文:ネイサン・ウィリアムズ(BFP広報部長)
世界中がコロナ禍に見舞われた2020年、私たちの日常は一変しました。
試練によって人生を見つめ直し、何が大切で、何が大切ではないかに気付いた方もいたかもしれません。
善と悪、真理と偽物を分けるそのような打ち場の恵みについて、聖書から見てまいります。
2019年末、キリスト教界の中で預言の声が上がり、来たる年は霊的覚醒と躍進の年となることを待ち望むよう呼び掛けられました。2020年も終わりを迎えた今、こうした聞こえの良い言葉は現実とはかけ離れていたようです。ここ数カ月で世界は一変してしまいました。失業、暴動、デモのニュースが毎晩のように報じられています。世界の多くの地域が一時的にロックダウンとなり行動が規制され、身に着ける物や言動に新たな制限が課せられ、不確実さ、不一致、不安が蔓延(まんえん)しています。2020年は困難な試練の年でした。
打ち場(脱穀場)を体験する
この疫病が世界に対する神の預言的ご計画によるものなのか、それともパウロの言う「この暗闇の世界の支配者たち」(エペ6:12)によるものなのか、多くの人が戸惑っています。いずれにしても私の脳裏に浮かぶのは、これと関連するヨセフの物語の一節です。父ヤコブをヘブロン近郊のマクペラの洞穴に葬った後、12人の兄弟はエジプトに帰りましたが、ヨセフを奴隷に売った兄たちはヨセフの報復を恐れていました。仲を取り持ってくれた父亡き後、ヨセフの好意を失うかもしれないと考えたからです。兄たちは完全にへりくだり、ヨセフの前にひれ伏しました。対するヨセフの応答は永遠の真理を伝えています。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(創50:20)
ヨセフは数々の試練や苦難を耐え忍ぶことを余儀なくされました。しかし、主は完全なあがないの計画を成就するために人間の邪悪な策略さえも用いられ、ヨセフを権威と影響力と財産のある重要な地位に引き上げたのです。ヨセフの体験は「打ち場(脱穀場)の体験」と比喩的に呼ばれます。
打ち場(脱穀場)は多くのものを象徴しており、善と悪、真理と偽物、有益なものと無益なものを分ける場所です。脱穀の際には穀物の束を打ち、籾と籾殻に分けます。同様に私たちも霊的歩みの中で打たれますが、主が計画された素晴らしい御業が成就するためにそれを耐え忍びます。
古代の農村地帯において「打ち場」は生活の中心でした。広くて平らな打ち場では、結婚式のような文化活動や宗教儀式といった、農作業以外の活動も行われていました。打ち場は農作業場だけでなく聖なる場所でもあったのです。古代中近東の文化では、主は生命の創造主かつ維持者であり、雨を降らせ大地から実りをもたらしてくださる方でした。従って、打ち場には神の臨在があると信じられていたことも驚くに値しません。預言者たちは打ち場で幻を見、預言を受けました。まさしく生活の源であった農村地帯の打ち場は、創造主と結び付いていたのです。さらに調べてみると、打ち場は単に裁きの象徴というだけでなく、祝福、祈りの応え、備え、あがないの象徴でもあることが分かり驚きました。
打ち場に建てられる
「ご自分(主)の心にかなう人」(Ⅰサム13:14)とは最高のほめ言葉です。しかし弱さと欠点を持っていたダビデ王は、人生で何度も打ち場を経験しました。サムエル記第二24章にその体験が記されています。ダビデ王は軍団の長ヨアブの賢明なアドバイスを無視し、イスラエルとユダの人口調査を行いました。その結果、民の間で疫病が起こり、7万人が死んだのです(Ⅱサム24:15)。その裁きのさなか、主はあわれみのゆえに怒りを沈められました。エルサレムの住民を滅ぼすために遣わされた御使いは、不思議なことにアラウナの打ち場でとどまります(Ⅱサム24:16)。ここでダビデは主の前にへりくだり、祭壇を築き、いけにえを捧げました(Ⅱサム24:25)。ダビデが購入したアラウナの打ち場には、後に息子のソロモン王が主の御住まいである神殿を建てています。
打ち場という象徴はこのあがないの物語に不可欠です。ダビデは自分の不従順による裁きと民の犠牲に耐え、打ち砕かれます。が同時に、悔い改めた後で祝福が与えられたことが確認できます。主の家を建てることは長年のダビデの願いでした。それは生前には実現しなかったものの、その子ソロモンによって主はダビデの最も深い心の願いに応えてくださったのです。
この物語の霊的学びは印象的です。打ち場は私たちの心が罪からきよめられる場所です。打ち場の体験(苦難)を耐え忍ぶことには目的があります。それは善と悪、有益なものと無益なものを明らかにすることです。私たちは打ち場で自分の弱さと失敗に直面します。しかし、きよい心を持つ時、神と出会い神の御声を理解できるようになり、痛みの伴う打ち場の経験が良きものと変えられ、最終的に積年の夢や心の願いがかなえられるのです。
「きよめ」と「あがない」
あがない主としての主の本性は、ダビデの曽祖母ルツの物語に象徴的に描かれています。夫を亡くしてやもめとなったルツと姑のナオミは、自分たちが見捨てられ、絶望的な状況にあることに気付きました。しかしイスラエルの神に忠誠を誓って故郷のモアブを離れたルツは、ナオミと共にユダに帰り、ボアズの手によって買い戻されます(ルツ2:8-13)。ボアズはルツの亡夫の親戚で、ルツの相続を回復できる買い戻しの権利のある親類でした。ルツは打ち場で、ボアズに夫となってその権利を行使してくれるよう懇願します。これは、あがないを必要とし、完全に明け渡してへりくだった人物が、籾と籾殻に囲まれている美しい描写です。
このように打ち場は主が私たちを連れていく場所でもあります。そこであがないを見いだし、買い戻しの権利のある親類の声を聞くのです。「娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています」(ルツ3:11)。ルツは偶像礼拝の国に生まれた異邦人でした。しかし、その偽りの宗教を捨てて唯一真の神に従ったのです。ルツの物語における打ち場は、神の御前でのきよめの場、へりくだりの場を象徴しています。神は、そこで絶望し切っている私たちを見いだし、備えている相続への希望の扉を提供してくださるのです。
脱穀する権利
打ち場(脱穀場)には裁きの場という側面もあります。バプテスマのヨハネはイエスについてこう告げました。「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」(マタ3:11-12)
この比喩は麦と毒麦のたとえ話(マタ13:24-43)で強調されています。世界は麦畑、刈り取りは世の終わりのことであり、刈り取る者たちが遣わされ、麦を集め、毒麦を燃やします。これらの象徴はすべて、善と悪が決定的に区別される打ち場の体験を隠喩しているのです。ヨハネは、信仰者にとっての慰めは収穫の主イエスが来られることだと言いました。私たちはそこに安息と平安を見いだすのです。
このたとえはルカの福音書の話と対比できます。そこでふるいにかけるのはサタンです。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました…」(22:31-32)。私たちを破滅させようとする敵がいます。敵は私たちが打ち場でふるわれて信仰を失い、籾と籾殻を分ける風が籾殻を吹き飛ばすように私たちが取り除かれることを願っているのです。しかし注目すべきことは、打ち場の主が私たちのために祈り、とりなしてくださっていることです。このことを心に留めるなら、永遠の御国の建設とあがないの物語の完成という、さらに大きな神の目的のために打ち場の体験を受け入れられるようになるのです。
打ち場の体験を受け入れる
「主は常に語っておられるが、私たちが常に聴いているとは限らない」。これは私の牧師がよく口にする言葉です。この激動の時代にも主は語り続けておられます。一般の人々、教会、政治家と政治体制、そして私たち一人ひとりに語り掛けておられます。問題は私たちが聴いているかどうかです。豊かな預言や完全な幻は、誰にも気付かれないような予期せぬ荷物に入って届くことを知っておくことが必要です。主のあがないは砕きと苦難と脱穀を経て実現しました。それによって多くの人々が救われ、悪から善が生まれるのです。この世はふるわれ、粉々となり、かつてなかったほど最後の打ち場に近付いていると、私は信じています。麦は集められて倉に蓄えられ、籾殻は集められて火に投げ込まれるのです。
私たちが実際の打ち場を体験する時代にいるのであれば、それは後に起こるさらに偉大な事柄への準備のためです。つぼを新しい油で満たし神の打ち場に入るため、精神的、霊的に準備をしなくてはなりません。そこで「買い戻しの権利のある親類」に出会い、交わるのです。この打ち場の体験は、神が私たちに備えてくださった素晴らしい祝福とあがないの時となるでしょう。主は耐えられないほど打ちたたくことはないと約束しておられます。「パンのために麦は砕かれるが、打穀をいつまでも続けることはしない。脱穀車の車輪を回すことはしても、馬がこれを砕くことはない。これも万軍の主のもとから出ること。その摂理は奇しく、その英知は偉大である」(イザ28:28-29)