文:ピーター・ファスト(BFPカナダ局長)
偶像の神々は「叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない」(イザ46:7)と聖書は明確に語っています。
一方、聖書の神は、人と対話をされる神であり、人を愛し、救い出してくださる神です。
「出エジプト」「シナイ山」と聞いて、映画『十戒』のモーセを演じたチャールトン・ヘストンを思い起こす方も多いことでしょう。光を放つモーセの顔、石の板に刻まれた十戒、山を揺るがす神の御声に私たちは引き付けられます。シナイ山での出来事に神のきよさと力を感じ、深い感動を覚えます。
シナイ山では「契約の神」という神の本性(ほんせい)が現されています。アブラハム、イサク、ヤコブという族長たちへの約束(詩105:7〜11)、すなわち彼らの部族が国家になるという約束です(出19:6、申7:6)。
さらに、出エジプトとシナイ山での出来事の舞台裏で、非常に重要なことが起こりました。民は、異教の世界とは正反対のことを経験したのです。
真の神の御声
イスラエルの民が耳にしたのは、単なる山からの声ではありません。真の神の御声を聞き、目撃したのです。その御声の主は、父祖の神、唯一にして全能の主です(出20:1〜6、申6:3〜5)。この方は民に衝撃の事実を啓示されました。イスラエルの神は、変わることのない愛とあわれみに満ち、人と関わられるということです(出34:6〜7)。
イスラエルの民が神の御声を聞き、神の御名を知ることには、どんな意味があったのでしょうか。民は、長い間奴隷として生き、異教の世界から出てきたばかりでした。では、異教の世界観とは、どんなものだったのでしょう。
古代の異教世界は闇に覆われていました。人類を始めすべての被造物は神々の奴隷であり、この事実は永遠に変わらないと信じられていました。人間はあらゆるものを神と考え、壮大な自然に引かれ被造物を礼拝していました。
デニス・プレガー氏の出エジプト記の注解にはこうあります。「人類が自然を崇拝することは十分理解できる。結局この世界にあっては自然がすべてなのだ。しかし、自然はトーラー(モーセ五書)の神とは違い、道徳心が無く、崇拝に値しない。聖書の神は善悪と義に常に大きな関心を持っているのに対し、自然はこのようなものに一切関心がない」
異教徒の理解
異教徒たちは、予測不能な自然の力に立ち向かおうとして、多神教の神話をつくりました。これらは、異教徒にとっておとぎ話ではなく現実世界そのものでした。
異教徒たちにとって神々は遠い存在であり、人間の必要にも無関心です。自らの思いや意思や願いを人間に伝えることはおろか、愛を示すこともありません。むしろ、人間が神々の意思を占い、神々をなだめることが求められたのです。この世界では、豊かな繁栄があるかと思えば、飢饉(ききん)や地震、洪水のようなひどい自然災害も起こります。神々が自然や人間を支配する絶対的な力を持っているなら、どのようにして神々の意思を見極められるのでしょうか。その中心となったのは口寄せや祭司、占い師、呪術者などです。彼らは、神々の意思を見極めて国家を存続させようとしました(出7:11、Ⅰサム28:7〜20、ダニ2:1〜3)。
そのような「仲介者たち」はまじないを唱え、偶像に捧げ物をし、神殿の聖所を管理し、祭りを行い、動物を捧げ、自然のしるしを読もうとしました。祭司たちは、神々の声を聞くために薬物で恍惚(こうこつ)状態に陥りました。中には神々に憑依(ひょうい)されるために、動物の肝臓や心臓、腸を調べ、天のしるしを探った予言者たちもいます。彼らは自分の身を傷つけ(Ⅰ列王18:28)、音楽や踊りで神々の注意を引こうとしました。また、神々は人間と対話することはないと信じられていたため、人々が神々の意思を知る唯一の方法は、こうした「仲介者」に超自然的しるしを読み解いてもらうことだけでした。
そのため人々は常に根底にある恐れ、断絶、絶望、もろさ、弱さにさらされていたのです。彼らが考える神々は、ある人をある瞬間に祝福したかと思えば、次の瞬間には苦しめることもできました。例えば、新アッシリア帝国で祈られていた「すべての神への祈り」を考えてみましょう(注:この祈りは別名「あらゆる神へのざんげの祈り」と呼ばれ、既知の神々と、世界のあらゆる未知の神々に赦しを乞う内容)。
古代近東の学者ジョン・オルトン氏は、「すべての神への祈り」についてこう説明します。「侮辱して怒らせてしまった神々をなだめたい時、二つの問題がある。まず、どの神を怒らせたのかが分からないこと、次にどのような無礼を働いたのかが分からないことである。そのため人は『自分の知っている神、知らない神、自分の知っている女神、知らない女神』に告白しなくてはならない」
この祈りには、いら立ちや人々の情けない思いが表されています。「私は(助けを)求め続けたが誰も助ける者はいない。叫んだが近付く者もいない。……私は悲嘆に暮れ、孤独で何も見えない」(使17:23「知られていない神に」参照)
オルトン氏は続けます。「これが啓示の無い世界に生きている人間の苦悩である。どれほど忠実に儀式を行っても、結局神々が何を求めているのかが分からない。できることは、ただ忠実に伝統を守り、嵐を乗り切ることだけである」
御名の力
古代世界における名前は、役割や職務、身分と結び付いていました。このことは、聖書全体を通じてイスラエルの神についても見て取れます(出34:6〜7)。イエスの御名(イェシュア)が「主は救い」を意味することは、クリスチャンにとって素晴らしいことです。一方、古代の異教世界の神々の名は偽名であることがよくありました。多くの神々が、人間に支配されたり操られたりすることを良しとせず、本名を明かさないとされていたからです。
異教徒にとっての問題は、神々が語らなかったことです。神々が人と関わり、慰め、愛、希望、義、救いの言葉を掛けることはありません。一方、聖書の神は正反対です。イスラエルの神はご自身を啓示され(創12:1〜3)、神の霊に導かれた人々を通して文字どおり神のみことばを与えられました(Ⅱペテ1:19〜21)。
異教世界のエジプトでは、神々がナイル川から太陽、月、穀物に至るすべてを支配し、カエルや猫、ワニや家畜などあらゆるものの中に存在するとされていました。そんなエジプトにどっぷりと浸り、400年間を過ごしたイスラエル人でしたが、シナイに至るまでの壮大な出来事を通して、当然ながら祖先の神を思い出しました。ヨシュアも後年シェケムで契約を更新する際、約束の地に入っていくイスラエル人の心にこの出来事を呼び起こしています(ヨシ24章)。
神の力、きよさ、愛
イスラエル人は、神がきよい方であることを思い起こしました。民はその神のきよさを重んじ、自らも神の御前で聖なる者とならなければなりません(レビ11:44〜45)。神はモーセに、「彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように」(出19:21)、ご自分の臨在がある間、山の周りに境界を定めるよう命じられました。神が語られた時、民が異教のエジプトで経験したすべては完全に光を失いました。神の威光を見たイスラエルの民は圧倒され、おそれ、モーセにとりなしを求めて叫びました(出20:18〜21)。
神はシナイで、アブラハムに与えた約束と結ばれた契約(創15章参照)を守られたのです。神は、モーセを通して全イスラエルに語り掛け、彫像を禁じられ(出20:4〜5)、民は神の臨在と力を目の当たりにしました。その後、神は文字どおり雲の柱、火の柱によって民を約束の地に導かれました。
神は、契約を守るご自身の誠実な本性(ほんせい)と、ご自分の民イスラエルに対する不変の愛、永遠で誠実な愛を示されています。「主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富(む)」(出34:6)
啓示された神の誠実さ
ところで、イスラエルの民がエジプトで奴隷だった時、神はご自分の民を気に掛けておられたでしょうか。それとも、エジプトの神々のように民の痛みと苦しみに無関心で沈黙されていたでしょうか。異教徒は、神々には最弱から最強までランクがあると信じていました。ヘブル人の神は、アブラハム、イサク、ヤコブに対しては力を持っていたものの、「太陽神ラーの息子」であるファラオには歯が立たないのではないか、そう考えられていたのです。その答えはシナイで出されます。
神がシナイで雷鳴と共に明らかにされたのは、ご自身の誠実さです。神は民をエジプトから救い、モーセの指導により山のふもとに集め、山からモーセに呼び掛けました。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た」(出19:3〜4)。神の愛は豊かです。全地の神は「あらゆる民族の中にあって、わたしの宝」(出19:5。Ⅰ歴代17:21参照)と呼ばれた契約の民への誠実さを示されました。
全イスラエルは神の力と威光の目撃者です。神の全能の御業を見、御声を聞きました。神の御名を知り(出3:14)、最愛の神の御心が示された律法を与えられ(出20章)、聖なる神に仕えました。正義と愛の神は、完全できよい方、父なる神なのです! 「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)。この最初の戒めで明確に命じられているように、この方以外に神はありません。