ティーチングレター

契約の子ら

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

イスラエルの民は神との契約関係にあります。
この契約は途中で反故(ほご)にされるようなものではなく、永遠の契約です。
ユダヤ人のアイデンティティーの要となる契約について学んでまいりましょう。

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あるクリスチャンの集会で、正統派ユダヤ教徒である親友がユダヤ人とクリスチャンの関係について語るのを私は熱心に聴いていました。彼は熱烈に神を愛し、ユダヤ人とクリスチャンの間に、誠実で尊敬に満ちた友情を築こうと人生を捧げてきた人です。彼はキリスト教系の大学に通い、ユダヤ教とキリスト教の類似点と相違点を垣間見たそうです。両者の一致には喜びを覚えつつ、隔たりを認識した時には憂慮を覚えたとのことでした。そうした中で、彼はクリスチャンであることの難しさを感じたと言います。

その言葉に、ほとんどのクリスチャンは驚いていました。もちろん彼は、今日の欧米のクリスチャンはほぼ迫害を経験していないことを知っています。一方ユダヤ人は、差別、抑圧、脅迫、拷問、殺害などに苦しみ、今も反ユダヤ主義に直面しています。また、多くのクリスチャンは、キリスト教の旗印は「自由」だと言うことでしょう。決められた時間に祈る必要はなく、守らなくてはならない決まりも多くなく、全員で通読する聖書箇所もなく、少ない祝祭日も自由に祝えます。多くのクリスチャンは、律法から私たちは解放されていると、この友人に言うことでしょう。

よく考えてみると、彼の意見に同意するユダヤ人の友人は他にもいます。彼らも正統派ユダヤ教徒で、多くのクリスチャンから「重い律法のくびき」の下にいると誤解されている人々です。しかし、実際にその生活から見えてくるものは、喜び、満足、実用性、自らのアイデンティティーへの快い確信です。

ユダヤ人として生まれる

世代から世代へと受け継がれるユダヤの教え
Photo by Regina Shanklin/Pixabay

ここでの論点はおそらくアイデンティティーです。ユダヤ人は生まれながらにして信仰を持っていると主張しますが、クリスチャンはそのような発言はしません。ユダヤ人として生まれた者は、ユダヤ民族の物語と断ち切ることのできないきずなを持っているのです。それは、両親、祖父母、さらにアブラハムとサラが未知の土地に向かって旅を始めた約4千年前から続く物語です。

カルデアのウルを出発した少数の人々が、後に100万人以上の民となり、エジプトを脱出した後、ついに約束の地イスラエルに定住します。彼らは、それまで地上で見たこともないような社会を築き、国家を建設するために神から選ばれた民でした。アブラハム、イサク、ヤコブの神をあがめ、正義とあわれみに基礎を置き、すべての人が神の似姿であると認められる社会です。その文化の基盤は、神と人との関係にあります。その関係は永遠の契約が結ばれた時に始まり、人間は神の大使として世界を変革する責任を与えられたのです。

契約の下に生まれる

神との契約は創世記15章7〜18節に出てきます。神はそれ以前に、神の民を祝福し、彼らが全人類の祝福となること、彼らを祝福するすべての人々を祝福することを約束されました。さらに15章では、アブラハムの子孫が空の星のようになり、カナンの地はアブラハムと子孫のものになることを約束されています。神はアブラハムの子孫の神となり、彼らは神の民となるのです。この約束は契約によって成立しました。

エレミヤは、イスラエルを「二つに分けた子牛の間を通った者たち」(エレ34:18〜19)と呼びました。これは創世記15章に出てくる「契約を切る」儀式のことです。アブラハムは神の指示に従い、雌牛と雌やぎと雄羊を二つに裂き、向かい合わせに並べました。この方法で契約を結ぶ時、当事者たちは契約の条項を唱えながら、裂かれた動物の間を一緒に通り過ぎます。そして最後に、「もし契約を守らなければ犠牲の動物のようにされる」と、契約の順守を宣言するのです。

しかし、創世記15章17〜18節で神がなさったことは、通常とは少し異なっています。厳密に言えば、ユダヤ民族を代表するアブラハムは裂かれた動物の間を通っていません。通ったのは、古代において神を象徴する二つのものだけです。神がアブラハムと結ばれた契約はこれ以降も創世記で何度か出てきますが、アブラハム以降のすべての子孫が含まれています。つまり、これ以降生まれてくるユダヤ人の子どもは契約の子であり、8日目の割礼はその契約のしるしなのです。

新約聖書では、クリスチャンである私たちもまた、信仰によってアブラハムの子どもであると教えています(ガラ3:6〜9、ロマ4:16、ガラ3:29参照)。

エムナ

ここで信仰の重要性を軽視することはできません。信仰を意味するヘブライ語は「エムナ」です。この言葉は、真理を意味するエメットと、信頼を意味する動詞アマンから派生しました。ラビ(ユダヤ教の教師)によれば、信仰とは不確かな中を生きる勇気です。すべての答えが分からなくても生きていくということです。信仰により、人は自分が確かに弱い者であることを知り、それを喜びます。なぜなら、弱さのゆえに私たちは神を求めるようになり、神もまた誠実さのゆえに答えてくださるからです。

主が語られた時、アブラハムはそのことばの真偽を決して疑いませんでした。その信仰は、ただ同意するだけにとどまらず従順な行動につながっていきます。疑うことなく妻と家族と財産を携え、目的地を知らずに旅に出たのです。アブラハムとサラは、未知の未来に向かって勇敢に歩き出しました。それは二人が忠実だったからです! しかし、神の誠実さは自分たちの忠実さをはるかに超えることを彼らは知ります。

ホセア書2章19〜20節から、神の契約がいかに誠実なものであるかを垣間見ることができます。ここで神は、イスラエルと契りを結ぶと語られました。これは明らかに契約を指します。「わたしは……義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ」。ここに登場する「義」「さばき」「恵み」「あわれみ」はすべて同義語であり、契約用語です。バインズ解説辞典によると、神の契約と約束の保証は、神の本性(ほんせい)である「誠実さ」によって確立されています。

ヘセド

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神学的に最も大切な言葉の一つが「ヘセド」です。神がご自分の民に寄せる愛を語る際によく使われる言葉で、「慈愛」「恵み」「揺るぎなさ」「あわれみ」「いつくしみ」などと訳されています。これらは契約用語で、タナハ(旧約聖書)では252回出てきます。

バインズ解説辞典によると、この言葉には基本的に三つの意味があります。「力」「揺るぎなさ」「愛」の三つです。この三つは相互に作用し、このうち一つでも欠けるなら、ヘセドを理解する上で大切な側面が失われてしまいます。愛だけでは感情的になり、力や揺るぎなさだけでは義務的に見えます。しかし、ヘセドは単なる義務ではなく神の寛大さであり、誠実さだけでなくあわれみ深いものでもあります。途方もないほど理解を超えた、揺るぎない神の愛なのです。たとえ山々が移り、丘が動いても、神の愛は決して移ることがありません。神はこの愛を千代にまで(永遠に)約束しておられるのです。

出エジプト記34章で神がモーセの前を通り過ぎられた時、神はご自身を「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵み(ヘセド)とまことに富み、恵み(ヘセド)を千代まで保(つ)」主なる神と表現されました。ヘセドとエムナは、神の行動様式や好意の示し方ではなく、神ご自身なのです。

契約の約束

契約の約束こそ、アイデンティティーの要です。契約の子であるとは、何かをするということではなく、存在そのものを表します。この契約は、神のエムナとヘセドという堅い岩の上に立てられているため、その信頼性と重要性を疑う余地はありません。本性が誠実そのものであられる神、ご自分の子どもたちを途方もない永遠の愛で愛するという契約を結んでくださった神こそ、信頼できるお方です。ですから、確信を持てない時でも、私たちは信仰を持って従順に歩むことができるのです。

ローマ人への手紙11章17節には、信仰を持った私たちはイスラエルというオリーブの木に接ぎ木されているとあります。パウロはエペソの信者たちに対し、かつては約束の契約について他国人であった彼らが、今はユダヤ人であるメシアとの関係を通して契約に入れられたと語りました。今日の信者にもこれは当てはまります。

残念なことに、主との関係における契約の重要性については、語られることが少ない傾向にあります。主が私たちと結ばれた契約は岩のように固く、神の愛と誠実さに基づくものです。この契約の真実さを認識する時、自らをアブラハムの子どもと認められるようになります。それは、何千年も前にアブラハムとサラから始まった契約であり、メシアが再臨するまで続く連鎖の一部です。彼らがメシアが誰なのかを知る時が、必ず来ます。

神が私たちに対して持っておられる、寛大ですべてを包み込む途方もない愛であるヘセド。その中で安息を得る時、エペソ人への手紙3章17〜19節におけるパウロの祈りが理解できます。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように

アブラハムのように神のことばをそのまま受け取って信じ、忠実であり、神のことばを疑わず、神の誠実さに信頼する時、私たちは神のうちに自らのアイデンティティーを確かに見いだすことができるのです。

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