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イスラエル史の重要な事実40 Part-1

BFP編集部 2001年1月

アブラハムの時代以来、過去4000年間に亘って聖書の地となってきたイスラエルとユダヤ民族は、切っても切れない強い絆で結ばれています。

イスラエルにおいてユダヤ人の人口は増減を繰り返してきましたが、一人残らず追放され、ユダヤ人が全く途絶えたという期間は、ヨシュアの時代以来全くありませんでした。多かれ少なかれ、常にいくらかのユダヤ人がこの地に残されていたのです。

アッシリアとバビロニアによる捕囚では、大多数の国民が祖国から追い出されました。しかし、これは比較的短期間だったのに対し、ローマによる最後の大追放は約1800年間にもおよびました。それでも神は、ご自分の民を祖国へ連れ戻し、彼らを回復すると約束されました。荒れ果てた祖国に、世界中からユダヤ人を集め、再び以前の栄光を回復するという聖書の預言が数多くあります。1800年代後半、オスマントルコ帝国が支配していた当時、まだパレスチナと呼ばれていたこの地で、これらの預言が花開き始め、現代イスラエル国家建国につながる出来事が起こり始めました。

過去、イスラエルを支配した国々を振り返ると、まるで栄華を極めた世界帝国の紳士録といった観があります。イスラエルは、誰もがもぎ取りたいと欲する、選りすぐりの果実のような国です。主が“ご自分の地”として選ぶに値するこの地の魅力的は、世界支配者たちの注目をも集めました。いくつかのケースでは、国々は単純にユダヤ人を支配することを欲しました。それは、ユダヤ人が神の選民だったからに他なりません。この世の権力者たちは、彼らを支配することによって神に反抗し、権力を誇示しました。言うまでもなく、イスラエルとユダヤ人は、神の特別な選ばれしものです。

今月から3回に渡り、イスラエルの地におけるユダヤ人の権利について、基礎知識を学んでまいりましょう。そのために、4000年に亘るイスラエル史の重要な事実を、順を追ってたどってみたいと思います。

事実1

多くの学者たちによれば、族長アブラハム、イサク、ヤコブは、紀元前2100年から1875年の間頃、カナンで生活していたとされています。創世記12章1節から3節には、神がアブラハムと交わされた契約の相続権は、息子のイサク(イシュマエルや、アブラハムの他の息子たちにではなく)に渡され、さらにヤコブ(エサウではなく)に渡り、そしてイスラエルの12部族(ヤコブの12人の息子たち)に渡されたと書かれています。

ヤコブの12人の息子たちは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフとベニヤミンです。神はレビを幕屋の運搬と維持管理、そしてその礼拝に従事する一族としてリストから外されました(民数記1:47-53)。ヨセフがなぜリストから外されたのかは語られていませんが、彼の息子エフライムと二つに分かれたマナセが、12という数字を満たすために選ばれました。ある人々は、これが長男に対する2倍の相続を表すもので、ヨセフの夢が現実となったことを示すという仮説を提唱しています(民数記1:47-53)

ヤコブの息子ヨセフは奴隷として売られ、紆余曲折の末にエジプトの首相となりました。ヤコブとその家族はその地を襲った大飢饉のとき、エジプトにいたヨセフのもとに避難して身を寄せました。その後、彼らはエジプトに留まり、ついに「ヨセフを知らないパロ王」のもとで奴隷となりました。

事実2

ヨセフがエジプトへ来て400年後、イスラエルの子らをエジプトの地から連れ出すために、一人の救い手が起こされました。モーセです。彼らをまっすぐ約束の地へ導くことが神のご意志でしたが、「恐るべき体格を持った人々が、完全に町々を防備している」という報告を12人の偵察隊が持ち帰ると、民は荒野に留まることを選択しました。ヨシュアとカレブが豊かな産物の一部-葡萄、いちじく、柘榴などを示しましたが、人々は恐れおののいて、その地へ入らないことを選択しました。神は彼らの自由意志を尊重し、次の世代が約束の地へ入ることがよう、彼らを40年間荒野で保たれました。

出エジプトを果たした一世代の民は、すぐさま約束の地へ入らず、神への不信仰を示しましたが、神は彼らと共におられました。雨露をしのぐ避難所を与え、食糧(マナと鶉)を与え、決して履きつぶれることのない履物を与え、そして昼は雲の柱、夜は火の柱となってご臨在を示し続けられました。民がどんなに不従順であっても、神は彼らを愛しておられたのです。神は次の世代が召しを全うできるように、彼らを守られました。

事実3

神がヨシュアとイスラエル人たちを約束の地へお連れになった後も、その地を征服するのには何百年もの年月がかかりました。これについて、神はあらかじめこのように語っておられます。

「あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。」(申命記7:22-25)

12部族がそれぞれ相続した地の境界線は、かなりの詳細に聖書に描かれています。現在のイスラエル地図でも、それらの地境を正確にたどることができます。ルベンとガド、マナセの半分はヨルダン川の東側に住みました(民数記32-33)他の9部族とマナセの残り半分は、ヨシュア記15章から19章に記されているように、ヨルダン川の西側に住みました。

事実4

紀元前1050年頃、サウルがイスラエルの初代国王となりました。その後ダビデとソロモンの時代になって、やっとイスラエルは強固な国家となりました。ダビデの治世(BC1010〜970)およびソロモンの治世(BC970〜930)に、イスラエルは帝国となりました。ソロモン大帝国は、シナイ砂漠からユーフラテス川までの広大な地域に及びました。しかしそれでも、神がイスラエルに約束された地の総計には至りませんでした。預言によれば、これはやがて来る日に実現するでしょう。

事実5

主要な交易路や大水路、海港、その他いかなる経済上・農業上の資源がない場所にもかかわらず、紀元前1004、特に行政的・霊的な中心地でした。エルサレム唯一の魅力は、主の宮とそのご臨在でした。帝国や異教徒たちは、霊的アイデンティティーの重要性ゆえに、エルサレムを征服することを欲したのです。

この町を征服したダビデ王は、主の宮建設のためにアラウナの麦打ち場を銀50シェケルで買い取りました。その後、彼の遺志を継いだソロモンがそこに神殿を建てました(第1歴代誌3:1)。今日に至るまで、この場所の正式な所有権について契約が交わされたのはその時だけです。しかし今日、その場所には創造主の神殿はなく、代わりにいくつかのイスラム教のモスクが建っており、ユダヤ人とクリスチャンはそこで祈りを捧げることさえ禁じられています。聖書と歴史によれば、ここは聖なる場所であり、イスラムに属するものではありません。ともあれ、ここにはやがて第3神殿が建つと書かれていますから(エゼキエル40-44章)

事実6

紀元前930年にソロモンが死ぬと、イスラエル連合王国はサマリヤを首都とする北王国(イスラエル)と、エルサレムを首都とする南王国(ユダ)に分裂しました。

北王国(イスラエル)の主要な王たちは、ヤロブアム1世(BC928〜907)、ナダブ(907〜906)、バシャ(906〜833)、オムリ(882〜871)、アハブ(871〜852)、ヨラム(852〜842)、エフー(842〜814)、エホアハズ(814〜800)、エホアシュ(800〜784)、ヤロブアム2世(784〜748)、メナヘム(747〜737)、ペカヤ(737〜735)、ペカ(735〜733)、そしてホセア(733〜724)です。紀元前722年のアッシリアによる捕囚でこの系図は終わっています。

南王国(ユダ)の主要な王たちは、レハブアム(BC928〜911)、アビヤ(911〜908)、アサ(908〜867)、ヨシャパテ(867〜846)、ヨラム(846〜843)、アタリヤ(842〜836)、ヨアシュ(836〜798)、アマジヤ(798〜769)、ウジヤ(769〜733)、ヨタム(750〜735)、アハズ(733〜727)、ヒゼキヤ(727〜698)、マナセ(698〜642)、ヨシヤ(639〜609)、エホヤキム(608〜598)、そしてゼデキヤ(596〜586)です。紀元前586年のバビロニアの捕囚でこの系図は終わっています(注2)。

北王国(イスラエル)の主要な預言者は、エリヤ(BC875〜848)、エリシャ(848〜797)、ヨナ(785〜775)、アモス(760〜750)、そしてホセア(750〜715)です。

南王国(ユダ)の主要な預言者は、オバデヤ(855〜840)、イザヤ(740〜681)、エレミヤ(626〜585)、そしてエゼキエル(593〜571)です。そして捕囚の後には、ダニエル(605〜530)、ゼカリヤ(520〜480)、そしてマラキ(440〜430)です(注3)。

事実7

紀元前722年、アッシリアの王セナケリブによる征服で、北王国に裁きが下されましたが、エルサレムは持ちこたえました。ユダ王国の王ヒゼキヤは、地下にギホンの泉とシロアムの池をつなぐ水路を掘って、城壁内の水の供給を確保しました。エルサレム周囲の丘々で、神の使いがセナケリブ軍を打ったので、アッシリアの王は恥辱のうちに帰って行きました(第2列王19章)。セナケリブの生涯と業績が刻まれた碑には、聖書と一致する記録が書かれています。

紀元前586年、ついに南のユダ王国がバビロンのネブカデネザルに落とされました。彼はエルサレムを陥落し、第一神殿を破壊しました。契約の箱はこの時点から行方不明になっています。多くの人々がその所在を探し求めてきましたが、いまだに発見に至っていません。ユダ王国の人々は虜となり、バビロンへ引かれて行きました(第2列王記25章)

事実8

紀元前539〜537年、バビロンを征服したペルシャの王クロスの布告によって、少数のユダヤ人がイスラエルへ戻りました。ダビデの家系ゼルバベルに率いられたこの最初の帰還には、およそ5万人が参加したと推定されます。エズラ記に書かれているように、人々が最初に手をつけたのは「神殿の再建」でした。その後、1世紀も経たない紀元前445年、書記エズラとネヘミヤに率いられた第二の帰還が起こりました。ネヘミヤ記に書かれているように、彼らは城壁の再建と防備、神殿のさらなる完成に向けて、大規模な工事に着手しました。この第二神殿は500年後、ヘロデ大王によって究極的拡張と芸術的細工が施されました。

ユダヤ人の帰還、神の啓示を受けたエズラのリーダーシップ、第二神殿の建設、エルサレムの城壁の再建と防備、そして宗教と司法をつかさどる最高機関クネセット・ハガドラー(大議会)の設立が、第二神殿時代の出発でした。大ペルシァ帝国の勢力圏内で、ユダはエルサレムを中心とする国となりました。そのリーダーシップは、もはや一人の王にではなく、大祭司と長老議会にゆだねられました。

事実9

紀元前350年、ペルシャがエルサレムを攻略しましたが、332年にはアレクサンダー大王率いるギリシャに攻め落とされました。アレクサンダーが死ぬと、彼の3人の将軍の支配下に分割され、紀元前313年には、エジプトのプトレマイオス1世がエルサレムを治めることになりました。さらに紀元前170年、シリアのセレウコス朝の王、アンティオコス・エピファネス4世がエルサレムを奪取し、ユダヤ人に創造主なる神への礼拝を禁じ、ギリシャの神々への礼拝を強制しました。この時期、多くのユダヤ人がギリシャの習慣を身につけ、ヘレニズム化されました。

さらに、エピファネス4世は祭壇で豚を捧げて神殿を汚しました。そればかりか、ユダヤ人にもそれを強要したので、信心深いユダヤ人の我慢は限界を超え、紀元前167〜4年、ハスモン家が反乱を起こしました。はじめは祭司の家系ハスモン家のマッティアスが率いていましたが、彼の死後はマカベア(「鉄槌」の意)として知られる、彼の息子ユダが後を継ぎました。

紀元前165年、キスレヴ月の25日、ハスモン家一派が神殿を占拠しました。彼らは礼拝を本来の形に戻すべく、神殿を聖めました。その時、神殿で使われる灯火用の聖い油が一日分しかなかったにもかかわらず、神がその油を燃やし続けられたので、新しい油が準備されるまで8日間も燃え続けたと言われています。この奇跡から、『ハヌカーの祭日』が始まり、ユダヤ人は今なをこれを祝っています。イエスご自身も、『神殿奉献記念祭』として知られるこの祭りを祝われました。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」(ヨハネ10:22、新共同訳)

ハスモン家による治世のもと、ユダヤは非常に栄え、セレウシドからの独立も果たしました。ハスモン家のリーダーたちは、ソロモン王国時代に所有していた領土の大部分を回復しました。およそ80年間(紀元前142〜63年)に亘るハスモン王朝の間、ユダヤ人による統治のもとで政治的団結が達成され、イスラエルとエルサレムに再びユダヤ人文化が花開きました。

事実10

紀元前63年、ポンペイ将軍率いるローマ軍がこの地方を侵略しました。彼らはハスモン王朝のヒルカヌス2世を容認し、王に制限つきの権限を与えました。多くの反乱があったことからもわかるように、ユダヤ人はローマの統治を受け入れませんでした。この圧政下の中、以前の栄光を回復しようと、紀元前40年にマッティアス・アンティゴヌスによって最後の反乱が起こりました。3年後、ローマに敗北し、これによってハスモン家の統治にも終わりがもたらされ、この地は完全にローマの従属国となりました。

紀元前37年、ヒルカヌス2世の娘と結婚した家臣の息子ヘロデが、ローマによってユダヤの王座につけられました。対外政策には何の権限もないにもかかわらず、国の内政に関しては無制限の自治を認められ、ヘロデはローマ帝国東部でも屈指の専制君主となりました。ヨルダン川西岸のユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、そしてヨルダン川東岸のデカポリスとペレアなど、この時代に使われた主な地方名は、新約聖書に見ることができます。パレスチナという地名は聖書のどこにも書かれていません。この呼び名は、イエスの死と復活の100年後にローマ人によってつけられたものです。

ヘロデは有名な建築マニアで、カイザリア(カイザルの名をとった)に巨大な港湾都市を築いたり、ベツレヘム南西のヘロディオンや、サマリヤ山中のセバスティア、死海西岸のマサダなどの要塞を築きました。

しかし何十年もの建築努力が集約したエルサレムこそ、ヘロデの建築コレクションの最高峰と言えるでしょう。当時彼はここを「奇跡の都」と評される場所にしました。ヨルダン渓谷からエルサレムに上ってきた巡礼たちの目に、オリーブ山から眺める神殿は息を呑む壮麗さで映ったに違いありません。

事実11

イエスはおよそ紀元前3年頃お生まれになり、その生涯をイスラエルの地で送られました。そして、この時代の宗教や政治の影響が、主の伝道活動に色濃く影響をおよぼしました。当時大ローマ帝国下におけるシリアの属州のひとつであったユダヤ地方の中でも、エルサレムはローマの直轄領でした。そして、伝道生涯の最後に、イエスはこの場所で十字架刑を受けられたのです。

ヘロデ王は二つの理由からあまり人気がありませんでした。第一は、ローマ人たちの手先であったこと。第二は第一の理由よりさらに深刻なもので、父親がエサウの家系出身のイドメア人であって、正当な王家の血筋ではなかったことです。これはローマにとっては都合の良いことでした。つまり、ヘロデは王としての才覚はあるが、同時にユダヤ民族から容認されていなかったので、民が彼に従って反乱を起こす心配がなかったからです。

しかし紀元6年、ユダヤの王座についたヘロデの子孫たちが無能さを発揮したため、ユダヤはローマ直轄領となりました。

ローマ直轄導入と時を同じくして、『熱心党』と呼ばれるローマに抵抗する運動グループが活動を始めました。これが最終的には紀元66〜73年の全面反乱に発展します。

事実12

紀元70年、134日間におよんだローマ軍のエルサレム包囲は、ローマの将軍ティトスのエルサレム略奪と、第二神殿の破壊という結末を迎えました。

1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、エルサレムだけで100万人の命が絶たれたと推定され、同時に国中の人々が数多く殺され、何万人もの人々が奴隷として売り飛ばされたと書かれています。

1000人近い老若男女が、死海西岸の山上にあるヘロデの宮殿『マサダ』を占拠し、立てこもりました。その後3年間、彼らを追撃しようと繰り返しローマの攻撃が試みられましたが、彼らは持ちこたえました。しかし、ついにローマ軍が要塞を破って中に踏み込んだとき、彼らは自ら死を選びました。捕虜になって屈辱を味わうことが耐えられなかったからです。10人がくじで選ばれ、10人のうちひとりが他の9人を殺し、最後のひとりは自害しました。1960〜70年代のマサダ発掘で、壊れた陶器のかけらに書かれた10個のくじが考古学者たちによって発見されています。

エルサレム陥落の後、サンヘドリン(大祭司が宗教、民事、刑事問題を裁くユダヤ最高議会)が、ヤブネとティベリヤに再召集されました。第二神殿の破壊に伴い、神殿なしでユダヤ教を存続していく方法を模索しなければならなかったからです。祭司たちは地域共同体のラビとなりました。礼拝の中心地が無くなったので、シナゴーグが各共同体の神殿となりました。ユダヤ教が生き残るために、こうした新たな聖書解釈がなされました。このときからラビ的ユダヤ教が始まったのです。

事実13

一方、キリスト教は世界中へ広まっていきました。使徒行伝によれば、第1回教会会議はエルサレムで行われ(15章)、その後も数世紀間、ここが信仰の中心であり続けました。キリスト教はエルサレムからローマ帝国各地へ広がっていきましたが、ローマの法律で新しい宗教が禁止されていたため、どこに行っても迫害されました。キリスト教は「レリジオ・イリスィタ」、すなわち非合法の宗教とされ、信者たちはその信仰のゆえに死に至る深刻な迫害を受けました。

1世紀初頭、ほんの短期間ユダヤ人の自治権が認められた時期があり、引き続いて132〜135年にシモン・バル・コクバの反乱が起こりました。この反乱でユダヤ人は大量に殺戮され、エルサレムは破壊し尽くされました。その後、エルサレムは皇帝ハドリアヌスによって新たに再建され、彼の名字アエリアをとった「アエリア・カピトリーナ」と改名されました。ユダヤ人はエルサレムから追放され、さらにユダヤ、サマリヤそしてガリラヤ地方から、完全にユダヤ人を断ち切る目的で、“シリア・パレスチナ”とイスラエルを新たに命名しました。

事実14

紀元306年、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗し、帝国でのキリスト教迫害はなくなりました。それどころか帝国の公式宗教となり、以来、ユダヤ教とユダヤ人が迫害されるようになりました。紀元324年、神聖ローマ帝国軍が「信仰の起源」を宣言し、ビザンチン統治を敷く目的でエルサレムになだれ込みました。326年、ビザンチン皇帝コンスタンティヌスの母、ヘレナ女王がエルサレムを訪れ、エルサレムの聖墳墓教会やベツレヘムの降誕教会などを含む、主要な教会を建て始めました。

事実15

イスラム教の黎明となった7世紀初頭、エルサレムは数回、異なる支配者たちの手に渡りました。614年、ビザンチン帝国はペルシァにエルサレムを奪われますが、629年には再び取り戻しています。しかし638年、カリフ・オマール・ベン・ハタブ率いるイスラム軍が大挙して攻め込み、エルサレムと聖書の地は奪取され、アラブ・イスラムの手に渡りました。688〜691年、アブド・エル・マリクによって神殿の丘に岩のドームが建てられました。こここそ、神殿の丘で最も重要な場所です。イスラムにとっては、元ビザンチン教会を改築したアル・アクサ・モスクのほうがさらに神聖な場所なのです。エルサレムはイスラムの経典コーランに一度も登場ないにもかかわらず、開祖モハメッドが昇天の途上でこのモスクに立ち寄ったと信じられています。

事実16

1096年、ヨーロッパから十字軍が第一回目の遠征におよび、エルサレムを奪取しました。十字軍統治はその後1291年まで持続しました。彼らはこの地に入ると、まずイスラム教徒、続けてユダヤ人たちを虐殺しました。また、顔立ちが同じために区別がつかず、イスラム教徒と勘違いされた多くのクリスチャンたちも殺害されました。神のあわれみを求めてシナゴーグで祈っていたユダヤ人たちを、十字軍は「キリストよ、われら汝をあがめ奉らん」と讃美歌を歌いつつ、シナゴーグに火をつけて、彼らを焼き殺したという記録が残っています。殺されなかった人々は奴隷として売られていきました。

1099年、最初のラテン・クリスチャン王国がブイヨンのゴッドフリーによって設立されました。そして1187年、イスラムの英雄サラディンが、十字軍からエルサレムを奪い取りました。1192年、獅子心王リチャードがエルサレムの再奪還を試みますが、失敗に終わりました。それでも、エジプトのイスラム勢力マムルークが、十字軍支配に終止符を打つ1291年まで、十字軍はこの地に留まり続けました。

十字軍は、おもに町々の防備と築城に力を注ぎました。また、より良い通商と熱心なキリスト教巡礼を促進するヨーロッパからの輸送路を開きました。この時代、この地はクリスチャンの支配下にはあっても、キリスト教国とはなりませんでした。

事実17

1291〜1516年まで、十字軍を追放したイスラム・マムルーク朝の統治が続きました。彼らはイスラエルを遠くダマスカスから管理し、この地方は忘れさられていきました。新たな十字軍遠征の恐れから、アッコー、ヤッファなどの港はつぶされ、国際的通商は中断されました。中心都市部は事実上の廃墟と化し、エルサレムの大部分は打ち捨てられたままというありさまでした。そして、そこに住み続けた小さなユダヤ人の共同体は、厳しい貧困にあえいでいました。マムルーク朝衰退期には、政治経済の大変動や疫病、イナゴの襲来、大地震など、ますます暗い影を濃くしていきました。

1517年、トルコのスルタン・セリムがエルサレムを征服し、イスラエルはオスマン帝国のものとなりました。トルコによる統治は、1917年まで続きました。

1535〜8年、トルコのスレイマン大帝がエルサレム周囲の城壁や壁を再建しました。1541年、イスラム教徒たちはユダヤ人の伝統でメシアの来臨があるとされる黄金門を、妨害の目的で封印しました。

オスマントルコはこの地を四つの地方に分け、ダマスカスの行政管理区域に入れました。

オスマン帝国統治の初期、この地にはおよそ1千家族のユダヤ人が住んでいました。その多くはエルサレム、ナブルス、へブロン、ガザ、サフェド、そしてガリラヤの村々に居住していたと推定されます。この中には、北アフリカやヨーロッパからの移民や、過去にこの地を離れたことが一度もないユダヤ人の子孫も含まれていました。

トルコ統治下で多くのユダヤ人たちがこの地に移住し、とりわけサフェドには1万近い定住者がいました。

イスラエル史を取り上げたこのシリーズ第2回では、19世紀から1948年5月14日のイスラエル建国までを取り上げたいと思います。それではまた来月まで。

エルサレムからシャローム

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