ティーチングレター

神に喜ばれる信仰

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

神を信じていても、私たちの心は時に揺れ動きます。
そんな自分を見て、さらに落ち込むことがあるかもしれません。
しかし、聖書に記された「信仰」の奥深さを知る時、希望が生まれてきます。

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 私たちは時々、まだクリスチャンでない友人が理解できない専門用語を使ってしまいますが、最近ではクリスチャンでも誤解しているキリスト教用語が数多くあります。

「信仰」という言葉もその一つ。翻訳によって差はありますが、この言葉は聖書に521回(新改訳聖書では258回)ほど登場し、時代を越えて議論されてきました。ヘブル書の著者は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と語っていますから、この言葉を正しく理解することは大切です。聖書的な本当の「信仰」はどうあったらいいのかを、聖書の著者たちが懸命に説明してくれたことを主に感謝します。

同じ議論に使われた 二つの言い回し

新約で「信仰」と訳されているギリシャ語は、ほぼ「ピスティス」です。意味は幾つかあり、すべて「信じること」に関連しています。主な意味は「考えていること」「本当だと信じていること」「頭に(できれば心にも)あること」。一方、「信仰」と訳されているヘブライ語は「エムナ」です。より正確な訳は「忠実」「誠実」。どちらかと言えば行動を表す単語で、「行動によって明らかにされる信念」と訳せます。

信仰とは、信じることなのか、それとも行いによって義とされることなのか、教会内で長い間議論がありました。主の兄弟ヤコブは「行いによって救われる」と言い、教会を律法主義のわなにかけたと責める人がいます。一方、パウロはただ恵みによって救われると教えたとして、快楽主義だと訴える人もいます。

こうした誤解は、彼らの言葉を聞いた聴衆から生じたのかもしれません。ヤコブが手紙を書いた相手は、イスラエル以外の地に住んでいた、イエスを信じるユダヤ人。当時の1世紀のユダヤ人はトーラー(モーセ五書)を読んで成長し、一神教、きよさ、義、神への忠実さと神の誠実さについて十分理解していたでしょう。一方パウロが手紙を書いた相手は、主に異教から改宗したばかりの人々が集う教会でした。新しい信者たちは、生活や考え方に残る異教の影響と格闘中だったのです。多神教信者で幼児犠牲や神殿売春を信奉していた人もいたかもしれません。その多くは神々から救いを買い取るために必死に働き、家族の安全と繁栄を確かなものにしようとしていたことでしょう。このように世界観が大きくかけ離れていたため、ヤコブとパウロは同じ内容を語るにも全く違う言葉を使わざるを得なかったのです。

パウロは明確に、私たちは信仰(ピスティス)によって義(正しい)とされると言っていますが、義とされた後、神の御霊が心に遣わされて神の子とされることも頻繁に語っています(ガラ4:6)。それこそが、私たちの行動や振る舞い、生き方が新しくされ(Ⅱコリ5:17)、人生が変えられる道です。パウロの主張はエペソ人への手紙2章8-10節に明記されています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」(強調筆者)

ヤコブも同様に期待しています。「…信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」(ヤコブ2:17)。ヤコブは「…だれかが自分には信仰(ピスティス)があると言っても、その人に(信仰に伴う)行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」(同2:14)と尋ねました。ヤコブは「ピスティス」は信仰の半分に過ぎないことを明らかにしています。

最終的にヤコブもパウロも、ヘブル書の著者が語ったような力強く生き生きした信仰には、「ピスティス」と「エムナ」の融合が必要だと結論付けました。この二つが融合する時、聖霊によって信仰の火が燃え上がります。そして信者たちは正しい行いを通して内面の実態を目に見える形で表し、喜んで従う生活を送るようになるのです。これこそ神に喜ばれる信仰です。

さらなる混乱

このティーチングレターの準備のために下調べをしていた時、「信仰の硬貨」とも言える物を見つけました。片面には神に喜ばれる信仰が、もう片面には耐え忍ぶ信仰があります。私はこの二つがそろった時に聖書的な信仰のすべてが美しく表されると信じています。では耐え忍ぶ信仰とは何でしょう。

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黙示録には、耐え忍んだ者、打ち勝った者、勝利に満ちた信仰を持った者、信仰を捨てなかった者の記述が数多くあります。時に窮地に陥っても耐え忍ぶ信者たちの信仰は、無数の祝福によって報いを受けると聖書は言います。何が信仰の永続を揺るがすのでしょうか。実は、「疑い」という言葉の理解次第で、熱心な信仰が危険にさらされることがあるのです。

疑いは辞書で次のように定義されています。「不確実な感じ」「確信の無さ」「真理かどうか疑問を呈すること」「不信」「信じなかったり受け入れなかったりする傾向」。これはキリスト教用語の中で大変重要な言葉の一つであり、聖書に200回近く出てきます。しかし私たちは「疑い」を本当に理解しているでしょうか。この重要な概念について聖書は実際には何と語っているのでしょう。

初めに…

確固たる土台を据えるためにはエデンの園の善悪の知識の木に戻る必要があります。ユダヤの賢者たちは何世代もの間しばしば、この木を「疑いの木」と呼んできました。ここから人類の疑いとの闘いが始まったからです。

エデンの園の美しさと平和は想像できないほどのものだったでしょう。アダムとエバは自分たちが住む世界と同様、全く純粋でした。しかし、アダムが禁断の木の実を一口食べた時、すべてが変わってしまいました。

園には悪が存在していたことを私たちは知っています。蛇が這い回り、最終的にエバに罪を犯させることに成功したからです。とは言え、その瞬間まで悪は外部にあり、人間の生活にはほとんど無関係でした。アダムが誘惑に屈した時、悪は内部に入り込んでアダムの一部となり、アダムの住む世界の一部となってしまったのです。

蛇は「あなたがたは決して死にません」(創3:4)と、人類に最初の疑いの種をまき、「あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」(5節、強調筆者)と宣言しました。事実、彼らは「自分たちが裸であることを知った」(7節、強調筆者)と聖書は記しています。この2箇所で使われている「ヤダ」というヘブライ語は、単なる頭での理解以上に知ることを意味し、タナハ(旧約聖書)では性的に親密な関係や深く広い経験を示す際に使われます。無邪気に一口かじっただけで、存在さえ知らなかった内面の悪と遭遇したアダムの衝撃ははかり知れません。この瞬間に人間の心は永遠に変わってしまい、常に疑いが付きまとうようになったのです。

人の脳は生来疑いと強く結び付き、懐疑主義に傾く傾向があると専門家は言います。この傾向は悪い決断や衝動性から私たちを守る場合もある一方、真理を信じることを妨げ、信仰の破船を招くこともあります。

残念なことにキリスト教は、確信することが信仰のもう一つの定義だ と教えてきました。質問や疑問、論争はあってはならないものとされ、100%信じなくては、否定されるか、最悪の場合は異端とされます。私たちの信仰は、論理性や客観性の無い「盲信」を奨励しているとよく外部から批判されます。そんな状況では、自分の思い込みや信仰を吟味し、正直に苦悩に向き合う術はありません。柔軟性が欠如していては、信仰は成長せず、「もろくて壊れやすい」ままなのです。

聖書は何と言っているか

マタイの福音書21章21節マルコの福音書11章23節で「疑い」と訳されているギリシャ語は、実際は「裏付けを取る」という意味です。マタイの福音書14章31節ローマ人への手紙4章20節で使われている「疑い」の意味は、(風に揺れる葉のように)「揺れる」。ルカの福音書24章38節では「議論」「話し合い」「人間の推論」。マルコの福音書9章24節では「弱い時」を意味します。聖書で使われる「疑い」が不信仰を指すことはほとんどありません。

信仰とは「確信すること」だと考えているので、疑いと不信仰は同じだとよく見なされますが、全く別物です。不信仰とは神への反逆の結果、信じないでいることです。神が「さあ、来たれ。論じ合おう…」(イザ1:18)と招いても信じないので、神の招きに応じません。これは疑いではなく不信仰です。聖書で定義されているように、疑いは信仰の反対ではなく、むしろ信仰の要素の一つなのです。それは自分の信仰や思い込みを吟味し、疑問に対処し、弱さに立ち向かう方法です。疑いは霊的な筋肉を鍛えて強くし、信仰を深めます。

「ピスティス」(信仰)の土台は、すぐに「エムナ」を生み出します。これは正しい行動や、主の命令や指示に喜んで従うための推進力となります。信仰の硬貨を見る時、信仰とは疑わないことではなく信仰の戦いを認める能力だと分かります。不確かな状況の中で疑問を口にし、正しい行動を選びながらも揺れ動く気持ちと闘えるのは神に信頼しているからです。信仰は目的地が不確かでも神と共に行くという選択であり、恐れや疑問があっても、神は私たちを御手の中でしっかりと安全に、そして永遠に守ってくださると信頼することなのです。

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