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ティーチングレター

エルサレムの重要性を理解するための「15の鍵」Part-1

BFP編集部 2000年10月

私はエルサレムに住んで23年以上になりますが、この特別で素晴らしい町に住んでいることはなんと恵まれたことかといまだに興奮を覚えます。聖書中数多くの出来事が、この町で起ったのです。地球上にこの町のようなところは他にはありません。

ダビデ王は、いと高き神-イスラエルの主を礼拝するために「エルサレムにのぼる」ことの喜びと興奮を要約して次のように言いました。「人々が私に、『さあ、主の家に行こう。』と言ったとき、私は喜んだ。エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。」(詩篇122:1-2)

それでは、エルサレムを知るための素晴らしい鍵を聖書と歴史の記録から見ていきましょう。

第1の鍵

多くの名を持つ町

何世紀にもわたってエルサレムは多くの名前で呼ばれてきました。メルキゼデクの町「サレム」(創世記14:18、ヘブル7:1-2)、神がダビデに征服するように命じられたエブス人の町「エブス」(歴代上11:4)、「平和の町」「ダビデの町」(サムエル上6:10、列王上2:10、同11:27など)そして「エルサレム」(ヘブル語でイェルシャライム)です。また、紀元135年にローマ皇帝ハドリアヌスが命名したローマ名「アエリア・カピトリーナ」や、その後にイスラム教徒がつけた名前「エル・クッズ(theHoly)」などがあります。

ヘブル語名「イェルシャライム」(ヨシュア10:1)は、「シャローム(ヘブル語で平和)」という男性名詞の複数形で終わっています。ただの平和ではなく、2倍の平和の町と読み取れます。

エルサレムの名は聖書に881回登場します。そのうち667回がヘブル語で書かれた旧約聖書に、144回が新約聖書に書かれています。

学者たちはエルサレムについて、聖書の中に70種以上の詩的・描写的名が見つけられると言っています。そのうち最も多く使われているのが「シオン」(152回)(列王上8:1、ゼカリヤ9:13など)です。

その多くの呼び名のうちのいくつかを並べてみましょう。「神の町」(詩篇46:4、87:3)、「ユダの町」(歴代上25:28)、「喜びの町」(エレミヤ49:25)、「賛美の町」(エレミヤ49:25)、「義の町」(イザヤ1:26)、「偉大な王の町」(詩篇48:2、マタイ5:35)、「主の町」(イザヤ60:14)、「真実の町」(ゼカリヤ8:3)、「忠実な町」(イザヤ1:26)、「我が民の門」(オバデヤ1:13、ミカ1:9)、「へフツィバー(我が喜びは彼女のうちに)」と「ベウラー(夫のある国)」(イザヤ62:4)、「主の山」(ダニエル9:20、ゼカリヤ8:3)、「美の極み」(哀歌2:15)、「地の女王」(哀歌1:1)、「主の王座」(エレミヤ3:17)、「イスラエルの聖なる者シオン」(イザヤ60:14)、「アリエル(神の獅子)」*1(イザヤ29:1)などがあります。

第2の鍵

選ばれた町

神はこの町をご自分のものとして選ばれました。この町における神の権利は永遠に変わりません。全地球上への贖いのご計画が現されるために必要なのです。

「私の町」(イザヤ45:13)、あるいはより頻繁に「私の聖なる山」(イザヤ11:9、同56:7、同57:13、エゼキエル20:40、ヨエル2:1、同3:17)と神ご自身が呼ばれるような町は、アのエルサレムを除いて、地球上のどこにも存在しません。

この町は神ご自身が名をつけられた「神の町」であることから、しばしば「聖なる町」(ネヘミヤ11:1、18、イザヤ48:2、52:1、マタイ4:5、27:53、黙示録11:2)と明快な形で呼ばれます。

神はご自分の町エルサレムを、ご自分の宿る場所として選ばれ、他のどの町よりも愛されています。「主は聖なる山に基を置かれる。主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。」(詩篇87:1-2)

「主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。『これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し……』」(詩篇132:13-15a)

第3の鍵

巡礼の町

ダビデは言いました。「エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。」(詩篇122:3)

この詩はダビデの時代から3000年経った今日においても、エルサレムの姿をよく説明しています。

今でも旧市街を遠くから眺めると、建物同士が複雑に組み合わさり重なりあった、パッチワークのような美しい二次元的模様が浮かび上がってきます。

エルサレムは、3000年以上にもわたって信心深い人々の主要な巡礼の場となってきました。「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2:3)

ダビデもまたエルサレムを巡礼の目的地として書いています。「そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。」(詩篇122:4)

今日においてもエルサレムは、さまざまな時代からなる歴史的建造物が織り成す単なる美しい町であるだけでなく、いろいろな人種や背景を持つ人々が住み、またさまざまな国々から訪れた人々によって色とりどりの人間模様が日々織られる町でもあります。世界の隅々から集まった、それぞれ独特の民族衣装をまとったキリスト教巡礼たち…黒い上着と半ズボンに毛皮の帽子をかぶり、もみ上げをカールさせた超正統派ハシディームのユダヤ教徒たち…そしてラクダに乗って買い出しにやって来る砂漠に住むベドウィンなど、この町ではさまざまな人々に出会うことができます。

聖書の時代、神様はご自分の民イスラエルに対して、ある特別なことをお命じになりました。それはペサハ(過越の祭)・シャブオット(ペンテコステ)・スコット(仮庵祭)の、年3回の聖書的祝祭を祝うために『エルサレムへ上りなさい』という命令です。この命令は、エルサレムの住民の生活に対して、文化的・社会的そして政治的に非常に影響を与えました。国中のユダヤ人たちが、トーラーを学ぶため、また喜ぶために犠牲を捧げてエルサレムへ押し寄せてくるのです。イエスの時代、祭の期間におけるエルサレムの人口は、平常時のおよそ6倍にあたる25万人にまで膨れ上がったのです。

歴史の中で神が自分たち(そして私たち)のためにしてくださった御業の数々を、人々はこれらの祭をとおして思い起こしました。ユダヤ人たちがこれらの祭を祝う目的は今日も変わりません。そして今ではユダヤ人もクリスチャンも、この祝祭の時期にシオンの主を礼拝するために毎年、エルサレムへやって来ます。

再臨の主イエスが戻ってこられるときには、すべての国々の民がエルサレムへ上ってきて、仮庵の祭を主とともに祝うことでしょう。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」(ゼカリヤ14:16)

第4の鍵

神が宿る町

エルサレムには、他の主要都市に見られるような地理的要素がすべて欠けています。水路もありませんし、主要交易路からも外れていました。征服者たちにとっても戦略的重要性はありませんでした。エルサレムが持っていた要素とは、過去から現在に至るまで、神から与えられたイスラエルという国の霊的・行政的中心地であることです。

詩篇の著者はエルサレムについて「高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。」(詩篇48:2)と表現しています。

エルサレムは過去においても、また現在においても、この地上において神の臨在が現実に宿る場所です。なぜなら、エルサレムは神様が全世界を贖われるというご計画の中心地だからです。この町が持つ証しとは、人々を贖うためにこの地球に来られる神についての証しでした。詩篇の著者はこの話を、子から子へ代々伝えるのにふさわしいものであると考えたのです。「シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:12-14)

こうして平和の町エルサレムには、世界の中心となるべき運命が課せられたのです。

紀元前1004年、神の祝福によってダビデがエルサレムを征服しました(第1歴代11:4-5、7-9)。神がこの地を選ばれたからです。そこはユダとベニヤミンの領地の境にあり、北のイスラエル王国と南のユダ部族をつなぐ架け橋的存在ともなりました。エルサレムはイスラエルの霊的・行政的な首都となったのです。今日においてもこれは変わりません。王たちはこの地に王座を定めて国を治め、また人々が礼拝のために集まる神殿には神のご臨在が宿っていました。

ダビデが、神のご臨在が宿るための聖なる宮の地としてエルサレムを選んだことは、神にとって最も重要なことの一つでした。「ただ、エルサレムを選んでそこにわたしの名を置き、ダビデを選んでわたしの民イスラエルの上に立てた。」(第2歴代6:6)

「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(第2列王19:34)

「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。」(第1列王15:4)

ダビデは、主への祭壇を築くために、エルサレムにあった「アラウナの打ち場」を買い取り(第2サムエル24章)、ついに主の契約の箱をエルサレムに持ってきました(第1歴代15章)。ソロモンが栄光に満ちた第1神殿を建てたのはこの場所であり(第1歴代3:1)、ヘロデ王が無比の壮麗さと装飾を誇った第2神殿を建てたのも同じ場所です。エルサレムの神殿の丘に、神のご臨在が1000年以上も宿れらたのです。この場所こそ、イスラエルにご自分の千年王国を樹立するために主が戻ってこられる場所です。主はエルサレムから、この地球上を統治されるのです。神の律法と主のみことばはエルサレムから出て行きます。「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2:3)

「主はシオンからあなたを祝福される。あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。」(詩篇128:5)

この「神殿の丘」は、「シオンの山」として知られるようになり、後にはアブラハムが主に捧げるためにイサクを連れていった「モリヤの山」として知られるようになりました。

今日、神殿の丘にはイスラム教のモスクが立ち、その領域内はイスラムの権威によって完全に管理されています。ユダヤ教徒とクリスチャンには、この神殿の丘で祈りを捧げることが許されていません。無理にでも祈ろうとするなら、イスラム教徒によって追い出されてしまいます。

しかしイスラム教側が何と言おうとも、また国連やパレスチナの権威が何と言ったとしても、この神殿の丘の権利はまだユダヤ人にあるのです。ダビデがこの土地を買った(第2サムエル24章)ことは今に至るまで記録されており、正当な事実なのです。

現代のイスラエルが建国されてから、聖書の預言の成就として、何百万ものユダヤ人たちがこの地に帰還してきました。ところが、今日のユダヤ人たちは神殿の丘で主を礼拝する代わりに、ヘロデ王が建てた神殿の聖所を囲んでいた擁壁がわずかに残った部分の外側である「嘆きの壁」(または「西の壁」)で祈りを捧げています。

今日、多くのクリスチャンとユダヤ人たちは、神殿の丘の頂で聖書の神があがめられる日が再び来ると信じています。いつかこの場所に、新しい神殿(第三神殿)を建てて、主に礼拝を捧げることができると信じているのです。いつどのようにしてそのことが起るのかは神のみがご存じです。

以前、単なる貧しい麦打ち場でしかなかったこの場所は、聖書の預言が成就する今日、この上なく重要な場所として存在し、イスラエルとともにますます歴史全体の注目の焦点となっています。

第5の鍵

防護された町

詩篇125篇1節から2節には次のように書かれています。「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」

エルサレムは中央山地の頂上に位置しているのに、なぜ山々がエルサレムを「取り囲む」のでしょう。この点は、エルサレム旧市街の地理的位置を見ると完全に理解できます。エルサレムと、そこより高い東のオリーブ山の間に「ケデロンの谷」と呼ばれる谷があります。この谷にある「ギホンの泉」近くに旧市街は位置しています。西側には現代の「シオンの丘」(聖書的シオンの丘は今の神殿の丘である。後の時代に「シオン」としてその位置が設定された)があり、北側の丘も聖書時代の町よりずっと高くなっています。ですから、エルサレムの旧市街は中央山脈の分水界、つまり雨水が東西に流れ下る分け目となる最も高い領域に位置しているのですが、より高い尾根に囲まれた、ちょうどお皿のような窪地の場所にあるのです。

古代のほとんどの大きな町々と同じように、エルサレムも夜間や戦争時には中から閉じられた複数の門を備えた城壁に囲まれていました。人々が出入りできたのは、これらの門のみです。住民を守るために、夜間には金属と木で作られた巨大な扉が(詩篇107:16、イザヤ45:2)丈夫な横木でしっかりと閉じられていました(第1列王4:13、ナホム3:13)

それぞれの町の主要門(メインゲート)は、戦車や荷車が通れるように十分な幅を取って作られていました。こうした門は城壁の中でも最も攻撃を受けやすいという理由から注意深くデザインされて、敵が侵入するのを防げるように作られていました。また、城門の側面はたいてい塔になっており、日夜、見張りが立っていました(サムエル上18:24、33)。エルサレムが全世界に賛美される場所となるように祈るため、私たちは「城壁の上の見張り人」として召されています(イザヤ62:6-7)

その一方で、城壁の門は町の中でも最も活動的な場所でもありました。門のそばやそのすぐ内側には中庭や大通りがあって、そこで町の社交や商業活動が行われ、法的なやり取りが交わされました。ここでは律法の書の朗読や布告も行われています(ヨシュア20:4、第2歴代32:6、ネヘミヤ8:11、3)。法的訴えに関する長老たちによる義の審判が行われる「裁判の場」でもあり、仕事上の取り引きも行われる「ビジネスの場」でもありました(申命記16:18、第2サムエル15:2、アモス5:10-15)

さらに、新しい情報が交換され、議論される場所でもあり(創世記19:1)、噂話が広められていくのもこの場所からでした(詩篇69:12)。また市場もこの場所で栄えました。たとえばエルサレムの「魚の門」(ネヘミヤ3:3)、「羊の門」(ネヘミヤ3:1)、「水の門」(ネヘミヤ3:26)、「馬の門」(ネヘミヤ3:28)などがあります。輸入品の取り引きが行われる場所でもありました。

この城門では預言者や祭司たちが訓戒や宣告を下すこともありました(イザヤ29:21、アモス5:10、エレミヤ17:19)。罪人たちは門のすぐ外側で刑罰を受けたのです(第1列王21:10、使徒7:58)。さらに、人々が君主や高位の人の目に留まるチャンスをつかむ場所でもあり(サムエル下19:8、第1列王22:10、エステル2:19、21、同3:2)、町を訪れたけれども宿を見つけることができなかった異邦人が夜を明かした場所でもありました。

長老に選ばれて城門にある専用の座に着くことは、大変な栄誉でした(箴言31:23、ダニエル2:49)。しかし、アブラハムの甥であるロトにとっては、ソドムの城門に座す長老に選ばれ、主への献身に妥協してしまったことで、栄誉どころか呪いを受けることになってしまいました(創世記19:1)

今日、エルサレムの旧市街へ入れる城門は九つあります。北壁には古代の「ダマスカス門」、「ヘロデの門」、「新門」があります。東壁には聖ステパノ門としても知られる「ライオン門」と「黄金の門」(または「東の門」)があります。黄金の門には、メシアがここから神殿の丘に入場するという預言者たちの預言を妨げるためにイスラム教徒たちによって16世紀に封印された、というエピソードがあります。南壁には「糞門」と「シオン門」があります。西側の城壁には唯一のメインゲートであるヤッフォ門があります。

しかし門の有無にかかわらず、数多くの戦いが繰り返された聖書の時代にも、神はエルサレムを守ってこられました。将来敵がシオンへ攻め上ってきても、神はエルサレムを守られることでしょう(イザヤ34:8、ゼカリヤ12:2-3、9)

第6の鍵

争いの町

神はエルサレムをご自分のものとされ、イスラエルの首都としてユダヤ人たちの宗教的中心地にされました。しかし皮肉なことにそのことが原因で、この特別な町は国々の崇拝の対象ともなりましたが、口汚いののしりの的ともなりました。この小さな辺境の町を巡って国々から人々が攻めてきて、他に類を見ないほど多くの争いが起きました。その経済的価値や大きさにかかわらず、エルサレムは世界史上で大きな役割を果たしてきたのです。

過去700年の間に、エルサレムに関して5万から6万冊の本が書かれ、6000枚もの地図が作成されたと推定されています。こうしたすべての事実が、この地が世界の注目する中心であることを物語っています。しかし、アラブやイスラム世界においては、エルサレムは重要な場所であるとされながらも、その地図が作成されたという事実は今まで確認されていません。

「平和の町」エルサレムは歴史上、他のどの町よりも多くの包囲攻撃・戦争があった町として知られています。記録によれば、エルサレムは過去37回にわたって征服されたことが確認されています。あまり知られていないものも含めると、86回にもわたって異なる支配者の手に渡っています。

メルキゼデクとアブラハムの時代から、エルサレムは有名な町でした。主のために征服したヨシュアとダビデを除いて、エモリ人、エブス人、ペリシテ人、バビロニア人、アッシリア人、マセドニア人、プトレマイオス朝、セレウコス朝、ローマ帝国、ビザンチン帝国、ペルシア、アラブ、セルジューク朝、十字軍、モンゴル帝国、マムルーク朝、トルコ、英国、ヨルダンによる征服支配を経験し、今再びユダヤ人たちのもとに戻ってきたのです。

エルサレムは王の都であり、神がご自分のものとされた唯一の町です。これからも続く神の王国の首都なのです。ここに神殿が建てられ、ここにおいてのみ主への犠牲の捧げ物が正式に捧げられました。

イスラエルの民がバビロンの捕囚となった期間、愛するエルサレムがいつかユダヤ人の手によって再建される日を神は恋焦がれておられました。「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。』それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。―万軍の主の御告げ。―測りなわはエルサレムの上に張られる。』もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」(ゼカリヤ1:14-17)

第2神殿、あるいはヘロデの神殿は、古代世界の不思議の一つでした。ローマの歴史家ヨセフス(紀元37-93)によれば、建設には1万人の建築労働者が雇われ、資材を運び上げるのに1000台の戦車が必要だったということです。完成までに8年の歳月がかかりました。

紀元70年にローマ軍によって神殿は破壊され、後には西側擁壁の一部が土台の上に残されただけになりました。これは、壮麗さを誇った神殿とその完全な破壊を、ユダヤ人たちと世界に知らしめるためになされたことです。ほとんどの石材は平均1m×3mほどの大きさで、いくつかは12mもの長さがあり重量が100トン以上、最大で12.8m×4.2m×3.3m、重さが400トンあります。石材の表面はすべて滑らかに磨かれ、角はまるく加工されていました。高さ21.3mまでは、モルタルは全く使用されませんでした。

第7の鍵

ユダヤ人だけの首都

世界中のユダヤ人たちには、第1神殿と第2神殿の破壊を思い出すために、家の壁の一ヵ所だけ塗装をしなかったり、未完成の部分を残す「ゼッカー・ラ・ハーバン」と呼ばれる習慣があります。また、ユダヤ暦で第9番目のアブの月には、ユダヤ人たちは第1神殿と第2神殿の破壊を思い出すのが習慣となっています。

こうした行いは、ユダヤ人たちがいかにこの聖なる町にいまだに結びついているのかを物語っています。エルサレムが政治的にイスラエルとユダヤ人以外の国民の首都になったことはこれまでの歴史上、一度もありません。事実、過去に他の国々がエルサレムを征服しようとしたのは、この地がユダヤ人たちにとってあまりにも重要であったからであり、彼らの政治的・宗教的憧れが主な理由でした。

キリスト教とイスラム教は、もともとイスラエルとユダヤ人たちの上に起こった聖書的出来事を、後になってそれぞれの信仰にあてはめたために、どちらもエルサレムの重要性を中心としました。もちろん、キリスト教にはエルサレムと直接的なつながりがあるのは認められるでしょう。しかしキリスト教徒は、神のイスラエルと世界の贖いのご計画をまっとうする使命を背負ったユダヤ人イエス・キリストの人生と死とよみがえり、そしてやがて来る再臨とのつながりの中に、エルサレムを見出すことに、ユダヤ教との違いがあります。

神とユダヤ人は、彼らの聖都エルサレムとの結びつきを忘れることは決してないでしょう。この結びつきは、この町に対する神の、そして天からの主権的な契約とご意志の一部だからです。

イザヤはエルサレムへの神の思いを次のように書きました。「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた。』と。『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』」(イザヤ49:14-16)

また、詩篇の著者は大胆に宣言しました。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」(詩篇137:5-6)

市民たちに最も深く慕われたエルサレム元市長・テディー・コレック氏は次のように述べています。「3000年間、エルサレムはユダヤ人の望みと憧れの中心であり続けました。歴史上・文化上・宗教上そしてユダヤという一民族とそのユダヤ教における意識の中心として、これほど重要な役割を果たしてきた町は、このエルサレムをおいて他にありません。幾世紀にもわたる流浪の中にも、エルサレムは世界中のユダヤ人たちの胸中において、ユダヤ民族の歴史の中心点として、古代の栄光の象徴として、霊的達成と現代の復活の中で生き続けました。ユダヤ民族の全歴史を一言で象徴的に言い表すとするなら、そのことばこそ『エルサレム』であるという考えは、ユダヤ民族の心と魂から生み出されたものなのです」。毎年、過越の祭の時期になると、エルサレム以外の場所に住むユダヤ人たちは「来年こそエルサレムで」ということばを繰り返してきました。このことばにはエルサレムで過越の食事を食べることへの彼らの強い願いを表しています。

ユダヤ教の祈りの静かな部分、アミダで彼らはこう祈ります。「あなたがあわれみのうちにシオンへ戻られるのをこの目で見ることができますように」

祭の食事の後、「我々の生きている間に、万軍の主がすみやかにエルサレムを再建してくださるように」とユダヤ人たちは祈ります。

ユダヤ人たちは、日に3度「エルサレムよ、愛しの町よ、いつの日か我ら汝のもとへ喜び帰らん」と何千年にもわたって祈ってきました。

第8の鍵

エルサレムはイスラム教の聖地であったことはない

この町とイスラムとの関係について考えてみましょう。エルサレムはコーランには全く登場しない町です。イスラム教徒が自分たちとこの町を結びつけるのは、マホメットがバラクという名の翼のついた馬に乗って、夜の天空を駆ったという伝説に基づいています。その馬は彼を「聖なるモスク」から「最果てのモスク」へ連れていったということですが、コーランによればその旅は預言者マホメットの夢の中で、ほんの一瞬のうちに起こったものだということです。そしてイスラム教徒によると、はっきりと名前が書かれていないにもかかわらず、この「最果てのモスク」がエルサレムだというのです。

「最果ての」モスクにしばらく留まった後、マホメットは第7天国へ至り、そこでアブラハム、イサク、ヨセフ、モーセ、イエスに迎えられ、神の最後の預言者となるべく彼らから油注ぎを受けたといわれています。現実には紀元632年に死ぬまで、生涯においてマホメットがエルサレムの地に立ったことは一度もありませんでした。その6年後の紀元639年に、カリフ・オマールがエルサレムを征服しています。

イスラム教徒が神殿の丘を聖地とする根拠は、ただこの伝説のみによるのです。イスラム教の初期においては、その教えの中にユダヤ教とキリスト教の要素がいくらか取り入れられました。そのころのイスラム教徒はエルサレムに向かって祈りを捧げていました。しかし、中東のユダヤ人たちがマホメットの新しい宗教を受け入れないとわかると、祈りの方角をエルサレムからメッカに変更したのです。

著名なアラブ人地理学者のヤクットは、彼が著した辞典(紀元1225年)の中で、エルサレムについて「ユダヤ人たちとキリスト教徒たちの聖地」と書いており、イスラムの聖地はメッカであると明記しています。しかし今日、エルサレムはイスラム教第3番目の聖地といわれており、この都がイスラムにとっても非常に重要であるがゆえに、イスラムと分かち合う必要があるというのが、世の中の一般的な認識です。

しかし、初期のイスラム教はエルサレムを聖地とは考えていませんでした。彼らはここを「ベイト・ハミクダシュ(神殿)」というヘブル語に由来する「バイト・アルムカダス」という呼び方で呼んでいました。また紀元692年には、神殿の丘に建てられた岩のドームでの儀式は月曜日と木曜日(ユダヤ人にとっての聖なる曜日)に行われ、イスラム教の聖日である金曜日には行われていませんでした。そこでユダヤ人たちがこれらの儀式に出席し、イスラム教ではなくユダヤ教の儀式様式が取り入れられることになったのです。

紀元1019年以降に書かれた『ハディース』(イスラム教の経典のひとつ)では、エルサレムとイスラムとの関係が“賛美”されています。メッカ、メディナ、ダマスカス、そしてバクダッドを賛美する内容を含んだハディースはそれ以前に出版されており、イスラム教におけるエルサレムの神聖化は、かなり後代になってからの現象であることがわかります。

イスラム世界がエルサレムを首都と考えたことはこれまで一度もありません。合計すると1000年以上にもわたる長い期間、次々にエルサレムを支配したイスラムの支配者たち、たとえば、アラブ、セルジューク、マムルーク、そしてトルコなどは、彼らが海岸平野に建てた町・ラムレにその政治的中心を置き、エルサレムを首都と定めることはありませんでした。

次号のイスラエル・ティーチング・レターでは、「エルサレムの重要性を理解するための『15の鍵』」の残る7つについてお分かちしたいと思います。以下のような内容でお伝えしていきます。

  • エルサレムはイエス(イェシュア)にとって重要であった
  • エルサレムは神によって遣わされた贖い主の都
  • エルサレムは私たちの賛美と賞賛を受けるに値する
  • エルサレムにはユダヤ人住民が絶えることがなかった
  • エルサレムは聖書預言の起点となる場所
  • 私たちの祈りの焦点となるべきエルサレム
  • やがて来る新しいエルサレム

今月エルサレムを覚えるとき、どうか次のみことばの命令を忘れないでください。
「エルサレムの平和のために祈れ。おまえを愛する人々が栄えるように。」(詩篇122:6)

それではまた来月。

エルサレムからシャローム

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