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目に見えない神に聞く

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

聖書は、私たちが目にする物を頼りとせず、信仰で歩むことを繰り返し勧めています。
信仰の始まりは、まず「聞くこと」です(ロマ10:17)。
視覚よりも聴覚を優先する歩みについて学んでまいりましょう。

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御声

皆さんも、クリスチャンがイスラエルの民の不信仰を話題にするのを聞いたことがあるでしょう。よく耳にするのは「あれほどの奇跡を目にしていながら、なぜ信じなかったのか」という疑問です。

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イスラエルの民は、エジプトの神々が天の神に打ち負かされるのを目の当たりにしました。エジプト人が、元奴隷の自分たちに貴重品を譲り渡すのを、信じられない思いで見ました。紅海が分かれるという驚くべき出来事を目撃し、強力なファラオの軍勢が滅びる姿を安全な対岸から眺めました。シナイ山のふもとにたどり着くと、空は雲と煙に満たされ、まばゆいばかりの稲妻が走り、山全体が揺れ動くのを見ました。さらに、夜は火の柱、昼は雲の柱に慰められながら旅をしました。

これらすべてを目の当たりにしながら、なぜ信仰を保つことができなかったのでしょうか。実際、宿営にいた多くの民は、父祖たちの神とその使者であるモーセをなかなか信頼できずにいました。その原因は、民が「見たこと」とは関係なく、「聞くこと」に問題があったからだと思われます。

視覚最優先

科学者は何百年もの間、人間の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)について研究を重ねてきました。五感はすべての人にとって等しく重要であると信じられ、五感によって得られる知識は疑われることがありませんでした。芝生は緑で、氷は冷たい――こうした知識は主観ではなく客観的事実だと思われてきたのです。しかし、最近の研究で、そうではないことが分かってきました。

人類学者が、現代テクノロジーを駆使して五感の序列を徹底的に調べたところ、驚くべき結果が導き出されました。五感の序列を決定付ける最も重要な要素は、生物学的なものではなく文化的なものだというのです。つまり、どの五感を重視するかは、伝統や価値観によって決まることになります。

世界の20の文化圏を研究した科学者たちによると、ほとんどの西洋文化圏では、視覚が他の四つの感覚よりも優先されます。本当に当てになるのは視覚だけだと固く信じられているのです。一方、極寒地方の人々は触覚を優先する傾向があります。さらに、オーストラリアの先住民の文化では嗅覚が最重要視されます。また、ベドウィン(訳注:アラブ系遊牧民)には砂を意味する言葉が多くあり、イヌイット(訳注:カナダ北部などの氷雪地帯に住む民族)には雪を意味する言葉が多くあります。一方、「青」を表す言葉が無いため、空について論じることが難しい文化もあります。

こうした五感の序列の事実を既に知っていた人々がいました。12世紀のユダヤ人哲学者マイモニデスを始め、現代ユダヤ教の偉大なラビ(ユダヤ教の教師)、ジョナサン・サックス師に至るユダヤ教の学者たちです。彼らはいわゆる「視覚文化」と「聴覚文化」の間にある葛藤を認識していました。サックス師によれば、両者の違いはアダムとエバにその起源を見いだすことができます。「エデンの園にいた最初の人類の罪は、耳ではなく目に従ったことだ。彼らはその実が美しいのを目にし、それに従って行動した。『その木の実を食べてはならない』という、耳で聞いた神の命令に従わなかった」

こうして、創造主ではなく被造物を礼拝するという、人類の普遍的性質が誕生したのです。

視覚文化

現代の西洋社会に貢献したギリシャ文化を始め、ほとんどの古代中東文化は視覚文化でした。そのため、彫刻、絵画、建築、演劇、戯曲など視覚芸術に非常に長けています。彼らの神々はさまざまな彫刻で具現化され、町は神々の彫像が置かれた派手な寺院で埋め尽くされていました。

パウロは、ギリシャの神々を取り入れた当時のギリシャ・ローマ世界について、次のように語っています。「彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間……に似たかたちと替えてしまいました」(ロマ1:22〜23

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ただし、「異教礼拝賞」を受賞するのは何千もの神々を礼拝したエジプト人だと、今日の学者たちは言います。至る所に神殿や像、描写があり、神々からの要求は礼拝者の生活のあらゆる面に染み込んでいました。

モーセはこのような視覚に訴える異教社会の中で育ちました。その後、ミディアンの荒野に向かい、真の神に出会います。それは、目に見える神ではなく、燃え尽きることのない柴の中からモーセを呼ばれた神です。突如としてモーセは自分の目が信じられなくなりました。アブラハム、イサク、ヤコブと同じように、モーセは目に見えない唯一真の神とお会いしたのです。神がモーセを通して伝えたユダヤ教は、視覚ではなく聴覚の宗教であり、見るのではなく聞く宗教であり、形ではなく言葉の宗教でした。

困難な旅

イスラエルの民にとって奴隷から自由への旅は、長く困難なものでした。エジプトの主人の下で何百年間も抑圧され、目に見える神々への偶像礼拝に取り囲まれていたため、目に見えない神と共に生きる自由は容易に身に着きませんでした。民はそのことを学ばなくてはならず、その教えは時に苦痛で痛みを伴いました。単に奴隷から自由人になるだけでなく、視覚文化から聴覚文化に転換していく必要があったからです。

ユダヤ教は、究極的には見えない神の御声を聞くものです。偶像を退け、神のことばを優先させます。荘厳な宇宙や美しい星々、素晴らしい山々はすべて神の栄光を伝えていますが、神ではありません。神を視覚的に表現しているわけでもありません。神の願いはご自分の民と親密で個人的な関係を築くことです。それは神のご臨在の中に見いだされるものであり、神のことばの中にだけ啓示されています。

イスラエルの民が早々にアロンに金の子牛をつくらせたのも、なるほどと理解できます。民は神の御声を恐れたため、モーセが神のことばと願いを聞いて自分たちに伝えてほしいと願いました。ところが、山に登ったモーセはいつ戻ってくるかも分かりません。民は目に見える神を求めました。神の御声を頼りに40年間荒野をさまよう経験をした後でも、民が自らの手で神をつくる誘惑は消えない――そのことを分かっていたモーセは、これから川を渡り、かつてない国を築こうとしている人々に向かって最後の演説をしました。それは偶像礼拝に対する強固な警鐘でした。

主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。……あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである」(申4:12、15〜19。強調筆者)

申命記4章では、偶像礼拝の深刻な結末を告げる戒めが語られています。神はねたみの神です。民が、養ってくださっている父祖の神の御声を忘れ、再び偶像礼拝に陥るなら、法外な代償を払うことになるだろうと厳しく警告しています。ユダヤ教の最も重要な祈りであるシェマー(申6:4の「聞け(シェマー)、イスラエルよ」)が命じていることは、神は目に見えない唯一の神であること、この方に聞き従い、戒めを心に刻むことでした。これがユダヤ教の基本的な信条です。聖書全体を通じて、神はご自身の声を聞き、従う重要性について繰り返し語っておられます。

サックス師は次のイザヤ書を受け、以下のように指摘しました。「アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」(イザ1:1〜2

「これはイザヤの『見た幻』だと言われているが、どこにも視覚的なイメージはない。イザヤが『見た』のは主の御声だったのである。景色や情景やシンボルではなく神のことばを見たのだ。キーワードは『聞け』と『耳を傾けよ』である」

他に類を見ない書

このテーマは新約聖書にも確かに受け継がれています。パウロは「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して……」(ロマ10:17)と語りました。イエスは「わたしのことばを聞いて……信じる者は、永遠のいのちを持(つ)」(ヨハ5:24)と述べています。また、ヨハネの福音書17章で弟子たちのために祈られた時、イエスはご自分のなさった奇跡や、盲人や耳の聞こえない人の癒やしには一切触れず、ただこう祈られました。「あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ……ました」(ヨハ17:8

これは現代の私たちにとっても何と大切な教訓でしょう! 私たちが神の御声を実際に耳で聞く機会はほとんどありません。シナイ山のふもとに立つこともないでしょう。けれども、神の御声そのものである聖書を持っています。私たちには、宇宙の創造者の力強い生けるみことばを手にする特権が与えられているのです。

聖書は他の本とは異なります。命をもたらすことばが記された極めて重要な本です。神は「聞きなさい。わたしの声に耳を傾けなさい」と語っておられます。置かれた状況、周囲にある絶え間ない視覚的な妨げ、ニュースに充満する地上の惨事に目を奪われないようにしましょう。聖書を頻繁に忠実に手に取り、主の御声を聞きましょう。

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