至らない罪」とは、私たちが日々、思いがけなく犯してしまう罪や過ちで、これらは自発的に告白し、悔い改めて赦しを求めるときに赦されます。

しかし「死に至る罪」のほうは、一過性の行動や過ちではなく、意図的に継続して罪を犯している状態を指し、そこには赦しは存在しません。なぜ赦されないのでしょうか。継続的・意図的な罪の習慣は、「告白し悔い改め、赦しを受け取りなさい」と魂に語りかける御声を無視することによって、聖霊を冒涜することになるからです。悪いと知りつつ進んで罪を犯し続ける人は、主から退けられます。その人はますます心を冷たく頑なにし、霊的に死んだ状態となっていき、ついには肉体も死んで朽ち果てるのです。あわれみ深い神は、それでもこのわがままな人々の魂を追い求められるでしょう。しかし悔い改めて神の御前に立ち帰るのでない限り、赦しをいただくことはできません。その終わりには死が待っています。

悔い改めて変えられることを絶えず選択する

古代のイスラエルから今日のユダヤ教に至るまで、ユダヤ人たちは、この普遍的な罪の問題と向き合うための日、『ヨム・キプール』を特別に定めてきました。1年間の罪を反省しつつ振り返り、傷つけたり損害を与えた相手に赦しを請うための「畏敬の日々」と呼ばれる10日間を過ごします。この10日間の後、祈りと断食で過ごすヨム・キプール(大贖罪日)が、毎年大切に守られてきました。エルサレムの神殿が機能していた時代には、特別ないけにえが捧げられていました。それは、いけにえとして用意した1頭の雌やぎの背にイスラエル全体の罪を載せ、砂漠で死ぬように置き去りにするという儀式でした。

罪と悔い改めは現代のテーマです。『ユダヤ教宗教生活ガイド』という本には、罪が人を神から引き離すのと同じように、悔い改めが和解をもたらすと書いてあります。悔い改めによってその人の心のあり方に変化がもたらされ、新しく生まれ変わった人格を持つ、全く新しい人へと生まれ変わるのです。ヨム・キプールは、すべての人を悔い改めへと導きます。この日、人生のより高い目的に向かって歩むために、自己の卑しい肉をいかにして克服し、訓練し、勝利を獲得してきたかということを思い起こします。そうした過程を経ることによって、人生の意味を知ることができます。また、自分自身の中に神が備えておられる高いビジョンこそが真の自分の姿であると自らに呼びかけることができるのです。この日は、自己の不完全さと訣別し、「最高の自分」を探求する努力を続行するよう人々に呼びかける日です。

新約聖書には、実り豊かな人生を歩む道が示されています。それでも、告白、悔い改め、赦しの行動を伴う過程がなければ、そこに達することはできません。そして、神や他の人との間にいつも不和を感じ続けるようになるでしょう。キリスト教神学では、世界の罪を贖うためにイエスが死んでくださり、神が与えてくださった備えを受け取った瞬間から、人は霊的な救いを受け取ることができるようになりました。しかし、その救いの道に留まるために、パウロは次のように教えています。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:12、13)

イエスの血潮によって私たちの罪の汚れは取り除かれました。この神の恵みのもとに日々献身し、その道を歩み続けることによってのみ、神の救いは保証されるのです。それでも帳消しにしていただけるのは、故意によるものでない、過失の罪だけです。事実、それが私たちの過ちによるものである限り、「赦されないほどひどい罪」というのは存在しないのです。しかし、自分でわざと繰り返す罪は、死に至らせ(第1ヨハネ5:17)、私たちを恵みと赦しの場から引き離します。神の恵みの備えを受け取るか、拒絶するかは、私たちの自由意志による選択にゆだねられています。

ですから、「救いの達成」には次のステップが必要です。

  1. 自分の力では取り除くことができない、私たちの罪深い性質を絶えず意識する姿勢を積極的に保つ。
  2. 罪の汚れを取り除く(単に覆うのではなく)のは、イエスが流された血潮によってのみもたらされる。そして、神の恵みをただ受け取ることによって与えられることを知る。
  3. 悔い改め、そこから来る恵みと赦しを受け取る。

悔い改めだけでは、罪を取り除く力はありません。それによって与えられる主の赦しによって罪がきよめられるのです。悔い改めとは、罪に対する自分の気持ちを神に言い表すことによって、生き方が変えられ、人生に赦しの恵みが現されるように導くものです。

悔い改めと赦しの祝福、恵みについてここまで見てきました。では、悔い改めと赦しとはいったい何なのか、もう少し具体的に見てみることにしましょう。

悔い改めとは

ユダヤの賢人たちは、「死ぬ前に必ず悔い改めよ。」と教えてきました。ラビ・エリエゼルの弟子の一人が、「私たちはいつ死ぬのかをどうやって知るでしょう」と尋ねると、ラビ・エリエゼルは答えました。「誰も知ることはできない。だから毎日、悔い改めなさい。」

悔い改めとは何なのでしょうか

それは単純に「方向転換」のことです。悔い改めを表すヘブル語「ティシューヴァー」は、「神に立ち帰る」あるいは「戻る」という意味を含みます。それは、自分の生き方を変える決心の中で、まず罪に顔を背け、次に神に顔を向けるという二つのステップを踏みます。神が私たちに与えてくださる恵みは、悔い改めたことの証、すなわち「新しい生き方」という方向へと私たちを導きます。ティシューヴァーには、「牡牛の目に射かけられた矢」という意味も含まれています。罪は、的の中心へ向かう軌道から矢をそれさせ(的を外れさせ)、悔い改めは中心に向かう軌道へとその矢を戻します。預言者ホセアは言いました。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。』」(ホセア14:1、2)

悔い改めの教義では、人は神によって「方向転換をする」力が授けられていると考えられています。人は悪より善を選択することができ、そしてその向きを変える行動そのものが神の恵みを活性化し、働かせ、人を赦しに導くという考えです。赦しは神のご性質であり、神の赦しの姿は聖書中にちりばめられています。たとえば、「咎を赦し」(ミカ7:18)、「咎をお認めにならない」(詩篇32:2)、「罪やそむきを覚えていない」(詩篇25:7)、「そむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103:12)、「私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました」(イザヤ38:17)、「海の深みに投げ入れ」(ミカ7:19)

これらのみことばのすべてが、神のご性質の中心である「赦しを与えること」への熱心さを示しています。

「神の赦し」について聖書に見られるもう一つのイメージは、私たちの父親、また良き羊飼いとしての神の姿です。父親の愛は、過ちが赦されるという期待を子どもたちに抱かせます。神がしばしば問題に直面させるのは、私たち自身のわがままゆえなのです。悔い改めて神のもとに立ち帰ることができるように、神は親として、私たちの悪い癖を矯正する訓練として、「愛の苦難」を与えます。神はいつも砕かれた人々の祈りを聞かれ、真に悔い改めた心に急いで赦しの手を差し伸べてくださいます。これこそ聖書のテーマ、「世の救い」であり、人が創造主である神と近しく交わることができるようになるための、人類に対する神の最大のご計画です。

悔い改めには行動が要求されます

ただ赦しを求め、祈るだけでは十分ではありません。まず身を低くし、自分の非を認めてへりくだり、次に罪から離れる決心をします。罪が神と自分との間を分断させていたことに気づいたなら、熱心に全身全霊をもって神を追い求めるべきです。聖書には次のように書かれています。「神に願い求め」(第2サムエル12:16、21:1)、「私を求めて生きよ」(アモス5:4)、「御前にへりくだり」(レビ26:41)、「私たちの心を彼に向け」(第1サムエル7:3)、「求め、探し、扉を叩く」(マタイ7:7)

第二に、悔い改めによる行動と、自分がしてしまったことへの悲しみの表現は、心からのものでなければなりません。旧約時代の預言者たちは、人々が歎き悲しんだり、断食をしたり、衣服を引き裂き、灰と荒布をまとうなどの悔い改めの行動をとっても、それが実際の心と裏腹なものであるならば、その欺きを咎めました。

第三に、真の悔い改めは悪い行いを改めさせ、良い行いをするように、前向きな歩みヘと踏み出させます。これについては、次のような数々の表現があります。「主に心を傾けなさい」(ヨシュア24:23)、「新しい心と新しい霊を得よ」(エゼキエル18:31)、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」(エレミヤ4:4)、「心を洗って悪を除け」(エレミヤ4:14)、「新しいいのちに生きる」(ローマ6:4)、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第2コリント5:17)

御心にかなう悲しみは悔い改めに導きます

しかし、だまされてはいけません。なぜなら「肉的な悲しみ」というものが存在するからです。それは悪いことをした罪悪感に苦しむあなたの気分を落ち着かせるだけです。そこに悪から善への方向転換、悔い改めが存在しないなら、赦しも与えられることがない、ということになります。

コリント人への第二の手紙7章10節でパウロはこう言っています。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

彼はコリントの教会の人々に対して、会衆の中に存在する罪をあばく手紙を書き送りました。この手紙は人々を悲しませ、中には怒り憤慨する人々もいました。パウロは、そのような手紙を書いたことを最初は悲しく感じましたが、その手紙によって人々が心からの悔い改めの行動に導かれたのを見て喜んでいると書いています。御心にかなう悲しみは、悔い改めの行動と永遠のいのちに至る変化によって証明されます。ところが肉的な悲しみは、単に罪悪感を静めるだけで悔い改めにはつながらず、死に至らしめるだけです。

赦しとは何でしょうか

告白と悔い改めは赦しへと導きます。赦しとは、あなたに対して攻撃をした人への恨みを手放すことです。彼のとった行動を大目に見て、その貸しが帳消しであることを認めることです。これを神の助けなしに行うのはほとんど不可能に近いことです。しかし、過ちを犯した人を赦すことができるように、先に神が私たちを赦し、聖霊を与えてくださいました。これこそ主が示されたお手本です。そして聖霊は私たちの助け手となってくださいます。

ヘブル語では、「赦す」という意味を表す、いくつかのことばが使われています。[スハー]は、誰かのつま先を踏んでしまったときに使う「失礼しました」に当たります。また、スリハーには「大目に見る、赦す」の意味も含まれています。さらに「我慢する」とか、「持ち上げる」の意味を含む、『ネシャ』があります。「覆う」とか、「大目に見る」の意味の『カファル』ということばもあります。その他、やり過ごす、取り去る、隠す、洗う、精錬する、純化する、足の下に踏みつけるなどの意味を持つ用語があります。

これらは皆、動作を示すことばです。つまり「赦す」とは受け身ではなく、能動的な行いです。これは、あなた自身の意志で、進んでしなければならないことです。

赦しを求める

神からの赦しを求め、そしていただいていくことは、他人から赦しを得ようとする場合よりも容易です。なぜなら、神は完壁なお方ですから、自らの罪を認識するとき、私たちは間違いなく神と言い争ったりすることがないからです。悔い改めて、神の赦しを求めなければならないことは明白です。また、神は恨みを抱かれるような方でもありません。必要な悔い改めをし、赦しを求めるとき、神はそれを認めてくださるだけでなく、罪を犯したことさえ忘れてくださいます。私たちは神の御前で、もう一度、白紙に戻って再出発することができるのです。

しかし、他人に関してはそうたやすいことではありません。自分が誰かに対して過ちを犯したと認め、それを告白し、甘んじて恥辱を受けるのは、非常に勇気のいる、難しいことです。また、相手にとっても、私たちがしたことを赦し、忘れるのは困難なことです。時には、どちらの側も自分の態度や行動を正当化してしまいます。また、一方では、悔い改めて赦しを請うことはできないと感じてしまい、もう一方では、求められるのであれば赦しを差し伸べようと思っていることもあります。

私たちは相手を赦さなければなりません

いったん神から赦しを受けたなら、他の人々を赦し、恨みを抱くことがないようにと教えられています。パウロは言っています。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

マタイの福音書18章21節から35節には、無慈悲なしもべに関するイエスのたとえが書かれています。ここでペテロは、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と質問しています。それに対してイエスは、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(21、22節)と答えました。このたとえの終わりでは、無慈悲なしもべが、主人から大きな借りを帳消しにしてもらったにもかかわらず、小さな借りがある人を赦さなかったことを厳しく叱りつけています。無慈悲なしもべは牢屋に入れられ、彼の借りを返し終えるまで罪に問われることになりました。イエスは次のように結んでいます。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(35節)

また、マタイの福音書6章14、15節でも、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とおっしゃっています。ほとんどのクリスチャンが日常的にとなえている「主の祈り」でも、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6:12、ルカ11:4)と教えられています。これらの教えから、神の赦しを得たければ、他者を赦さなければならないと命じられているようです。罪の赦しを熱心に求めつつ、他者を赦さない人は、自分が求めていることを全く理解をしておらず、それを受けるに値しません。

古代イスラエルでは、罪の赦しを求めて祭司のもとに捧げ物を持ってくる人は、祭司から、「あなたが損害を与えた兄弟のもとへ償いのために行ってきましたか」と尋ねられました。これは祭司に捧げ物を持っていく前に済まされなければならないことでした。悔い改めて赦しを請うなら、それを赦すことは相手の義務となりました。相手が赦さなかった場合、神はそれでも彼を赦し、赦さなかった相手が赦さない罪に問われます。

このことを言及して、イエスは次のみことばを語られました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:23、24)

パウロはエペソ書4、5章で、エペソの教会の人々に「光の子どもたち」らしく、いつも悔い改めつつ歩みなさいと諭し、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)と語っています。自分と神との関係さえ正しければよいのではなく、他者との関係も正しくするために、すぐさま行動すべきであり、相手の反応に関係なく、熱心に赦しを求め、人の過ちは寛大に赦すべきです。私たちは自分の生活に秩序を保つために、あらゆる努力をすべきです。

イエスに教えられる「赦し」

ヨハネの福音書8章1節から11節で、悔い改めと赦しに関する最良の例をイエスは与えてくださっています。ここには、姦淫の現行犯で捕らえられ、パリサイ人たちによってイエスのもとに連れてこられた一人の女性について書かれています。モーセの律法では、彼女の罪は石打ちの処刑に値します。彼らは、イエスが彼女をどのように裁くかを試そうとしたのです。

イエスは地面に指で何かを書いておられました。そしてパリサイ派の人にしつこく質問され続けます。するとイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」と答えられました。主は地面に何を書いておられたのでしょう。もしかすると、彼ら全員が犯したであろう罪のリストだったかもしれません。あるいは神が罪を赦し、また私たちが他者を赦すように願うことを示す、キーワードのようなものかもしれません。何であったにせよ、「罪のない者から最初の石を投げなさい。」と主が言われると、彼らは全員その場を去っていきました。誰もこの女性を訴えるために残りませんでした。

ここから学ぶべきことは、自分自身が罪を犯し、赦される必要があるときに、他人の罪を早まって裁いてはいけないということです。マタイの福音書7章1節から5節でイエスはおっしゃっています。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

また、これに続けて、自分自身の目にまず取り除かれるべき梁がぶら下がっているのに、他人の目のちりを気にしてはいけないともおっしゃっています。

さて、それからイエスはその女性と語り、赦し、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。主が「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたことに注意してください。主は「行って、もっと罪を犯しなさい。」とは言わなかったのです。もちろん皆さまは、そんなことは当たり前のことだと受け取られるでしょう。しかし私たちの多くは、継続的に赦してくださる神のあわれみにすがりながらも、罪深い行いを繰り返すことで、「決して罪を犯してはならない」という教えに反し、有罪とされるのです。それが弱さから出た、純粋な失敗、過ちである限り、主は私たちを赦してくださるでしょう。しかし、神のあわれみを試すようなことがないようにご注意ください。もしあなたが「故意の罪の習慣」を持っているのであれば、それを後悔も感じないで何度も何度も繰り返しているのなら、あなたはヨハネが言うところの「死に至る罪」において有罪とされるかもしれません。律法には「計画された罪に赦しはない」と書かれているからです。ヨハネは言っています。「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。」(第1ヨハネ5:18)

私たちはいつも自分自身を吟味し続け、義の道を歩み続けなければなりません。

義の道を歩む

赦しは罪を取り去りますが、それには悔い改めが伴わなければなりません。真の悔い改めは、神の義を自分の生き方に映し出そうと悪戦苦闘していくうちに、もうそれ以上罪を犯さないように私たちを変え、向上させるはずです。罪はもう決して、慣れ親しんだ、気安い客とはならないはずです。

父であり、創造主である神の「義」は、神のご性質そのものであり、私たちが悔い改め、神と他者に対して赦しを求めるなら、罪の生活を捨てる努力ができるよう導いてくださいます。神は私たちを愛しておられ、もっと親しく交わりたいと強く望んでおられるのです。なぜわざわざ神のご臨在から、その守りと祝福のもとから逃れるために、神に反抗したいと望んだりするのでしょう。それは正気の沙汰ではありません。

キリストが来られる以前の、いわば肉の法則に基づいた律法は、神のことばと命令に従うなら祝福を受け、従わないなら罰せられるというものでした(レビ26章参照)。この関係はどんな物理的法則にも当てはまります。しかし悲しいことに、私たちは自分の罪を手放すことができないまま、なぜ喜びに満たされていないのか、神の近くで豊かな実を結ぶ人生を送っていると感じられないのかと疑問を抱くのです。

詩篇139篇23、24節にはこう書かれています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

自分の人生を正すために神の助けが必要です。間違いなく、すべての行動はそれに対する反応を引き起こします。すべての行動に結果が伴います。すべてのことばが波紋を投げかけ続けます。語り行うことすべてが、周りにいる人々に、職場に、住んでいる地域に、隣人に、組織に、または伴侶に、子どもたちに、親戚に、友人たちに影響をおよぼします。私たちが行い、語ることのすべてが、物事を良くも悪くもし、容易にも困難にもし、愛情に満ちたものにも冷たい隔絶にもする、決定要因となるのです。

「赦し、赦される人生」の究極の目的は、内側から平安と喜びがあふれ、私たちが接するすべてのことにそれが伝わっていくことです。私たちが神と一つになっているとき、限りなく周りに良い影響を与えることができるのです。ヨム・キプールの礼拝では、民数記14章19、20節が中心的に読まれますが、これは日々、従うべきみことばでもあります。「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

主の答えは私たちの慰めであり、永遠の赦し、です。

「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。」

エルサレムからシャローム

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