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祈りに心を留められるイエス パート1

文:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)

聖書は「絶えず祈りなさい」と勧めています。
どのような状況下にあっても、私たちは祈ることができます。
その「祈り」を掘り下げて考えてまいりましょう。

山上の垂訓教会 Photo by Fallaner/wikimedia.org

イエスが語られた最も大切な説教の一つが、山上の垂訓です。聖書に記されたイエスの最初の説教であり、祈りについて繰り返し語られています。祈りに関するイエスの教えは数多くありますが、今回はマタイの福音書5章と6章の教えに注目したいと思います。

山上の垂訓は、イエスが属していた共同体に向けてガリラヤで語られました。当時の聴衆は祈りについてよく知っていました。エズラとネヘミヤの時代から一日に三度祈ることが習慣となっていたためです。タナハ(旧約聖書)には時に奇跡をもたらした力強い祈りが数多く出てきます(例:列王記第一18章30〜46節のエリヤの祈り、サムエル記第一1章9〜28節のハンナの祈り)。

エルサレムの神殿は「祈りの家」(イザ56:7)と呼ばれ、断食が行われていました。イエスの時代の人々は、神が神殿奉献の際にソロモンに語られたことばを知っていたはずです。「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす」(Ⅱ歴代7:14)。続いて神はエルサレムの神殿に言及されました。「今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」(Ⅱ歴代7:15〜16

イエスの時代、人々はローマの圧政に苦しむ中で奇跡と祈りの答えを求めていました。自分には神が必要だと自覚していたためです。彼らは熱心に、希望をもってイエスの教えに耳を傾けていたことでしょう。

これらを踏まえ、イエスのことばを考えていきましょう。

敵のために祈れ(マタ5:44〜48)

「敵のために祈れ」。これは民が一番聞きたくなかったことではないでしょうか。祈りによって敵が目の前から消えない限り、自分を虐待する者のために祈ることは困難です。

しかしイエスは、敵のために祈るように言われただけではありません。敵が呪ったとしても祝福し、善を行い、愛しなさいと言われたのです。これは、たやすいことではありません。当時の聴衆にとっての敵は、ユダヤ国家を滅ぼそうとする残忍なローマ人です。実際、紀元70年にローマはエルサレムを包囲し、膨大な数のユダヤ人を殺し、残りの民を奴隷として捕虜にしました。そんな敵を愛し、祝福し、善を行い、祈ることは困難です。

心からの祈り

祈りについて言及している次の箇所は、マタイの福音書6章5〜8節です。イエスはまず、「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません」(5節)と語り始めました。ブラッド・H・ヤングが訳した新約聖書『TheNewerTestament』では、この箇所を「見掛けだけの者であってはなりません」と訳しています。

ここで問題とされているのは祈りの動機です。イエスは、彼らが人に見せるために祈っていると指摘されました。これは偽善者、もしくはヤングの言う「見掛けだけの者」です。

ユダヤ教では「カバナ」という概念を教えます。カバナをもって祈るとは、意思、注意、目的、献身、集中力をもって心から祈ることです。ラビ(ユダヤ教の教師)のアイザック・アブラベネル師は「カバナの無い祈りは、たましいの無い体のようなものだ」と言いました。残念なことに心が伴わなくても祈ることはできます。しかし、このような祈りを神が喜ばれることはありません。

隠れた場所

神は、神を愛し密かに熱心に祈る人を探しておられます。イエスは戸の閉まった「奥の自分の部屋」(マタ6:6)に行きなさいと教えられました。ある訳では、これを「押入れ」と呼んでいます。イエスの時代、ほとんどの家には空き部屋などなく、押し入れも一般的ではありませんでした。

タリートをかぶって祈るユダヤ教徒
Public Domain

では、これは何を指していたのでしょう。イエスが指し示したのは、今日でも敬虔(けいけん)なユダヤ人男性が身に着ける祈りのショール(通称タリート。四隅に房飾りが付いている)だと私は思います。その下に着るのが小さいタリート(タリート・カタン)です。結び目のある房が垂れ下がっています。

大きなタリートはシナゴーグで祈る時、儀式的に使われます。歩き回る時はタリートを肩に掛け、祈りの時には頭からすっぽりかぶることもあります。タリートは世を遮断し、主との親密な場所をつくり出します。その中での祈りは、本人と神との間だけのものです。ラビのゴールディ・ミラグラム師は「タリートは持ち運びできる霊の家だ」と記しました。

タリートの房飾りの結び目は神の戒めを象徴しています。「その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである」(民15:39

つまり、神の民に対する神の権威を目に見える形で思い起こさせるのがタリートなのです。タリートに包まれる時、視線があちこちに向いて気が散ることを最小限に抑えられ、すべての注意がいと高き神と神の戒めに向きます。私たちにとってのタリートは、聖霊の覆いであり、イエス・キリストの懐の中に入ることに他なりません。

神が探しておられるのは、周りに感銘を与えるために祈る人ではなく、親密に祈る人です。詩篇91篇1節は隠れた場所に言及しています。「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る」。それに続く節は、聖書の中でも最も力強い約束です。人々はイエスの話を聞きながら、このみことばを思い起こしていたに違いありません。

異教の祈り

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」(マタ6:7)。私の父、デビッド・アレン・ルイスはかつて、あるクリスチャン女性を指導していました。彼女は、イエスを信じる前に超越瞑想に取り組み、その団体の創立者、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから個人的に訓練を受けていました。

超越瞑想の推進者たちは独自のマントラ(瞑想中に唱える言葉)を与えられ、それを繰り返し唱えながら瞑想します。彼女は父に、マントラはヒンドゥー教の神々の名前であると言いました。彼女の言う「神」とは、深い瞑想に入りトランス状態にある時にいつも現れる悪魔のことです。こうした状況が「同じことばを繰り返す」という意味かは分かりませんが、現代の偶像礼拝や異教礼拝の一つであることは間違いないでしょう。この節は、唯一真の神に繰り返し祈ることを指しているわけではありません。神は偽の神々への祈りを完全に拒絶されるということです。実際、それは十戒の一つを破ることになります。真の信者は唯一真の神だけを礼拝し、祈らなくてはなりません。

主の祈り

最も有名な祈りは主の祈りです。イエスはこの祈りを弟子たちに伝え、「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」(マタ6:9)と告げました。

イスラエル・バイブル・センター代表、エリ・リゾルキン=エイゼンバーグ博士は次のように尋ねています。「主の祈りは、ユダヤ教の典礼にルーツがあるのだろうか。その答えは明らかに『イエス』である」。博士は続けて言います。「まず主の祈りの内容は、ユダヤ教の典礼の重要な考え方であるアビーヌ・マルケイヌ、訳すと『私たちの父、私たちの王』と同じであることに注目してほしい。実際、主の祈りの全体が父であり王である神を中心に展開している」

イエスは弟子たちに、この祈りをヘブライ語で教えたと私は確信しています。この祈りはヘブライ語の祈りと多くの類似点があり、ヘブライ語で唱えると非常に美しく流れるのでほぼ間違いないでしょう。エルサレムには「主の祈りの教会」(パター・ノスター)と呼ばれる教会があり、教会内部に100以上の言語で主の祈りが掲げられています。3枚あるヘブライ語のプレートのうち玄関に掲げられた大きな石のプレートには、イエスの時代に使われていた古代ヘブライ語の文字が刻まれています。

主の祈りで注目していただきたいのは「御名が聖なるものとされますように」(マタ6:9)ということばです。ストロング・コンコルダンスによると、ここで使われているハギアゾーというギリシャ語には「聖なるものとする」「純化する」「聖別する」「あがめる」「崇敬する」「きよくなる」「きよめる」という意味があります。

神の御名は既にきよいのですが、神の御名を聖なるものとするということは行動を促します。ユダヤ教にはキドゥシュ・ハシェムという概念があり、その反対はヒルル・ハシェムです。前者は神の御名を聖別すること、後者は神の御名を冒瀆(ぼうとく)することを意味します。「あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。わたしの聖なる名を汚して(ヒルル)はならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であること(キドゥシュ)が示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である」(レビ22:31〜32

主の祈りは、神がきよいお方であることを周りの人々に知らせるため、正しい行いをするようイエス・キリストによって奨励しており、奮い立たされます。私たちは、日々の行いを通して神の御名を聖なるものとするよう召されているのです。

今日私たちは祈りの民となる必要があります。へりくだって祈り、隠れた場所で祈り、心から祈り、イエスが教えられたように祈るのです。単に祈りの戦士となるだけでなく、毎日の生活を通して主の御名を聖なるものとしていきましょう。

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