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ティーチングレター

らくだを飲んではいけません

BFP編集部 2000年7月

聖書を読んでいて何を意味するのかわからない箇所にぶつかって、呆然としたり、イライラしたことはありませんか。受洗したばかりの10代の頃、新しく生まれ変わった喜びに満たされた私は、一生懸命、新約聖書を読み始めました。そして意味がよくわからない箇所を小さなノートにメモしました。私はみんなに、「天国に行ったとき、神さまに質問するんだ」と冗談を言っていました。

なぜ聖書の中にはあいまいで意味のわかりにくい箇所があるのでしょうか。実は、それにはいくつかの理由があるのです。

  1. 時として聖書の著者は、限られた表現方法の枠を外れた、心の中で想像したイメージを用いて表現しています。
    (例)「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」(マタイ23:24)
  2. ヘブル語特有の慣用句的表現が用いられている場合があります。それが他国のことばにそのまま字義どおり訳されると意味を失ってしまうのです。たとえば、日本語には「道草を食う」とか「耳にタコができる」などの慣用句がありますが、それをそのまま英語に訳しても意味が通じないのと同じです。
  3. 単に翻訳が正しくなかったため、本来の意味が消されてしまうということもあります。

新約聖書を30年以上学び続けてきた私は、これらの一見して意味不明な箇所の本来の意味を知ることができました。そして今では、新約の福音書は決して難解で謎めいた本として書かれたのではないと確信しています。そもそも最初に新約聖書が書かれたときは、みことばは非常に率直でわかりやすい文章でした。ご自分の言わんとすることを私たちがはっきりと理解し、約束されている豊かな人生を生きることを神は望んでおられるのです。

問題は、2000年間の時の隔たりに加えて、新約聖書の地から遠く離れて暮らしていること、聖書が書かれた時代とはことばも文化もすっかり違ってしまっていることです。しかし労を惜しまずに調べれば、理解するのが難しく感じる箇所においても、その本来の意味を見つけることができます。天国に行くまで待たなくても意味を知ることは可能なのです。

このことをよく理解していただくために、上記のみことばの例を用いて、本当に謎が解明されるのか調べていきましょう。

ブヨはこして除くが、らくだは飲み込む

「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」(マタイ23:24)。これはイエスのおっしゃったことばです。いったい何を意味するのでしょうか。主が何を言っておられるのかを判断する前に、まず全体を見てみましょう。

このみことばはマタイの福音書23章で、イエスが律法学者やパリサイ人に対して彼らの律法の守り方が間違っていると叱り、七つの呪いを告げている場面で語られたものです。

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」(マタイ23:23-24)

パリサイ人は、自分たちが律法規定を細かく守っていることを誇りにしていました。事実、あまりにもそれを誇りとしていたために、自己正当化が彼らの証印となっていたほどです。彼らは律法の細部にこだわり過ぎて、もっと視野を広げなければ見えない、より大切なことをしばしば見落としていました。

ここでイエスは、彼らがはっか、いのんど、クミンなどの、些細なハーブに至るまで10分の1を納めて律法を守っていることを取り上げています。律法にある「什分の一の捧げ物」についてイエスは言われているのですが、果物や野菜、穀物に比べて、ハーブは全く取るに足りない微々たるものです。事実、ハーブを什分の一に入れるべきか否か議論されたほどです。ですから律法学者やパリサイ人はハーブの什分の一を納めることにより、自分たちがいかに(おそらくは求められている以上に)律法を守っているかを見せびらかしていたのでしょう。

イエスは、ご自身が律法を守られたように、誰に対しても律法を守ることをやめるようにとは勧めていません。イエスは言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)

では、イエスはなぜ彼らを非難したのでしょうか。それは律法学者やパリサイ人の律法の守り方に問題があったからです。彼らが律法をよく知っており、人々に教える立場にありながらそれを正しく守っていないことにイエスは憤慨されたのです。七つの呪いを告げる前にイエスは言われました。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:2-3)

過ちの一つは、彼らが律法の最も小さな点にまでこだわりながら、イエスが言われた律法の中ではるかに重要なもの、すなわち「正義もあわれみも誠実も」おろそかにしていたことです。彼らは物事を正しいバランスで広く見渡す視野を失っていたのです。

イエスは語りたいポイントをさらに強調するために、彼らの行いを「ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます」と表現しています。これは何を意味するかおわかりでしょうか。

イスラエルの民は、特定の「汚れた食物」を食べることを神から禁止されていました。空を飛ぶ昆虫もその中に入ります(レビ11:20)。ブヨは不浄な生物の中では最も小さなものの一つです。

また、神はイスラエル人に対して、もし水などの飲料目的の液体が入った瓶や壷の中に死んだ生き物が入ってしまった場合、それは汚れたものとなり、その器は砕かれなければならないと言われています(レビ11:33)。ですから、葡萄の実をつぶした汁を瓶に集めるときには、瓶の口に布をかぶせてこします。そうすれば種やカスだけでなく、すべてを台無しにするブヨなどの虫を防げるからです。イスラエル人は誤って汚れた飲料を飲み、主の律法に逆らうことがないように、文字どおりブヨをこし取っていました。

逆に、食べてはいけない最も大きな動物の一つはラクダでした。「しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。」(レビ11:4)

律法を守っている人で、ラクダを食べようと考える人は一人もいませんでした。しかしイエスは、律法学者やパリサイ人が律法を正しく守っていないことを指して、不浄な中でも一番ちっぽけなブヨはこし取りながら、同時に汚れたラクダの肉を飲み込んで(食べて)いるとおっしゃったのです。

この表現は要点を鋭く突くために用いられたものです。ブヨを食べないように気をつけていても、ラクダを食べていたなら律法全部を犯していることになるのは誰でも知っています。律法はすべてを守らなければ意味がないからです。一つのことを守っても、他を破ることですべてが無駄になってしまうのです。

パリサイ人と同じ罪

このことをとおして、イエスは「最も小さなハーブに至るまで什分の一を納めていることは賞賛すべきことだが、正義やあわれみ、誠実を守らなければ、律法学者もパリサイ人も主の御前に聖いとは認められない」とおっしゃっています。後者を守らないことは本当に空しく、死んでいるのも同様です。それはまるでラクダ肉のハンバーガーを食べながら儀式的に果汁100%の葡萄ジュースを飲み、自分は大丈夫だと安心しているようなものです。実際には大丈夫ではありません。

私たちクリスチャンも、自分は何もかもうまくいっているとうぬぼれる前に、他のクリスチャンを指差して批判したり、つまらないことで他人のあら探しをしていないか考えてみてください。ある人はわざわざ出て行って、ひどいときには公の場で他者の過ちを正そうとします。そして、しばしばそのことで人々をひどく傷つけます。そうしたクリスチャンが「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)の御霊の実を結んでいることはごくまれです。

私たちはこの罪を犯していないと言えるでしょうか。これはパリサイ人の犯した罪と同じものであり、主イエスが、兄弟の目のちりを気にするより、まず自分の目の梁をどけなさいとおっしゃったことと同じです(マタイ7:3-5)。

イエスはパリサイ派のある人々を「盲目の導き手」と言われました。なぜなら、「これこそ神の御前にある、本物かつ完全無欠な聖い生活だ」と言っていた彼ら自身の行ないが偽りだったからです。彼らには自分自身の過ちが見えませんでした。傲慢と自己正当化の生き方が、思いやりに欠けた律法主義的な行為を生み出し、それが貧しい人々を真の義人に導くどころか、逆に遠ざけてしまったのです。

ここで注意していただきたいことは、「ブヨはこしてラクダは飲み込む」罪を負っているのはパリサイ人や律法学者だけではないことです。すべてのクリスチャンが、御霊の実を豊かに実らせる生活から外れ、過ちを犯すことがあります。私たちは、それぞれいつも主の御前に自分の行ないを吟味し、必要なら調整していかなければなりません。

この例からもわかるとおり、みことばの言語、その背景にある著者の持つ文化や生活習慣などを深く掘り下げて探求することは非常に大きな意味を持ちます。この場合、言語はヘブル語を背景としたギリシャ語、文化および生活習慣は聖書的ユダヤ教です。これを知る努力なしには、いつまでも意味不明の箇所に混乱され続けてしまいます。

しかし比喩として用いられているイメージをひとたび理解することができれば、無理なくその箇所を理解できます。詩篇51篇7節「……私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」とありますが、皆さんには何の困難もなくこの比喩が理解できるでしょう。しかしアマゾンに住む人々がこれを翻訳する場合はどうでしょうか。翻訳者が一度も雪を見たことがなく、聞いたこともなければ……。

みことばの中で「複雑怪奇」に感じる箇所も、その背景さえわかればやさしく理解できるのです。

幸いな保証

意味がはっきりしないように思えるみことばが理解できるとホッとします。その学びによって、神と神の祝福であるみことばをさらに深く知ることはなんという祝福でしょう。私は、みことばの箇所を理解不能と判断してあきらめてしまうのは悲しいことだと思います。主も絶対にそれを望んでおられないと思います。主はご自分のみことばをすべて理解してほしいのです。

また、もう一つ皆さんに強調したいことは、私は「聖書が間違っている」とは言っていないことです。新約聖書は、その原典の中ではなんら矛盾せず、一つひとつのことばが互いに高め合い、私たちがより良い主の弟子となるべく書かれています。ここで私が取り上げた問題点は聖書の誤りではなく、貧しい翻訳や、聖書が書かれた時代の文化や言語に関する知識が欠如していたために生み出された問題です。皆さんがほんの少し学ぶ努力をすることによって、最も難しく感じる箇所も本来の意味を取り戻し、主との距離を縮めてくれることを保証します。

神のみことばは真実です。テモテへの手紙にも書いてあります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第2テモテ3:16-17)

「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(第2テモテ2:15)

エルサレムからシャローム

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