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ティーチングレター

献身、礼拝、そして敬虔

BFP編集部 2000年9月

福音書の中に、二人の女性がイエス(イェシュア)の頭と足に貴重な香油を注ぐ場面がそれぞれ書かれています。非常に高価な香油を惜しげなく注いだこの女性たちは、どちらのケースにおいても「無駄遣い」だという非難を受けました。マルコの福音書の記述では(マルコ14:3-9)、石膏の壺に入った純粋なナルドの香油は1年分の収入に匹敵することが書かれています。しかし彼女たちは、イスラエルのメシアであったお方に対する献身と信仰の証としてこの壺を壊し、香り良い油を注ぎ出したのです。

オリーブ山東に位置するベタニアの癩者シモンの家で起こった同じ出来事についての二つの証言を、マタイの福音書26章6節から13節マルコの福音書14章3節から9節で読むことができます。ここに書かれた女性は、壺を壊してイエスの頭に香油を注ぎ出しています。それを見た弟子たちは、香油を売れば貧しい人々を助けられたのに、と彼女を責めました。もちろん、これは彼らの側から見れば高貴な言動と見てもよいでしょう。しかし、イエスはこの出来事をとおして二つのことを教えられました。

一つは彼、イスラエルの大いなる神のメシアが、このように人前で献身の証を受けるのにふさわしい者であるということです。彼は言いました。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」(マルコ14:6-7)

二つ目は、弟子たちにご自分がもうじき殺されることを話されたのです。自分が彼らといつまでも一緒にいられないこと、そしてこの油注ぎが自分の埋葬の準備であることをイエスは語られました。「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(マルコ14:8)

イエスはこの行為にとても感じ入り、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)と言っています。実にそのとおり、過去2000年の間、彼女のしたことは語り継げられてきました。

もう一つの記述はルカの福音書7章36節から50節に見出せます。ここでイエスは、あるパリサイ派の人の家で招待客としてテーブルに着いていました(当時は寝そべるようにして食卓に着いた)。そこに罪人として知られる一人の女が、石膏の壺に入った香油を手に部屋へ入ってきて、イエスの足元にひざまずき、泣きながら自分の髪で彼の足を拭い、香油を注いだのです。ここではパリサイ人が、もしおまえが預言者ならそれがどういう女かわかるはずだ、と非難と侮辱のことばを投げかけました。イエスはこの男が考えていることを知っていましたから、振り向いて彼を叱られました。

イエスはこのパリサイ人に、同じ金貸しから500デナリと50デナリの借金をそれぞれ帳消しにしてもらった人が二人いて、どちらの人のほうがより感謝し、その金貸しを愛するかと尋ねました。パリサイ人は、多く借りていたほうだと答えました。するとイエスは、この女性がしたことは罪が赦されるための彼女の献身の表れであり、彼女の罪を赦す力がご自身にはあることを示されました。

当時、一般的に行われていた来客に対する礼儀をこのパリサイ人が示さなかったこと、ご自分が到着したときに足を洗うための水も用意せず(44節)、両頬への挨拶の接吻もしてくれず(45節)、頭にオリーブ油を塗ってくれなかった(46節)ことをイエスは述べ、それに比べてこの女性が彼の足を涙でぬらし、キスで覆い(足にキスをすることは最も謙遜な姿勢でした)、非常に高価な香油を注いでくれたことを指摘されました。

中東の文化では、足は体の中の最も卑しい(低い)部分と考えられ、足を洗うことは今日においてさえ、相手に対する心からの謙遜と仕える姿勢を表すしるしです。事実、皆さんが今日のベドウィンのテントを訪問するなら、主人のほうに足の裏を向けて、地面にべたっと足を伸ばして座ることは非常な失礼に当たり、してはいけないことを知るでしょう。

自己の正しさを証明したいパリサイ人は、イエスを試すために家に連れてきていたので、しかるべき礼儀を示さなかったのです。しかし自分の罪深さに気づいたこの女性は、謙遜な、主をあがめる姿勢で赦しを求めに来たのです。イエスは言われました。「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(47節)

イエスは、あなたの信仰があなたを救ったのだ、安心して行きなさいと彼女を送り出し、彼のことばにこだわり続けるパリサイ人が後に残されました。

彼女たちが深い献身を示す行いをしたことを、私たちの誰もが認めるでしょう。事実、壺の中の香油を注ぎ出す唯一の方法は壺を壊すことでしたから、それをしたということだけでも彼女たちの捧げる心がどれほど深いかがわかります。彼女たちにとって高価な値を払ったこの行いは、主への完全な献身を表していました。

壺は一度壊せば元には戻らず、油も戻りません。そして彼女たちのこの全き献身を表す行いは、どちらの場合も人々から批難を受けました。一方では女性を非難したのは信者でしたし、もう一方の場合は世の宗教的指導者でした。

主に年収を捧げ、同時にその完全な愛の行いのゆえに人々から(教会の人々からさえも)非難されるほどの献身の覚悟が私たちにあるでしょうか。

このことについてもう少し、私たちのための結論を引き出してみることにしましょう。

聖別と献身は1セット

以前、お届けしたイスラエル・ティーチング・レター「ヨシュアの挑戦」で、約束の地へ入っていく前にイスラエルの子らが自分たちを整えたことがいかに重要であったかを学びました。成功の約束は神さまからすでにいただいていましたが、約束の地を征服するために、自ら出て行って戦うことが彼らにはまだ残されていたのです。

彼らは自分たちを聖別し、心を新たにしなければなりませんでした。過去の歴史は何の頼りにもなりません。ヨシュアは人々に言いました。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」(ヨシュア3:5)

神さまは彼らのうちで驚くべき働きをなしてくださいました。聖別するということは聖であると宣言すること、世のものから離れて主に仕えるためにすべてを捧げることです。

聖別はまた「聖であること」です(訳注・こういう神学用語はよくわかりませんのでどなたか先生に見ていただいてください)。私たちのうちに、自分を主の御前に聖別したくない人、主の御前に聖とされ、与えられた召しを達成したいと思わない人はいるでしょうか。神は言われます。「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。」(レビ11:44)

しかしこれには訓練が伴い、払うべき代価があります。

さて、今月のイスラエル・ティーチング・レターでは、聖別・献身・崇敬・敬虔の近い関係を学んでいきたいと思います。これらのつながりを持つ概念は、私たちが主とともに進んでいく歩みの次のステップです。私たちが一旦救いを受け、聖くなるために世から別れて、主のものとして自分を聖別する歩みの第一歩を踏み出したなら、今度は私たちの素晴らしい天の父、神さまとの関係の中で時を過ごしつつ日々を歩んでいく必要があります。献身・崇敬・敬虔とは、神さまをはじめ自分や他の人々の前で、神さまが永遠に変わらない愛のお方であり、それが私たちの生きる焦点であるということを現す行動です。

では、献身・崇敬・敬虔とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。献身とは、私たちにとって重要な物事に対して、私たちの注目と活動を集中させる行動です。神を信じる者としては、献身あるいは注目と活動を集中させる対象は神さまであり、私たちの生き方によって神さまに栄光をお捧げするべきです。それは毎日24時間、神のご臨在の中に保たれた生活を意味します。

神を愛することは崇敬または礼拝と呼ばれ、どちらも個人的・私的なものといえます。さらに述べるなら、神を礼拝するとは、単に讃美歌を歌い、祈り、主を賛美することを指すのでなく、私たちが日々の生活で話したり行なったりすることすべてに含まれるのです。そうでないものはすべて空しい偶像崇拝です。

私たちが生活において継続的に神を敬う姿勢を表すとき、他の何をおいてもまず主を礼拝するとき、また他の人々が私たちの敬虔や献身を見るとき、そこに忠実や誠実が現れているなら、敬虔は私たちのうちから結果として現れるものなのです。

ヘブライ文化における敬虔と献身

キリスト教の土台であるユダヤ教は、敬虔を人の最大の徳としています。『ミシュナー』に書かれているツァディック(義人)とは、私たちが仕える神が造られた世界をよりよく保つために貢献する者と考えられています(アヴォット5:1)。事実、ナハマニデスは「神の許しの範囲内で自分自身を聖別しなさい」と言っており、これは、つまり神の律法を犯さないだけでは不十分で、主の御前に神の律法が神聖とされることの証を自ら活発に求めていくべきだという意味です。

言い換えるなら、単に悪を行わないように慎むだけでは不十分であって、いつも良いことを行う準備をしているべきだということです。神に仕えることへの完全な献身は、シナゴーグ(クリスチャンには教会)の中にいる間だけのことではなく、生活のあらゆる分野にまで行き渡っているべきなのです。これは私たちが神との正しい関係の中にいるときのみ実現されます。

敬虔を志すとは、自分自身の人生と共同体自体を世から聖く別つことであり、そこから離脱することではありません。ユダヤ教においては、周囲の環境や社会から分離する意味での禁欲主義や修道生活を促すことは比較的少ないといえます。彼らにとって人が神と向き合うということは、孤独になって自分の内部を見つめるという方向へ突き詰めて走っていくことではなく、むしろ聖い共同体の発展に参加することが主体となっているのです。タルムード的解釈によれば、トーラー全体の究極的目的は平和の促進、つまり社会の向上に貢献することなのです。

これまでの歴史において、しばしばキリスト教ではこのユダヤ的ルーツとは対照的な思想を発達させ、世からの離脱と禁欲的・修道的ライフスタイルが敬虔さや義人を表す模範とされてきました。今日でもユダヤ荒野の岩肌には、以前クリスチャン隠者たちが住んでいた洞穴が、何百も点々と口を開けているのを見ることができます。もちろんイエスがなさったように、ある期間、天の御父と時を過ごし、御声を聞き、自分への召しを確認するために一人出て行くのは良いことです。しかし最終的な目的は、人々の中に戻って神が私たちのうちに何をしてくださるのかを証し、人々を主のもとに導くために働くことであるべきです。

偉大なラビ・マイモニデスは、その著書『ミシュナー・トーラー』で真の敬虔について以下のように述べています。「人が神の偉大さとその素晴らしい御業について深く思いを巡らせ、神の無比無限の知恵のひらめきを獲得するとき、その人はただちに主を愛しあがめるでしょう。……『我が全存在は生ける神を慕い求める』とダビデが言ったように。」(イェソドハ・トーラー2:2)

ユダヤ教における献身と崇拝の強調点は、神の律法を口先だけでなく実際に行うことに置かれています。何年も前、イスラエルのアメリカ系ユダヤ人委員会名誉監督だった故バーナード・レズニコフ博士と話したときのことを私はよく覚えています。ユダヤ・クリスチャン関係の相互理解を深める働きの指導的存在であった彼は、世界中で出席した数多くの異教徒間カンファレンスについて意見を述べてくださいました。「ねえ君、ああいった集まりでクリスチャンたちが教義について何を信じるかあれこれ議論を戦わせているのを見て、私はいつも驚かされたものだよ。ユダヤ教では自分たちが何を信じるか論じ合うことなどあまり重要ではないんだ。我々にとって重要なことは、一人ひとりが何をしているのかということなんだ。言い換えるなら、我々の信じるものが生き方そのものにどのように映し出されているのかということさ。私は仲間のユダヤ人たちが、ある律法を生活の中でどのように行なっているのかが知りたいんだ。もし彼がそれを行なっていないのなら、彼がそれをどう信じているのかは私にとっては重要ではなくなるのさ」

私の良き友で師でもある正統派ユダヤ教徒のバーニーは、神のみことばを行うということについて多くを教えてくれました。しばしば彼はヤコブ書1章22節から25を引用します。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」

ユダヤ教では、神の律法を重荷ではなく祝福と見ています。神の律法を表すヘブル語はハラハーです。その語根ハラクの意味は、歩むこと、あるいは「道」です。ユダヤ人たちは、神が自分たちを豊かに愛されるがゆえに、日々喜んで歩み生きるための定式として律法を与えてくださったと受け取っているのです。

ユダヤ的新約聖書における敬虔と献身

クリスチャンにとっても、信仰と行いは同時にあるべきものです。私たちすべてにとって信仰の行いは心から進んでするべきもので、そうでないなら義務的な律法主義になってしまいます。

“ユダヤ的新約聖書”はユダヤ人の本であり、もちろんヤコブによって書かれた次のみことばにその考えを帰するものです。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:14-17)

そうです。私たちは神の恵みによって、信仰により救われました(エペソ2:8-9)。しかし、もしその信仰が真実なものであるなら、私たちの生活にその実が現されるべきです。助けを必要とする兄弟に対して、本物の助けではなく口先だけの気安めを語る人を、死んだ信仰を説明するものとしてヤコブは描いています。ヤコブは、非常にユダヤ的・ヘブライ的なやり方で、信仰の学びと敬虔は私たちが周りの人々へ表す愛と親切の行いにも現れるべきであると言っているのです。つまりそれは、私たちのうちに存在する神の愛が人々に対して現わされていくことだからです。

クリスチャンの世界には献身・崇敬・敬虔を、ただ主の足元に座し礼拝を捧げ、限りなく主のご臨在に浸っている状態とする傾向があまりにも強くあります。事実、クリスチャン辞典では「デボーション(捧げる)」という用語を、日々主との静かな時間を過ごすことと説明しています。もちろんこのことも私たちの主への献身を示すことの一部ですが、しかしまた、私たちの生活の隅々にまで主のご臨在が伴っていることが日々の行いからも映し出されるべきです。私たちのうちに神さまが運んでくださっていることが行動となって現れ出るべき場所は、日常生活全体なのです。

自分たちはくだらない世俗を超越した存在だ、という思いにあまり強く捕らわれ過ぎないように気をつけるべきです。山の頂上から見下ろしてばかりいないで、下りてきて谷間の庭園で憩うときも必要です。多くの人はマルタとマリヤの話を、マリヤは主の足元に座って主の一言一言にじっと聞き入っていたのに対し、マルタはイエスをもてなすために忙しく心配していたと読むでしょう。マルタがイエスのもとへ来て、マリヤに手伝うよう言ってくれと頼むと、イエスはこう答えます。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)

私のように活発で活動的な性分の人間でも、マリヤが良い選択をしていたことに賛成できます。主のご臨在の中で恵みに浸ることを尊重しない人が私たちの中にいるでしょうか。もちろんこれは「良い選択」です。このときマルタも、マリヤとともにイエスと一緒にいることを選択すべきだったことを私も信じます。主がそこにいましたから、家の中をあれこれ忙しく走り回るのをやめて耳を傾けるべきときだったのです。

しかし一方で、私たちの周りにはしなければならないことがたくさんあります。神の国においてもです。神の国も前進していきますし、協力や助けを必要とする多くのものが存在するのです。

この聖書箇所は、パリサイ人シモンの家におけるイエスの食事と対にするとき、バランスが取れると思うのです。私たちが極端に片寄らないためにはバランスが大切です。パリサイ人シモンの家では、彼が果たすべきことをしなかったことに対してイエスは叱責されました。マルタには座って聞きなさいとおっしゃいました。いつ準備や行動をすべきで、またいつ静まって聞くべきかを教え導く聖霊さまの薬が私たちには必要なのだと思います。

神が教えられたことを出て行って人々に伝えるためには、熱心に神に耳を傾け、整えられ準備されなければなりません。神から学んだことを自分たちの行動や行いで表すことも必要なのです。私たちは現世を否定してあまり現実から遠ざかり過ぎてもいけませんし、また御国のためにあまり忙しくし過ぎてその神を忘れるほど頑張る必要もないのです。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ

献身・崇敬・敬虔は、あなたのすべてをもって神を愛する行いです。神の戒めの中で何が一番大切かとパリサイ人に聞かれて、イエスはこう答えました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31)

マタイは、このイエスのことばの締めくくり部分を「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:40)と結んでいます。

神を愛し主に献身するためには、主のご臨在の中で恵みを受けることと隣人を愛する行いとの間でバランスを取る必要があります。すべての律法と預言者がこの二つの教えにかかっていると主が言われたのは、神の教えはすべて、私たちが神の御前と隣人たちに対してどのように振る舞えばよいのかを教えているからです。

この二つの教えを聖霊さまの力で行うことができるなら、私たちはいつでも正しいことを行えるのであって、どうすればよいのかを具体的に記した教えの書も必要でなくなります。しかし、私たちはつまずきやすい肉を着た人間なので、豊かな人生を送れるように与えられた、詳細な教えを必要とするのです。

モーセは、ユダヤ教で最も重要なもののうちに入る、他の基本的な教えをイスラエルの民に語っています。それは申命記10章12節から13節において見られます。「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」

これを行うためには一心に主を求め、捧げる姿勢が私たちの側に要求されます。ダビデは次のように言っています。「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:1-3)

詩篇42篇1節から2節にはこうあります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」

聖書の中で、聖霊さまが冷たい泉の水にたとえられているのは興味深いことです。イスラエルの地に住み、乾燥したユダヤ荒野を歩くと、なぜそうたとえられるのかが容易に理解できます。

この荒野にはアイベックスが住んでいます。ある暑い夏の日に、エイン・ゲディの泉を目指している一頭のアイベックスに出会いました。そのアイベックスが、冷たい泉の水でゆっくり喉を潤すことを期待しているのをひしひしと感じることができました。私たちが神と時を過ごしてリフレッシュされることを熱心に求めるときも、このような憧れと期待をもって臨むべきです。内から湧き出るこの憧れが、神に対する私たちの献身の深さを映し出すのです。

これは私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか?

私たちのうちに、主に献身する生き方を成長させていく必要のない人はいません。教会の中でマリヤ的な性質を持つ人々のうちには、もう少しマルタの性質を持つべきである人もいるかもしれませんし、その反対もあるかと思います。私が言いたいのは、私たちの霊的生活にはバランスが必要であること、そして聖書を読むときや祈ったり賛美するときに私たちを萎縮させて視野を狭くする、たとえば「デボーション」などのことばに対するクリスチャンの狭い伝統的概念に気づくべきだということです。

この学びによって、神に献身するということは、私たちの歩みが常に私たちの内なる神を映し出すべきものであることが理解できたと思います。主のご臨在はいつも私たちとともにあり、それが周りの人々に現され、あふれ出ていくべきなのです。

デイビッド・ウィルカーソンは、その著書『ただキリストを求めて』(角笛出版)の「イエスのご臨在を現わす」という章で、ちょうどこのことについて取り上げています。

私たちのキリストへの愛は、私たちのことばや行いに現れているべきです。ヨハネの福音書14章21節には、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」とあります。

「現わす」とは、「輝く、ほとばしり出る」ことを意味します。それは私たちがキリストのご臨在を放つ道具や管になるべきことを意味しているのです。ウィルカーソン牧師は言っています。「教会はよくこう祈ります。『おお、主よ。あなたのご臨在をお送りください。私たちの真ん中に来られて、私たちの上に下り、私たちに働きかけ、ご自身を私たちに現してください』と。しかし神のご臨在は単に『下られる』だけではありません。ご臨在とは、突如として天から下って教会に集まっている人たちを驚かせたり、圧倒したりするものではありません。私たちはキリストのご臨在を、神が空中に吹きかける見えない煙のように考えているようです。旧約聖書に書かれている、祭司たちが立って仕えることができないほど神殿に満ちた栄光の雲のように考えているのです。私たちは今日、あまりにも簡単に自分たちの体が主の宮であることを忘れてしまいます(第1コリント6:19)。キリストは建物や特定の空間に住んでおられるのではありません。実に諸々の天でさえ、主を閉じ込めることはできないのです。かえって主は私たちの従順と聖められた体を通してご自身を現されるのです。そこが主の宮なのです(第2コリント6:16)

「イエスを愛している」と言いながら従わない人たちには、イエスはご自身を現されないのです。イエスのご臨在を見るところではどこでも必ず、神の民の中からほとばしり出る顕著なしるしが少なくとも五つ見られるでしょう。

  1. 神の民には、深く、強い、罪の自覚が見られます
    聖なる器がイエスのいきいきとしたご臨在を実際に現わし、聖なるご臨在が従順な心からあふれ出てくるところでは、自分の心の中に罪を抱いている人は二つのうち、どちらかの行動をとるでしょう。くずおれて罪を告白するか、逃げて隠れるかです!
  2. 神の民には、罪を滅ぼす力が現れています
    あなた自身の中に罪を憎む思いが強くなり、怠慢に対する罪の強い自覚を覚えて極度の罪意識が深まるまで、本当の意味でのイエスのご臨在を味わうことはないでしょう。キリストのご臨在を味わっていない人たちは、だんだんと罪の自覚を失っていきます。そして主のご臨在から身を引くにつれて、より図々しく傲慢になり、妥協による気楽さを感じるようになるのです。私たちは主とともにいることによって変えられ、聖められなければなりません。
  3. 神の民には、聖い御霊が現れています
    本当の聖さには、その背後で働く霊があります。イエスのご臨在が神の民の中で、あるいは民の間で働いているのが見られるところならどこでも、従順やこの世からの聖別、汚れたことからの絶縁以上のものを見つけ出すでしょう。あなたは従順の霊に気づくことでしょう。この霊を持った人たちにとって、従順はもはや正しいことをして間違ったことをしないということだけではありません。主を喜ばせることを喜びとしている信徒の上には霊が留まり、その霊は自動的に彼を光へと導きます(ヨハネ3:20-21)。隠れた罪を心に抱いている人たちは、よこしまな霊に取りつかれているのです。これは戒めを嫌い、人の目に隠れている堕落を覆い隠そうとする霊です。聖められた人は神のご臨在の光を恐れません。
  1. 神の民は、明らかに主の重荷をともに負います
    使徒パウロほど、主の重荷を主とともに背負った人はいません。イエスはご自身の心のくびきをパウロの肩に置かれました。それはキリストのご臨在としての明るい太陽に出会うことによってでした(使徒9:3-4)。そして彼は福音のために命を捧げ、多くの危険な目に遭いながらも、死んでいく世界に神のことばをもたらしたのです。私たちが霊的に成長していくとき、またそれによって私たち自身が変えられていくとき、教会いっぱいに人々が集まるようになります。そして神が示される他の人々にも同じ恵みを分かち合うために、自分自身が満たされて神のご臨在があふれ出るようになることを期待するのです。
  2. 神の民にはあふれるばかりの、桁外れの大きな喜びが現れています
    私たちには、喜びに満たされるように十分な恵みが与えられています。しかし、使徒の働きに書かれたステパノのように、たとえ逆境にいるときでさえも私たちは神の喜びを現すことができます。彼は、自分を殺そうとするエルサレムの宗教的勢力の前で、詩篇16篇から大きな喜びを現したのです。この詩篇によって、死が彼をつかむことはできない(6節)ことを彼は知っていました。たちが困難なときにも主が私たちの右手におられて、私たちを助けられることを彼は知っていました(8節)。神は彼の、そして私たちの魂を陰府に渡すことがなく(10節)、神の臨在そのものが私たちを喜びで満たす(11節)ことを彼は知っていました。この知識が得た今、地獄から救い出されて永遠のいのちを約束され、地上でのすべての困難なときにも主のご臨在が現されることを保証された私たちには、主に喜び叫ぶ以外ありません。

私たちの役割は何でしょうか?

はじめに述べた二人の女性のように、私たちも高価で貴重な香油が入った石膏の壺を持ち寄り、主の御前にそれを壊して香り良き油を注ぎ出すべきです。私たちは祈りと礼拝のうちに、また日々のみことばと生活のうちにあって、主の御手に自分をゆだね、主のご臨在を求める者となる必要があります。

私たちは主にすべてをお捧げしているでしょうか。もしそうであれば、主が私たちのうちに住まわれるにつれて、周囲にいる、主に触れられる必要がある人々に主のご臨在を現す者へと私たちは変えられていくのです。

私たちは、この世から隔離して閉じこもるのではなく、私たちを取り囲む世界と人々の中にあって、塩となり光となる必要があります。イエスは言われました。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13-16)

さあ、主をあがめましょう。他の人々を主のご臨在へ導くことができるように。
エルサレムからシャローム

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