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「とりなし」に召されて -前編-

TEXT:シャリーダ・スプリンクル[BFP国際本部副編集長]

今月と来月の二回に分けて、「とりなし」とは何かに迫り、聖書に登場するとりなし手たちから学びます。そして、クリスチャンとして誰もが召されている、とりなしの使命を新たにしていきたいと思います。

神はいつもとりなし手を探しておられる

おそらく聖書の中で最も悲しいみことばは、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。・・・」というイザヤ書59章16節でしょう。エゼキエルも、同じようなことを記録しています。イスラエルの民が多くの罪を犯したにもかかわらず、それでも主はまだ、イスラエルに対して哀れみ深い心を持っておられました。しかし、とりなし手がいませんでした。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(エゼ22・30)。「誰もいなかった」とは、なんと悲しいことばなのでしょう。哀歌1章でエレミヤは、ユダとエルサレムにもたらされた荒廃を見て、5度も「だれも慰める者がいない」と言って泣き叫んでいます(哀1・2、9、16、17、21)創世紀44章で、ヨセフは、ベニヤミンの袋の口に穀物の代金といっしょに銀の杯を入れるように命じました。なぜヨセフはこのようなことをしたのでしょう。それは、兄弟の誰かが、ベニヤミンのためにとりなしに入るかどうかを試すためでした。

とりなしの意味

 「とりなし」とは何を意味するのでしょうか。そして、なぜ、神はそのとりなし手を見付けるために、これほど苦労をされているのでしょうか。ウェブスター辞典によると、とりなしとは、「相違のあるところに和解をもたらし、仲裁する目的で、二つのグループの間に入ること」を意味します。この語にあたるヘブライ語の一つに、「パガァ」があります。これはとりなしの和解役を強調した単語です。しかし、この言葉はしばしば「打つ」または「撃つ」と訳されています。これが祈りとどう関連しているのでしょう。人が平和のためにとりなすとき、契約を「打ち」、嘆願書を持って「撃つ」、つまり激しく攻め立てる必要があります。とりなしは何かを求める単なる祈りではありません。緊迫感があり、本気で、熱心に頼み、請う、そして請い続けるものです。とりなしとは、それはそれは激しいものなのです。そのような熱心さを持って、また集中的に祈り抜く人を見付けることは非常に困難です。

現代の偉大なとりなし手の一人に、リーズ・ハウエルズ(1870-1950)がいます。彼の伝記を書いたノーマン・グラブは、とりなしの祈りと他の祈りを区別して二つのポイントを示しています。そして、その二つをリーズ・ハウエルズは、驚くべき方法で実践していました。

  1. 一体化―嘆願する者のために、人生を捧げる。そして、できる限り彼らの代わりになる。
  2. 苦痛―自身に死ぬこと。そして主が、要求されることを何でもする。例えば、イザヤは3年間裸で、裸足になりました。

私たちはイエスご自身の中に、ノーマン・グラブの示す三つのポイントを見ることができます(ヘブル7・23-27)。主は、ご自身が手本を示されたように、私たちが人々に和解をもたらす助けをすることを期待されています(Ⅱコリ5・18-19)。しかしそれは決してイザヤやリーズ・ハウエルズのようにならなければいけない、ということではありません。

真のとりなし手が、ほとんどいないのは、犠牲が大きいからです。実際、黙示録8章3、4節で、聖徒の祈りは、祭壇に置かれるいけにえのようであると言っています。ユダヤ人とクリスチャンの理解と対話を進めているユダヤセンターのデイビッド・ネクルートマンも同意見です。「とりなしは、ただ祈ること以上です。問題が解決されるまで、その特定の状況のために神の前に留まり、継続する責務です。」イザヤ書62章はこの良い例です。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」(イザヤ62・6-7)エルサレムのために「…まで」(1節)祈ること、そして、私たちは、「昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。」(6節)見張り人となる必要があるのです。

ユダヤ人のとりなし

現代のユダヤ人は、クリスチャンのようにとりなしをするのでしょうか。ユダヤ人のとりなしについて書かれている書物をそれほど目にすることはありません。なぜなら、とりなしという用語自体が、あまりにもキリスト教的要素が強いからです。しかし、ユダヤ人もとりなしを実践しています。彼らの祈りの多くが、共同体(民族)への祈りであり、また「私たち」という複数形で祈られています。ですから、彼らにとって、すべての祈りがとりなしと考えられています。なぜなら、そこには共同体(民族)全体がいつも含まれているからです。

イスラエルは祈りをとても大切にしています。現在、義人のための祈りとして読まれているのは「哀れんでください。ああ主よ。我が神よ。すべての人々の義と忠実の上に・・・」という祈りです。正しく裁く良い指導者のための祈りは、「すべての国々の支配者たちの上にあなたの霊を注いでください。正しく治めることができるように導いてください。」です。

同じような複数形の祈りが新約聖書の中でも見られます。「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Ⅰテモテ2・1-2)。聖書時代、イスラエルは仮庵の祭りの期間、自分たちのためだけではなく、諸国の民のためにもいけにえを捧げました。合計70頭の雄牛がその週に捧げられたのです(民数29章)

義人の祈り

ユダヤ人であろうとクリスチャンであろうと、私たちは、この時代、この世界のために祈る必要があります。おそらく、過去においても、とりなしの祈りを必要としない時代はなかったでしょう。しかし、終わりの時代に近付けば近付くほど、義と義でないもののために、神に、とりなしの祈りという嘆願書を持って、激しく攻め立てる(パガァ)必要が生じてきます。

2010年から2011年にかけて、アラブ世界で発生した反政府運動「アラブの春」は民主化運動と言われていますが、結果的にはイスラム化運動になってしまっている側面があります。そのため、その国々の少数派である教会が、私たちのとりなしの支援を今まで以上に必要としています。

イスラエルに霊的に敵対する国々への神のときが近付いています。イスラエルを亡き者にしようとする悪しき道から離れ、イスラエルに約束された神の契約を人々が知ることができるように祈る必要が
あります。世界中、特にヨーロッパにおいて、ユダヤ人への憎しみがあふれてきました。さらにイスラエル周辺の国々は、より多くのミサイルでより長い距離を狙えるようにイスラエルを取り囲んでいます。今このときこそ、犠牲的とりなしの祈りを捧げる「城壁の見張り人」が必要とされています。

アブラハム、モーセ、ネヘミヤ、エズラ、エステル、そしてダニエルらの偉大なとりなしの祈り手から、私たちは多くを学ぶことができます。彼らの祈りは、私たち「城壁の見張り人」にとって素晴らしい手引きです。ここからは、彼らの祈りを見ていきましょう。

アブラハム(創世18・16-33)

「ソドムとゴモラ」ジョン・マーティン1852 年

最初のとりなしの祈りは、アブラハムの祈りでした。神はなぜアブラハムに「ソドムとゴモラを破壊する」という計画を分かち合われたのでしょうか。ある意味、メシアを通してもたらされる「人類の救い」は、アブラハムを基点としてスタートしたものでした。そのため、彼には、神が公平で義なる方であり、悪人とともに義人を滅ぼされたりはしないことを知る必要があったのです。ですから神はここでアブラハムに、神に挑戦させる機会を与えられました。神はアブラハムがどんな人物であるかを証明するために、何度も彼を試みました。ソドムとゴモラの事件はその一つです。神はアブラハムがどうするかを見ておられました。歴史の中で、このような役目を果たす人が、優しい哀れみの心を持つ必要があることを知っておられたからです。

ソドムとゴモラの罪は、ひどい同性愛でした。それでもアブラハムは6回とりなしました。神はそのたびに同意され、最終的に「その10人の正しい者たちのためにこの町を滅ぼさない」と言われました。しかし、正しい人が10人いなかったために、神はすべての者を滅ぼされました。ただ、アブラハムのとりなしのゆえに、ロトとロトの二人の娘は救われました。ラビ・ズロトヴィッツは、こう推測し結んでいます。「アブラハムは、彼のとりなしにもかかわらず、町を救う事ができず、がっかりしただろう。しかし、神がなさることは、すべてにおいて哀れみ深く正しいという信仰を持っていたので、彼はそのとりなしが聞き入れられなかったことを悲しむことはなかった。」

神が「求める機会」をアブラハムに与えなかったならば、神が哀れみ深い方であることを知ることはなかったでしょう。そしてこの真理は、現代におけるアブラハムの霊的子孫である私たちにも同様です。

神は、私たちがとりなす必要があるすべての機会において、神が哀れみ深い方であることを信じる信仰者がいるかどうかを試しておられます。たとえ不可能のように思えることでも、求めたり、求め続けることを決して恐れてはなりません。私たちの執し つ拗よ うな祈りが、神をいらだたせるようなことはありません。しかし、祈りの答えが願ったような結果でなかったとしても、落胆する必要はありません。なぜなら、神は情け深く正しく、哀れみ深い、最善だけをなされる方だからです。

後編では続けて聖書に登場するとりなし手をモデルに学びを深めてまいりましょう。

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