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イスラエル史の重要な事実40 Part-3

BFP編集部 2001年3月

事実30

アラブの敗北と領土問題の浮上
アラブは1947年の国連分割案受け入れを拒否し、彼らに割り当てられた土地を受け取りませんでした。代わりに、エジプト、シリア、トランスヨルダン、レバノン、そしてイラクによるアラブ連合軍がイスラエルを追い詰めようと、ただちに攻め込んできました。

1948年5月15日、アラブ同盟の事務総長アザム・パシャは、カイロで次のように発言しています。「これは絶滅戦争となり、モンゴル軍や十字軍による大虐殺のような歴史的大事件として、後世の語り草となるであろう」(地図1と2参照)

幸い、彼の予言は的中せず、イスラエルは国連から分配された土地を維持できただけでなく、さらにいくつかの領土までも勝ち取りました。国連の分割案によって、パレスチナのアラブ国家として選定されていた土地の残りは、ヨルダン川西岸はヨルダン、ガザはエジプトにと、他のアラブ諸国によって占領されました。

イスラエルが国家として確立されると、第二次世界大戦のユダヤ難民や、中東イスラム圏のユダヤ人たちが続々とこの国へ押し寄せ始めました。1948年から1972年の間に、140万人以上もの人々がイスラエルへ移住しています。こうした移民者たちがこの国に根を下ろすには、各種の訓練やヘブル語教育を受ける必要がありました。さらに、彼らの多くが医療ケアを必要としていました。そのための必要経費は、イスラエル国民と世界中のユダヤ社会が負担しました。

一方、パレスチナ西部に住んでいたパレスチナ系アラブ人たちにとっては、1947年に出された土地分割案を拒絶し、戦争を起こしてしまったことが、大きな損失を招くことになります。それから後にも幾度も与えられることになる、正式な国土取得の最初のチャンスを逃してしまったからです。彼らの信念である、「すべてを手に入れなければ意味がない」に固執しすぎたためでした。イスラエルの有名なアバ・エバン外交官は、彼らを次のように評しています。「パレスチナ人たちはチャンスを逃がすためのチャンスを逃したことがない。」

もともとこの土地に住んでいたアラブ人たちは、「もし連合がイスラエルに勝てば、新たに土地を与えよう。今は我々に味方しなさい」というアラブ連合の指導者たちの勧告に従いました。しかし、結果的にイスラエルが勝利したことによって、もともと所有していた土地までも失い、難民となってしまいました。一方、ユダヤ人たちはまともな武装も持たず、数の上でもはなはだしく劣勢であったにもかかわらず、海に追い落とされるどころか、本来の割り当て以上の領土までも獲得したのです。

敗北したアラブ側は1949年、戦後の休戦協定のための交渉において、1947年の国連分割案の割り当てをイスラエルはすでに受け入れたはずだと強く主張しました。敗戦後に彼らが強く要求したものは、戦争を起こしていなければ、一発の弾も撃つことなしに自分たちの領土とできたはずのものでした。アラブのこのような主張は、イスラエルこそが国連決議の侵犯者で、自分たちは国連とその決議の擁護者である、とアピールするためのものだったのです。

この事例からアラブ側が学び取った「限定済み責任戦法」は、現在でも利用されています。この理屈を使えば、侵略者は「たとえ負けても、もとの妥協案に立ち帰ってその権利を主張すればよい」という安心を得ることができます。そして、領土に関する妥協案を気軽に拒否し、戦争という賭けで一気に勝ち取ろうという態度に出ることができるのです。これは1948年、1956年、1967年、1973年、1982年の戦争で毎回使われてきたパターンであり、現在進行中の紛争においても、今なおアラファト議長によって利用されています。

事実31

実体のない言葉『パレスチナ』
現在、パレスチナ人たちは、彼らのいわゆる「パレスチナ国家」を、イスラエルの全国土および西岸地区、ガザ地区を含む、ヨルダン川の西側全土と定義しています。しかしPLO規約では、パレスチナはイスラエルとヨルダンの全土と定義されています。

アラブ側は、イスラエルが「パレスチナ全土」を強奪し、パレスチナ人に何も残さなかったと主張していますが、これは事実ではありません。1946年にトランスヨルダンがヨルダンとして独立したことが、「パレスチナ」をヨルダン川西側のみ(本来定められていた区域の20%)に限定する結果を招いたのです。1947年の国連分割案によると、この残った20%をさらにアラブ国家とユダヤ国家に分けることになっていました。しかし、依然として歴史的にヨルダンはパレスチナの一部であって、人口の70%以上がパレスチナ系アラブ人であることに変わりありません(ヨルダンの現在の国王アブドラ2世は、サウジアラビア人(父)と英国人(母)のハーフ。英国の保護下でヨルダンのエミールと呼ばれた彼の曽祖父は、第1次大戦後にパレスチナの80%に当たるこの地を英国から与えられた)。

ヨルダンが国連分割案を無視し、西岸地区(ユダヤ、サマリヤとしても知られる)を併合した1949年当時、ヨルダン傘下のパレスチナ系アラブ人は、パレスチナの82.5%を支配していました。一方、ユダヤ人は、1917年にそのすべてが彼らに与えられるはずであったパレスチナの、17.5%のみを保つ有り様でした(地図2参照)。

今日においても、ヨルダンは英国統治下にあった元来のパレスチナの80%を占めています。また、民族人口において、事実上のパレスチナ系アラブ人国家なのです。神によってルベン族、ガド族、そしてマナセ族に配分されたヨルダン川の東側の土地も、ヨルダンの領土内にあります。

パレスチナ人たちが何と言おうと、イスラエルはパレスチナ全土を強奪したり、あるいはアラブ人たちに国を与えずにいるなどということはありません。ヨルダン全土がパレスチナでもあるからです。オスロからワイ・リバー協定まで、これまでの和平交渉ではパレスチナ国家樹立への模索がなされてきました。しかしそこでは、このパレスチナ人の主権国家に何らかの国土を与えることが、イスラエルに対してのみ要求されています。

ヨルダンはパレスチナ人に何も与えていません。事実、イスラエルがヨルダンと交わした平和協定では、ヨルダンがイスラエルから領土を奪っていることになっているのです。さらに現在、1万8000人のイスラエル人が暮らすゴラン高原の引き渡しをシリアが求めています。たった400平方マイル(1035km2)のこの小さな領域は、イスラエルの水資源の3分の1を有し、豊かな農産物を供給する、新進的な軽工業が発展する地でもあります。

この地方に住むアラブ人を指して、「パレスチナ」「パレスチナ人」などの用語が使用されるようになったのは、ごく最近のことです。ユダヤ人たちがこの地に入植を開始し、経済を発展させて以来100年の間に、この地に職を求めてアラブ人の雑多なグループが各地から流入してきました。それらの人々が、1970年代に一民族として取り上げられるようになったのです。

アラブ・リーダーの一人、ウニ・ベイ・アブドゥル-ハディは1936年、英国のピール委員会に次のように語っています。「本当の『パレスチナ』などという国など存在しません。パレスチナとは、シオニストたちによって考案されたことばです。聖書にもパレスチナなど登場しません。パレスチナは私たちにとってはなじみのないことばで、シオニストたちが言い始めたことなのです」

1932年に刊行され、現在も発行を続けている『エルサレム・ポスト』紙は、昔は『パレスチナ・ポスト』紙と呼ばれていました。また、もともとこの地方に住んでいたユダヤ人たちは、「パレスチニアン」(パレスチナの人、人種、派、主義者、党を意味する)と呼ばれていました。

1946年、著名な歴史家でもある、プリンストン大学のフィリップ・ヒティ教授は、アングロ‐アメリカン調査委員会の前で、「(アラブの)歴史上、パレスチナなどというものは全く存在しません」と証言しました。彼はまた、地図上でパレスチナという地名を使用することに反対しています。なぜなら、それは一般的な米国人および英国人によって、ユダヤ人と関連づけて使われる表現だからです。

ユダヤ人の排除と、アラブの結束されたアイデンティティーの確立を求め、パレスチナのアラブ系住民を「パレスチナ人」と呼ぶ習慣が定着し始めたのは、1960年代初頭のことでした。しかし、1967年の国連安全審議会の決議条項第242でも、1973年の決議条項第338でも、パレスチナということばは全く使われていません。これは1970年代中頃、PLOによって初めて使用された呼称なのです。

事実32

PLOの設立
パレスチナ解放機構(PLO)は1964年5月、エジプトのガマル・アブドゥル・ナセル大統領のはからいによって、アラブ同盟により設立されました。同大統領は、打倒イスラエルの旗の下にアラブ諸国を盛り上げることで、この運動をエジプトの主導のもとでアラブ世界を統一するという、彼自身の最終目的に到達する手段としたのです。そして1969年以来、ファタハ党の共同創立者である、ヤセル・アラファト議長がPLOのリーダーとなりました。

当時定められたPLO規約では、英国委任統治時代に「パレスチナ」と呼ばれていた地域全体を、パレスチナ国家と解釈すべきとされています。そのため、イスラエルだけでなく、ヨルダンも破壊の対象に挙げられています。和平プロセスの一環として、イスラエルから西岸地区とガザ地区を譲渡されて以来、PLOはこれらの地域を自治管理しています。PLO最高議長であるアラファトは1994年以来、ガザ地区に住んでいます。

PLOまたはPA(『パレスチナ解放機構』または『パレスチナ権威筋』)は、表向きにはイスラエルが存在する権利を認め、自分たちはガザと西岸にのみ主権国家を作りたいのだと言っています。しかし、それにもかかわらず、彼らが公式に使っている便箋と封筒には、その本心が露呈されています。それらの便箋、封筒類には、イスラエル全土を含むヨルダン川の西側全土が描かれた、彼らの公式エンブレムが印刷されているのです。彼らの狙いは、「ヨルダン川西岸の全土が彼らに属するものであること」を公に示すことです。また、イスラエル全土を手中に収めるためのアラブ全面戦争が起こる日まで、一片また一片とテリトリーを増していくことは、この組織の悪名高い段階的計画の一部でもあります。

PLOは、イスラエルがヨルダンとエジプトから西岸とガザ地区を勝ち取った1967年の六日戦争以前に創設されたという事実を思い出してください。つまり、この小さな地域のみを望むとアラファト議長が主張しているのは、全くうわべだけのものであるということです。アラブ諸国は1967年以前、すでにこの地を所有していたのです。つまり、この組織は現在に至るまで、「イスラエル全土をイスラム=アラブ世界のものにする」という、本来の目的から外れたことは一度もないのです。

「パレスチナ」に関するまとめ

これまで「パレスチナ」という主権国家(アラブ民族国家もしくはユダヤ民族国家)が存在したことは一度もありません。現在あるパレスチナは戦争の産物です。ですから、パレスチナ系アラブ人は彼らが本来属するはずの国々に、平和的に復帰するべきであると私は思います。彼らが求めているのは、これまで一度も存在したことのない、全く新しい民族国家を創造することなのです。「パレスチナ」とは、紀元135年にユダヤ人がローマに対して2度目の大反乱を起こしたとき、それを鎮圧した皇帝ハドリアヌスによって、この地域に押しつけられた地名です(その31参照)。

事実33

六日戦争の勝利
1967年の六日戦争前、イスラエルはゴラン高原でのシリアによる砲撃や、シリア、エジプト、ヨルダンからのテロ急襲を断続的に受け続けていました。エジプトを筆頭に、近隣アラブ諸国は大規模な軍備の増強を行なっていました。特にエジプトは、シナイ半島のイスラエルとの国境地帯に多数の兵員と武器を配備し、1956年のスエズ運河封鎖における戦争以来、その地域に展開していた国連平和維持軍を強引に立ち退かせました。エジプトは再び紅海のティラン海峡を封鎖し、エイラット経由のイスラエル東方交易船舶を効果的に締め出すことで、ヨルダンと軍事同盟を結んだのです。

この時点で、イスラエルは自己防衛のためエジプトに対する先制攻撃に乗り出し、エジプト空軍が地面から飛び立つ前に破壊しました。このとき、エジプト、ヨルダン、シリアからの反撃を受けています。

六日戦争が終わった時点で、以前の休戦ラインは新しいものに書き換えられていました。西岸地区(ユダヤ、サマリヤ)、ガザ地区、シナイ半島、そしてゴラン高原がイスラエルの支配下となっていました。(地図3参照)

事実34

アラブの不意打ち『ヨム・キプール戦争』
1973年10月6日の大贖罪日(ヨム・キプール)に、シリアとエジプトがイスラエルへの不意打ち攻撃を共謀しました。大贖罪日は、ユダヤ人の暦で最も神聖かつ厳粛な日です。この日は25時間、完全に飲食を絶ち、おのおのが罪の赦しを請う祈りをシナゴーグで捧げます。この日はどこの店も営業せず、道には車も走らず、テレビやラジオの放送もなく、何の設備も動かさないことになっています。

そこへエジプト軍がスエズ運河を横断する一方、シリア軍の部隊がゴラン高原から侵入してきました。この不意打ちは、イスラエルにとって命取りになりかねないものでした。しかし、神がこの争いに介入されたのです。ゴラン高原では、応援の増援部隊が到着するまで、アビガドル・カラハニ司令官と彼の戦車部隊がシリア軍を食い止めることに成功しました。

続く3週間の間に、イスラエル国防軍は戦いの流れを逆転させ、侵略者たちを撃退してしまいました。エジプト軍をスエズ運河から本国に追い返し、シリア軍も押し返して、シリアの首都ダマスカスまであと32kmというところまで追撃しました。そして10月22日、戦争が終結したのです。

アラブ側は、イスラエルによる和平へのアピールを継続的に拒絶し続けてきました。しかし1977年11月、エジプトのアンワル・サダト大統領のエルサレム訪問によって、その果てしない悪循環に終止符が打たれました。1978年、米国のキャンプ・デービッドで和平協定への交渉が行われ、1979年3月、ホワイト・ハウスの庭園の芝上で正式な和平条約への調印が交わされました。この出来事によってエジプトは、1948年以来、イスラエルが平和を求め差し伸べ続けてきた手を握った、最初のアラブ国となりました。

事実35

エルサレムの地位
1980年、イスラエルの手によって統合されたエルサレムがその首都であることを再確認する特別な法律が、イスラエル内閣およびクネセットにより施行されました。エルサレムは、これまでユダヤ民族にとってのみの首都であり、他のいかなる国や民族の首都であったことは一度もありませんでした。これに対し、サウジアラビアの王位継承者ファハド皇太子は、「聖なる都をシオニストの侵略から守るためのジハード(聖戦)」を宣言しました。

このファハド皇太子の宣言への反応として、米国大使館も含む各国の外国大使館はテルアビブへ移転しました。しかし1990年、米国議会は米国大使館をテルアビブからエルサレムに移すべきであることを確認しました。1995年11月8日、米国議会はエルサレム米国大使館制定法(広法第104-45条)によって、

  1. 「統一されたエルサレム」をイスラエルの首都と認知し、
  2. 米国大使館はテルアビブからエルサレムに移転すべきである、と強く主張しました。米国上院は満場一致でこの移転に賛成票を投じました。

ところが、ビル・クリントン大統領がそれを承諾しませんでした。いったん米国大使館が移動すれば、おそらく他の国々もその例にならったことでしょう。

現在、エルサレムで生まれた米国市民には、正確に記載できる出生地がありません。彼らの出生証明証には、「イスラエル国エルサレム市」とは記載されず、単に「エルサレム」とだけ書かれています。米国務省は議会の決断に従うべきです。昨年の米大統領選挙において、ブッシュおよびゴアの両候補者は、大使館をエルサレムに移転するよう呼びかけています。

事実36

レバノンへの干渉とその波紋
1970年、パレスチナ解放機構(PLO)がフセイン王によってヨルダンから追放されて以来、イスラエルはレバノン各地のPLO基地からの爆撃やテロ攻撃を繰り返し経験しました。レバノン全土の大部分を占拠し、次に何をしてくるのか予測もつかないPLOの行動により、何千人ものイスラエル市民が命を奪われたり、負傷させられたりしました。

1982年6月、イスラエルはレバノンからPLOを根絶やしにするため、「ガリラヤの平和作戦」と呼ばれる軍事行動に乗り出しました。開戦当初、およそ100機に昇る米国製のイスラエルのジェット機が、同数のシリア軍のロシア製ミグ機が待つレバノンのベッカ峡谷に向けて飛び立ちました。イスラエル軍は、1973年に多数のイスラエル機を撃墜し、多くの犠牲者を出した、シリアのSAM地対空ミサイルとも対峙しなければなりませんでした。

ある日、戦闘終了間際になって、イスラエル空軍は自分たちの戦闘機を一機も失うことなくシリアのミグ90機を撃ち落としました。同日、イスラエルのある政府高官は、このめざましい戦果を「奇跡だ」として、次のようにコメントしました。「イスラエルは機械のトラブルや人間的落ち度のために、一機ぐらいは失って当然だった」

この作戦の目的は数週間のうちに達成されました。軍事力の低いレバノン中央政府は、PLOが撤退した後、1985年までイスラエル軍を自国に引き止めました。

1987年12月には、「インティファーダ」と呼ばれるパレスチナ蜂起が起こり、西岸とガザ地区のパレスチナ系住民の間に一気に広まりました。その結果、1967年以来、比較的温和な関係が続いていたイスラエル―パレスチナの境界地帯は争いの場と化しました。双方とも多数の死傷者を出し、どちらの人心も悲嘆と苦痛で満たされました。インティファーダは、現在の和平交渉が始められる1993年のオスロ協定まで6年間、続きました。

事実37

主のみ翼の陰に『湾岸戦争』
1989年、鉄のカーテンが崩れ始め、それまで何十年もイスラエルへの移住を妨げられてきた、北方の旧ソ連邦のユダヤ人たちが解放され始めました。以来、2万人近いエチオピア系ユダヤ人を含む、100万人を超える新移民者たちがイスラエルに到着しています。彼らは皆、イザヤ書43章5、6節の預言の成就によって導かれた人々でした。

一方、1991年、イラクに侵攻されたクウェートの主権回復を目的に始められた湾岸戦争は、イスラエルにも影響を及ぼしました。この戦争と全く無関係であったにもかかわらず、39発のスカッド・ミサイルがサダム・フセインの軍によってイスラエルに打ち込まれました。この攻撃の背景には、イスラエルに対するフセイン個人の根深い嫌悪がありました。また、欧米のみならず、イスラエルと国交を持たない多数のイスラム・アラブ諸国もイラクへの攻撃に参加していたため、この同盟連合を分裂させるために、イスラエルを戦争に引き込もうという狙いがあったのです。

化学兵器や生物兵器への恐怖が数週間にも亘って続いていたこのとき、イスラエル国民は詩篇91篇を祈っていました。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。』と。……主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。」

化学兵器も生物兵器も、イスラエルに対して使用されることはありませんでした。1万1000軒のアパートが破壊されましたが、この破壊を直接的原因とする死者は一人だけでした。

イスラエルはこのとき本当に、彼女が宿る「主のみ翼の陰」に守られたのです。

事実38

平和への努力
1992年、イスラエル人、パレスチナ人とアラブ諸国間との間に平和を築くため、故イツァック・ラビン首相がPLOとの和平交渉を開始しました。それまでイスラエルと平和条約協定とよばれる第一の協定を結びました。これは、この地域での平和を模索するために結ばれることになる、数多くの協定の先駆けとなりました。それにより、今日までにイスラエルは西岸(ユダヤ・サマリヤ)とガザ地区のすべての主要な拠点を引き渡しました。一方、パレスチナ人たちは協定において彼らが交わした約束をほとんどまだ履行していません。

オスロ協定での約束を無視して、アラファトは彼自身の意志である、「エルサレムを首都とするパレスチナ主権国家設立」をたびたび宣言してきました。旧市街の城壁やすべてのモスク、教会の尖塔にパレスチナの旗を必ず揚げてみせる、と彼は語っています。2000年1月には次のように宣言しました。「今年はパレスチナ国家独立宣言年だ。……確かに間違いなく、今年は建国元年だ」

イスラエル側は、エルサレムはすでに彼らにとって不可侵の首都であり、この点で妥協はしないとしていました。つまり、アラファト議長が彼の宣言した計画に固執するなら、争いや戦争さえ辞さないということです。

1994年、イスラエルはヨルダンのフセイン国王と平和条約を結びました。これは、それまでで最も温かい友好関係を結んだ条約となりました。両国間で、多大な通商や観光産業、その他に数多くの相互的交流が豊かに花開いています。

今日、シリアとシリアの監督下にあるレバノンとの、本格的和平締結への交渉がシリア-イスラエル間で断続的に進められています。1973年以来、シリアとの国境に紛争はありませんでしたが、イスラエルとの国交はなく、ただ「休戦状態」であるのみです。

事実39

奇蹟に満ちあふれる国イスラエル
今日あるイスラエルは、ユダヤ人たちの熱心な努力と神の預言的祝福によって実現された、まさに現代の奇跡です。

中東でただ一つの民主国家であるイスラエルは、保守派からリベラルなアラブ政党、無宗教から超正統派まで、多様な政治的概念を代表する多数の政党によって争われる、活気に満ちた選挙システムを誇っています。

イスラエル国家は、次のような数々の素晴らしいシステムを生み出しました。

  1. 国民の識字率が世界最高水準という教育システム。
  2. 全国民へ提供される高水準の医療サービス(敵国人さえ、中立国を介して治療を受けに来る)。
  3. ユダヤ人もアラブ人も、平等に必要な援助や物資を供給する福祉システム。
  4. 森林を剥ぎ取られて砂漠化・湿地化した、不毛の地であったこの国を、豊かな産物にあふれる世界有数の農産物輸出国に変えた農業システム。
  5. 世界第4位の能力を持つと評価されている国防システム。

イスラエルの主要産業は、いまだに観光と農業です。しかし現在、新しいコンピュータのデザインから、より良いハードウェアやソフトウェアの開発、医療や農業技術の進歩などを創造するための最先端テクノロジーの分野が、最大の国家歳入をもたらす産業となっています。イスラエルはハイテク技術の進歩においては、今では米国のシリコン・バレーを超えています。

100カ国以上もの国々からの絶え間ない移民の流入が、この国の調査と発展(R&D-Research and Development)に利益をもたらしました。なぜなら、それぞれの国民が問題に対する異なった見地を持っているからです。旧ソ連邦や米国、インド、南米、南アフリカ、ヨーロッパなど、さまざまな地域から来た科学者たちや調査の専門家たちから成るR&Dチームが、ともに問題に対処しています。そして市場にはほとんど毎日のように、イスラエルで開発された革新的な製品が持ち込まれています。
イスラエルは革新的国民として知られています。何かできそうもないことをイスラエル人に聞いてみれば、きっと答えを考え出してくれるでしょう。

事実40

『イスラエルの神、主』その契約と預言の成就
主はすべてを支配しておられます。イスラエル、ユダヤ人、教会、そして私たちの待ち望む、間近に迫ったメシアの来臨に関するみことばは必ず成就するでしょう。旧約の時代と同じように、すべての望みが失われ、イスラエルが敵に征服されるように見えるときも、神が脱出の道を開き、ご自分の栄光を現してくださるでしょう。

主はこのように言われています。「見よ、イスラエルを守る方は、まどろむことも、眠ることもない。」(詩篇121:4)

この預言的な神の運動の参加者となろうではありませんか!

イスラエルとエルサレムの平和のために祈ろうではありませんか!

神の平和だけが永遠に続く真の平和です。

シオンへ帰還する人々を助けるために捧げ、イスラエルの地が回復されるために祝福しようではありませんか。可能なら、私たちの時間もボランティアの働きのために捧げようではありませんか。そして私たち自身がシオンを訪れ、今日この日、神が何をなさっているのかについて証人となろうではありませんか!

このシリーズで、アブラハムの時代から今日に至る歴史全体をざっと私たちは見てきました。主なる神にとって、この国イスラエルと契約の民ユダヤ人がいかに重要であるか、皆さんが理解する助けになればと願います。キリスト教も含む他の宗教がこの地を重要視するのは、何千年も昔に神がご自分の民イスラエルと結ばれた契約のゆえです。神は、ご自分のみことばである、聖書に記された約束を必ず守られます。

エルサレムからシャローム

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