ティーチングレター

長寿の秘訣

BFP編集部 1999年2月

「主を恐れる(尊崇する)ことは命の日をふやし…」(箴言10:27)

繁栄し、長生きする命の秘訣を知る手がかりが、十戒に示されています。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」(出エジプト記20:12/申命記5:16)。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です」(エペソ6:1-3)と、パウロは教えています。

  • これらの約束と長寿の間には、密接な関わりがあることを知っていましたか?別々に見えるこの二つの約束は、現実問題としては一つなのです。
  • 父と母を敬うとは、神を敬うことだと知っていましたか?
  • 両親は子どもに対して、神の御前にどのような責任があるのでしょうか?
  • 子どもたちが両親を敬うことは、とても大切です。では、どのように敬うべきでしょうか?
  • 両親に背くことなどできますか?
  • 悪い親をどのように敬うのでしょうか?
  • 「先祖のゆえに」イスラエルとユダヤ人を敬うよう、神は私たちに願っておられますか?

父と母を敬うことは、神を敬うこと

第五番目の戒めは、5つの戒めが書かれている最初の「神の板」に書かれています。この一群は、神と私たちとの関係について語っています(第二群の5つの戒めは、人間同士の関係を取り扱っている)。興味深いのは、約束が書かれているのは、第五の戒めだけだということです。ここに、神が両親と子どもの関係を重要視しておられることが表現されています。

親と子の関係について、神は地上における神の位置に親たちを置いておられます。この戒めは、「神の板側」の側面であり、全ての上に神をまず置くという戒めのすぐ後に続けて書かれています。第一に神を敬い、それから私たちを監督する責任を与えられた人々に、敬意を表すのです。聖書的に、主の道において、子どもたちを教えるのは親の責任です。

レビ記19章3節では、こう言っています。「おのおの、自分の母と父とを恐れ(ヘブル語ではyare)なければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

「恐れる(fear)」と翻訳されているヘブル語の動詞yareは、正確には「尊敬する」という意味を持っています。このヘブル語の命令は、両親を尊敬し、恭しく恐れる(fear-revere)と勧告しているのであり、不安に思って怖がったり(afraid)、恐れたり(fear-dread)しなさいと言っているのではありません。

興味深いことに、「yare」という動詞は、聖書では、神及び両親への尊敬に関してのみ使われています。これも神と両親の関連を更に強めています。十戒においても(レビ記19:3)、人の両親への義務は、神に対する義務の次に位置しています。

神―親―子どもの関係は、ちょうど結婚が神によって計画されるように、神により制定されたものです。ますます世の垢にまみれていく現代の世界においては、どちらの概念も神から与えられた重要な誓約であり、悟りであるという意識がどんどん薄れています。悲しいことに、二十紀も終わり近くなり、家族は崩壊し、その結果社会も崩壊しています。

もし神―親―子どもの関係が神によって定められているなら、この関係における親と子ども双方が、どうあるべきだと神はお考えになっているのでしょうか?

親の責任

聖書の中には、子どもたちに関する記述が1700箇所以上あります。多くの場合、神は私たち全員を神の子どもとして記述しておられます。これにより、悲しみのときには、愛情を込めてご自身のみもとに引き寄せたいと思っておられる、優しい憐れみ深い神の肖像画が描き出されます。それにも関わらず、さ迷い出てしまったときには、訓練される御父でもあります。大人であっても、子どものように振る舞いが「良くない」ときには、忍耐深い指導が必要であることを知っておられます。

私たちが主の道を歩くことを、神が望まれるのは、豊かな人生を送るために、必要なもの全てがそこに見つかるからです。神は私たちが主の道を歩くように頼み、そうすることを切に願っておられるので、“教えよう”とさえ言われます。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れる(尊敬する)ことを教えよう。」(詩篇34:11)

もし私たちが主のことに真剣であるなら、それを失うことはありません。正しくなるよう、喜んで助けてくださる誠実な親を、私たちは主のうちに持っているからです。

しかし、その仕事はひとりでできないことをご存じだったので、神は地上で世話をし、神の道を教える手助けをする代行者を任命されました。それが、私たちに与えられた親です。それでは、子どもたちに対する両親の責任とは何でしょうか?

訓練と指導:親の役割の一つは、主の道に従って子どもを訓練し、指導することです。申命記6章1-9節では、神を知り、愛し、神の命令を守りなさいと勧告しており、それを子どもたちに伝えなさいと言っています。そしてそれを行うために、役立つ道具を与えておられます。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」

箴言は親たちにこのように命令しています。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)

しかし、訓練と指導には、従うことが要請されます。人は罪をおかす性質を持って生まれているので、幼い子どもでさえ、指導によって強めてやらなければ、神の道から迷い出てしまいます。天の父として、神は私たち全員を訓練されます。「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(箴言3:12)。そして、そのように私たちが子どもを愛し、正しく訓練することを、望んでおられます。

聖書によって正しく訓練を受けた子どもたちは、善悪を知るようになります。訓練を受けないと、不安で気ままになり、どうすれば成熟した大人に育つことができるのかわかりません。誰でもこのようなたぐいの子どもや大人に、遭遇していると思います。

だからと言って、肉体的にも精神的にも、「訓練」が子どもを虐待する言い訳にはなりません。エペソ書6章4節はこう勧告しています。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」コロサイ3章21節では、更にもう一歩突っ込んでいます。「父たちよ。子どもを苦々しい思いにさせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」このように訓練とは、単に叩くことより遙かに深い意味があり、また言葉で虐待することでもありません。神の道に生きるように、人生の方向付けを与える養育を含めた包括的なプログラムが訓練です。

ヘブル書12章1-12節では、神の訓練という課題全体を取り扱っています。まず、父たちから日常受ける訓練に焦点が当たっています。同様に、主から訓練を受ける必要があるのは、「私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとしてなのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:10b-12)

旧約聖書では、子どもを訓練することは真剣な事項でした。申命記21章18-21節は、不従順で反抗的な息子に対する罰を、一つ一つ明確に説明しています。町の門に連れて来られ、人々によって石投げの罰を受けて殺されるのです。地上の両親に対して、子どもたちが従順であることが、それほど重要であると神が思っておられるなら、天の父に従順であることは、更に更に遙かに、どんなに大切なことでしょうか?

養育:子どもたちへの訓練には、愛育と養育が伴っています。養育抜きで、訓練ばかり行われると、均衡のとれない子どもを作りだし、この子は長じても均衡のとれない大人へと成長します。同様に悪いのは、養育ばかりで訓練をしないことです。私たちは均衡を保たなければなりません。神が愛と慈しみを示しす表現をされるとき、養育する親にご自身をなぞらえておられます。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(イザヤ書66:1)

神はまた地上の親たちよりも、もっと良い贈り物を、私たちに与えたいという望みを述べておられるます。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:11-13)

家族の面倒を見るということは、自由選択できることではありません。それは真の信仰を示すという事柄です。「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(第1テモテ5:8)

子どもは、神の贈り物であることを覚えておかなければなりません。「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。…幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。」(詩篇127:3.5)。子どもたちを、贈り物として取り扱おうではありませんか。

誰が神の御座にいるか?:子どもの訓練・指導・愛育・養育は、「もしこれを行えば望ましい方向へ、行わなければ悪い方向へ」というように、将来に対して影響を及ぼします。「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ」(ヨエル1:3)。将来に対して、良いあるいは悪い影響を、親はどのように及ぼしていくのでしょうか。信仰の篤い親は、信仰の篤い子どもを生みだし、罪の深い親は、罪の深い子どもを生みだします。「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:6)

信仰深い親でさえ、自分の子どもを適切に育てることを怠り、神の国からその子を失ってしまうことがあります。何と悲劇的なことでしょう。もし親が自分のするべきことを行い、あとは神に信頼するなら、神のご計画によって彼らは王国に住めるのです。また子どもをどう教育するかによって、子どもたちの神概念に影響を与えます。

ある神学校の教授が、父なる神の御性質を学生たちに理解させるのに、苦労した話を読んだことを思い出します。提出された多くのレポートは、神の御性質を歪んで理解していることを示していました。学生たちの多くは、両親が信者でないか、信仰を真面目に受け止めていない家の出であることに気がついた教授は、父なる神の絵を描くようにと言いました。

何人かは、天から彼らに稲妻を投げつける怒った専制君主を描き、他の者は空っぽの御座を描き、更に他の者は感情を持たない、受け身で冷淡な神を描きました。学生たちと会って絵のことを尋ねてみると、彼らは地上の父親を描いたことがわかりました。ある者の父親は、怒った専制君主で、愛情を持たずに家庭を支配し、他の者は子どもの時に父親から見捨てられており、他の者の父は、同じ家に住んではいても、子どもには無関心、あるいは仕事が忙しくて父親不在の状態で大きくなっていました。心をかけてくださる、愛情深い神を描いたのは、ほんの一握りの学生だけでした。これを描いた学生たちは、愛情深い家族関係を持っていました。興味深いのは、学生たちが天の神をどう見るかは、地上の父親像を反映していたことです。

何と悲しいことでしょう!このちょっとした演習により、神に与えられた役割を親が果たさないとき、子どもは大人になった後でさえ、神との関係や、神概念に影響を受けることを教授は発見しました。彼らは地上の間違った父親の姿が、天の父の間違った肖像となって転移されていくことを知り、間違った概念を訂正することができました。

あなたはどのような神の肖像画を描きますか?正しい肖像でしょうか?もしそうでないなら、天の父の御性質について、聖書全体をしっかり読み、絵を描き直す必要があります。また、神はあなたを愛し、世話をしたいと望んでおられ、神の訓練は愛に根ざしていると知ることができるように、牧師に相談する必要があるかもしれません。「しかし、イエスは言われた。『子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです』」(マタイ19:14)。神は新しい出発がおできになる神です。

肖像を正そう:親として、私たちは落ち着いた時代に生きています。神から子どもたちを遠ざける、魅力的な罪と誘惑に満ち満ちた世で、彼らが成長していくのは困難なことです。もしあなたが子どもに対して信仰深い親でありたいと願い、それをどのようにしたら良いのかわからないなら、「家族に焦点を」のような宣教団体から、あらゆる種類の聖書に根ざした良い資料を手に入れることができます。私たちは子どもに、この世の教えや考えをそのまま伝えることはできません。ですから、聖書に基づいて教えるように注意しましょう。私たちは子どものために、正しい神の肖像を描いているでしょうか?今からでも決して遅くはありません。子どもたちに対して間違いを正し、神が悪い状況から良い状況に変えてくださるのを見ましょう。あなたの子どもがもう大人になっていても、彼らが育つ過程で、親として正しく振る舞わなかったとしても、今からでも「肖像を描き直す」ことができるのです。彼らがあなたと、そして恐らく神と持っている不完全な関係を回復するために、務めることができるのです。これが家族に対する神の希望です。というのは、神はこう言っておられます。「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」(マラキ4:6)

子どもの責任

聖書は、子どもとして両親を敬い、従うことについて多くを語っています。実は、このティーチングレターでは、この部分を語ろうとしているのです。親は地上において神を代表するのですから、敬われるべき立場に、神によって置かれています。親を敬うことにより、神を敬う報いは、長寿の祝福です。

私たちは神に示すのと同じ尊敬を両親に示す必要があり、それがレビ記19章3節の教えです。タルマッド(ユダヤ教の聖書注釈書)はこう語っています。「神を大切にすることは、父と母に敬意を表すことである。なぜなら、聖書は両親に敬意を表し崇めるのと、神ご自身に敬意を表し崇めるのとに、同じ表現を使っているからである。」

敬うとは、従う以上のことです。「従う」とは、言われたままをすることです。敬うとは、それを行う態度です。例えば子どのとき、部屋を掃除しなさいと両親に言われることがあるでしょう。もし、上機嫌で速やかにそれをするなら、彼らを敬い、従ったことになります。しかし、いやいやしたとしたら、従っただけであり、敬ったことにはなりません。敬うとは、物事の核心に迫ることです。喜んで従うという行動をとおして、敬っていることを示すのです。

両親に従いなさい:神は、主にある両親に従いなさいと言っておられます。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない」(箴言1:8/箴言6:20)。「子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。・・わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」(箴言4:1、2、10、20-22)

箴言4章を読んで、神が両親をとおして私たちに伝授しておられる、知恵と悟りの全体像を掴むべきです。両親に従わなければならないのはこのためです。

新約聖書にもこの教えがはっきりと述べられています。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え』」(エペソ6:1、2)。「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです」(コロサイ3:20)。両親に従うことは、正しいだけでなく、神に喜ばれることなのです。

両親に背くことができるのか?:「神の御言葉に違反することをしなさい」と、親に言われたときには、もちろん両親に背くことができます。

タルマッドは、ユダヤ賢人の言葉を引用しています。「両親への畏敬は、神への畏敬を越えてはならない。親が神の律法に違反することを命令するなら、子どもは親の上に神に対する義務を置かなければならない。」

この点に関して、新約聖書は同様に明確です。「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』」(ルカ14:25-27)

それがたとえ敵であっても、新約聖書は隣人を憎むことを厳しく禁じています。にもかかわらず、イエスはここで何をおっしゃっているのでしょうか?「憎む」と翻訳されている言葉は、「より少なく愛する」という意味だと理解する方が良いでしょう。確かなことは、この箇所の精神は、家族や自分自身を含め、「全てのことにおいて、神が最初、他のことは次」という関係の中におかれなければならないということです。ですから、たとえ両親を敬っていても、神の御言葉にそむくような命令に従うことはできません。

どのようにして両親を敬うのか?:偉大なラビ:マイモニデスは次のように言いました。「両親、特に歳を取った両親を敬うとは、必要に応じて愛情を込めて世話し、必要であれば食物や着るものを用意し、教師の前に尊敬を持って立つように、彼らの前に立つことである。彼らの親としての永遠の椅子に座らない。反発しないで尊敬を払って注意を向け、例え金銭の損失があっても彼らの目を覚まさせず、又特別に要請があるか、彼らが確かにそう望んでいる場合以外は、彼らを名前で呼ばない。そして畏敬あるいは尊敬を表現する。」(ヒルコール・マムリム6、3)

死後でさえ、両親は敬われ覚えられなければなりません。ユダヤ教では、喪に服する12カ月の間、追悼の祈りを暗唱し、彼らを思い起こし、命日には毎年追悼会が催されます。

生きている間、そして死後も、公に両親や祖父母に尊敬を示す姿は、自分の子どもたちに観察され、あなたも同様に尊敬を受けると、ユダヤ教の賢人は信じています。

両親を決して呪ってはならない:この件に関して聖書は明白です。「だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。」(レビ記20:9、出エジプト21:17)

ユダヤ教の注釈書は、この箇所について次のように説明しています。「子どもを育てることにおいて、親は神を代表し、神の協力者である。この特別の見解に敬意を表わさない子どもは、神に反抗しているのである。死の罰則は冒涜に科せられているが(レビ記24:15、16)、これは自分の親を打ち叩いたり、呪ったり(「侮辱的なことを言うこと」さえ含まれるという人もいる)することに対する罰である。」

イエスの時代、パリサイ人は律法の周りに「障壁」を張り巡らし、律法に監視されても、違反することがないようにしました。これは新約聖書で、「伝承」と呼ばれています。時にそれは不正に取り扱われ、守るべきはずの律法よりも重要になっていました。これが、マルコ伝7章でイエスが言っておられることです。ある伝承では、自分の財産を神や神殿に捧げ(コルバンと呼ばれた)、「触れることができないもの」としました。しかし、これに敬意を表するあまり、あるパリサイ人たちは年老いた両親の世話をしませんでした。イエスは彼らの両親が貧しい原因を取り上げ、「伝承」のために、パリサイ人は父と母を敬えという命令に違反していると指摘しました。

「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」(マルコ7:9-13)

悪い両親はどうか?:これはよい質問です。全ての人が信仰深い両親の祝福を受け、教育・指導・世話・養育を受けたわけではありません。そのことに面と向かってみましょう。私たちは堕落した世界に住んでおり、全てのことが神の最善のご計画に従って行われているとは限りません。ある親は子どもたちを見捨ててしまいました。もしそのような親を持っているなら、立ち止まって考えてみましょう。「あなたは完全な子どもだったでしょうか?」恐らくそうではないでしょう。和解は両者から行われる必要があります。

ある子どもたちは、悪い親によって、ただただ恐ろしい体験をしてきました。肉体的・感情的・あるいは精神的に傷つけられました。虐待したり、アルコール依存症だったり、放任だったり、過干渉だったり、又は人生において、罪を褒めそやすような親を、どうして敬うことができるでしょうか?

聖書は、親が尊敬される値打ちがあるかどうかの評価はしていません。神に与えられた役割を果たさない親は、このことで神の前に申し開きをしなければなりません。親を判断するのは私たちの役割ではないのです。

神が与えられた親を敬い尊敬するようにと、私たちは命令されています。そして、子どもとして両親を敬い、責任をどう維持するかにより、神に裁かれるのです。もし親が神の御言葉に背くようにと言うなら、私たちはそれに従うことはできません。

「先祖の律法について厳格な教育を受けた」(ローマ22:3)パウロは、ローマ書11章で、オリーブの木をとおして、天然の枝と野生の枝について論じています。異邦人「野生のオリーブの枝(信仰を与えられ、昔の契約に接ぎ木された)」は、ユダヤ人「自然の枝(不信仰の故にいくらかは折られた)」が、「先祖たちのゆえに、愛されている者。神の賜物と召命とは変わることがない」(ローマ28-29)であることを、覚えていなければなりません。クリスチャンの義務は、イスラエルとユダヤ人に憐れみを示すことであると、パウロは締めくくっています。「あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。」(31節)

異邦人信者の聴衆に、パウロは強調しました。「もし異邦人がユダヤ人の霊的な祝福に預からせてもらったのなら、彼らはそのことでユダヤ人に負債があり、自分たちの物質的な祝福をその人々に分け与える義務があるのです。」(ローマ15:27)

イスラエルとユダヤ人に対し、教会には責任があると、パウロが教えているのは明らかです。彼らは契約の民として、地上の両親がするように、神の言葉を私たちに与え、神の道と教えを示し、そして救いを可能にしました。旧約・新約両聖書は、ユダヤ人著者によって書かれ、使徒や初期教会は、ほとんどがユダヤ人でした。

神の教えと救いの道をもたらすために、神が選ばれた人々を、私たちは尊敬してきたでしょうか?大部分において、答えは「いいえ」です。クリスチャンの極悪非道で暴力的な反ユダヤ主義の悲しい歴史は、契約の民を愛し、尊敬せよという聖書の教えを否定するあらゆることをしてきました。

クリスチャン社会は、教会の名前において、何百万人のユダヤ人を死に至らしめ、他国に追い出し、様々な法律によってユダヤ人を排除し、周囲の「クリスチャン」社会から彼らを隔絶しました。全ユダヤ人社会を、ユダヤ人街に押し込み、十字軍や宗教弾圧、最終的には過激派クリスチャンの標的としました。そして、ユダヤ人に敵対する数多い他の恐怖体験を、イエスの御名によって永続的なものとしました。

私たち自身が生きたこの時代に、ユダヤ人に対するナチの恐怖を見ました。彼らの行動は全て歴史的「クリスチャン」の例に習って計画され、いわゆる先進クリスチャン国によって執行されたのです。

今日のイスラエルに対しても、多くのクリスチャンが支持して立ち上がりましたが、世界中の大半のクリスチャンは、イスラエルが国家となった日を悲嘆し、様々の組織で力を使ってイスラエルを傷つけてきました。

あなた方の中には、神を知らない、異教徒の親を持っている人がいるかもしれません。それでも、両親を尊敬するという聖書の義務から免れるわけではありません。

子どもとして、両親との破綻した関係を修復するのに、遅すぎることはありません。信徒として、その努力をしなければなりません。恐らく、あなたの努力が「磁石」となって、「方向の定まらない」親を、神に近づけるかもしれません。

先祖のためにイスラエルを敬う:ユダヤ人とイスラエルに関して教会が持つべき見解に関して、聖書は極めて明確です。

長寿の秘訣

神が私たちに望んでおられることは、「『あなたの父と母を敬え』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。」(エペソ6:2-3)

疑いようもなく、これは私たちの上に置かれた地上の両親に、敬意と尊敬を示すことが含まれています。又、「先祖たちのゆえに…」教会が、イスラエルとユダヤ人を敬うことが含まれていると私は信じます。

多くの者は、家族の関係を軽んずることで苦しみを受けました。この壊れた関係を修復し、両親を尊敬し、神の長寿の約束を受け取るのに、遅すぎることはありません。

教会は、イスラエルとユダヤ人に敬意を現さないことで苦しみを受けました。彼らが主の御声を聞き、御言葉に従って生き、それを書き留めたので、私たちは神の教えを受け、救いの道に入れたのです。

神はアブラハムに言われました。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)。ダビデは私たちに言います。「エルサレムの平和のために祈れ。おまえを愛する人々が栄えるように」(詩篇122:6)。聖書には、「神のひとみ」(ゼカリヤ2:8)である、イスラエルやユダヤ人を含め、神が味方となることに関する祝福の約束で満ちあふれています。

この関係を取り戻すのに、遅すぎることはありません。すでにその関係を持っているクリスチャンもいます。私たちそして教会は、ユダヤ人とイスラエルとの結びつきを再構築し、主のよりよい弟子となるために、聖書をヘブル的に理解できるよう深く掘り下げていきましょう。そして、「物質的贈り物」を分かち、神の契約の民を祝福し、エルサレムの平和のために祈り、行動しましょう。

確かに、私たちの肉の両親、そして霊的両親の両方を敬うことにより、主から祝福を得ることができるのです。どのようにしてこの両方を行うか、祈りつつ考えていただきたいと思います。

エルサレムからシャローム

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