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イスラエル史の重要な事実40 Part-2

BFP編集部 2001年2月

先月号では、アブラハムから19世紀までのイスラエルの歴史をたどりました。今回は20世紀、イスラエルの建国までの歴史を見ていきます。

事実18

19世紀は、ヨーロッパの列強がその勢力の拡大を巡って争った、近代西洋文明勃興の時代でした。この影響は当時の宣教活動にもよく表れています。英米仏の学者たちは、競って聖書地理と聖書考古学の研究に乗り出します。エルサレムに各国の領事館が開かれ、蒸気船が、ヨーロッパから旅行者や貿易物資を運んでくるようになりました。また、郵便と電信が整えられ、そしてエルサレム、ヤッファ間を結ぶ最初の道が敷かれました。三つの大陸をつなぐ「交差点」としてのこの地の再生は、スエズ運河開通で加速化されます。

エルサレムに住むさまざまな民族グループの中でも、1818年以降、ユダヤ人が宗教的多数派となっていきます。1844年の最初の国勢調査では、ユダヤ人7120人、イスラム教徒5760人、そしてクリスチャンが3390人と、ユダヤ人口の優勢が確認できます。

1860年代に至るまで、エルサレムの住民は全員が城壁内の古代の町に住み、その城門はすべて安全のために毎日、閉じられていました。この時期、エルサレムの人口は、城壁内に全く余裕がない状態にまで膨らみます。1860年、モーゼス・フォーレ卿により、城壁外のヤッファ門を出たすぐそばに、最初のユダヤ人居住区であるミシケノット・シャアナイムが建設されます。続いてナハラト・シヴァ(1869年)、メア・シェアリム(1873〜75年)、そしてヤミン・モシェ(1892年)など、同じような七つの近隣市街が建てられます。これらはエルサレム新市街の核となりました。そのうちのいくつかは、今日のエルサレムで最も興味深く、古風な趣を持つ地区となっています。

1880年代には、ユダヤ人口はエルサレムの圧倒的多数派になっていました。

事実19

1880年代には、ユダヤ民族とイスラエルに関する聖書預言が次々と成就し始めます。現代イスラエル国家は聖書のイスラエルと直接つながっています。その歴史と再生の過程が、聖書の預言に書かれた状態と著しく一致しているからです。ちょうど3500年昔、イスラエルの民を約束の地へ導き入れるための器としてヨシュアを準備されたように、神は私たちの時代にユダヤ人を先祖の地へ帰らせる準備をされました。

オスマン=トルコ帝国は1516〜1917年まで中東全域を支配しました。この400年間の厳しい統治の間に、パレスチナ(イスラエル)の地はほとんど遊牧民ばかりの、人口が希薄な場所と化しました。18世紀末には、この地のほとんどが不在地主たちの所有となり、貧しく落ちぶれた小作人たちに貸し出されていました。わずかしか開墾されず、全く顧みられないまま風雨に侵食された丘々、砂だらけの砂漠……。そして、マラリヤ性の湿地に侵食されつつある、以前は耕作地だった荒れ果てた土地が広がっていました。古代の灌漑システムや段畑、町々と村々は、形を留めつつもすっかり崩れていました。

税金もこの地を害するものでした。樹木の一本一本にまで課税されたため、地主たちは税金を払えないという理由で森の木々を切ってしまったのです。その木材はイスタンブール、ベイルート、ダマスカス、そしてカイロ間を走っていた貨物用蒸気機関車の燃料にされてしまいました。ガリラヤとカルメル山周辺に茂っていた豊かな森林は丸裸にされ、耕地だったところは湿地や砂漠に侵食されてしまいます。「パレスチナ」は本当に貧しく、全く無視された、重要な町が一つも置かれない地でした。

1867年にパレスチナを訪れたマーク・トウェインは次のように記しています。「……土壌は十分に肥えているが、雑草に占められている。――静かな嘆きに満ちた広がり……我々は全道程で一度も人影を見なかった……一本の木や藪さえどこにもなかった。やせた土地でもすぐ生い茂るオリーブやサボテンさえ、このがらんとした国には見当たらなかった」

パレスチナ王立委員会(英国)のリポートは、地中海沿いの海岸平野に関する1913年の報告を引用しています。「ガザから北に向かう道は、ラクダと荷車による運搬で夏のみ使用可能である……ヤブネ村に至るまで、オレンジ畑も、葡萄やその他いかなる果樹園も見当たらず……家々はすべて泥製。学校は存在せず……海に向かった西側はほとんどが砂漠……この近辺は村々も少なく、人口も過疎……多くの村々が住民に見捨てられ、無人化している」

フランスの文豪ヴォルテールは、パレスチナを「陰気で希望のない土地」と表現しています。簡単にいえば、トルコの統治下でこの地は見捨てられた状態にあり、過疎化していたのです。

事実20

今日、イスラエルの地は満ちあふれる命の喜びを謳歌しています。それはユダヤ人の帰還が始まった1800年代後半以降、国として回復されてきたおかげです。もちろん、この過程は困難や犠牲なしには済まされないものでした。ヨシュア記を思い出してください。「イスラエルの民を約束の地に入らせる」と、神が主権的に約束されたにもかかわらず、そこへ入っていくには数々の大きな問題や戦いを通らなければなりませんでした。聖書と神のご計画に敵対する者たちは、いつも反抗し、攻撃を仕掛けてくるのです。

1880年代、イスラエルの地はまだトルコの支配下にあり、パレスチナという名で呼ばれていました。この時期、まるで巨大な電磁石にスイッチが入れられたかのように、ユダヤ人たちが移住してき始めます。南はイエメン、北はロシア、西のモロッコ、東のイラクなどから続々と集まってきました。このときのイスラエル帰還運動は、それ以来120年以上に亘って押し寄せ続ける、一連の帰還の最初の一波でした。無数の困難にもかかわらず、何百万という単位でユダヤ人たちがシオンに帰ってきました。それを妨げようと働く力は、すべて打ち砕かれました。

最初のアリヤー(移住)は1880年代に始まります。ペタフ・ティクバ、ロシュ・ピナ、リション・レ・ツィオン、ゲデラ、そしてズィカロン・ヤアコブなどの新しいユダヤ人入植地が次々と出現しました。ユダヤ人たちが購入する土地は高額な値段で取り引きされました。そのうち73%は、もともとカイロ、ダマスカス、ベイルートに住む不在地主たちの所有地でした。

当時、パレスチナに住んでいたアラブ人のおよそ80%は、借金に苦しみながら不在地主たちのために働く、オスマン帝国各地出身の小作農や、半遊牧民、またベドウィンたちでした。ユダヤ人によって購入された土地のほとんどは、湿地や岩地、砂地が多いこと、そしてその他もろもろの理由から耕作に不向きとされ、ずっと開墾されずにきたものばかりでした。

ピール委員会(英国、1937年)は次のように報告しています。「維持しきれないほどの良い土地を、あまりにも広くユダヤ人たちが獲得したとアラブは非難する。現在、オレンジなどを茂らせているそれらの土地のほとんどは、購入された当時は砂埃の舞う丘々や沼地で、放置されたままの荒地だった」

さらに、この不毛の土地にユダヤ人たちが払った額は、法外ともいえる高い値段でした。ほとんどが乾燥地帯、あるいは準乾燥地帯だった1944年のパレスチナで、ユダヤ人たちは1エーカー当たりの土地に1000〜1100ドル支払いました。それに対し、同年の米合衆国アイオワ州の肥沃な黒土1エーカー当たりの値段はおよそ110ドルでした(米国農業省による)。

事実21

1897年、「近代シオニズムの父」テオドール・ヘルツェルに動かされたユダヤ人指導者たちが、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開催し、シオニズム運動が正式に始まります。彼らは、パレスチナの地におけるユダヤ人の古代の町々や文化の再復興と、聖所と自己決定権が持てるユダヤ人国家の回復を呼びかけました。

1898年、テオドール・ヘルツェルは、エルサレムのヤッファ門外で皇帝ウィルヘルムに会見します。

イギリス聖公会の牧師であり、聖書を信じるクリスチャン・シオニストであった、ウィリアム・ヘッケラーという人物がいます。彼は、パレスチナにユダヤ人の祖国を建設するヘルツェルの目標をともに支え、動機づけ、励まし続け、ヘルツェルに深い影響を与えました。ヘッケラーは聖書を読むうちに、そこに書かれている、「彼らの父祖の地に民を再び連れ戻す」と約束する預言の数々を、必ず神が履行されると信じるようになりました。

1897年の第1回シオニスト会議で、「50年後には現代イスラエル国家が現実のものとなっている」とヘルツェルは明言しました。まさしく50年後の1947年、国連はイスラエルの建国を賛成過半数で認めました(1947年11月29日)。そして1948年5月14日、イスラエルの新しい国旗が掲揚されます。

その間にも、ユダヤ人たちは世界中、至るところから次々と波のように帰還し始めます。これが1900年代初頭に起こった「第2回アリヤー」またはユダヤ人移民の第二波と呼ばれるものです。ロシアでは、あちこちで頻繁にポグロム(暴力や略奪を含む大迫害)が発生した結果、多数のユダヤ系住民が国外へ脱出しました。映画『屋根の上のバイオリン弾き』には、当時のユダヤ人たちの生活や、強制的に追放された様子が描かれています。彼らの一部はパレスチナへやって来ました。

ユダヤ人たちが移住してきてこの地域を盛んに開拓し始めると、当時すっかり衰え疲弊していたオスマン帝国各地から、職を求めるアラブ人たちがパレスチナに押し寄せました。今日、「パレスチナ人」と呼ばれる多くは、これら新しく移住してきたアラブ人たちの子孫です。

事実22

1914年に始まった第1次世界大戦は、中東にも広まりました。1916年、フランスとイギリスは戦後のオスマン帝国の処理を巡って、合意計画を提起するために共同の委員会を発足しました。まだ帝国が英仏に倒される前であったにもかかわらずです。英国側の代表はマーク・サイクス卿、フランス側の代表はシャルル・フランソワ・ジョルジュ・ピコでした。これが1916年の三国協定(サイクス‐ピコ協定)として知られるもので、中東に新しく効果的な国境線を引いたものでした。しかし、彼らの興味はそこに住むことになる人々のことよりも、自分たち英仏の戦略的利益のほうに偏っていました。その結果、クルド人の国は今日に至るまでトルコ、シリア、イランとイラクの領土内に分割され、クルド人は公民権を奪われたままです。

イスラエルと同様、中東の近代アラブ国家のほとんどが、現在の国境をこのサイクス‐ピコ協定によっているのです。

多くの人々はイスラエルを、1948年にやっと独立を獲得した中東の新参国家と考えています。しかし、中東の他の国々も今世紀になってから独立を獲得したという事実を思い出していただく必要があります。例を挙げれば、サウジ・アラビア(1913年)、レバノン(1920年)、イラク(1932年)、シリア(1941年)、ヨルダン(1946年)、そしてクウェート(1961年)です。

イスラエルには、聖書という確固とした証拠と、古くからこの地に住み続けてきたユダヤ人の存在という裏づけがあります。そのような根拠でもない限り、この地域では誰もその国境について、歴史的権利を堂々と主張することはできないのです。

事実23

第1次大戦後、トルコは戦争に敗れ、1917〜48年まで続く、英国によるパレスチナの委任統治に入ります。

これは十字軍以来、初のキリスト教国によるエルサレム統治となりました。英国軍には三つの強力なユダヤ人軍団も参加して戦っていたにもかかわらず、中東のイスラム教徒たちは英国=キリスト教国、つまり英国軍はキリスト教の軍隊と考えていました。英国軍を率いていたのはエドマンド・アレンビー将軍です。軍事行動の一部として、彼はエルサレムの住人に飛行機でビラを撒きました。これらのビラにはアラビア語で降伏を呼びかけることばと、アレンビー将軍のサインが書かれていました。アラビア語で書いた彼の名前は「アラー・ネビ」(=アラーの預言者)と読むことができ、この命令への抵抗を考える者の心を恐怖で満たしました。

アレンビーは熱心なクリスチャンで、彼の枕頭には常に聖書が置かれていたといわれています。この都への尊敬の念から、1917年にエルサレムに到着すると、彼はヤッファ門前で下馬して徒歩で入場し、「我々は戻ってきました」と言ったそうです。それから1948年の独立まで、エルサレムは英国統治下となります。

英国統治初期、この地域のユダヤ人とアラブ人双方の国民意識を高揚させる努力が払われました。大トルコ帝国は解体され、再び多様な民族グループに分解しました。数多くのアラブ、イスラム国家とともに、ユダヤ国家を中東に建国することへの見通しも非常に明るく見えました。

1917年10月31日、英国戦時内閣はバルフォア宣言を承認し、11月2日に政府方針として正式に発表しました。その全文は以下のとおりです。

「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土を建設することに賛成し、この目的の達成を容易にするため、最善の努力を払うものである。ただし、パレスチナに現住する非ユダヤ人民の市民的・宗教的権利、および他の諸国におけるユダヤ人の享受する諸権利と政治的地位が損なわれるようなことは為されない旨、明確に了解される」

バルフォア宣言は、英国の科学者で初期シオニスト・リーダーでもあったハイム・ワイツマン博士が、英国前首相のアーサー・ジェイムズ・バルフォア卿と交渉した結果、生まれたものです。博士はその科学的才能で、海軍省と軍需省に大きく貢献しました。たとえば、英国の勝利を助けたTNT(トリニトロトルエン=強力な爆薬)の発明も博士によるものです。彼の功績は、1915年から英国軍事大臣に任命されていたロイド・ジョージの関心を引きました。その間もずっとワイツマン博士は、彼に耳を貸すすべての人に対し、パレスチナにユダヤ人の祖国を建設する必要について彼の主張を語り続けました。その中にバルフォア卿とロイド・ジョージも含まれていたのです。

英国がパレスチナを手中に収める直前の1916年、英国政権の交代が行われ、バルフォア卿は外務大臣に、ロイド・ジョージが首相の座につきました。ワイツマン博士は原稿作成を手伝い、バルフォア宣言は戦時内閣に受理され、政府方針となります。

これは単なる「偶然」のなせる業だったのでしょうか。それとも、神の御手がご自分の約束の預言的結末に向け、歴史を動かしていたのでしょうか。

バルフォア宣言はアメリカ合衆国と西欧列強の賛同を勝ち得ました。ユダヤ人たちと時を同じくして、アラブ人たちもちょうどオスマン帝国のくびきから自由になるところでした。当初は彼らも、バルフォア宣言受け入れの期待があったのです。

事実24

アラブ世界で認められた指導者シェリフ・フセインの息子、エミール・ファイサルは、ハイム・ワイツマン博士(後のイスラエル初代大統領)や、他のシオニスト・リーダーと1919年、「パリ平和会議」で会談しました。そこで彼らは一つの合意文書にサインをします。それは「アラブ人、ユダヤ人の間の民族血族関係と絆を考慮し、アラブ国家とパレスチナの発展のため最善の協力をし合う」という内容の宣言をしたものです(1919年に、パレスチナは中東の一部としてユダヤ人のものと選定されました。地図1参照)。

この合意にはバルフォア宣言の実現を求めると同時に、「ユダヤ人の大規模かつ迅速なパレスチナ移住の奨励と、できるだけ早い緊密な定住と、広範囲な耕地の開墾実現のために……すべての必要な措置を……」という文言も含まれていました。

パリ平和会議で、ワイツマン博士がシオニスト問題について紹介した翌日の3月3日、アメリカ最高裁判所長官であり、シオニスト・リーダーでもあったフランクフルターに、ファイサルは次のように書き送りました。「アラブは、――特に我々の中でも教養ある者たちは、シオニスト運動に非常に深く共鳴するものです。……心から『お帰りなさい』とユダヤ人たちを迎え入れることを我々は希望します。……我々は、改革され正しい方向に修正された近東の建設のために、そして互いに二つの運動を完成させるために、ともに助け合い、働いていきます。ユダヤ人の運動は民族独立主義なのであって、帝国主義ではありません。この点では我々アラブ人も然りです。シリアには我々双方のための十分な土地があります(トルコ統治下では、パレスチナはシリアの一部に含まれていました)。もちろん、相互に相手の助けなくして真の成功はないと私は考えています」

自分たちの独立国家建設のために、旧オスマン帝国から広大な領土獲得を望んでいたファイサルは、この協定の受諾に際し、戦時中に英国がアラブと交わした約束の履行を条件としました。

しかし、フランスがシリアの委任統治を獲得し、シリア王を宣言していたファイサルをダマスカスから追い出したとき、この夢は一時的に打ち砕かれます。ファイサルへの慰めとして、英国は彼をイラク王の座につけます。英国植民地大臣ウィンストン・チャーチルは、アラブをなだめ喜ばせるために、さらに次のような努力をしました。ユダヤ人の国とされたはずのパレスチナから80%、およそ3万5000平方マイル(約9万650平方km)切り取って、そこに「トランスヨルダン」と呼ぶ新アラブ国家を作り、ファイサルの弟アブドラを太守に任命したのです(現在のヨルダン国王キング・アブドラ2世の曽祖父)。独立が認められ、国名がヨルダン・ハシミテ王国となる1946年まで、英国はトランスヨルダンを管理しました(地図2参照)。

事実25

ユダヤ人の祖国建設が約束されていたパレスチナの土地での、この最初の分割は、シオニストたちにとって大きな打撃となりました。1922年、国連でパレスチナの英国委任統治継続が決まり、他にどこにも訴える術もなく、ユダヤ人は土地分割をしぶしぶ承諾します。強調されるべきは、アラブ人が広大な帝国を望み、それを実現化してきたことです。現在、アラブ連盟は21カ国、合計500万平方マイル(約1295万平方km)以上もの領土を持ちます。それに比べ、ユダヤ人の領土はたった8000平方マイル(約2万720平方km)からなる1カ国しかありません。つまりイスラエルです(地図3参照)。

アラブは1919年当初、パレスチナへユダヤ国家を受け入れる姿勢を示しましたが、その後、一旦独立して権力を握ると、ユダヤ人の移住とユダヤ国家への援助はおろか、興味さえなくしました。

東ヨーロッパではユダヤ人が虐待されており、そしてロシアとその周辺を支配していた共産主義が人々を弾圧していました。バルフォア宣言による啓発と、これら迫害を受けている人々を連れ出すための扉が開かれたことで、1919年に第三のアリヤー(移住)の波が起こりました。このとき5万人以上ものユダヤ人が移住してきます。しかし1920年代、アラブ側の気持ちが変わり、パレスチナにいたユダヤ人への本格的な攻撃を開始しました。戦いはアラブ側から始められ、それはユダヤ国家建国への希望をつぶそうとするものでした。

事実26

時が経つにつれ、英国は中東でのアラブとの関係が損なわれることを恐れるようになり、石油に関する英国の利権を守る道を模索するようになりました。第2次世界大戦が地平線に暗い影を落とし始め、石油の確保が最大の関心事になってきたのです。英国のアラブに対するおもねり姿勢と、その反動としてユダヤ人への冷淡な姿勢が明白に表れてくるようになります。彼らは、英国委任統治下パレスチナへのユダヤ人移住許可を極端に減らし、制限するようになりました。

1936〜39年にアラブ蜂起が起こり、1万人が命を落とします。英国が迅速に対処しなかったため大惨事となり、英国人1000人、ユダヤ人500人、アラブ人8500人の命が奪われました(ほとんどのアラブ人は仲間同士の権力闘争で死んだ)。結局、英国は厳重な措置をとり、蜂起を止めさせねばなりませんでした。この出来事で恐れを増した英国は、ユダヤ人の移住をさらに減らします。また1939年、英国白書(政府発行の報告書)において最悪の発表をしました。「次の5年間、ユダヤ人の移住許可は年間1万人とし、追加としてドイツ国家社会主義(ナチ)からの難民2万5000人、つまり5年間の合計で7万5000人とする」と、イスラエルへと移民できる人数を制限したのです。時を同じくして、ヒトラーが少なくとも600万人という人々を殺していたのです。

そのうえでこの白書はこう宣言しています。「今後10年以内に、独立したパレスチナ国家が樹立されることを希望する――」

このパレスチナ国家とはアラブ人の国です。第2次世界大戦中、エルサレムのイスラム法典解釈官ハッジ・アミン・アル‐フセイニ(現在のパレスチナ自治政府、ファイサル・フセイニ財務大臣の伯父)は、中東のユダヤ人絶滅準備のためにアドルフ・ヒトラーと会談したことがあります。ヤセル・アラファト氏も、母方の家系においてこの一族と親戚関係です。

事実27

第2次大戦が終わり、戦争中、ヨーロッパのユダヤ人たちの身に起こった恐ろしい悲劇が明らかになってきました。そこでユダヤ人国家建設をとおして、ホロコースト生存者たちの迅速な救済と社会復帰を強く求める声がそこら中から上がるようになります。英国もまた、第1次大戦以来維持してきた委任統治の監督役に疲労していました。パレスチナではアラブ・ユダヤ双方をなだめる努力をしつつ、そこから撤退する道を模索し始めます。世界のユダヤ人口の3分の1に当たる600万人の男女子どもの命を奪ったホロコーストは、ユダヤ人たちの上に、いまだに癒えない重い衝撃を与えています。しかしエゼキエル37章によれば、乾いた骨の満ちた谷、すなわち「イスラエルの全家」は、彼らの墓から息を吹き返して立ち上がり、イスラエルの地に入って「非常に大きな群集になった」と書かれています。この預言の成就が1948年に起こったのです。神ご自身がそれを行なわれました。

イスラエル建国に先立ち、英国はアラブとユダヤ双方が満足できる和合協定の締結を試みましたが失敗に終わり、1947年初頭、国連にこの問題をゆだねます。

国連は、11カ国からなる特別委員会(UNSCOP)をパレスチナへ調査に派遣します。そして、どちらも国全体を自分のものだと主張する、アラブとユダヤの二つのグループをそこに見いだします。両民族の要求を満たすため、英国委任統治の終結と、さらに各人口の集中度合いに基づいてアラブ国家とユダヤ国家にこの地を分割する案をUNSCOPは提案しました。エルサレムは国際地区になるという計画でした(地図4参照)。

この地におけるユダヤ国家の存在は、もうすでに既成事実でした。パレスチナのユダヤ人は強く独立を望んでおり、分割案で妥協する用意がありました。しかし、アラブはUNSCOP案を拒否します。世界は国連の決議案に強く賛成していたので、賛成33・反対13・棄権10という投票結果で、国連の土地分割案は1947年11月29日に採択されます。

1947年、国連での討論の間中、パレスチナのアラブ高等委員会は戦争を盾に脅迫し続け、一方、ユダヤ機関のスポークスマンは平和をアピールし続けました。アラブ側スポークスマンだったジャマル・フセイニは1947年11月24日、国連に対し、「提案された分割案は、単に怒りと流血をもたらすだけであろう」と語りました。

5日後、国連は土地分割案の投票を行い、アラブは国連決議の履行を妨害するため戦争を始めます。道路に地雷が仕掛けられ、ユダヤ人開拓地は孤立し、ユダヤ人護衛隊は待ち伏せによって襲撃されました。その週末までに105人ものユダヤ人が殺されました。それからも、エルサレムのアパートが爆破され、50人以上の男女子どもたちが殺されます。ヘブライ大学の学生35名がエルサレム近くの路上で虐殺されました。ユダヤ機関は爆破され、多くの死傷者を出しました。ユダヤ人医師や看護婦、科学者77名を乗せた護送車が、ハダッサ病院に向かう途中のスコープス山上で爆破され、全員が死亡しました。

事実28

1948年5月14日、イスラエル国家は公式に独立を宣言し、独立宣言文に署名がなされます。数多くのその条項の中には、次の文章が含まれています。

「エレツ・イスラエル(イスラエルの地)はユダヤ民族発祥の地であった。この地において彼らの霊的・宗教的・政治的アイデンティティーが形作られた。ここにおいて、彼らは初めて国家となり、国民的・世界的重要性を持つ文化的価値体系を創造し、そして世界に永遠の、書の書を与えた……」

「ユダヤ人たちはその全世代を挙げて、彼らのいにしえからの故郷、先祖の地に再び自分たちの国を立て上げるために奮闘しました。彼らは砂漠を再び花咲く地にし、ヘブル語を復活させ、町々や村々を建設し、豊かに繁栄する共同体を生み出し、独自の経済と文化を統御し、平和を愛しつつ、しかし、自らを守る術も知り……

イスラエル国家は……すべての住民の利益のために、国の発展を促進するでしょう。それはイスラエルの預言者たちによって想見された自由と広義、そして平和に基づく国家となります。この国は宗教や人種、性別に関係なく、全住民の社会的・政治的権利の完全な平等を保障するものです。この国は宗教、良心、言語、教育、そして文化の自由を保証します。この国はすべての宗教の聖所を保護するでしょう。そして国際連合憲章の原則に忠実に従うものです。

我々はすべての近隣諸国とその国民に対し、平和と、隣人として助け合う姿勢をもってその手を差し伸べ、そして彼らに、自らの地において主権を有するユダヤ人民と共同し、相互に助け合う絆を結ぶことを訴えます」

事実29

イスラエル国旗に描かれた白地に2本の青い直線は、ユダヤ人の祈りのショール(タリート)に基づいています。青い色は神の聖霊を、白は天を表しています。

真ん中にはマゲン・ダビッド、すなわちダビデの星が描かれています。ダビデの星に関する最も意味深い解釈の一つに、著名なユダヤ人学者フランツ・ローゼンスウィグのものがあります。彼はダビデの星を、お互いに重ね合わされた二つの三角形と見ます。一つの三角形は神のご性質である、創造者、贖い主、教師を象徴し、もう一つの三角形は神と人、その他の被造物の関係を象徴するというものです。これらの解釈は、神と人の性質に関するクリスチャンの理解に矛盾しないものです。

この旗の図柄は、聖書預言の成就と、4000年の昔に神がユダヤ人と結ばれた契約の継続を表しています。この国民の上にはためく旗として、なんと意味深いものでしょうか。この旗は、ご自分の民とご自分の地、ご自分のことばに対する神の忠実さの証なのです。

次回パート3では、1948年の建国から現在に至るまでをたどりたいと思います。

エルサレムからシャローム

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