BFP編集部 1999年1月
親愛なる皆様へ
“本を表紙で判断することはできない”
この古い格言の意味は、まことに単純です。本の外側を眺めただけでは、内容を知ることはできません。それを読む必要があります。
美しい金縁で、皮表紙がついていても、実際に読んでみるとその筋は平凡で、面白くないかもしれません。一方、表紙は簡素であっても、その内容はすごいもので、あまりにも面白くて、一気に読みとおしてしまうかもしれません。
誰にでもこんな経験があるでしょう。ただ眺める以上の行動を取るまで、本当に本の内容を知ることはできないのです。また、他人の推薦に頼ることもできません。他人には単調に思えても、あなたには実に興味深い本もあります。
そうです。この教えは本についてではなく、人々についてです。本を表紙によって判断できないように、人間の判断にも同じことが言えます。神と同じように、その人を良く知るためには、内側を見なければなりません。
イスラエルの次の王に油を注ぐため、エッサイの子を選ぶべく、サムエルが遣わされました。神は小さなダビデを求めましたが、サムエルは背の高い、強い兄のほうに目を向けました。第1サムエル記16章7節で、神はエリアブについて言われました。「主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(後でこの物語を詳しく見ます。)
この聖句には二つの重要な真理があります。
- 主は人の心を見られる。
- 人は外観を見る。
神が、そして人々がどう私たちを見るか、また私たちが他の人々をどう評価するかを考えるとき、この事実は私たちに衝撃を与えます。ここで、自分自身や他の人々の善悪を評価するときには、生活の内側と外側の両方を考慮することが大切だということを学ばされます。
ユダヤ教とキリスト教の両者が、サムエルにあった神の御声を発展させてきました。ユダヤ教のマリトハアイン(字義的な意味は「外観ゆえに」)という概念に、私はいつも魅惑されます。それは、誤った印象に基づく行動を禁じます。私たちはこの概念をキリスト教の中にもっています。パウロがテサロニケの人々にこう書いています。「悪はどんな悪でも避けなさい。-(英語訳)」(第1テサロニケ5:22)。この言葉は、正確には何を意味しているのでしょうか。己の、そして他の人々の内側と外側を、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。神のことばには、その答えを示す四つの非常に大切な科学があります。少し詳しくそれを見ていきましょう。
神は人の心をごらんになる
第一課:神は心をご覧になるので、主に一層喜ばれるために、私たちは自分の内側、心の一番奥底を変革しなければなりません。それにより、外側が輝くようになり、他の人々が見て、主に栄光を帰するようになります。
ローマ書12章1節では、こう表現しています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
この世の基準は、何が「かっこいい」か、外側によって決める傾向にあるので、私たちはしばしばこの世に調子と合わせてしまいます。どのように自分が見えるか、何を着るか、どんな髪型にするか、といったことに多くの時間をかけがちです。そして、私たちの最も深い存在を、永遠に続く価値ある神の似姿に変革することを無視しがちです。神の似姿とは、どのような品性ですか。それは、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制といった、ガラテヤ書5章22-23節に記述された、御霊の実です。
髪型を整え、素敵な着物をきて、良いものを持つことをやめるべきだと言っているのではありません。「こんなによく見える」と、それだけで満足し、自分たちの生活は、これで万全であると結論づけるのでなければ、それは良いことです。しかし、私たちは外側を超えて、内側にあるものを「清潔にする」ために、もっと時間をかけるべきです。
人々はいつも私たちを眺めています。彼らは何を見ているのでしょうか。
ペテロの結論はこうです。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」(第1ペテロ2:11-12)
パウロもこの主題について語っています。「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(第1コリント3:2-3)
人々があなたの生活を見るとき、どんなメッセージを受けるでしょう。あなたがたの一番奥深い存在を変革していただくよう、それを神にゆだねるときにのみ、正しく敬虔なメッセージが外側に伝達されます。
聖書に、「彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」(第1サムエル9:2)と記述しているサウル王の物語があります。彼は油注がれた、初代のイスラエル王でしたが、まもなく神に反逆して退けられました。彼の外観は、良い心をもつことの保証ではありませんでした。
神は預言者サムエルにより、新しい王を選ぶことをお決めになりました。サムエルはベツレヘムに行き、そこで主に犠牲と礼拝を捧げました。彼は新しい王を選ぶために、エッサイの子らに自分の前を通らせました。背が高く、ハンサムな子らがサムエルの前に出ましたが、誰一人主の御旨にかなう者はいませんでした。
犠牲を捧げるためにサムエルが到着したとき、エッサイの長男・エリアブがそこにいました。サムエルは彼こそ主に油を注がれる者だと確信しました。「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(第2サムエル16:7)
サムエルはエッサイの息子を全員見ましたが、主はその誰にも油を注がないように告げました。そこでサムエルはエッサイに「息子はこれで全部なのか」と、尋ねました。エッサイは遠くで羊の群れを養っている、若い子どもがもう一人いると答えました。サムエルが彼を連れてくるように使いを出し、ダビデがサムエルの前にやって来たとき、12節「主は仰せられた。『さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。』」
神はダビデのどこを見られたのでしょうか。ダビデは若くて小さく、血色の良い人でした。しかし、聖書は後にダビデを「彼はわたしの心にかなった者で、…」(使徒13:22)と記しています。そうです、確かにダビデもハンサムでしたが、神が求めたのは、神を人生の最重要事とみなす“心”だったのです。ダビデは神のことばを高く上げるために信任できる者でした。
私たちは、サウルもダビデも共に罪を犯したことを知っています。神は罪のゆえに、サウルを退けました。それにもかかわらず、神はダビデを赦し、彼を従うべき模範とされました。相違は何だったのでしょう。サウルは自分の罪の責任を取らずに、他の人々を責めました。それにひきかえ、ダビデは神の赦しを求め、神と共に前進し、主の前に身を低くしました。
私たちが失敗するとき、へりくだって赦しを求め、神の道に立ち戻り、進み続けることを神は欲しておられます。それは私たちが完全ではないこと、しかし神の道と義とを求めるべきことを意味しています。神は100%ゆだねることを望んでおられます。
神が召されたとき、100%その御心を行うと、私たちを信頼することができたでしょうか。これこそ神は心を見られるということです。この点でサウルは失敗し、ダビデは成功しました。あなた、また私のうちに、神に対する委託を見出すことができるでしょうか。
第二課:神は心をごらんになります。私たちも他人を評価するとき、この世が人々を判断するように、ただ外観によってではなく、神が人々を見るように、その心によって判断することが大切です。
外観だけでは、その人の全体を知ることはできません。旧約時代のへブル人の文学は、それをこんなふうに言い表しています。「姿形が美しいからといって、人を誉めそやすな。また、外観によって人を毛嫌いするな」(ユダヤ教:シラ書11:2)。言いかえれば、善であれ悪であれ、正当な評価をしたいなら、単に外側だけでなく、その人の内にあるものを見ることに、より多くの時間をかける必要があります。
神は、「外側がどう見えるか、何を着ているか、どれだけ美しいか、どれだけお金を持っているか、どれだけ重要な職についているか、あるいはどこに住んでいるか」により、人物評価をする傾向が人間にあるのを知っておられます。私たちはみな内側を見抜く代わりに、ただ外側を見ることで、その人と知り合いになる価値をはかり、“時間をとる値打ちはない”などと判断してきました。
イスラエルでは、何百、何千もの旧ソ連からの新移民者が、この点を例証しています。医師・技師・その他多くの専門職の人々が、家族の食物を買うために、わずかなお金を得ようと道路清掃人をし、道に立って歌を歌ったりしているのを見かけます。教養のある人は、たいていこれらの人々の人生における立場を、「自分たち以下」と判断するでしょう。しかし、実際は私たちよりも遥かに高い教育を受け、教養があるかもしれないのです。人々に最も人気のある人たちについて考えてみましょう。彼らはしばしば最高のスポーツ選手・最も美しい少女・快適な車と素敵な身のこなしの大金持ちだったりします。この基準は歴史をとおしてずっとそうでしたし、自慢の愛車が自慢の馬車であった日にまでさかのぼります!しかし、これらの人々の内側はどうでしょうか。外側のように内側も美しいのでしょうか。この世からアイドル視されている、スポーツや映画、音楽スターの多くは、人間関係に壊れ、ある者は多量の薬や「放蕩」で死んだも同然となり、空虚な人生を送っていることでしょう。
一方、それほど人気のない人々についてはどうでしょう。私たちはどちらでしょうか。「人気」なるものは、表皮一枚ということもありえます。美しくないとか、最も人気があるわけではないからといって、本当は実にすばらしく・親切で・知的で・創造的で・同情的で・敬虔で・愛のある人々の多くを、私たちは知らないまま見過ごしているのではないでしょうか。書物と同じで、多くの人の内側にあるこのような資質を発見するには、時間をかけなければなりません。
これは、美しく、金持ちで、あるいは体格のよい男女のうちには、道徳的に優れた正しい霊を備えている神の人はいない、と言っているのではありません。しかし、ただ美しい顔をしているだけで、内側は空っぽという人々がいます。神の永遠の美性を養成する、大切な時間を彼らは取っていません。多くの者はサウルのようで、自分のために事を進め、神の事柄には無頓着です。彼は神の目やイスラエルの民の目には無となり、ついに神はサウルを退け、ダビデを選ばれました。
人気があり、美しく、金持ちが、皆内側から幸福なわけではない、ということも真実です。ある人は不安定で、人々からの拒絶と、心の傷を感じているにもかかわらず、彼らの外観から、また彼らがつけている仮面のために、誰もそれを知ろうとしません。彼らの外側が、内側の真実の深い傷を隠しています。本当にその人を知ろうとして、時間を取りさえするなら、彼らがあなたの助けと理解を必要としていたことを発見するでしょう。
一方、小さなダビデのように、「見栄えが良くない」ために、見過ごされる人々がいます。彼らは人気者でもなく、最上の美貌、あるいは最高の体格をしていないかもしれません。あるいは肉体的なハンディさえあるかもしれません。しかし、彼らには主の心があるので、内側はまことに美しいのです。彼らと共に話したり、学んだりすることは、楽しいことです。もし外観以上のものを理解するのに時間をかけないなら、私たちはこれを知ることはありません。時間はかかりますが、その値打ちがあるのです。
人は外観を見る
第三課:人は外観を見るので、たいていの人が深い存在である内側を無視し、ただ外側を取り繕うことに集中します。
信者はこの真理に免疫になっているというわけではありませんが、これは主を知らない人々に特によくあてはまります。毎月、何千億円という数え切れないお金が、化粧品から整形外科、髪の色から歯の漂白、ダイエットブックからボディビルの道具、最新流行のファッションから話題の新車に至るまで、ありとあらゆる種類のイメージ強化に費やされています。これらはみな、人に良い印象を与えるためのものです。
しかし、この世の外側への執着は、ベニヤでできたハリウッド映画撮影所のセットの後ろ側と同様に、いかさまな偽物をつくるだけです。
エルサレムにある学校で、私がした教育を思い出します。生徒たちに、形の良いりんごと、ざらざらした乾いたような灰色の毛皮を着た、キウィを見せました。私は彼らに、どちらがおいしそうに見えるか尋ねました。彼らはりんごの中身が茶色に腐っており、キウィの中身は甘くてみずみずしいことを知りませんでした。両方とも中の状態は外から見えませんでした。
どちらを食べたいか、多数決を取ったところ、当然のようにりんごが選ばれました。それから、両方の果物を二つに切り、中身を見せました。りんごの中身を見たとき、みんなが大声で「ウワー」と叫びました。
うわべを見ただけでは、果物の中身を知るすべはありません。私たちもたいていは同じようにりんごを選び、腐った中身を見て、がっかりします。
簡単に言えば、そのりんごに彼らが欺かれたということです。見てくれがあまりにすばらしいので、中身はどうか考えることさえしませんでした。そこにうわべだけを見る問題があります。
人間は他の人々に受け入れられようとして、ものすごいエネルギーを費やします。私たちの社会では、「この世に合わせなさい」という、圧力が頂点に達しています。ほとんどすべての人は、その行動で、「さあ、私を見てくれ。私は重要人物だ、偉い人だぞ。知り合いになる価値があるぞ」と言いたがっています。不幸にして、「かっこいい」の定義は、薄っぺらなものであり、“私”“私”“私”という、世俗的なしくみによって成り立っています。
この世の究極的なゴールは「トレンドセッター(流行仕掛け人)」になることとされており、他のすべての人が流行の流れを決める者の一人となりたがっています。しかし、注目され人気者となるべく、この世の基準に合わせて働くのは困難であり、人を消耗させます。信者として、私たちはこの世の地位から離れ、人々から注目を引こうとすることをやめる必要があります。それよりも、人気のない人から、最も人気のある人に至る他の人々に、より大きな関心を寄せる必要があります。そのとき、あなたは真に意義ある交友を得ち、大いに祝福されるでしょう。そしてその結果に驚かされることでしょう。人々に純粋な関心を抱くとき、あなたはもっと注目され、受け入れられるようになります。
第四課:人は外観を見るので、神の子どもなる人たちは、人々が私たちを見るときに醸し出す印象に注意深くあらねばなりません。
旧・新約聖書共に、人々の前で悪しき外観を避け、聖なる生活を送ることが、神の最高の証明であることを学びます。預言者のほぼ全員が、神の民が神の律法と主の十分な潜在力を満たしていない事実に心を痛めていました。
誤った印象、特に他の人々に損をさせて利を得ることを禁じる旧約の律法があります。レビ記25章17節はこう言っています。「あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。」
これは、経済的な利得とか、名声のためにする重大な偽りを含みます。しかし、神は罪のないこの行動を誤り解釈することから生じうる、間違った印象にも、関心をもっておられます。言いかえれば、罪の見せかけを避けることです。ブラハム・ブロックは、「ABookorJewishEthicalConcept(ユダヤ人の倫理観)」という著書の中で、次の例を挙げています。
凍てついた夜に、バスを待っていた婦人が、古くから家族ぐるみで付き合っている友人のオートバイに乗せてもらいました。その関係を知らなかった同労者が、彼女の行為を不適切と判断しました。その晩、彼女が見知らぬ人物とデートをしたのではないかという噂で電話線が混み合いました。友人にオートバイの人を紹介する配慮があったら、その不幸なゴシップは避けられたでしょう。残念ながら、彼女は自分のあさはかな行動の結果に苦しまなければなりませんでした。
婦人のしたことは罪のないことでしたが、間違った印象を与えました。そして、他の人々が悪いゴシップを流して罪を犯し、皆が傷つきました。
ユダヤ教では、間違った印象を与える行為を禁じる、字義的には「外観ゆえの」を意味する、「マリトハヤイン」と呼ばれる概念があります。
聖書の神の律法を守ることに関して、次の説明がマリトハヤインのタルムードに示されています。安息日に小川を渡り、その衣服が濡れた場合、その人はどうしたらよいのでしょうか。日の下でその着物を広げて、乾かすことは禁じられています。律法によって禁じられている安息日の衣服の洗濯をしたように、誰かに誤解を招かないためです(ユダヤ教:安息日64b)。
他の句節には、「喪中の家に食物を運ぶとき、人目を引くように荷物を運び、間違った印象を与えないよう、それを大きな入れ物に入れて運んではなりません」とあります(ユダヤ教:chulin94a)。
ラビたちにとって、罪の誤解を回避するという概念はとても大切であり、ただ一人でいるときも、この原則を実行すべきものと感じました。
新約聖書にも、同じ概念を見出します。パウロは「悪はどんな悪でも(悪に見えるすべてのものを-英文)避けなさい」(第1テサロニケ5:22)と言っています。
ギリシャ語で「避ける」という言葉は、慎む・控える・遠く離れ距離をおくという意味です。そうです。私たちは罪から離れて、避けるべきだというだけでなく、パウロはさらに一歩進んで、「悪に見えるすべてのもの」さえも避けるよう強調しています。これは誤解される可能性のあるものから逃げ去る必要があるという意味です。
アナニヤとサッピラの物語では(使徒5:1-11)、主の前で嘘を語ったために、彼らが突然死んでしまったことに、全教会がショックを受けました。外側は万事OKと思われていましたが、神は彼らの内側で進行していることを見られました。彼らが作り出した偽りの印象は受け入れられないものであり、死さえ招いたのです。
第1コリント8章で、パウロは偶像に捧げられた肉を食べることに触れています。彼は、信者がこの肉を食べることは全くかまわないと宣言しています。偶像は存在せず、「地とそこにあるすべてのものが主のもの」だからです。しかし、このことでつまずくかもしれない弱い信者のために、パウロはそのような肉を食べないほうがよいと結論づけています。同じ主題について、パウロはローマ書14章21節でこう言っています。「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。」赦されるとしても、私たちが言ったり、したりすることで、主にある兄弟たちのつまづきとなるなら、こういった外側の行動を避けるべきです。これは容易なことではありません。いつも自分自身から目を離し、主に目を向け、また他の人々の必要を考慮するときにだけ作用します。イエシュア(イエス)も、誤った印象を避けることについて強調しています。
与えることにつき、主はこう言われました。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)
祈りについて主はこう言われました。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:5-6)
品性ある生活-神の見本
内側と外側:表紙で本を判断できないことを思い出してください。神は心をご覧になるのであって、外観だけではないように、私たちもそうすべきです。
断食については、「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」(マタイ6:16-18)
マタイ7章でイエシュアは外観について、最も戦慄すべきお考えの一つを語っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)
ここから、主と私たちの関係は、外側の格好以上のものであり、内側から出るものでなければならないことを知ります。主とそのメッセージを代表する私たちにとって、内側を変革する神のわざを外側に反映させることが大切です。これは偽りの印象をつくらないことを含みます。
一信徒として、私たちは外観に配慮する必要もあります。しかし、外観に対するこの配慮には、私たちの仕える主を反映すべきです。これはしばしば自己中心の動機から尊重されているような、この世の人々がする配慮とは遠くかけ離れています。
人生の中で、人気者とみなされない人々がいるでしょう。彼らを知るために時間をとり、内にあるものを見出してください。外側の美しさ以上の特別なもの、もっと美しいものを見出して、あなたは驚くことでしょう。
あなた自身についてはどうでしょう。外側のものにかけているのと同じくらい、内側のものを伸ばすために、時間をかけていますか。他の人々に対するあなたの心にある愛は、あなたの髪飾りや新車、有名デザインのジーンズのように大切なものになっているでしょうか。外側ではすべてのものを持ちながら、神と彼の同国人である民の前で、その立場を失ったサウルのようになってはいけません。
「神の心にかなう人」となり、神と臣下に深く愛されたダビデのようになってください。
ダビデのように、しっかり神に信頼し、神の信任を得なければなりません。失敗にもかかわらず、その生涯と神のことばから推定できる、ダビデの品性ある生活―内側も外側も―の見本となる四つの原則を以下に挙げます。
- 世界と命と永遠について神の展望をもつ必要があります。神が支配しているということ、神が私たちの源であるということ、そして、神の聖霊がみことばを実践するための力と知恵の源であるということを理解する必要があります。
- へりくだりの態度をもつ必要があります。それを研究し・学び・記憶し・適用し従うとき、神のことばを敬いましょう。これをするためには、ただ力や知恵ではなく、神の力と知恵に頼る必要があります。
- 神のビジョンをもち、生活の中に敬虔な価値と、神の永遠の目的をしみこませなければなりません。これは大きな代価を伴いますが、主による大きな報いが戻ってきます。
- 最後に、私たちの身の回りの世界、あるいは思いどおりに振る舞いたいという肉からの反対や失敗が生じたとき、私たちは第一課に戻り、もう一度神の展望を得る過程を始める必要があります。
あなたの光を内側から輝かせよ
イエシュアはマタイ伝5章14-15節で言われました。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」
イエシュアが「山の上の町」と語ったその町とは、サヘドであると信じられています。ティベリアから、上方に山を見上げると、夜はあかあかと輝く光を見ることができます。二千年前、それはティベリアの外で、闇に輝く唯一の光でした。今日、どんなことをしても隠すことのできない町々の光が、ガリラヤ湖をすっかりとりまいているのを見ます。丘の上にあるそれらの光は、闇を貫き、人々をその光へと引き付けます。そして、近くまで登って行くと、光は人々に昼のように歩くべき道を、あるいは、運転する道を見えるようにします。
神は私たちの心をご覧になります。それは、上からの光で輝いているべきです。私たちの内の光は真っ暗で、挫折したこの世界の中で、輝く信号となるべきです。生活の中で、私たちが表現する神のものが多くなればなるほど、まわりにいる人々に対し、より多くの積極的な効果をもたらすようになることをわきまえるべきです。
それが何かを発見する唯一の道は、人生の神のご計画を、私たちが受け入れる決心をすることです。しかし、それは神のことば、聖書の命令を、“光”よりも“束縛”のように感じさせてきました。また、「宗教的で」あることの概念は、重荷となったと言われねばならないのは残念です。
しかし、良いニュースがあります。神の救いと人生のご計画を受け入れるとき、あなたは刷新され、神のことばが新しいいのちの道となります。この新しい道は、内側から来るのであって、上着のように何か外側に着るものではありません。それは隠すことのできない喜びと光をもたらす、変革する経験です。イエシュアは「世の光」と呼ばれ、彼が私たちの内に生き、住まわれるとき、私たちはまわりにいる人々を祝福せざるを得なくなります。もし、一人ひとり、みな十分に愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制の神の御霊の実を表すなら、どんなにすばらしい世界となることでしょう。そうです。それはみな、あなたと私から出発します。
隠れることのない、「世の光」のようになる必要があります。「私たちの光を人々の前で輝かせ、人々が私たちの良い行いを見て、天におられる私たちの父をあがめるようにさせる」必要があります。
神の道を生活の中に取り入れ、それらを実行するなら、神の光が燃え輝きます。あなたが人々を祝福するとき、人々を引き付け、私たちが生きている、このまことに暗い、混沌とした世界のまわりで、彼らが道を見つける助けをしていることを知るでしょう。これこそ神が私たちをそこに導こうとしている生活であり、「神の御心にかなう人」として言われたダビデがもっていた品性です。
神が私たちの心をごらんになることを忘れないようにしましょう。神、ご自身が見るものによってお喜びになりますように。誰に仕えるかを選ぶことは、私たちの任務です。それから、心を尽くして神に仕えましょう。ヨシュアはこう言いました。「私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:15)
エルサレムからシャローム