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赦す自由 パート1

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

現代は不寛容社会と言われ、他人をバッシングする行為が多く見受けられます。
しかし神が指し示す赦しの道こそ、自由を得られる道です。
ヨセフの物語から、共に赦しについて学んでまいりましょう。

Junior Moran/unsplash.com

「あなたを赦します」。この短い言葉ほど安堵(あんど)と喜びを与える言葉はありません。赦される立場であれ、赦す立場であれ、“赦しの無い牢獄”から解放されて和解できるようになった結果、この喜びを経験します。

専門家によると、今日多くの人が罪悪感に悩まされています。自分のせいではない事柄であっても、後ろめたい思いに悩みつつ、不当に扱った可能性のある相手に赦しを求めない人が大勢いるそうです。その一方で、人から受けた不当な扱いに対する痛みと怒りに満ちた人生を送りながら、解放されるのに必要な赦しを行えない人もいます。いずれにしても、赦さないことは私たちの信仰をくじくために敵が使う道具だと聖書は明確に語っています。赦さない時に喜びは奪われ、痛みと憎しみに満ち、荒廃した人生を送ることになるのです。

今日心理学者たちは「赦しとは、自分に害を与えた相手が赦しに値するかどうかにかかわらず、その相手への恨みや復讐(ふくしゅう)心を意識的・意図的に手放す決断である」と言います。現代社会は憎しみと増大する暴力にあふれています。その根底にあるのは赦しの欠如です。互いに赦し合い、自分を赦すという行為は、肉体的にも精神的にも深い影響を与える複雑な心理的プロセスを伴うので、たとえ実行できたとしても長い時間が掛かると専門家は言います。手放せなかったり、手放すことを良しとしない感情にとらわれたりしている人は、解放される見込みが少なく、望みはほとんどないそうです。

憎しみの循環

エペソ書の著者は、この「いのち」を得るか「死」に至るかの戦いで敵のわなにかかることなく、主に痛みを明け渡すにはどうすればよいかを力強い言葉で説明しました。エペソ人への手紙4章31節で使われているギリシャ語を理解すると、さらに明確になります。

無慈悲(邪悪、憎しみ、苦々しさ、とげとげしさ)、憤り(どう猛さ、憤慨)、怒り(不機嫌、復讐)、怒号(激しい抗議、わめき声)、ののしり(中傷、陰口)などを、一切の悪意(腐敗、邪悪、憎しみ)とともに、すべて捨て去りなさい(船が錨を引き上げるように自分の内から取り除きなさい)」

むしろ次のようにしなさいと32節で著者は語ります。 「互いに親切にし(苦々しく、とげとげしくではなく感じよく接し)、優しい心(情深く)…」

解放の鍵は 「赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(太字筆者)

私たちの神は、痛みと苦々しさの泥沼の中でなすすべもなく溺れている神の子どもたちを放ってはおかれません。神は牢獄の扉を開ける鍵を与えてくださいました。それは聖書の中にあります。聖書の真理によって他人や自分を赦せるようになり、神がご自分の子どもたちに与えておられる勝利と自由の中を歩けるようになるのです。

比類ない生涯

ヨセフの物語は赦しについて語っていると考えられています。ヨセフの生涯や経験、周囲から受けた扱いについて理解していなければ、この物語の深みを理解することはできません。

ヨセフの生涯は解放、正義、哀れみ、繁栄はもちろん、陰謀、冒険、欺き、憎しみに満ちていました。しかし、その生涯を真に理解するには、ヨセフの父ヤコブの嫁探しにさかのぼる必要があります。古代中東では、親が親族の中から息子の配偶者を選ぶのが一般的でした。そこで青年ヤコブは、母親の出身地であり、親族が当時住んでいたパダン・アラムに旅をします。

ヤコブはいとこのラケルに会い、ひと目で恋に落ちました。ところが、ラケルの父ラバンから、ラケルと結婚するために7年間ラバンの家畜の群れの世話をするように言われます。しかし結婚式当日、ラバンの娘たちは入れ替えられ、ヤコブはラケルの姉、レアと結婚することに。結婚を待ち焦がれていたヤコブは憤慨しますが、ラバンは姉を先に嫁がせるという習慣を盾に自己を正当化します。ヤコブは、レアに加えてラケルと結婚するため、さらに7年間ラバンのために働くことに同意しました。

長い間ラケルは子どもを授からず、何年も神に泣き叫ぶ一方、レアと彼女の2人の女奴隷には子どもが誕生します。しかし、ついに神はラケルの叫びに耳を傾け、その胎を開かれ、ラケルはようやくヤコブに息子を産みました。最愛の妻が産んだ最初の息子ヨセフはヤコブの生涯の喜びであり、祈りの応えでした。ラケルは再び奇跡的に妊娠し、数年後に次男のベニヤミンを産みますが、悲しいことにこの出産時に亡くなります。これにより、ヨセフはヤコブにとってより大切な存在になりました。ヨセフの10人の兄たちはラケルの息子たちよりも常に下の立場に甘んじていました。

嫉妬の物語

母親ならご存じのように、えこひいきほど子どもたちの間に問題の種をまくものはありません。「どうしてお兄ちゃんは…できるの?」「私には…させてくれないじゃない」。兄弟が成功したり、褒められたりするのを喜ぶように教えることは容易ではありません。間違いなくヤコブの12人の息子たちも同じだったでしょう。兄たちは、ヤコブがヨセフを誰よりも愛していることを知っていました。しかし、ヤコブにとっては、えこひいきは目新しくも珍しくもなかったのです。ヤコブが育った家庭は、両親のえこひいきによって常に混乱していました。父イサクは、ヤコブよりも兄エサウがお気に入りであることを隠そうともせず、母リベカは兄よりもヤコブに目を掛けていました。

ヤコブがお気に入りのヨセフに「あや織りの長服」をつくると、状況はさらに悪化します。兄弟が着ている無色で袖の無い粗織りの服と違い、それは鮮やかな刺繍が施された長袖で、床まで届く柔らかい羊毛の外套でした。古代の砂漠文化でこのような外套を着るのは族長だけです。ヤコブにとって美しい外套は、ヨセフを祝福するだけでなく、ヨセフが後継者となり族長となることを他の息子や周りの部族に宣言するものだったのです。このような権利は慣習では長子が受け継ぐものでした。

ヨセフはヤコブの協力者のようになり、他の11人の兄弟の行動を探って報告していたようです。愛する妻を想起させる大切な息子を近くに置いて偏愛することは、ヤコブには心地良かったでしょうが、ヨセフに対する憎しみを増大させただけでした。

兄たちに売られたヨセフ

Photo by Inbal Malca/unsplash.com

ヨセフがイスラエルの地で家族と共に過ごした最後の時は、いつもと変わりなく始まりました。ヤコブはいつもどおりヨセフを送って兄弟の行動を探らせましたが、この時は少し距離がありました。ヘブロンの自宅から、兄弟と家畜の群れがいるドタンまでは約80kmで、危険な山越えもあります。兄弟たちにとっては願ってもない状況で、強い誘惑に襲われました。自分の存在を脅かす不愉快な夢見る者を、誰にも気付かれずについに追い払えるのです。弟は危険な山越えの途中で野獣に食い殺されたと父親に信じ込ませるのは簡単でしょう。「さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう」と兄たちは言いました。

創世記37章25節で兄たちが取った心無い行動は、これ以降も彼らを悩ませることになります。そこにはヨセフに対する深い憎しみがはっきりと見て取れます。裸にされ、殴られ、打ちのめされたヨセフは兄たちに哀れみを乞い、穴から出して家に帰らせてほしいと懇願しました。しかし兄たちはヨセフの痛みと恐怖を無視し、無情にも座って食事をしたのです。後に、兄たちが混乱と恐れの中、エジプトの指導者の前に立った時、最初に思い浮かべたのはこの時の罪深い行動でした。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ」(創42:21

兄たちはこの後ヨセフの身に起こったことも、自らの行動の最終的な結果も知らずに、長い間罪の重荷を背負ってきたのです。彼らは自分たちの行動が父に与えた衝撃を見ないわけにはいきませんでした。長い間偽りの生活を送り、その偽りによって父の人生が壊れるのを見てきたのです。誰が彼らを赦せるでしょう。

しかし、ヨセフは赦しました。兄たちの真の悔い改めに納得したヨセフは、心を開き、これまでの出来事の中に神の御手を認めると断言しました。ヨセフをエジプトに置かれたのは神でした。それは、ヨセフを用いて彼の家族とこれから後の神の民を救い出すためだったのです。ヨセフから本当に赦されたことを知った時、兄たちが経験した安堵、感謝、自由は簡単には想像できません。しかし、兄たちは本当に赦しを体験したのでしょうか。

兄たちはヨセフの赦しを疑いました。自分たちの行為が赦せなかったためでしょう。父が死ねば、自分たちを激しく憎むヨセフが本心を現して罪の報復をするのではないかと恐れました。ヨセフから愛に満ちた、安心させられる言葉を掛けられて初めて、兄たちは解放されたことでしょう。

私たちも同様な不信仰に陥ることが幾度となくあります。何事も神の目から隠されてはいません。神は私たちの罪の闇を知っておられ、悔い改めの涙を優しく皮袋に蓄えていてくださいます(詩56:8)。私たちを神の愛から引き離すものは何一つありません(ロマ8:39)。神の優しさは絶えず人類に注がれているので、悔い改めの心をもって神の元に来る人を一人残さず赦してくださいます(イザ55:7)。

しかし、なぜか私たちは、自分は赦されるに値しないという敵の言葉を受け入れてしまうことがあります。そして罪悪感を手放さず、恥と自己嫌悪の生活を送ってしまうのです。それはヨセフの兄たちのように神の赦しを疑っているからです。情け深く、はかり知れない神の愛の素晴らしさを把握することは、人間には困難ですが、私たちは敵を黙らせ、赦しを与えるお方の御声にただ耳を傾ければよいのです。

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