ホーム知る・学ぶティーチングレターバックナンバー > 求道者に配慮した教会 -前編-

ティーチングレター

求道者に配慮した教会 -前編-

TEXT:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)

求道者に配慮する現代的な教会のあり方を通して、初代教会が通った求道者への配慮の道筋を再考します。

Pixelite/shutterstock.com

近年、新来会者が心地良く感じられるようなスタイルを採用する教会について、よく耳にするようになりました。そのような教会は「求道者に配慮した教会」(Seeker-SensitiveChurch、シーカー・センシティブ・チャーチ)と呼ばれ、特に若い世代の人たちを中心とする聴衆が心地良く感じない礼拝形式やメッセージを徐々に廃止しています。それが単に表面的な変化なのか、あるいは求道者が不快感を抱く可能性のある教義を避けるといった、より深い変化があるのかは教会によって違います。多くの教会にとって、罪、裁き、聖さは気を付けて提示しなければならない主題となっています。十字架が壁から無くなった教会もあります。

ドロシー・グレコはクリスチャニティ・トゥデイの2013年8月号でこのように言っています。「当初、求道者を意識した礼拝は、ポストモダンの信者たちを再び教会に取り込もうとして行われたものでした。伝統的な45分の聖書解釈の説教は教会から消えました。代わりに、イエスに従うことで人生の質が劇的に向上するということを強調しながら、会衆の必要に訴え掛ける物語中心の短い話が語られるようになりました。この現代的な礼拝スタイルによって、礼拝がロックコンサートのようになっている場合もあります。それぞれの興味と関心を満たすためにプログラムが急増し、ついには未就学児の母親から、オートバイを通して交流と信仰を深めようという女性のグループまで、ほとんどすべての人々に向けたプログラムができました。このような変化は悪質でもなければ、不健全なものでもありません。私が以前行っていた教会が、求道者に配慮した教会の方法を選び始めた理由は純真な気持ちからでした。教会員は、普段は教会を通り過ぎてしまう人たちに、カフェを設置して門戸を開こうと努めたのです。」

この動きは、福音を水で薄めるものだと批判され、議論の的になってきました。これは単なる戦略なのでしょうか、それともキリスト教の核となる価値観を変えてしまうものなのでしょうか。求道者に配慮した教会を支持する人の多くは、この親しみやすい形式が新来会者を教会に招くための方法と考えているようです。一度教会に来ていただければ、その人たちは程なくしてキリスト教のより深い真理をつかむようになると考えているのです。この考え方の真価は時間が明らかにするでしょう。

クリスチャン・バイカーたち joyfuldesigns/shutterstock.com

初代教会も現代と同様、多くの問題に直面しました。どのようにして福音のメッセージが広まっていったのでしょうか。新しいグループの異邦人信者たちは、どのようにして教会の一部となったのでしょうか。当時、教会の指導者らは、教会に増加するギリシャ人やローマ人という異邦人に適切な指示をするため、さまざまな配慮と決断をし、聖書的礼拝の多くの側面を切り捨てました。そのいくつかを見てみましょう。

初代教会が直面した問題

使徒の働きには初代教会の働きがかなり詳細に説明されています。ヴァンダービルト神学大学の新約学のユダヤ人教授エイミー・ジル・レバインは、このように述べています。「初代教会の大きな議論の一つはユダヤ人がコーシェル(食物規定)を守る必要があるかどうかではなく、異邦人がコーシェルを守る必要があるかどうかということでした。結論は、異邦人はそうする必要がない、というものでした。シナイ山でモーセに与えられた律法はユダヤ人のためのものであり、異邦人のためのものではなかったからです。」

使徒の働き15章にはこの問題が書かれています。「しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、『異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである』と言った。」(使徒15:5)割礼は契約の一部となる印だったのです。すべての男子は生まれて8日目に割礼を施されて契約の一部となる、そのためユダヤ教に改宗するすべての男性は割礼を受けなくてはならない。これはユダヤ教の世界では常に真理でした。しかしパウロは、神はすでに異邦人に御自分の霊を注いで愛を示されたのだから、異邦人がユダヤ教に改宗する必要はないと言ったのです。

ユダヤ人著述家パメラ・アイゼンバウムはパウロ書簡を理解するには、パウロがユダヤ人として異邦人信者に向けて書いていることを理解する必要があると主張します。「パウロを、異邦人に対して語っているユダヤ人として理解するなら、パウロの著述とパウロがそれを書いた理由に対する理解が全く変わってきます。例えば第一コリント7章19節には『割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです』と書かれていますが、パウロがこれを異邦人に向けて書いていることを心に留めてください。パウロ書簡の中に表されているユダヤ教の律法は、トーラーが異邦人には適用されない場合があることを教えるものであると心に留めていれば、パウロの論理が明確になるのです。」

パウロは割礼には意味がないといっているのでしょうか。そうではありません。アイゼンバウムは続けて「割礼は神の命令の一つですから、パウロの時代のほとんどすべてのユダヤ人にとって神の最も大切な命令の一つとみなされていました。しかしそれはユダヤ人の印と理解されており、ユダヤ人の男性だけに課せられた義務でした。……パウロが言いたかったことは、神はいつもすべての人に同じことを要求される方ではないということです。たとえば祭司たちは一般のイスラエル人には適用されないきよめの定めに従わなくてはなりませんでした。割礼を受けるよう命じられたのはユダヤ人だけなので、異邦人は割礼を受けなくても神の御心に従っているのです」と主張しています。

異邦人信者への要求

ユダヤ教に改宗するために必要なもう一つのことはミクベに浸されることでした(キリスト教のバプテスマはこれに由来します)。興味深いことにパウロは、割礼は不必要だと言いながら、バプテスマ(ミクベに浸けること)は引き続き行っています。これは、イエスのことばを踏まえたものです。ティム・ヘッジは「手紙を書く人」という本の中で次のように解説しています。「イエスは御自分の死、復活、昇天の前に、異邦人の救いについて弟子たちに指示を与えられました。弟子たちは異邦人にイエスの命じたことを教え、ミクベを通して彼らを信仰的なイスラエルの共同体に迎え入れなくてはならないのです(マタイ28:19-20)。」

発掘された1世紀のミクベ ©Isranet

使徒の働き15章でヤコブは議論に応え、異邦人信者への禁止事項を明言した後「昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです(使徒15:21)」と話を締めくくっています。使徒15章で初代の異邦人信者に与えられた禁止条項は、偽の神々を礼拝する異教の神殿でなされていた性的乱交を含む異教の儀式に対応して与えられたものです。ヤコブは、異邦人信者たちが割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、シナゴーグで毎週モーセの教えを聞いてトーラー(モーセ五書)の道を学ぶようになると考えたようです。

使徒の働きに記録されているこの決断は、現在、私たちが「求道者に配慮した」と呼んでいる道への第一歩だったのでしょうか。

レバインは、これらのパウロの考えはメシヤの時代が近いという信仰から生じたのではないか、と考えています。より多くの異邦人が唯一の真の神を知るようになるために、できるだけ簡単に神を受け入れられるようにすることは良いことだとパウロは判断したのかもしれません。

マスターズ・インターナショナル神学校の教授スキップ・モーエンは、このように述べています。「古代ローマ世界のローマ人が、ユダヤ教の信仰と慣習の中で特に不快だと考えていたことが三つある。それは、野蛮に見える割礼、ローマ人の大好きな豚肉を食べることの禁止、怠惰に見える安息日と祝日の遵守だ。エルサレム会議はこのすべてのつまずきの石を取り除くものだった。」

後編では、初代教会の「求道者に配慮」した決断がどのような実を結んだのかを見、現代のクリスチャンの進む道を模索します。

ページトップへ戻る

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)

Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657

B.F.P. Global
イスラエル
アメリカ合衆国
カナダ
イギリス&ヨーロッパ
南アフリカ共和国
日本
韓国
ニュージーランド
オーストラリア

Copyright 1996- © Bridges For Peace Japan. All Rights Reserved.