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ヨシュアのチャレンジ

BFP編集部 2000年8月

新千年紀に入った今、主に仕える者はみな「約束の地」へ入る必要があります。私たちブリッジス・フォー・ピースは、イスラエルにおいて25年以上に亘り主の働きをさせていただくことができましたが、一方、未だ多くの課題が山積されています。

私たちが生きているのは、終わりの時における救いの時代です。ユダヤ教のラビも、聖書に忠実なクリスチャンも、聖書の預言が成就し、メシアの到来が間近に迫っていることをはっきりと確証しています。

もしこれが真実なら、聖書を信じ、アブラハムの神、イスラエルの神に仕える私たちは、自分自身を聖別し、神が一人ひとりに用意されているより高い召し(約束の地)へと踏み出していくべきです。「約束の地」がどこかを知ったなら、それが自分たちのものとなることを主の御名によって宣言し、そこへ入るために備える必要があります。

これは皆様の人生へ原則としても当てはまるはずです。

2番目の最高で落ち着いてはいけません

イスラエルの民は、エジプトを出てほどなく約束の地に入ることができたはずでしたが、現実にはいつまでも荒野でぐずぐずしてしまいました。彼らは12人の偵察隊を約束の地に送り込み、報告を持ち帰らせました(民数記13:16-14:1-44)。そこは間違い無く乳と蜜の流れる地であることがわかりましたが、同時に強力で体の大きな人々が、城壁に囲まれた町々に住んでいることもわかりました。ヨシュアとカレブはその地の豊かさの証拠として、巨大な葡萄の房とともに、いちじくやざくろなどを持ち帰りました。彼らは民に向かって、「神が約束された勝利に信頼しよう」と呼びかけました。

しかし人々は恐れをなして、砂漠に留まることを選びました。否定的な報告をもたらした他の偵察隊10人は、主から送られた疫病でたちどころに死んでしまいました。この事態を見て、民はようやくヨシュアとカレブが正しかったことに気がつき、約束の地に踏み出しました。しかし、神はすでに民から去っておられ、彼らは打ち負かされてしまいました。神は彼らの自由意志を認め、40年間荒野へ追放されたのです。神を最後まで信頼したヨシュアとカレブと共に、約束の地に入ることができたのは第2世代の人々でした。

荒野に留まる選択をしたイスラエル人たちは、約束の地に入る祝福をのがしてしまいました。しかしここで注意していただきたいのは、それでも神は「夜は火の柱、昼は雲の柱」となって彼らとともに歩み続けられたことです。神は民に、マナ、うずら、水、避難所、そして決してすり減らない靴を与え続けられました。主のご臨在は彼らから離れず、彼らを祝福し続けました。残念ながら、彼らは約束された最高の祝福ではなく、それよりもかなり落ちる2番目の祝福で落ち着いてしまったのです。
あなたは2番目の祝福に落ち着いていませんか。神がともにいて、いろいろな必要を満たしてくださっているというだけでは、約束の地を受け継いでいる証拠にはなりません。あなたの約束の地とはどこ(何)でしょうか。主があなたに用意されている特別な召しに従っていこうと、あなたを決心させるものは何でしょうか。

40年間も何の目的もなく、ただ山の周りをぐるぐるさまよい続けて過ごしてはなりません。あまりにも多くの人々がたださまよっていることに満足し、たとえ主の臨在の中にいても、「立ち上がって、巨人たちとその城壁のある町々へ攻め上れ」という主のチャレンジを受け取らずにいます。確かにそれは大変な仕事です。しかし主があなたとともにおられるなら、いったい誰があなたに対抗できるでしょう。

神への捧げものとして自分自身を聖別しましょう

ヨシュア記には、40年後ついに約束の地に入る準備が整った第2世代の人々について書かれています。神さまは彼らの成功を約束してくださいました。とは言っても、約束の地を征服するために、戦いに出て行くことに変わりはありません。彼らは自分たちを新たに整えなければならず、過去の歴史に頼ることもできませんでした。ヨシュア記3章5節にはこうあります。「ヨシュアは民に言った。『あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。』」

これから敵に立ち向かうというとき、神の御声を聞き分けられるように、御前に自分自身を聖める必要があります。もし聖別されておらず、主とのチャンネルがきちんと合っていなければ、何をどうすればよいのかわからず、主に助けを求めることもできず、イスラエルの陣は混乱に陥ったことでしょう。

また、約束の地を征服するとき、神はその方法や指示を語り続けておられたので、常に御声を聞く必要があったことがわかります。神は箱に閉じ込められ、形骸化されて、儀式の対象におとしめられることを良しとされませんでした。イスラエル人たちは、どうやって敵を征服するかについて神の御声に耳を澄ませ、それを聞き取らねばなりませんでした。もし御声の指示を聞き逃せば、戦いに負けることにました。

同じように、私たちも神を自分勝手な方式や手段に引き下げることはできません。主のものとして聖別される必要があります。そうすれば常に主との対話が明確になり、滞りがなくなります。さもなければ、私たちは目の前の敵を征服することも、神が用意されている約束の地へ入ることもできないでしょう。

また、3章6節でヨシュアは祭司たちに命じて言いました。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」

たびかさなる戦いにおいてイスラエルの民が勝利を収めるのに最も重要だったことは、常に神のご臨在を保ち、与えられる主のみことばを守ることでした。これを行なったとき、増水したヨルダン川の水さえせき止められ、人々は乾いた川底を約束の地へ向かって渡ることができました。イスラエルの民にとって、紅海とヨルダン川はどちらも克服せねばならなかった障害物や障壁を象徴しています。

エリコに住むカナン人は、雨と雷をつかさどる水の神・バアルを信仰していました。川の水が増水している時期でしたから、カナンの人々は彼らの神が守ってくれると安心していました。しかしイスラエルの神は川の水を止め、この世の神々にご自分の力を示されました。これは祭司たちが完全に自分自身を捧げ、約束の地に入るための最後の障害物であった深い急流に足を踏み入れなければ起こらないことでした。

祭司たちにとって、これは一大決心を要する挑戦であったに違いありません。シナイ砂漠で育った彼らが、水泳を習っていなかったことは確かです。それは春のことで、ヨルダン川は冬の雨であふれていました(ヨシュア3:15)。祭司たちがどんな気持ちだったかご想像ください。自分ではなく、誰か別の人が最初に足を踏み入れてほしいと皆考えたことでしょう。ヨルダン川の岸辺は非常に傾斜が険しく、深く流れが急でしたから、紅海と同様神が水を分けてくださらなければ、祭司が溺れ死ぬことは確実でした。この行為には100%ゆだねる信仰が必要でした。

あなたの約束の地とは何ですか?

私たちも皆、ヨシュアとともに約束の地に入ったイスラエルの民と同じです。ご自身が創造されたこの地の贖いのために、また御国を成就するために、神は一人ひとりに特別な使命を与えておられます。私たちには、神の王国を建設する仕事が与えられています。個々の欲求を満たし、肉を満足させるために、神は命を与えてくださったのではありません。主を求め、自分の召しが何であるのかを知るように呼んでおられます。一度その召しがはっきりするなら、神はそれを心からの願いにすることができるのです。

私たちは、主の御旨に逆らって荒野に留まったイスラエルの民のようになることもできます。彼らはそれでも主の臨在に守られ、衣食住の供給を受け続けました。しかし、彼らは決して約束の地へ入ることはありませんでした。彼らは、主が用意された最高のものを拒否し、2番目の祝福で落ち着いてしまったのです。

「主を知っている」とは、主がともにいてくださることであり、その臨在の中にいるなら、主は必要を満たしてくださいます。主から与えられている最高の召しを成就するために働いているでしょうか。それとも2番目の祝福に落ち着いてしまっているでしょうか。約束の地へもう足を踏み入れたでしょうか。また、約束の地が何であるかを、祈りのうちに主に尋ね求めるために十分な時間を取ったことがあるでしょうか。

どうか私たちブリッジス・フォー・ピースとともに祈ってください。主が私たちに、そしてあなたに、さらなる使命を用意しておられると信じます。主は来たるべき神の王国達成に備え、より大きな働きを達成するために、過去四半世紀の間、私たちにこのミニストリーを与え続けてこられました。毎日の仕事を単調に繰り返す以上のことが私たちには用意されています。私たちが地上でより力強い神の証人となること、巨人たちを征服して豊かな約束の地を受け継ぐ人となることを神は望んでおられます。しかしこれは知的理性や理論による、だらだらとした会議だけでは成し遂げられません。

私たちは多くの経験を重ねてきました。また、計画を発展させ、たくさんの人々を祝福してきました。しかし、もう一度思いを新たにして主の御前に聖別され、主とのチャンネルがきちんと合うようにしなければなりません。さもなければ、神の最高のご計画を知ること、そしてそれを成就することは決してできないでしょう。

私は皆様のあら探しをしたり、まだ最高の召しを達成していないなどと非難するつもりはありません。そうではなく、たとえ最高の召しが何であるかを知ったとしても、日々自分を聖別して主に捧げ続けることなしにそれを成就することは誰にもできないと言いたいのです。

ヨシュアのように、今日再び主の御前に自分を聖別し、同僚や国家、地域そして教会や家族を助けるために、もう一度己を主に捧げようではありませんか。自分の力では不可能な業も、主にあって可能です。戦闘計画の中心に神をおき、契約の箱を人々の前に掲げる人々となりましょう。ヨシュアは契約の箱を担ぐ祭司たちに続くようにと民に命じましたが、同時に、行くべき道を知るために距離を保つようにも命じました。「あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」(ヨシュア3:3-4)

私たちも神の前に出て行き過ぎることなく、主の導きについていくことに気を配りましょう。

戦いの時代に生きる

私たちはもはや終わりの日々を待ち望んでいるのではありません。今が終わりの時代なのです。最前線に立つ者たちにとって、霊的戦いはますます激しくなり、主の再臨に反対する霊的存在の攻撃に直面するでしょう。

ブリッジス・フォー・ピースなどクリスチャン・シオニストにとっては、他のどのミニストリーよりもそれが激しいものになると思います。それは私たちがエルサレムという、特別な舞台に本部を置いていることと、終末のシナリオがそこで繰り広げられ、舞台装置係として働いているからです。ですから私たちは心して整えられなければなりません。また他の働き人や私たちの教会、そしてイスラエルを備えなければ、大いなる戦いの日が訪れたときひどい災難となることでしょう。

私たちはシオンの城壁上で見張る者の一員であり、ラッパを吹き鳴らす責任があるのです。それは困難で荘重な響きを持つ、命懸けの召しです。しかし同時に、これから起こるべき聖書の成就に関する一部分として、神が私たちを選び参加させてくださっているという、非常に心弾む召しでもあります。

「彼らにこの仕事は果たせない」と神がお考えになるなら、私たちをお選びにはならなかったでしょう。私たちは荒野に留まることを選んだ一世のようになってはなりません。勝利を得させるとおっしゃった神を信頼し、進んで約束の地に入っていったヨシュアとカレブ、そして二世たちのようになるべきです。

私はブリッジス・フォー・ピースのスタッフたちに尋ねました。「私たちは何のためにここにいるのでしょう。果物や野菜を選り分けるためでしょうか。それとも出版物を出していくためでしょうか。会計報告を出すためですか。手紙をタイプするためですか」

国際会議でも同じことを尋ねました。なぜここにいるのでしょうか。会議を開いて昨年の実績を報告し、もう一年新たにこの働きを繰り返していくためなのでしょうか。

もちろん違います。私たちがここにいるのは神さまの御声を聞くため、そして主が置かれたチャレンジを受けるためだと私は信じます。対処する力を与えないまま、その仕事をせよと主はおっしゃいません。私たちはただ主に信頼し、自信を持って戦いに出て行くべきです。

誰もが皆、与えられた位置についており、主に仕えるだけでなく、大使の役割も果たしています。つまり私たちの存在そのものが主を現し、周囲の人々に神のご性格を体現するのです。私たちの働きは、人々へ主の愛を流すことに他なりません。何よりも大切な使命は、人々を御国に近づけるために自らが神の愛を現すことです。ただ単に目の前の仕事を片づけて満足するだけであってはなりません。

ブリッジス・フォー・ピースの働きは完成への一手段に過ぎません。完成とは神の道を歩みたいと望む、周囲の人々の救い、そして贖いです。この働きを世界が必要としています。また。教会は私たちのメッセージを必要とし、そしてイスラエルは私たちの愛と和解のミニストリーを必要としています。預言者イザヤはイスラエルに対してこう預言しました。「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(イザヤ46:13)

あなたはそれぞれの置かれた場所において、主の召しを満たしていますか。贖いによって罪赦され、御側で得るものは、単に主との永遠の交わりだけではありません。それ以上です。それは信仰によって日々義に近づけるもの、素晴らしいいのちです。みことばは次のように言っています。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:12-13)

神が与えようとする召しがどれほど大きな驚くべきものであるかご存じですか。今は終わりの時であり、主の時は迫っています。このことを私は霊的に、また時代のしるしから感知しています。

終わりの日に向かって天の領域で激しさを増している霊的戦いは、目に見えるこの世の領域にも現れてくるでしょう。モーセがパロに立ち向かったときのように、サタンの魔術師たちは多くのしるしと不思議を行ってみせるでしょう。主による真の奇跡としるしによってそれらに対抗する必要があります。ここイスラエルで、使徒行伝の時代のように、主が再びご自分の栄光を現されるようになると信じます。

ブリッジス・フォー・ピースにおいては、現在よりもさらに大きな召しが用意されていると信じています。もちろん、現在の活動も素晴らしい祝福であり、継続されていくでしょう。しかし主に不可能はなく、私たちをとおしてさらに大きな働きをなしてくださると確信します。

第三千年紀への幕開けを迎えた今、主が皆様に与えようとしておられる召しは何でしょうか。どうすれば、私たちはこの特別な召しを受けるために整えられるでしょうか。

その答えこそ、聖別です。

聖別とは何か?

聖別されるとは、聖化され、聖であると宣言し、世から離れて主に仕えるために自分を捧げることです。聖別とは、主に献身することです。もちろん、牧師や宣教師などの教職に就くことだけが献身ではありません。一人ひとりが置かれているそれぞれの場において、主の御前に立つことこそが献身なのです。

もちろん、聖別され主の召しを全うするために聖く生きたいと思わない人はいないでしょう。
神は言われます。「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記11:44)

新約聖書の中でパウロはこう言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:1-2)

試練と誘惑

自分自身を主のものとして聖別しようとする努力をくじくものが二つあります。それは試練と誘惑です。

この二つについて見ていきましょう。

試練:主は信仰を試すために、試練と誘惑が人生に起こることを許されます。信仰に立っていなければ、ヨブの身に起こったような悪い状況を通して神への疑いが生じます。私たちが神の側に立つとき、多くの攻撃が来るでしょう。しかしローマ書8章28節にはこうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

人生に試練があるとき、動転する代わりにただ主にあって忍耐し、主が良い結果を与えてくださることを信じて待ち望む必要があります。試練についてヤコブはこう言っています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:2-4、12)

ヨブは言いました。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。」(ヨブ23:10-12)

誘惑:誘惑と試練は全く違います。誘惑は、肉の喜びや利益を得るために悪を行なうように誘いそそのかすことです。誘惑は主から来るものではありません。悪魔から来ます。

ヤコブは言っています。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:13-15)

主の祈りの中でイエスは言っています。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)

また、こうも言っておられます。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(同26:41)

誘惑に陥ることは神のみこころではありません。しかし主は私たちが良い弟子になれるかを見るために、人生に試練が送られることを許されます。私たちは肉の欲、目の欲、そしてプライドによって試されます。ヨハネが言っていることを聞きましょう。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第1ヨハネ2:15-17)

エバは蛇に誘惑されたました。しかし、ポテパルの妻から誘惑されたヨセフは不倫の罪を犯しませんでした。この事件で罪を問われて投獄されましたが、神はこれを用いてヨセフがエジプトの首相となる道を開かれました。ヨセフに地位があったおかげで、その地方一帯を襲った飢饉から、家族を救うことができました。主にある義の道を進んでいくなら、すべてのことが私たちの益とされるのです。

イエスは聖霊に導かれて荒野に出て行き、悪魔の誘惑を受けられましたが、罪に陥ることはありませんでした。イエスは人が受けるあらゆる誘惑を受けられましたが、罪を犯されませんでした。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

残念なことに、私たちは皆たいてい罪に陥ってしまい、神の赦しが何度も必要となります。

あなたの誘惑と試練は何でしょうか?

あなたにとっては何が誘惑でしょうか。あなたの弱さにつけこんでくる誘惑とは何ですか。私たちは生身の人間ですから、誰もが皆弱さを持っています。悪魔は必ずそういったところにつけこみ、心に誘惑を送り込んで、あなたの思いが神さまから離れるように仕向け、誘惑に陥る機会を狙っています。

しかし、パウロはコリントの人々にこう言いました。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)

もし目の前に誘惑があることに気づいたなら、すぐに向きを変え、それを避けて他の道へ行くべきです。誘惑のそばに留まって、軽い気持ちでそこに陥らないようにしましょう。

救われる以前、ポルノ雑誌を読みふけっていたある牧師からこんな話を聞きました。彼は救われてからも、ポルノ雑誌に対する思いを消すことができませんでした。そこで彼は「そうした思いが来るたびに中国の人々が救われるように祈ります」と神に誓いを立てました。するとたったの3週間ほどでその思いが消えたそうです。私たちは悪魔と馴れ合うことはできません。ヤコブは私たちに「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)と言っています。

もし罪に陥ってそれを悔い改めないなら、そこが罪の砦となります。アカンの物語(神から聖絶を命じられたものを自分の懐へ入れてしまった)をご存じでしょう(ヨシュア記7章)。彼がこっそり犯した罪が、イスラエルに悲劇をもたらしたのです。

そうです。これからも私たちは試みられ、誘惑されるでしょう。終わりまで誘惑に負けることなく耐え忍び、信仰を守り続け、主に信頼される者となれるでしょうか。私たちは皆、心ではそう望んでいます。しかし肉体は弱く、私たちの多くは誘惑に負けてしまうのです。癇癪を起こしたりイライラした態度を見せてしまうのは、試みがつらくて信仰によってうまく対処できていないことの現れです。

誘惑もすぐにやって来ます。私たちはそそのかされていないでしょうか。誘惑は肉の欲求をくすぐりますから、頭の中で想像したことは、実際に行動にも起こしてしまいます。誘惑から来る欲求を満たすとき、それは罪となります。

しかしもう一度思い出していただきたいのは、私たちが対抗できないほどの誘惑を、神は許されないということです。つまりどれほど魅力的な誘惑がやって来ても、主の愛の中に避難するなら、罪を犯すことなく勝利することができるのです。

神のくださる武具で完全に装備しましょう

私たちには主のためになすべきことが本当にたくさんあります。イスラエルの民に向かって「自分たちを聖別しなさい」とヨシュアが説いたのと同じく、私たちも日々聖別されるべきです。パウロはエペソの教会に次のように書き送りました。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:10-18)

壁に吊るした鎧をサビつかせるのではなく、ピカピカに磨いておきましょう。あなたの鎧兜はどんな状態ですか。手入れを怠り、すぐには使えない状態ではありませんか。タンスの奥の奥にしまわれて、忘れられてはいませんか。毎朝、必ず身につけられるよう、しっかりときれいに磨いて掃除しておきましょう。

神に近づき、障壁を除きましょう

ヤコブはこう言っています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7-8)

神が去ってしまわれたと思うとき、それは神ではなくあなた自身が神から離れているのです。自らを整え聖別するために、主の御前に出る時間をゆっくりと取る必要があります。

クリスチャンにとって聖餐式は契約の食事です。罪を赦し、ご自分のものとして私たちと和解するために十字架で払ってくださった、その犠牲の大きさを思い出させるものです。イエスは言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

私たちがどのような状況に置かれていようとも、主に向かって扉を開くなら、主が入ってきて和解してくださいます。事実、私たちがどんなことをしてしまったとしても、ご自分のもとへ取り戻し、和解することが神の望みなのです。

今こそ信仰の武具を磨き上げ、主の軍隊に参加するために準備しましょう。戦いの日は迫っています。イラクと対戦するためにサウジアラビアで何カ月も訓練し準備を整えた米軍のように、私たちも準備しなければなりません。指揮官が戦闘開始の時を告げるまで、兵士たちは毎日銃を掃除し、戦いの服装に身を包み、物資を準備し続けました。このように自分自身の信仰を磨き整え、準備していますか。今日が戦いの日だとしても間に合いますか。自分に対して心から準備OKと言えますか。

今こそ支度を整えましょう。主の御元に近づきましょう。主の食卓に着いて、正直に試練に負け、誘惑に陥ってしまったことを告白しましょう。神の赦しを得られないような罪はありません。
また、自分の問題のために他者を責めることができないことを思い出してください。サウルは自分の罪をいつも他者になすりつけたので、神は彼への油注ぎを取り上げてダビデに与えました。一方、ダビデはサウルよりも、また私たちの誰よりもひどいことをしましたが、神は彼をみこころにかなう者と呼ばれました。何がサウルと違ったのでしょうか。ダビデは、「私は罪を犯しました。主よ、ごめんなさい」と言うことができたのです。サウルにはそれが言えませんでした。

主の御前に自分をもう一度吟味し、周囲の人を責めたりしないで「ごめんなさい」と主に赦しを求めましょう。主に走り寄り、その声に聞き従うなら私たちは立つことができるのです。

ヨシュアがイスラエルの民に言ったように、私も皆様に言います。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」(ヨシュア3:5)

準備はできていますか?

イスラエルの祭司たちが契約の箱を運んだように、あなた自身を聖別し、川の流れに足を踏み入れましょう。川が、約束の地に入るために乗り越えるべき障害だったことを思い出してください。この川は、神が生活の中で私たち一人ひとりに用意された、約束の地へ入るための障壁を表しています。しかし、祭司たちのように完全に自分をゆだねて川に踏み込んでいくなら、その障壁は取り除かれます。

主は献身と信仰をご覧になり、そのうえで私たちのために働いてくださいます。半分だけ信じるのでは満足されません。つま先だけ水につけただけでは満足されません。祭司たちのように、思い切ってすべてをゆだねるべきです。神があなたに求めておられることが何であるのかを知って決意を固め、信仰によって水の中に踏み込み、神が何をなしてくださるのかを見ましょう。

神は、守るべきいくつかのアドバイスをヨシュアに与えられました。まず、「『わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。』」(ヨシュア1:2、3)と言われました。私たちも過去の栄光に留まろうとせず、立ち上がってヨルダン川を渡るべきです。

主のために踏み出すとき、神がヨシュアに与えられた約束が私たちにも必要となります。「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:7、9)

主が用意してくださった約束の地に入るために、そこに至る道をも主は用意してくださいます。究極的な召しと使命を果たすために信仰によって歩み出すなら、その途上にある障壁は乗り越えることができるのです。神がその障壁を取り払ってくださいます。そしてその障壁こそ、すべての歩みの中に神が必要であることを、思い出させてくれるでしょう。

主のために信仰による歩みをする準備を、“今”始めましょう!

エルサレムからシャローム

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