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神の友になるために -前編-

TEXT:シェリル・ハウワー(BFP国際開発ディレクター)

神の「友」とは特別な称号です。今月は神の友と呼ばれた人物たちから、神の友とはどのような関係なのかを見ていきます。

キリスト教の中で「関係」という言葉は重要な位置を占めてきました。何千年もの間、教会は、この点において自分たちと他の宗教を区別してきました。教父たちは、「キリスト教は奴隷のように戒律を守ったり、決まり切った祈りをしたりする宗教ではなく、一人のまことの神との現実的な関係」と定めました。私たちが関係を持ってきた主がどのようなお方なのか、ヘブライ的視点で見た時、驚くような発見をするかもしれません。

多くの人にとって人生とはさまざまな人間関係のことです。私たちは結婚したり親になったりすることで充足感を味わいます。また私たちは社会的、職業的人間関係に組み込まれています。現実生活の中で、自分がおばやおじ、祖父母、兄弟、姉妹、教師、指導者、弟子であるというような際限のないつながりがありますが、これはすべて人間関係に基づくものです。実際問題、私たちのアイデンティティはこのような関係に基づいているのです。人間は神の似姿に造られたのですから、私たちが関係を持つために造られているというのも意外なことではありません。神は父なる神と御子キリスト、そして聖霊とが一体となられた関係です。その神が、似姿である人間を孤立して生きるために造られるはずがないのです。

創世記の初めから一言で言うと、聖書とは、「何とかして人と関係を結ぼうとしている神」について書かれた本なのです。神は人を自分の子ども、自分の配偶者、自分の特別な宝と呼んでいます。しかし、神の友という呼び名はめったに与えられていません。

友情で結ばれる

イエスは申命記6章を引用し、最も大切な戒めは心を尽くして神を愛することであり、自分と同じように隣人を愛することだと言われました。福音書や使徒の文書には友情の大切さについて書かれた箇所がたくさんあります。そしてそのような関係の中でどのように振る舞うべきか多くの指示が与えられています。

ユダヤ教でも、友情は時には血縁の絆を上回るほど重要視されています。古代のラビは親しみ深い親交のない人生は生きるに値しないと教えています。友は互いに助け合い、誠実を尽くし合い、守り合い、援助し合い、私心なく愛し合い、道徳的助言を与え合うものなのです。賢者はまた良いものであれ悪いものであれ、友が持つ影響力を強調しています。ピルケイ・アボット(タルムード中の倫理・格言集)2:13には「人が執着すべきまっすぐな道がどちらであるか来て学びなさい。それは良き友である」逆に1:7では「悪い隣人から離れ、邪悪な者の友になるな」と言っています。これは言葉を変えて言えば、単に自分がどのような者であるかに基づいて友を選ぶのではなく、これからどのような者になりたいかに基づいて注意深く友を選びなさいと言うことです。

ウェブスター辞典は「関係」を「結び付いた状態」、「友情」を「愛着や尊敬によって他人に帰属している状態」と定義しています。聖書では通りすがりの知り合いから親しい親友までの関係を表すために、友や友情を表すさまざまなヘブライ語の言葉が使われ、人間関係の幅広い側面を伝えています。このような言語の意味を調べることで、聖書が友情をどう見ているかがよく分かるようになります。しかし神の側からの友情を理解する最善の方法は、神が友とお考えになった人々を見ることでしょう。

神の永遠の友アブラハム

神はアダム、エノク、ノアらと共に歩まれましたが、聖書によると神の最初の友となった人はユダヤ民族の父となるために異邦人の国から呼び出されたアブラハムでした。第二歴代誌20章7節でイスラエルの王ヨシャパテは四方八方から敵の攻撃を受け、神に叫びました。「私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。

預言者イザヤも同様に「(神の)友アブラハム」の子孫について語っています。両方の箇所で友と訳されている言葉にはアハヴというヘブライ語が使われています。聖書でこの言葉は普通「愛する」という動詞として出てきますが、たまに特に友達同士の親しい愛情に関連して名詞として出てくることがあります。この言葉は親子や夫婦の間に見られるような強い感情的つながりを暗示しています。この言葉は、ダビデとヨナタンの友情やアブラハムが奇跡的に生んだ息子イサクに対して持っていた情熱を説明するために使われています。また、このような愛は最愛の人のそばにいたいという切望と願望に基づいています。

アブラハムは神のアハヴでした。神はアブラハムを深く気に掛け、一人息子のように愛されました。アブラハムは神が一緒に時間を過ごしたい相手だったのです。二人は共に座って語り合いました。また本当に愛し合い、尊敬し合っている者たちだけにできる方法で議論さえしたのです。二人の関係は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という神のイスラエルへの指示を体現するものでした。

顔と顔を合わせて

次に聖書に登場する神の友は、モーセです。出エジプト33章11節には「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」と書かれています。しくは仲間を表すレアという言葉です。この言葉は雅歌の中では「夫」とか「愛する方」と訳されています。これは非常に深く複雑な関係です。神はイスラエル国家をすべて滅ぼしてモーセの子孫ともう一度やり直すことさえいとわないほどに、モーセを愛しました。

モーセは聖書に記されているどんな人よりも神を親しく知っていました。モーセは文字どおり顔と顔を合わせて神と語り、神と共に歩み、神に挑戦し、神と議論しました。モーセの神との対決を前にするとアブラハムの神との対話が若干色あせて見えるほどです。アブラハム同様、モーセも完全ではありませんでした。モーセは罪を犯し、神に従わないで反抗しました。モーセはカッとなって衝動的に行動しました。神はこのような出来事すべてに対処しましたが、神の友への愛が弱くなることは決してありませんでした。レアには揺らぐことがなく取り消すことのできない誠実さ、決して壊れることのない関係が付いて来るのです。

神の心

神はダビデ王を友とは呼びませんでしたが、使徒の働きの中で神は「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する」(使徒13:22)と言っておられます。これと同様のことばが第一サムエル13章14節にもあります。「主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。

西欧的価値観に慣れ親しんでいる私たちは、このような節を読んでも、その深い意味を見落としがちです。西欧文化では、「心」とは第一義的に、感情を表すと考えられます。ダビデが神と同じ情熱で神を愛した、と考える人がほとんどでしょう。さらに、ダビデが誠実で従順な人だという意味だと考える人もいるかもしれません。しかしヘブライ語でハート(心)を意味するレバブやギリシャ語のカルディアは両方とも「内なる人全体」を指す言葉です。そこには感情以上のものが含まれます。知識、知恵、知性、欲求、傾向、考え、計画、行動すべてが含まれています。心はその人自身を表すものであって、その人の特性の一部を表す言葉ではないのです。つまり心とはその人のすべての行動の源泉なのです。その人の考え、願望、言葉、行動はその人の奥底、その人の「心」から流れ出てくるのです。ダビデは罪人でしたが、ダビデは神と似た「心」を持っていたのです。

どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか。どうして神は、嘘をつき、姦淫を犯し、最後には人を殺した男がご自身に似ていると言うことができたのでしょうか。ダビデの人生は困難なものでした。ダビデは兄弟の末っ子でした。そして嫉妬に駆られて殺害を図るサウル王から何年間も追い回されました。ミカルとの結婚生活は悲惨なものでした。そしてバテ・シェバの誘惑に屈してしまいました。自分の息子から憎まれ、信頼していた仲間たちから裏切られました。このような話はサムエル記と列王記に出てきますが、ダビデのレバブ(心)は詩篇に出てきます。そこには自分の弱さと恐れをあらわにすることを恐れない正直で、率直な男のありのままの姿があります。いつも神のみそばにいることを乞い願い、恥ずかしがらずに自分をさらけ出し、御自分の約束に真実であられる神を信頼する男の姿です。その男は指導者であり、戦士であり、詩人であり、歌手でした。情熱的で愛と信頼と献身に満ち、何よりもへりくだった人でした。その人は自分の愛する神と正しい関係にあること、自分の罪を告白し神の赦しに浴すること(詩51)、神の心のように聖い心を回復されることだけを何にも増して求めたのです。

後編では、さらに聖書から神の友の具体例を学び、私たちへの適用を考えます。

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