BFP編集部 1999年3月
聖書において、私たちは様々な神のご性質を見出します。静かな小さな神の声・神の息・神の愛・神の御手などです。今回は、神のご性質の一つである「火」について、一緒に学んでみましょう。この火は、「祝福」あるいは「破滅」のいずれかをもたらす、一種独特な性質を持っています。
神はご自身を「焼き尽くす火」と言われました(申命記4:24、9:3)。悪は神の御前に立つことができません。この世にある悪と罪とを焼き尽くすのは“火”です。神はその聖なる火の中に臨在され、二つの道から私たちの生活に働かれます。私たちの心の状態によって、それは良い影響も、悪い影響をももたらすことができるのです。心の正しい人々は、人生の中の不純物と罪とを焼き尽し、聖化する神の力を受け取ります。不正な心を持ち、主に反逆している人々は、同じ火によって焼き滅ぼされるのです。
聖化の火
神の御前には、聖さがあります。聖書の多くの記述において、神はご自身を聖い火として示されました。この火こそ神の臨在の確証です。しかし、神の臨在の中にいるためには、聖別された生活が要求されます。
それが最初に見られるのは、出エジプト記で、燃える芝の中からモーセに語られた個所です。「すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。『なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。』主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります。』と答えた。神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」(出エジプト記3:2-6)。
モーセがシナイ山に登ったとき、壮大な光景が展開され、全ての人々が恐れに包まれました。「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。」(出エジプト記19:18)。山の周辺では、地が揺れ・雷鳴が鳴り・稲妻が光り・全員が恐るべき神のご臨在を目撃しました。神は人々が山に近づかないようにと、モーセに告げました。聖別されていない彼らが、死ぬことがないためです。
イスラエルの子らがシナイの荒野を移動したとき、昼は雲の柱、夜は火の柱の中に臨在される、主に導かれました。「そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。主はモーセに仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た』」(出エジプト記20:21-22)。荒野を放浪するさなか、主が見えるかたちで臨在されるとは、何という慰めでしょう。昼も夜も、民はただ幕屋のはためきを眺め、神の臨在を見て、主が守っておられるのを知ったのです。
神の臨在は、聖別を要求します。宿営の中で、罪は赦されませんでした。しかし、罪が犯されたとき、神は罪に対する犠牲の備えをしてくださいました。罪だけではなく、それは主との交わりのためでもありました。興味深いことに、神が民に望まれた捧げ物の一つは、「火によるささげ物」で、この香りが主に喜ばれました。「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。』」「……祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」(レビ記1:1-2、9b)
時に、神の火そのものが天から下り、犠牲を焼き尽くすことさえありました。
アブラハムが主との契約を結んだとき、聖書はこう言っています。「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの(犠牲の動物の)切り裂かれたものの間を通り過ぎた」(創世記15:17)。火は神の臨在と、アブラハムの間に結ばれた契約の重大さを示しています。その日に結ばれた契約は、今も有効です。
エルサレムにあるアルナワの麦打ち場(今日の宮の山)を買ったとき、ダビデは祭壇を築き、主への捧げ物を準備しました。「こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげて、主に呼ばわった。すると、主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下して、彼に答えられた」(第1歴代史21:26)。神が降りて来られ、“ご自身のもの”と呼ぶ聖なる山で、その捧げ物を焼き尽くしました。
ソロモンはエルサレムに神殿を建て、宮を神に奉献しました。そして、犠牲を供え、イスラエルの民のために、大いなる聖別の祈りを捧げました。彼が受け入れられたことについて、こう記されています。「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた」(第1歴代史7:1)。その時、民は何をしたのでしょうか。「イスラエル人はみな、火が下り、主の栄光がこの宮の上に現われたのを見て、ひざをかがめて顔を地面の敷石につけ、伏し拝んで、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』と主をほめたたえた」(第1歴代史7:3)。
イスラエルの神こそ唯一の真の神であることを証明するために、エリヤはバアルの全預言者の眼前で、カルメル山上に祭壇を準備しました。バアルの預言者もまた、祭壇と捧げ物を用意し、答えを得ようと、自分たちの身を切り刻むことさえしました。しかし、何も起こりませんでした。その後、エリヤは祭壇に近づき、犠牲を供え、その上に水をかけました。そして、神にご自身をイスラエルの民とバアルの預言者たちに示してくださるように、信仰の祈りを捧げました。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った」(第1列王記18:38-39)。
こうした神の火に対する民の応答は、全てへりくだりと悔い改めと聖別でした。
火によって聖別されるとはどういうことなのか、イザヤは良く知っていました。イザヤ書6章では、主の祝福を受けるために、御前でへりくだり、聖別するよう駆り立てる物語を読むことができます。また、霊において、イザヤが主の王座に連れて来られたのを私たちは覚えています。イザヤが見た神々しさは、彼を圧倒しました。最大の預言者の一人であったイザヤも、神の御前でただ卑しさと悔い改めの必要を感じるだけでした。彼は言いました。「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」(イザヤ6:5-8)
主の臨在に対するイザヤの反応はどうだったでしょうか。へりくだりと自分自身及びイスラエルの民の悔い改めでした。
最終的に、地上の全ての人々が神の火に直面します。クリスチャン・ユダヤ人・ヒンズー教徒・ヒューマニスト・無神論者など、全ての人を含みます。預言者マラキは、神の火が主の到来に備え、地をきよめる精錬の火としてやって来ることを語っています。主を待望している人々には、銀や金が精錬されるように、神の火が不純物を焼き去るでしょう(マラキ3:2)。選択は私たちにゆだねられています。聖化を求める信者にとって、神の火はより純粋に、より聖くするために来るのです。
滅びの火
一方、主から離れ罪の中にいる人々は、神の火が現れたとき、その人を変えるか、さもなければ焼き尽くすでしょう。
「変わるか焼かれるか(turnorburn)」という句は、人々を地獄から引き出し、天国に入れるために用いられるだけではなく、聖書全体に見られる概念です。エレミヤは、神が彼をとおして語られたことを、非常に明瞭にしました。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(エレミヤ4:4)。
レビ記には、会見の幕屋から打ち出される神の臨在・火についての驚くべき物語があります。それを見たある人々は祝福されて礼拝をし、他の人々は死にました。
レビ記9章23〜24節では、モーセとアロンが会見の幕屋から出て来たとき、主の前から火がでて、祭壇のいけにえを焼き尽くしました。それを見た人々は、喜びの叫び声をあげ、主の御前に顔を伏せました。
しかし10章では、アロンの二人の息子・ナダブとアビブが香炉をとり、神の命令に背き、主の前に赦されない火を捧げました。このとき多くの人々を祝福した同じ火が、主の御前から出て、ナダブとアビブを焼き尽くしました。全員が大変なショックを受けたことは、想像に難くありません。彼らはアロンの子ども、大祭司の息子たちでした!
これをどう説明しますか。この事件後、主がモーセとアロンに語られた言葉の中に、答えを見出すことができます。「……『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』……」(レビ10:3)。
青年たちが神を怒らせたことについては、多くの想像がなされています。文脈に最も合致するのは、アロンの子らはあまりにも神の臨在になじみ過ぎ、無頓着になっていたのではないかという説明です。民にとって、それは必ずしも大罪ではありませんでしたから、皆尚さら驚いたのです。しかし、神を軽んじることは、大きな罪です。アロンの子らは、民の前に神の力と臨在を示す“実例”となってしました。
同じ神の火が、全く異なる影響を与えました。畏れと尊敬をもって神の火を見た人々にとって、それは力と祝福となり、「ホホー、前にもこんなことがあったなぁ」式の態度をとっていたナダブとアビブは、その火によって滅亡しました。
同じようにアナニヤとサッピラに下された、直接的神のさばきを使徒の働きに見ることができます(使徒5:1-16)。彼らは主の前に死にました。火は現れませんでしたが、神に対する彼らの大柄な態度は、瞬間的破滅を綴りました。
これらの実例は、神の臨在の前にどう行動するべきか、立ち止まって考えさせるものです。私たちは教会の中で眠りこけているのでしょうか。それとも、神の臨在の中にとどまり、主から受けるものに、十分な期待を寄せつつ礼拝に入っているでしょうか。主との個人的な静思のとき、祈りのときについてはどうでしょうか。神の臨在を、決して当然のものと受け止めてはいけません。神の火は、彼の敵を焼き尽くす。詩篇において、神の口から火が出て、敵を焼き尽くしたのを見ます。ダビデは書きました。「ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。………私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。………すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった」(詩篇18:3、6-8)。
これは絵画的な描写ですが、神がその敵に怒られたときには、時として文字どおりのことが起きました。
罪と退廃の本質を集約する二つの場所、ソドムとゴモラを神が滅ぼしたとき、「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた」(創世記19:24-25)。神の火がさばきの中に下るとき、それはまことに焼き尽くす火でした。
イスラエルの子らが、シナイの荒野で自分たちの状況について激しく不平を鳴らしたとき、神の怒りが燃え、立ち昇りました。「さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた」(民数記11:1-2)。
コラ、ダタン、アビラムがモーセを倒そうと陰謀を企て、彼を自認指導者であると非難しました。神が油を注いでおられることを証明するために、モーセは陰謀者とその同調者250人と共に、主の前に出るよう挑戦しました。250人は、モーセとアロンがしたように、神の前の香炉を取りました。そしてモーセは、どちらかを選んでくださるよう神に求めました。そのとき、神はモーセに「コラ、ダタン、アビラムの幕屋から離れるよに民に告げなさい」と命じました。「地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。……また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした」(民数記16:32、35)。言う必要までもないことですが、これにより神の応答は、イスラエルの宿営でよく理解されました。
アハブの死後、アハジア王がエリヤを捕らえるために、それぞれ一人の隊長と五十人からなる三部隊を送りました。はじめの二隊は、神の火によって焼き尽くされましたが(第2列王記1:10、12)、エリヤは命乞いをした第三の部隊と出かけて行きました。神がそうするように命じたからです(15節)。王を含めて全ての者が、天から降る火のゆえに、神がエリヤと共におられることを知りました。
水と神の霊、神の火のバプテスマ
マタイ伝3章11節には、火のバプテスマについて記されています。バプテスマのヨハネが、イエシュア(イエス)について語りつつ、こう言いました。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
最近、エルサレムの私たちの教会で、アシェル・イントレイター師が、この火のバプテスマについて説教しました。彼はマタイ伝3章11節の聖句に大変深い洞察を示しました。今回の学びに適切なので、皆様にもお伝えしたいと思います。
彼は“バプテスマ”について三つの句があると示唆しました。水のバプテスマ・聖霊のバプテスマ・火のバプテスマです。これは、父、子、聖霊が三神ではないように、別々の三つのバプテスマがあることを示しているのではありません。神は、三人格がひとつとして表され、ただひとりの神であるように、バプテスマもひとつで、三つの区別された要素をもっています。
- 最初は水のバプテスマです。罪を悔い改め、イエシュアを救い主として受け入れたとき、私たちは水のバプテスマを受けるように教えられています。歴史的には、これは救いと告白の行動の直後になされるのがほとんどでした。ユダヤ人のミクヴァ(清め)の習慣に似て、水に浸され・象徴的に洗われ・罪が赦され・罪責からきよめられます。シグモント・フロイドは、「人間の心理的問題は、みな一つの源泉-罪責からくる」と言いました。しかし、彼は問題を明らかにしただけで、それを除去する道は分かりませんでした。私たちに新しいいのちを与え、罪を赦してくださるイエシュアの血によってのみ、人間は真に罪責から自由にされます。
- 主ご自身から来るバプテスマの第二過程は、イエシュアが心の中に入り、神の御霊が私たちのうちに住まわれることです。まず、私たちの霊が再生し、それから神の御霊が外側から私たちの内側へと来て住まわれます。これが聖霊のバプテスマです。第1コリント3章16節は言います。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」第1コリント6章19節でパウロは言いました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
- 最後にマタイ3章11節に、バプテスマの第三過程の表れを見ますが、これが火のバプテスマです。以下で学ぶように、このバプテスマは主との歩みによって前進します。今回の教えの主題が火ですから、火のバプテスマについてもう少し時間をとりましょう。
火のバプテスマとは何でしょうか。使徒行伝1章8節でイエシュアは、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われました。
勝利の生活のために、私たちには神の力が必要です。日々私たちをおとしめようとする、肉の欲・目の欲・生活の誇りから立ち去るために、神の力が必要です。「聖霊が臨むとき、私たちは力を受ける」と語られたのは、私たちがイエシュアの足跡を歩み、主の弟子のように生きるためでした。
火のバプテスマが来るとき、この力は何に似ているでしょうか。イエシュアは、聖霊が私たちの上に来る……と言いました。聖霊、それから力です。へブル語の「霊」とはどんな言葉でしょうか。それはルアフであり、風も意味します。
使徒行伝2章2〜3節を見てください。「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」
先ず風が来て、それから火でした。使徒行伝1章8節で、まず聖霊を受け、それから力でした。風と火…聖霊と力。2プラス2は4。
これはろうそくの芯のような、小さな火が頭の上にあったというこではありません。それは彼らの内に燃え上がり、彼らを力づけ、神の意志を実行なさしめる力の炎でした。これは一瞬の間留まり、それから内側に住むために中に入りました。
神の力を受けるために、私たちはへりくだる必要があります。御旨を行うために、十分に父に従う必要があります。さもなければ、自分自身の力の中に滑り落ちて行くことでしょう。私たちは、内なる人の静かな小さな声に耳を傾ける必要があります。神のやさしいささやきを聞くことが大切です。そうするには、紳士であられる神の御霊に委ねる必要があります。そうするなら、捧げきることができます。
このへりくだりの心において、神が私たちを霊的な戦いの中に送るとき、大胆でなければなりません。神の言葉を宣告するために、大胆に語る必要があります。そうすればそれに伴って火が出てきいき、神の善なる、完全なる意思を遂行します。
私たちはへりくだるため、また、聖霊に敏感であるために、恵みを必要としますが、そうすれば聖霊が私たちを導くままに神の力を用いることができるほど、十分に大胆なものとなれます。聖霊に私たちを用いていただきましょう。
黙示録1章14節で、イエシュアについてこう言われています。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。」人の目のうちを見れば、その人の内側にあるものを見ることができます。イエシュアの内側の火を見る理由は、あなたが彼のうちに、あらゆる情熱・炎・熱心・神の国の火を全てもつ神の輝きを見たのです。
炎が弟子たちの頭に留まったかどうかは重要なことではありません。大切なのは、その炎が彼らの心に入ったのかということです。一年後、五年後、十年後のヤコブの目の中を見て、内側に燃える神の火・情熱・熱心・ペンテコステの炎を見ることができたでしょうか。
私たちは皆、神の火が内側に入り、神の力が充満する経験をする必要があります。頭上に小さな火が舞い踊っている必要はありませんが、神の熱心が内側に明々と燃えていることが大切です。
神の火の最も大切な部分は情熱です。神が私たちに欲しておられるのは、神について情熱的であり、どんなときにも飽きたり、退屈したりしないことです。「フム…教会を離れて別な礼拝に出てみようか…退屈だ、退屈だ…」
私たちは、主の前に踊ったダビデのようである必要があります。私たちの心の状態によって、神の火は興奮すべきものにも、恐怖にもなり得ます。私たちのわざは、聖書が言うように、火によって試されます。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」(第1コリント3:12-15)。
神は全地が神の火を感じて、人間の自由意志が、それにどう応答するかを選ぶことができると言います。第2ペテロ3章6〜7節は、ノアの洪水と患難の火について語っています。地球にとっては、最初に水のバプテスマ、そして第二は火のバプテスマを受けるようです。全世界が今や「ハルマゲドン」や「ディープインパクト」のような映画を見て立ちすくんでいます。誰もが、この世は焼き尽くす火に直面しつつあるのを知っているのです。
それが来る前に、私たちは神の栄光を受ける備えをする必要があります。さもなければ、神の力によって焼き尽くされてしまうでしょう。ルカ16章では、金持ちが死んで地獄に行き、火炎にいつまでもいつまでも焼かれ続けています。彼はその苦悩を知りました。地獄で人はその苦悩に完全に目覚め、気づくことでしょう。そこには全く眠りがなく、永遠にあなたの生涯において、神が呼んでおられたのを無視した事実を思い出させるのです。地獄にいる人々は、宴席にいる聖徒たちを見て、一滴の水を望むでしょうが、それを得ることができません。
私たちは早く悔い改めて、来たらんとする、神の火に備える必要があります。
神の火は、悪しき者サタンとその悪霊どもも焼き尽くすでしょう。「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示録20:10)。悲しむべきことに、黙示録20章14節でヨハネは、生涯悔い改めず、神の召しを無視した人々の結末を、永遠の地獄の中に見ます。これは神の選択ではありません。めいめいが、永遠のいのちか死を選ぶことができるのです。
私たちはみな、精錬する神の火によってバプテスマされる必要があります。先に述べたように、人の心の状態によって、神の火はのろいにも祝福にもなり得ます。全く同じ神の火が、違う結果をもたらします。私たちにとって、それはどのような祝福になるのでしょうか。
- 救い
第一に、もし私たちが何もしなければ、神によって罰を受け、地獄の火の中で終わります。この状況にある人は、父に走りこみ、赦され、永遠に神から遠ざけられる場所から救われる必要があります。救いは神の無代価の賜物であり、主の御名を呼び求め、十字架上で提供された贖いの犠牲を受け入れるとき、すべてのものが入手できます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ローマ3:23)。 - きよさ
ひとたび救いを受けたなら、第二段階の神の火によってきよめられます。私たちはみな、自分の生活に肉的な領域をもっています。そこに神の火が来て、神からではないものを焼き尽くします。思い煩い・肉欲・恐れ・そして私たちを神から退けさせるがらくたといったものです。ほとんどの人が、訪れる罪と格闘していますが、それを征服することはできません。神の火に焼き尽くしていただくしかありません。罪との格闘がそれを立ち去らせはしません。神だけがそれを除去することができ、私たちは神に仕えることができるようになるのです。 - 力
神の火の第三段階は、みことばの中で約束されているように、神の国のわざを遂行するために、力を受けることです。しかし、私たちに欠けているものこそ、内側に信仰を達成する力です。これは、神のわざを成し遂げるための力です。聖書に見るように、もし神がご自身の究極の栄光のために、事を成そうと決心されるなら、私たちを用いて病人を癒し・悪霊を追い出し・盲人を見させ・死人をよみがえらせることさえおできになります。しかし、これをするためには力が必要です。私たちはこの力を用いることができますし、神の力を要請することもできますが、神ご自身に命令することはできません。人はこの本末転倒の間違いを犯しました。人々は、聖霊が私たちの個人的なお供のように、聖霊に命令しようとしています。聖霊様に「これをしてくださいとか、聖霊様これをください」というのを聞きます。これは全く道を踏み外したことです。私たちが語りかけているのは、全能の神であられるのですから。私たちは聖霊に服従し・侍り・仕える必要があります。聖霊が導き、聖霊のご意志のとおり賜物が分与されるのです。神の完全な意志を、力をもってなすために、聖霊に導びいていただく必要があります。 - 主に対する情熱的な愛
第四段階は、私たちがみな達したいと願っている段階です。そうです。私たちは罰から抜け出して、きよさの中に入りたいです。そして神の力を経験したいのです。しかしこれ以上に、神の火が内側に点火し、神に対する情熱が燃えるように願っています。私たちは毎日、どんな大きなことを主のためにできるかを見たくて、朝が待ち遠しいほどの神への情熱が必要です。神を欲し、神を愛し、主のためにできることは何でもしたいと切望する必要があります。
神の火が屋上にいた弟子たちの中に入ったとき、神の力と神の情熱とを受けたのを見ます。使徒行伝で、主を三度否定したペテロが、聖なる大胆さをもって神の国を公布し、彼の影が人々の上にかかったとき、人々が神の力によって癒されたことが記されています(使徒5:15)。
神はアモス書4書11〜12節で、多くの者が神のもとから離れ去り、悲しむイスラエルに、こう語られます。「わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。…主の御告げ。…それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」
私たちもまた、火のような神のさばきから引き出されたものです。しかし、私たちの多くのものがなまぬるいのです。イスラエルのように、神に会う備えをしているでしょうか。もし神がたった今、戸から入って来られたなら、神の目を火の中で見つめる備えがあるでしょうか。あるいは、私たちの生活を、私たちの思想生活を支配しているひそかな罪や、不徳を悔い改める必要があるのでしょうか。
めいめいが、神に会う備えをする必要があると私は考えます。これは力に関してのものではなく、聖潔をもたらす聖別をとおして主に会う準備をするということです。クリスチャンにとって、イエシュアは救い主であり、主であり、そして洗礼者です。主と会見の約束する備えができていますか。今すぐにも主に会う備えがありますか。アモスは、あなたの神と会う備えをせよと言っています。私たちは、どんなときにも主に会う備えをしておく必要があります。
各自、神が神の火を私たちのうちに照らしてくださるよう、そして神が与えて下さる熱心と情熱と力を受け取りましょう。主に対する信仰をもてあそぶには、時間があまりにも短すぎます。私たちは毎日、そして全ての道で、聖なるものとなり、主に服従するため、真剣に献身をする必要があります。主の火はまもなくやってきます。10人のおとめを思い出てください。5人は備えがなく、5人はランプに火がありました。ランプに火がある者だけが婚宴に加わることができるのです。この物語は、次の命令で結んでいます。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」(マタイ25:13)。
私たちが、備えのある者と認められますように。
エルサレムからシャローム