文:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)
「喜びと感謝」の詩篇100篇。
心を見られる主は、私たちが喜びをもって主に仕えることを望んでおられます。
そんなしもべの姿を詩篇から学んでまいりましょう。
BFPイスラエル本部では、朝のディボーションの締めくくりとして次の言葉を唱えます。「喜びをもって主に仕えよ」。これは、感謝を表す美しい詩篇100篇からの引用です。今回は詩篇100篇を深く掘り下げ、主のしもべのあり方について考えてみたいと思います。
背景
詩篇は5巻に分かれています。そのうち第4巻は90〜106篇です。ユダヤの賢者ラシによれば、90〜100篇の著者はモーセです。各詩篇は、モーセが申命記33章で部族ごとに与えた祝福と関係があります(詩篇の古い注釈『ミドラッシュ・ショヘル・トブ』から)。ただし、シメオン族はモーセの祝福を受けていません。したがって、詩篇90〜100篇はそれ以外の11部族に関連したものです。
アシェル族
100篇はアシェル族に対する詩篇だと言われています。アシェルとは「恵まれた」「幸せな」という意味です。
ヤコブは息子のアシェルを祝福するに当たり、こう述べました。「アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す」(創49:20)。申命記33章24節には、アシェルに対するモーセの祝福の言葉が記されています。「アシェルは子らの中で最も祝福されている。その兄弟たちに愛されて、その足を油の中に浸すようになれ」
ユダヤ人は神への感謝として毎日(安息日と祝日を除く)、詩篇100篇を暗唱します。ハバッドのホームページによると、「この詩篇は、来たるべきメシア統治の時代に捧げられる唯一のいけにえ、すなわち賛美のいけにえに言及しています」。
喜びの声をあげよ
この詩篇は、喜び叫び、大声を上げるところから始まります。
ここで使われているヘブライ語は「ルゥア」です。ストロング・ヒブリュー・レキシコンによると、ルゥアには「(音で)耳を引き裂く」という比喩的な意味があります。つまり、「(警告や喜びのために)叫ぶ、警報を鳴らす、大声で泣く、破壊する、喜び騒ぐ、危機や大勝利を知らせること」を意味します。
大声で賛美することに抵抗を覚える人もいることでしょう。しかし、確かにこれは聖書が命じていることです。スポーツ大会では遠慮なく声援を送り、叫ぶのですから、教会の礼拝で喜びの声を上げない理由はありません。地上の王を出迎える時に喜びの声を上げるのなら、天の王にはなおさらのことです。
全地よ
詩篇100篇は、クリスチャンとユダヤ人の双方から最も愛されている詩篇の一つです。何百年もの間、この詩篇にはさまざまなメロディーが付けられてきました。
偉大な説教者チャールズ・スポルジョンは、この詩篇について次のように語っています。「この詩篇は感謝に満ちた崇敬で燃え立っており、書かれた時以来、神の民にこよなく愛されてきた……。この崇高な詩篇を大群衆で賛美すること以上に、天において荘厳なものはないだろう」
主に仕えよ
仕えることを意味するヘブライ語「イブドゥ」は、「奴隷」や「しもべ」と同じ語根から派生しました。この言葉には、ある時は奴隷のように拘束され、ある時は召使いのように他人のために働くという意味があります。
聖書は、主に仕えることをたびたび描き出しています。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、イザヤなど、聖書でも人気の登場人物は「主のしもべ」と呼ばれました。新約聖書においても、パウロ、ペテロ、ユダ、ヤコブ、そしてイエスでさえ「しもべ」と呼ばれています。興味深いことに、ネブカデネザル王も聖書では「主のしもべ」と称されました。
イスラエル国家も「しもべ」と呼ばれています。「イスラエルの子らは、このわたしのしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である」(レビ25:55)
イエスは弟子たちに「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい」(マタ23:11)と言われました。最高の賛辞は、マタイの福音書25章のタラントのたとえ話に出てくる「よくやった。良い忠実なしもべだ」(21節)ではないでしょうか。
心をこめて、喜びをもって
モーセはイスラエルの子らに言いました。「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え(ることである)」(申10:12)
申命記の後半には、喜びをもって主に仕えない時の結果が記されています。「あなたがすべてのものに豊かになる中で、あなたの神、主に喜んで心の底から仕えようとしないので、あなたは飢え渇き、裸となり、あらゆるものに欠乏し、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主はあなたの首に鉄のくびきをはめ、ついにはあなたを根絶やしにされる」(28:47〜48)
聖書は、神がしてくださったことに深く感謝しつつ主に仕えなさい、と繰り返し語っています。義務的に主に仕えるだけでは十分ではありません。感謝と喜びの心で仕える人を神は求めておられます。幸せそうに装って人をだますことはできても、神をだますことはできません。主はソロモンに、心の中を知っておられることを思い出させました。
「わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる」(Ⅰ歴代28:9)
私は教会で育ちましたが、残念ながら義務的に教会に出席していた時期があります。正直、そのような時にはあまり得るものがありませんでした。変化が訪れたのは20代前半です。救いの喜びを発見したのです。賛美と感謝の心をもって主の前に出た時、喜びと感謝が奥底からわき上がってきました。
主のしもべ
モーセほど「主のしもべ」と呼ばれた聖書の登場人物はいません。現代の偉大なユダヤ人指導者、ラビのジョナサン・サックス師は、モーセについてこう教えました。「モーセの業績は膨大で、変革をもたらすものだった。モーセは『最も偉大な預言者』『卓越した優秀な教師』など、時代を超えて多くの称号を与えられた」。その一方、サックス師がモーセへの「最大の賛辞」として強調した称号はただ一つ、「主のしもべ」です。
サックス師は言います。「モーセの最高の栄誉は、エベド・ハシェム、すなわち『神のしもべ』と呼ばれたことである。モーセがこう呼ばれたのは死に際して一度きりだったが(申34:5)、旧約聖書全体では18回も出てくる」
よく語られる「仕えるリーダー」という概念は、サックス師によると聖書的(ユダヤ的)な考え方です。「真の指導者は、もともと指導者になることを望んでいたわけではない。旧約の偉大な指導者たちも、指導者の任を引き受けることには、ほとんど例外なく消極的だった」
ラバン・ガムリエルが2人の賢者を任務に就かせる際に述べた言葉は、このことを要約しています。「あなた方が支配者になることを私が勧めたと思っているのかね? 私は仕えるチャンスを与えたのだ」(ホラヨット10a〜b)
神は心のへりくだった人を愛されるようです。神の民が感謝をもって、喜んで神と人に仕えることを神は望んでおられるのです。
喜び歌いつつ御前に来たれ
喜びに満ちた人々を見ると、こちらにまで喜びが伝わってきます。私も、幸せそうに喜んでいる子どもたちを見るだけで笑顔になります。同様に、天の父なる神も私たちの喜びの声を聞くのがお好きなのです。教会で歌う賛美には、痛みと願いを神に告げるものが多くあります。確かにそれもふさわしいですが、気持ちが沈んでしまう場合もあります。詩篇100篇には「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」とあります。しかし、人生が不安定で難しく、つらいと感じる時、どうすれば喜べるのでしょう。次の節にその答えがあります。
神を知る
3節で教えられていることは、神を認め、知ることの大切さです。神は創造主であられ、私たちをつくられました。つまり、私たちのすべてを知っておられるのです! 神は牧者であり、真剣に私たちの面倒を見てくださいます。牧者は、牧草(食べ物)、水、健康、避難所、守り、交わりを与えます。この短い節の中に、私たちが喜び歌いつつ主に仕えずにはいられない理由が書かれているのです。神は、被造物である私たちを愛され、すべての必要を備えてくださいます。
感謝し、賛美し、たたえる
4節は「感謝しつつ 主の門に (入れ)」と始まります。私は「この状況の中で神に感謝できることは何だろう」と常に考えています。続けて4節は「賛美しつつ その大庭に入れ」と語ります。今日、どのように神をほめたたえられるでしょうか。
4節の後半では「主に感謝し」と4節の冒頭を強調し、「御名をほめたたえよ」と結びます。ヘブライ的思考では、名は体を表すものです。私たちは常に神の本性(ほんせい)のすべての側面をほめたたえる必要があるのです。この聖句を人生のテーマとし、常に感謝し、神を賛美し、御名をほめたたえたら、人生はどのように変わるでしょうか。
神の本性
神の御名をほめたたえることを忘れないように、この詩篇は神の本性を説明して終わります。「主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る」(詩100:5)。ここに素晴らしいヘブライ語が出てきます。「トブ=いつくしみ深い」「ヘセド=恵み」「エムナ=真実」。神は良いお方、完全に真実なお方、途方もなく愛に満ちたお方、優しさとあわれみと恵みとに満ちたお方です。だからこそ、私たちは「喜びをもって主に仕え(る)」(詩100:2a)ことができるのです。