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ティーチングレター

祈りに心を留められるイエス パート2

文:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)

前号に続き、今回もイエスが教えられた祈りについて学んでまいります。

シドゥール(ユダヤ教の祈祷書)
Photo by Rizle Bat Yitzhak/wikimedia.org

祈りを教えてください

弟子の一人がイエスの元に来て「祈りを教えてください」と頼みました(ルカ11:1)。それに続くのが「主の祈り」として知られる祈りです。

スパングラー&ティバーベルグ著『Sitting at the Feet of Rabbi Jesus』(ラビ・イエスの足元に座る)の中に、こうあります。「主の祈りは、アミダー(ユダヤ教の中心的な祈りの一つ)の要約であると言われてきた。祈りの中にアミダーのテーマの一部が含まれているからだ。イエスの時代のラビたちは、祈りの本質を説明するためにアミダーの要約を教えていた。加えて初代教会は、アミダーと同じく日に三度、主の祈りを唱えていた」

アミダーの祈りはユダヤ教の中心的な祈りです。今日でも日に三度、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)でアミダーの祈りが捧げられています。この祈りが文書に起こされたのは1世紀末ごろで、イエスの時代には口伝で流布していました。

学者のダヴィッド・ビヴィン氏も「主の祈りは明らかにアミダーの祈りの要約である」と考えています。インターネットで「The Amidah prayer at Jerusalem Perspective」と検索すると、ビヴィン氏の注解が付いた英語訳のアミダーの祈りが出てきます。

イエスは、シドゥール(ユダヤ教の祈祷書)に書かれているユダヤ教の祈りを熟知していたことが分かります。「主の祈り」は、形式においても流れにおいてもヘブライ語的です。

マタイの福音書はヘブライ語で書かれたのか?

『A Prayer to Our Father』(私たちの父への祈り)の中で、著者ゴードン&ジョンソンはマタイの福音書のヘブライ語版について言及しています。二人の調査によると、「マタイの福音書はもともとヘブライ語で書かれた」と告げた教父たちがいました。その例として1世紀のヒエラポリスの教父パピアスの言葉を引用し、「マタイはヘブライ語の方言で史実を書き、それを皆ができる範囲で訳した」と言っています。

ヘブライ語によるマタイの「主の祈り」には微妙な違いがあるのでここに引用します(『私たちの父への祈り』より/ゴードン訳)。

「天におられる私たちの父よ。御名が聖別されますように。御国が祝福されますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。毎日パンを与え続けてください。私たちに罪を犯した人々の負い目を私たちが赦すように、私たちの罪の負い目をお赦しください。試みの手に私たちを陥らせず、すべての悪からお守りください。アーメン」

私たちの父

この祈りが単数形ではなく複数形で書かれていることにお気付きでしょうか。「私の」ではなく「私たちの」とあります。聖書は、個人ではなく集団として語ることが多いため、これは珍しいことではありません。

マービン・ウィルソン博士は、ユダヤ人が共同体を重視することに言及しました。「民族、すなわち集団に重点が置かれている点は、ユダヤ教の祈りにおいて多くの場合、『私』ではなく、複数形の『私たち』が使用されていることからも見て取れます。祈りとは、『共同体全体の叫び』を表しているのです。聖書の中で最もよく知られる祈り、主の祈りの冒頭『天にいます私たちの父よ』(マタ6:9)でも、共同体が意識されていることが分かります」(『私たちの父アブラハム』p270)

神の御国、神の御心

御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタ6:10

マタイの福音書の祈りは、ヘブライ語版とギリシャ語版で違いがあります。ギリシャ語では未来の御国を指しているように見えますが、ヘブライ語では神の御国が既に来ていることを指しています。クリスチャンはこの両方の中を生きているのです。つまり、イエスの十字架の御業によって成就した神の御国に現時点で既に生かされていると同時に、イエスの再臨によってすべての救いの預言が成就する御国の完成を待ち望んでいるのです。

クリスチャンもユダヤ人も多くの人が、メシアの時代の到来を切望しています。イエスの時代、弟子たちは、自分たちが生きている間に御国(メシアの時代)が到来することを熱望しました。彼らは、イエスがローマのくびきを打ち破り、地上を支配する姿を思い描いたのです。

イエスは、神の御国、天の御国についてたびたび語りました。実際、このことばはイエスの働きの中で最も繰り返されたことばの一つです。神の御国は現在であると同時に、待ち望むものでもありました。私たちは皆、現代における神の目的、計画、正義がなるように祈ることが必要です。同時に、メシアが支配し統治する神の御国の完全な到来を経験する日を待ち望んでいます。

祈りを捧げるユダヤ教徒
Photo by YOAV LEMMER
/wikimedia.org

これに続くイエスの祈りは、地上と天上の両方を強調しています。私たちは、神の御心が地上で行われるよう祈ることができますし、そうする必要があります。どのようにしてそれは実現するのでしょうか。イエスを信じる人々が、自らの行動を通して神の本性(ほんせい)を表す時に実現します。これは私たちが実行可能な考えです。イエスは言われました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタ5:16)。ここでも祈りと、実践の伴う信仰の両方が必要なのです。

糧(パン)

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」(マタ6:11

ヘブル的思考では、糧(英訳では「bread/パン」)はすべての食料を意味します。イエスは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」(マタ4:4)と言われました。これは申命記8章3節の引用です。

ユダヤ人はパンを祝福し、「地よりパンをもたらし給(たも)う世界の王なる我らの神、主よ、あなたはほむべきかな」と祈ります。これは、いかなる食事に対しても十分な祝福だと考えられています。ですから、マタイの福音書6章11節は「私たちの日ごとの食事を今日もお与えください」という意味なのです。

今日多くの人々が経済的破綻(はたん)を恐れ、食料を備蓄しています。一方、40年間荒野をさまよったイスラエルの子らは、備蓄ができませんでした。しかし、神がマナを降らせて必要を満たしてくださったのです。どのような未来が訪れようとも、私たちは日々のパン(糧)を与えてくださる神に信頼することができます。

赦し

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタ6:12

この祈りの中で、イエスは弟子たちに他人を赦すことの必要性を思い起こさせました。イエスは「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません」(マタ6:14〜15)と語られました。

Photo by JupiterImages/freeimages.com

また、こうも言われています。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい」(マタ5:23〜24

ユダヤ人の考えでは、自分がしなかったこと、あるいは自分にされなかったことを赦すことはできません。ホロコーストの罪に対する赦しを、現代のユダヤ人に求めても、赦しを求められたユダヤ人は違和感を覚えます。ユダヤ的な考え方では、実際に罪を犯していない人を赦すことはできないからです。それよりも、今、私たちにできることは、ユダヤ人が歴史の中で受けてきた痛みを心から悲しみ、教会の行動を変えていくために祈り、実践していくことです。赦しに対するユダヤ人の考え方、特にホロコーストに対する赦しを理解するには、ジーモン・ヴィーゼンタール著『ひまわり』をお薦めします。

悪、誘惑、試練

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」(マタ6:13

ヘブライ語版マタイの福音書では、「試み」の箇所に試練を意味する言葉(ギリシャ語では「ペイラスモン」)が使われています。主の祈りでは「誘惑」と訳されることが多く、他の箇所では試練と訳されています。このことを知る以前、私は「なぜ神は人々を誘惑されるのだろう」と思っていました。残酷なようにも思えます。

使徒ヤコブはこう述べました。「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:13〜15

ヘブライ語版マタイの福音書の「試みの手に私たちを陥らせず」という言い回しも興味深いです。この言葉は、バビロニア・タルムード60bの祈りに出てきます。「私たちを、罪の手に、試練の手に、恥の手に陥らせないでください」。多くのユダヤ人はこの言葉を毎朝の祈りで暗唱します。

なぜイエスのことばが、このユダヤの祈りに登場するのでしょうか。ゴードンは『私たちの父への祈り』の中で次のように書いています。「おそらく古代のラビがイエスの教えに影響を受けたか、あるいはイエスが有名なユダヤ教の祈りの文言を取り入れたのだろう。いずれにしても、試みに遭わせないよう神に求めるという考え方の源は、古代ユダヤにあったことが明らかである」。聖書には神が誘惑されることはないと明記されている一方、神が試みを与えられることも確かです。アブラハムもヨブも試され、イエスも荒野の試みを受けました。

「悪からお救い(お守り)ください」という祈りは、今の困難な時代、すべての人の祈りでしょう。すべての悪から私たちを守ることができるのは、実に神だけです。ゴードンが言うように、「この悪には、サタンの悪、人の心に潜む悪、当然の帰結としての悪が含まれます」。何と力強い祈りでしょう。

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