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神の友になるために -後編-

TEXT:シェリル・ハウワー(BFP国際開発ディレクター)

前編に続き、聖書の人物から友情を学びます。最大の友情を示してくださったイエス・キリストの愛は、創造の時から変わらない神の「恵み」に基づいていました。その愛に応えるべく神の友とならせていただくには、どうしたら良いかを考えます。

御翼の下に

ルツ記はすべてを捨ててユダヤ人の姑(ナオミ)に従い、イスラエルへ行ったモアブ人の若い女性についての美しい物語です。ほとんどのモアブ人は偶像礼拝者でした。しかしルツは善良であり、親切、謙遜、また穏やかで、無私無欲な誠実な女性でした。ルツとその義妹のオルパは二人ともナオミの神につながり、モアブを捨ててナオミの故郷へ付いていくチャンスがありました。それは簡単な決断ではありませんでした。オルパは最終的には神を受け入れずに戻って行きました。ユダヤの伝承では、その後のオルパはモアブ人からも眉をひそめられるほど堕落してしまったので、ペリシテに逃れることを余儀なくされ、そこで最終的にゴリヤテ(イスラエルを苦しめたペリシテ人)の祖母になったと伝えられています。

しかしルツは違いました。ルツはナオミに対して献身的で、姑に従って、自分の民が長年にわたって敵として憎まれてきた地に進んで入って行きました。このことによってルツは真の友情を体現する人物となったのです。ルツの愛は無条件で犠牲的なものでした。

エムナー-誠実に歩む

ホセア書は、聖書の中でも、神の愛を視覚的に体験できる書巻の一つです。ホセアは、イスラエルが神から離れた時代に生き、民が道徳的堕落と偶像礼拝に陥り、周囲の異教の国々と同盟を結ぶのを見ました。神がホセアに語り始めたのはイスラエルの暗黒時代でした。賢人たちが言うには、ホセアはイスラエルに対して怒り、神にイスラエルを捨てて、代わりに新しい誠実な民を立ててくれるように願いました。そのホセアに、神は有ろう事か姦淫の女を娶るように指示しました。ホセアはそれに従い、姦淫の女の娘であり、彼女自身もそうであるゴメルと結婚しました。二人の間には三人の子どもがありましたが、ゴメルの生活スタイルには疑問があって、ホセアは子どもたちが自分の子であるかどうかさえ確かではなかったと言います。ついに主はホセアにゴメルを去らせるように命じました。しかしこの時ホセアはすぐには従いませんでした。この時点でホセアはこの不従順な妻を深く愛するようになっていたのです。ホセアは、主の前に声を上げて泣き、自分の家族をあわれんでくださるよう神に願ったとラビたちは言っています。主はそれに応えて言われました。「あなたの妻は姦淫の女で、子どもたちの父親が本当にあなたであるのかすら分からないではないか。それでもあなたは彼らを愛し、彼らに代わってあわれみを乞うのか。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、イスラエルはわたしにとって、わたしの愛する子どもである。同じあわれみを彼らに掛けるべきではないか。イスラエルはわたしの愛する所有であるが、あなたはわたしに彼らの代わりに他の国を置きかえるようにと言うのか。」

この時ホセアは、神がイスラエルに対して持っている心の重荷を担うために、どれほどのあわれみと誠実さが必要であるのかを身をもって知ったのです。誠実はヘブライ語ではエムナーという言葉が使われます。これは義、親愛、正義と同義語です。ホセアは神とイスラエルの関係は婚姻関係だと言い、神の語られたことばの中に傷付いた愛の痛みを認めています。しかし裏切りの苦悩の中にあってさえ、神はご自分の民に「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」(ホセア2:19-20)と言って呼び掛けているのです。民が不誠実であったにもかかわらず、神の誠実さは変わりませんでした。たとえ懲らしめなくてはならなかったとしても、神は民を見放すことも、捨て去ることも、実際に犯した罪の大きさに従って苦難を与えることもなかったのです。神は民との約束を守られます。その契約は神の性質である誠実さによって打ち立てられたものなのです。

これよりも大きな愛はない

クリスチャンにとって、最大の友情はイエスの中に見ることができます。イエスは当時のイスラエルを歩まれながら、情熱、愛、信頼、献身、謙遜の人生を示されました。神の心を、常に目に見える具体的な形で現わされたのがイエスでした。イエスは献身的に病人を癒やし、盲人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにされました。死人をよみがえらせ、傷ついた者を慰め、誰からも愛されていない人を抱き締めたのです。

トーラー(創世記から申命記)の中で繰り返し説明されている神の性質は、神が「ヘセドに富んだ方」だということです。ヘセドは恵みと訳されることが多く、聖書の神学と道徳学の中でもっとも大切な言葉の一つです。この言葉は神の無限の愛と寛大さ、あわれみの豊かさ、個人的な深い関わりと献身を表しています。この言葉は時には確固たる愛、誠実さ、好意、愛と訳されることもありますが、いつも契約的義務の観点から使われます。

ヘブライ語ヴァイン解説辞典によると創造の御業さえも神のヘセドの結果でした。神の愛は千代にも及び永遠に続きます。神のイスラエルとの契約関係の歴史はヘセドという言葉に集約することができるのです。使徒パウロは、イエスによって異邦人がその契約に接ぎ木される扉が開かれたと記述しています(エペソ2:13-22)。ヨハネ15章13節でイエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と宣言されました。イエスはヘセドそのもので、死に至るまで忠実でした。今もイエスは友である私たちのために常にとりなしてくださっています。

王の友

賢人たちは次のような物語を語りました。

昔、一人のラビを友に持つ異邦人の王がいました。王はラビの鋭い知性に舌を巻いていました。ラビの言葉は、いつも王に神の摂理を思い起こさせました。王は危険な旅行が好きで、よくラビと遠出をしました。ある時、狩りをする王に伴われたラビが、不慣れなために誤って王を撃ってしまいました。この弾で王は指を一本失いました。激怒した王はラビを地下牢に入れました。数カ月後、王はまた別の冒険に出ましたが、旅先で人食い部族に捕らえられます。王を煮えたぎる湯の中に投げ込む前に、彼らは夕食の食材を吟味し始めました。彼らは王の指が一本無いことを発見し、縁起の悪いことだったので、食べずに解放しました。ラビの「失態」によって王は命拾いしたのです。ラビは直ちに釈放されました。王はラビに尋ねました。

「親愛なるラビ、あなたはいつも天の摂理について語っていましたね。ついにそれが分かりました。指を失ったおかげで、殺されずに済んだのですから。しかし、あなたにとって天の摂理とは何だったのか。地下牢に何カ月も入れられたことがどんな役に立ったのですか。」ラビはほほ笑んで質問に答えました。「陛下、もし地下牢にいなければ私は陛下と一緒だったことでしょう。そして私には指が10本ありますから、人食い人種に食べられていたに違いありません!」

このラビと王の話から次のような教訓を得ることができます。

1.私たちに起こって来ることはすべて、神の守りの御手を通してやってくると信じなくてはなりません。情熱的に誠実に激しく優しく私たちを愛してくださる神は、一見それがどう見えたとしても私たちの人生にとって最善のものしか与えられません。

2.もし神から友と呼ばれ、涼しい夕べに共に歩み、顔と顔を合わせて語り掛けてもらいたいなら、私たちも神の友になることを学ばなくてはなりません。私たちはモーセのように忠実でしょうか。ダビデのように情熱的でしょうか。神が私たちと共にいることを願っているのと同じくらい、神と共に時間を過ごすことを求めているでしょうか。私たちはホセアのように誠実に歩んでいるでしょうか。モアブ人ルツのように謙遜でしょうか。神は私たちに無償で与えてくださいましたが、私たちの神への愛も同様にただ神に捧げたいと願っている無私の愛でしょうか。そしてイエス同様私たちも死に至るまで忠実でしょうか。私たちは神のヘセド(恵み)の下に喜んで自分を明け渡そうとしているでしょうか。自分の人生を通して王なる神を映し出す、神の心にかなう真の友になるため、神によって造り変えていただきたいと願っているでしょうか。

神は私たちの友、兄弟、夫そして愛する者になりたいと願っておられます。それは、神が唯一の義なる方であり、愛と恵みとあわれみに満ちたお方であり、ヘセドでありエムナーであるからです。この素晴らしい友情にふさわしい友となるために、私たちはまず神の友になりたいと求めることから始めてはいかがでしょうか。

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