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口を慎む -後編-

TEXT:ジム・ソルバーグ(BFPアメリカ局長)

前編では、私たちの口から出る言葉について、ユダヤの賢人の教えと、旧約聖書に書かれている失敗例を取り上げて学びました。今号ではクリスチャン的視点を加えて学んでいきます。ユダヤ教とキリスト教の両面からこのテーマを学ぶことは、「クリスチャンとユダヤ人との架け橋」となるに当たって極めて重要なことです。

クリスチャンの教え

キリスト教では、悪口をさほど強く禁じていないように思われています。しかし、実際には新約聖書全体が語っているように、明確に中傷や悪口に対して警告しています。パウロはこのように言っています。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(エペソ4:31)またペテロも、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」(1ペテ2:1)と教えています。

エペソ人への手紙4章31節でパウロは、ギリシャ語「ブラスフェーミア」という言葉を使用しています。この言葉から英語の「blasphmy( 冒涜)」という単語が生まれました。私たちが現在使っている冒涜の語源は、「神に対して悪口を言う」という意味でした。一つひとつの悪口や、ほんの少しの陰口を言ったりすることが、神に対する冒涜になるなら、私たちは自分たちの発する言葉にどれほど注意をしなければならないことでしょう。

第一ペテロの手紙2章1節で、ペテロはギリシャ語「カタラリア」を使用しています。これは直訳すると「悪口を言う」ということです。パウロもペテロも、ユダヤ人として教育を受ける中で、この「ラションハラ(悪口を言うこと)」が禁じられていることをよく知っていました。

パウロは第二コリント人への手紙12章19節と20節で、同じギリシャ語「カタラリア」を使っています。新改訳聖書では、この単語は「陰口」と訳されています。「あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。」

近代のキリスト教の教えでは、私たちの話す言葉に注意を払うということが強調されてきました。しかし最近では、考える言葉と話す言葉の両方に注意することが求められています。ジョン・ビビアの著書『サタンの餌食(TheBaitof Satan)』では、誰かに対して悪いことを考えたり言ったりすることに時間と思いを集中させるなら、私たち自身が自滅すると指摘しています。ビビア師が本当に強調しているのは、正しいか否かにかかわらず、他人への苦々しい思いを持つなら、その人自身が傷つき破壊するということです。このことに関する彼の教えと、ラションハラについてのラビの教えは非常によく似ています。それは悪口を言われる対象だけでなく、悪口を言う者もその過程でダメージを受けるという教えです。

「肯定的に宣言する」という言葉をよく耳にします。まだ手にしていないものを「与えられた」と宣言する考え方です。この考え方は、現代の教会でしばしば論争にもなっています。こうした可能性思考を取り入れることは、知恵とバランスが必要とされ、みことばにないことが含まれていないか、しっかり吟味する必要があります。それが聖書的ではないと真っ向から否定することもできません。なぜなら、実際に欲しいものを欲しいと肯定的に宣言した結果、与えられた経験を持つ人もいるからです。これは、現代のビジネス界の研究でも支持されています。その効果を反映するかのごとく、経済界、スポーツ界においても毎年、自己啓発訓練とコンサルタントに何百万ドルも費やされています。

聖書は「自分の舌を守る」ことを重要視しています。これについて議論の余地はありません。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ1:26)。イエスご自身も、私たちが何を話すか、何を思って話すかという両方に重きを置かれています。「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34b-37)

ユダヤ教とキリスト教の比較

ラビの教えは「行い」を重要視しています。現代の西洋キリスト教においては、私たちが「考えること」、あるいは「信じること」を強調しています。悲しいことに、時々このユダヤ教とキリスト教の違いが誇張されてしまいます。そして、ユダヤ人は「行い」だけを重要視しており、律法主義に縛られているかのように描写されます。現代西洋キリスト教に対しては、私たちが信じることや教えについて掘り下げる反面、行いについてはあまり触れていないとされています。この両極端な、ラビの教えるユダヤ教と西洋キリスト教に対する批評は、いずれも正しいとは言えません。

ユダヤ教は、「ハラハー」という、律法をどう行うかということについて教えます。なぜなら、心から神を愛するからです。ユダヤ教の中で最もよく知られている声明は、申命記6章4節に始まる信仰と、その実践についての声明です。「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。」行いと同様に、信仰においてユダヤ人が大切にしていることを、12世紀のユダヤ人哲学者マイモニデスの13の信仰原則に見ることができます。その一つひとつは信仰についての声明です。聖書を正しく理解するなら、信仰と行いのバランスが大切であることが分かります。

例えば、ヤコブへの手紙には次のように書かれています。「さらに、こう言う人もあるでしょう。あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」(2:18)

イエスご自身もこう言っています。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)イエスのこの言葉がこの主題の答えです。ここでイエスは愛を語りました。愛は私たちの心と思いから来るものです。そのすぐ後に、行いについても語っています。それは戒めを守るということです。イエスは事あるごとに、心に思うことと行いの両方について教えられました。

この一節はイエスの教えの中で特別なものではありません。イエスはいつも、私たちの思いについて教えられました。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」(マタイ15:19)「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ6:45)。同様に、イエスは私たちの行いが大切であるとも教えています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)「すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6・30、31)

新しい誓い

キリスト教とユダヤ教のどちらも、私たちの語ることと行いの両方の大切さについて教えています。言葉は私たちの口から出て、その思いと行いとの間に素早く橋を架けます。それゆえ言葉を見れば、思いと行いの両方の大切さがよく分かります。口を慎むことについての、ユダヤ教とキリスト教の教えの両方から私たちは新しい視点を得ます。

ブリッジス・フォー・ピースを神が召しておられる重要な領域の一つが、クリスチャンとユダヤ人との間にある壁を取り除き、平和の橋を架けることです。クリスチャンとユダヤ人の間に横たわる溝を埋めるために、お互いの教理や主張、何を大切にしているかなどの価値観を知る必要があります。それらをしっかりと見極めることによって、それぞれが何を思い、どう行動しているのかを理解し合うことができるのです。愛に根ざして口を慎むという新しい誓いを、胸に刻んでまいりましょう。

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