ティーチングレター

御霊の実 -前編-

TEXT:レベッカ・J・ブリマー [BFP国際会長]

今月と来月はガラテヤ書から、パウロが言わんとした「御霊の実の本質」に迫ります。また、ヘブライ的思考、ヘレニズム的思考の対比を覚えて聖書を読む楽しさを味わってください。

聖書理解における文化的影響

私たちの多くは、自らが育ってきた環境を土台に聖書を読んでいます。私たちは自国の文化や言語、経験、そして2000年近くもの間続いてきたキリスト教の神学と伝統の影響を受けています。そうした固定概念を取り払い、使徒パウロが本来言わんとした意味を知りたいと、私は思うのです。
私たちが特に強く影響を受けているのがヘレニズム的思考です。紀元前に生まれたこの思想は、個人主義やヒューマニズムなど、さまざまな形で私たちの価値観に影響を及ぼしています。残念ながら、私たちが聖書を理解するときにも、この影響を逃れることができません。今回は、そうしたヘレニズム的思想から切り離されて、ヘブライ的思想によって生きたパウロ、そして聖書の世界を垣間見たいと思います。

ほとんどのクリスチャンが、パウロを異邦人に遣わされた使徒と考えています。中には、ユダヤ教や律法と縁を切った人だと考える人もいます。多くの学者たちが、彼をキリスト教という新しい宗教を始めた人物とみなしています。実際はどうだったのでしょう。聖書には何と書かれているでしょう。

サマトラケのニケ像。
体の線の表現、ひだの加工法、
劇的な動作などにヘレニズム文化の
写実探求的特徴が表れている
©ルーブル美術館

パウロ自身、彼について「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人…」と言っています(ピリピ3:5)。使徒の働き23章には、大祭司と全議会(パリサイ派、サドカイ派)の前で、次のように発言するパウロが登場します。「兄弟たち、私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、裁きを受けているのです。」(6節)。パリサイ派を否定的視点でとらえる私たちにとって、このことばはショッキングに響きます。ここでパウロが「私は以前パリサイ派でした」と言っていない点にご注意ください。彼は「私はパリサイ派です」と言いながら「私の父もまたパリサイ派でした」と述べています。パウロは高名なラビ、ガマリエルの門下生でした。ガマリエル(紀元53年没)は、サンヘドリン(ユダヤの宗教議会)で指導的立場に就いていた、非常に尊敬されたパリサイ人でした。彼は、第二神殿時代の霊的指導者として有名なラビ、ヒレル(BC110-AD10)の孫でした。熱心なユダヤ教徒であったパウロは、ヘブライ聖書(旧約)だけでなく、口伝(くでん)律法も徹底的に教わったに違いありません。

私たちが真剣にパウロを理解しようとするのであれば、彼がヘブライ語を話し、当時最も学識があるラビたちの下で学んだ、信仰熱心なユダヤ人男性であったことを考慮しなければなりません。彼はギリシア化された(ギリシア的な文化や考え方に影響された)家族の出ではありませんでした。彼自身が「きっすいのヘブル人」と表現している通りです。つまりどういうことでしょうか。パウロはユダヤ教において新参者ではなかったということです。彼は改宗者ではありませんでした。彼は、「我が家はギリシア的になっていない、純粋なヘブル人家族だ」と表明する家に生まれました。彼はトーラー(創世記から申命記までのモーセ五書)を学び、過ぎ越しなどユダヤ教が祝う各種の祭りを守り、聖書で定められた食物規定を順守しつつ成長しました。ダマスコ途上における、イエス・キリストとの驚くべき出会いは、パウロの人生に根本的な影響を与えましたが、それでも、子どものころから培ってきた、ヘブライ的世界観を通して世の中を見続けて行ったことでしょう。

御霊 対 肉

今回学ぶ「御霊の実」についての聖書箇所は「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」というみことばから始まっています(ガラテヤ5:16)。ここで私はすぐさま、歩むということに関するヘブライ的な理解について考えます。該当する語句、ハラカ(halakah)は、字義通りには、「道」もしくは「歩み方」を意味します。
マスターズ国際神学校の学部長であるスキップ・モーエン博士は、次のように言っています。「これはつまり、特定の生き方に従って、おのれの振る舞いを制することを意味します。パウロにとって、それはトーラーに従って生きることでした。しかしそれは、私たちが盲目的に規則やルールを守るという意味のことではありません。トーラーに従う者は御霊によって歩むことを求められます。実際このことが非常に重要であるため、パウロは〝御霊によって歩む〟というギリシア語を文頭に持って来ているのです。」

ユダヤ教超正統派の女性隔離運動に反対する
ユダヤ人女性たち ©Ashernet

肉の情欲は人間の問題の一つです。ヘブライ語では、これをイェツル・ハラ(邪悪さ)と言います。信仰熱心なユダヤ人共同体では、イェツル・ハラを克服しようと、今日も継続的な取り組みがあります。ユダヤ教の超正統派の中には、情欲的な思いや行動を避けるために、親戚以外の女性との接触を避けている人がいます。彼らは女性に触ろうとせず、バスで隣に座ることすらしません。これは私たちの文化から見ると行き過ぎた行動のように思えます。そして実際、こうしたことはBFPに来る新しいボランティアにとってつまずきになる可能性があるので、最初に教え理解できるように助けています。ただし誘惑は、宗教的ユダヤ人だけに限って襲う問題ではありません。

この言葉は、パウロにとっても身近なものであったに違いありません。人はどのようにすれば、この利己的欲望(情欲)を克服することができるのでしょうか。パウロは、それを、御霊によって歩むことで克服しなさいと言っています。歩む、というのは行動的な言葉です。つまりそれは受身的に私たちの身に起こることではなく、自ら〝行うこと〟です。先述のモーエン博士は次のように言っています。

「私はいったいどうすれば自分の中にいるこの怪物を無力化できるのでしょうか。それは、瞑め いそう想や呪文、修行を必要とすることではありません。必要なのは、ただ歩むこと、従順への一歩を踏み出す、ただそれだけです。神に従って歩んでいない部分を見つけ出し、修正するのです。御霊によって歩むとは、なにか深遠な、天使たちや神秘主義者たちのためにとっておかれた秘密の奥義ではありません。私たちがおのおの、心を開いて、ただ神の導きに従って歩み始める、それだけのことです。そうすれば人生が変わり始めます。言い訳も、懇願もしないでよくなります。理屈を付けて正当化したり、自分の都合の良いように例外を作って心に言い訳をしたりする必要もなくなります。歩むこと、とは、すなわち生き方です。ただただ練習と実践を重ねていくことです。間違いを犯さない人などいません。ということは、前進し続けることです。そうすれば、その全行程で聖霊があなたを励まし続けてくださったことを知るようになるでしょう。聖書的完全さに訓練されていく中で、十字架の主が、あなたのパートナーとなって共に歩んでくださるでしょう。」

パウロはガラテヤ書5章19〜21節で、イェツル・ハラ(邪悪さ)に身を委ねることから生まれる行為を列挙しています。その中には、姦淫、不品行、汚れ、みだらなこと、偶像礼拝、魔術、憎しみ、論争、嫉妬、怒りの爆発、利己的な野心、不和、異端、ねたみ、殺人、酩めいてい酊、どんちゃん騒ぎなどが含まれます。そしてパウロは次の言葉で、この節を閉じています。「前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(21節)

ここで、この中の「している」という言葉に注目してください。これも行動を表す言葉です。ちょうど私たちが正しい生き方を「している」必要があると同じように、私たちは肉的なライフスタイルを選び取ることもできるのです。私の幼少時代、パウロが列挙した肉の行いの全ては、ほとんど普遍的に(クリスチャンでない人々からも)正しくないと認められていました。しかし今日では、殺人以外については、ほとんどが許容される範囲のこととされているのです。私たちの世の中は、肉に従った生き方を歩んでいる(している)のです。むしろ今日では、許容することが、ある意味で宗教となっています。寛容さ、社会的な差別をなくそうとする風潮に合わせようと努力する結果、 教会においてでさえ、基準が低められているのを私たちは見ています。しかし、聖書は、そのようなことをしている人が「神の国を相続することはありません」と言っています。このことは深刻に受け止められるべきでしょう。

次号では肉の働きに対し、9つの御霊の実のリストを挙げて具体的に考えていきましょう。

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